1 プロローグ/アイツの名前
最近、気になる男がいる。
それはカッコイイとか好きだとか、そういう意味じゃない。
どちらかといえば……キライ。
その理由を並べたら、大学ノート一ページ分は軽く埋まってしまうと思う。
例えば、私がいつものように遅刻ギリギリで登校したとき、アイツ――佐山悠太は、決まって私の机を占拠している。
仲の良い男友達が私の席の近くにいるのは知ってるけれど、人の机にお尻を乗っけておいて、私に気づいても無視ってのはおかしくない?
「――ちょっとサヤマ! そこ私の席!」
「なんだ、チビ子か。チビ過ぎて見えなかったわ。相変わらず来るの遅せぇな。やっぱ股下短すぎるからか?」
「うるさい! デカサヤマッ!」
私が怒鳴ると、サヤマは「図星でキレんなよー」と捨て台詞を残して、自分のクラスに去っていく。その後姿は、憎らしいくらいスタイル抜群だ。運動なんて何もしてないくせに、しかも牛乳が苦手だっていうのに、どうしてあんなに逞しく育ったんだろう?
机の上に鞄をドスンと置いて、溜息をひとつ。
こうしてサヤマと口喧嘩するのは、既にクラスメイト達も見慣れた定番のやりとりだ。朝も休み時間も放課後も、アイツはうちの教室にやってくる。あのデカイ図体で私の前をうろちょろして、本当にウザイ。
「気にしない気にしない……」
心は呪文を唱えるのに、目は勝手にアイツを追ってしまう。訳も無くイライラさせられると分かっているのに。
この気持ちは、一体何なんだろう……?
相川千夜子、十五歳。
これは高校に入学した春、一つの〝事件〟に巻き込まれたときの話――。
* * *
アイツと出会ったのは入学式の翌週、初めての体育を終えた後だった。
私は仲良くなったクラスメイトのユカと、飲み物を買いに学食へ。
重たいガラスのドアを開いたとき――一瞬で目を奪われた、真新しいブレザーの後姿。
(うわー、背が高い人だ! てゆーか足長っ! 羨ましい!)
思わず立ち止まった私の耳に、ユカの弾むような明るい声が届く。
「あっ、佐山君!」
無邪気な笑みを浮かべて、ユカが彼へと駆け寄る。私はその場に佇んだまま、ユカの後姿をぼんやりと見送った。
テラスから差し込む柔らかな光が、ユカのつやつやした黒髪ショートに天使の輪を浮かびあがらせる。スラッとしたユカと彼が並ぶ姿はとても絵になり、まるで雑誌の一ページみたいだった。
そのまま立ち話を始めた二人。人見知りな私は「牛乳買ってくるね」と独り言みたいに告げて、自販機コーナーに向かった。狙いはいつも通り、七十円の紙パック牛乳だ。
お財布を覗き込むと、小銭はピッタリ百二十円。これを全部入れて、五十円玉のおつりをもらおう。
百円、十円、そしてラストの十円をウキウキしながら投入しようとしたとき。
私の頭上をスウッと通過した誰かの指が、赤く点灯した『牛乳』ボタンを押した。
『ガシャコンッ!』
『チャリン、チャリン、チャリン、チャリン』
人気の少ない学食に、無情な機械音が響く。
ああ、最悪だ。緻密な計算に基づいた小銭スリム化計画が……。
「……ちょっと、何すんのっ!」
振り向いた私の視界に映ったのは、さっきまでユカと喋っていた見知らぬ男子。よく見ると、目鼻立ちの整ったシャープな顔立ちをしている。長めに伸ばされた焦げ茶色の前髪と、その奥にある涼やかな切れ長の目が印象的だ。
一瞬見入ったものの、私はふいっと顔を逸らした。ヤツの表情が、明らかにニヤついた笑み変わったから。
背も高いし、茶髪だし、何より人の張ったパーソナルスペースを勝手に越えてくるずうずうしさ……。
――こいつ、気に入らない!
一見大人しいキャラと思われがちだけれど、格闘技オタクの父の血を引く私は、実はかなりケンカっぱやい。特に人見知りバリケードを越えてきた貴重な相手には、一切気を使わなくなる。
私はいつも弟にするように、目の前のデカ男に怒鳴りつけた。
「あんた誰っ? 何のイヤガラセよっ!」
「ああ、ごめん。チビっ子だからボタンに手が届かないかと思って、手伝ってあげたんだけど?」
ヤツは私を押しのけ、窮屈そうに腰を屈めると自販機から牛乳を取り出して……私の頭の上にポスンと乗せた。
「俺、牛乳キライだけど、不思議と育っちゃったんだよねー。チビっ子にもこれくらい分けてやりたいよ」
カンペキ初対面なのに、人のコンプレックスをここまでネタにするとは……。
唖然として見上げる私に、ヤツは「でっけー目。犬みてー」と二個目のコンプレックスをグサリ。
「佐山君っ。チーちゃんいじめないでよー」
苦笑を浮かべながら歩み寄ってくるユカを見つけ、硬直していた身体が動き出す。ヤツから牛乳を奪い返し、私はダッシュでユカの背中に避難した。すらりと長い腕に手をかけ、肩先から顔だけ覗かせてウーッと威嚇する。ヤツは形良い顎をしゃくり、からかい口調で呟いた。
「へぇ、チーちゃんね。チビのチーちゃんか。覚えやすい名前だな」
私の顔がユデダコのように真っ赤になるのを見て、ヤツは大笑いしながら「じゃーな、チビ子!」と爽やかに手を振り去って行った。
……そんなサイアクな出会いから早一ヶ月。
サヤマとは、顔を合わせるたびに小競り合いをする、いわゆる『犬猿の仲』になった。
とはいえ、サヤマと喋るとき、私は首の付け根が痛くなるほど顔を上げなければならない。それだけで相当な敗北感。
サヤマの身長は、たぶん百八十センチ強。一方、私は百五十センチ……弱。
学校指定のローファーには中敷を三枚仕込んで、靴を履けば百五十センチをちょっぴりオーバー。もちろん、私服のときは最低七センチはヒールがある靴を選ぶ。その上から、裾を少し長めにカットしたデニムをはいたら、立派な日本女子の平均身長だ。上にチュニックを着れば、ウエストの位置もごまかせるし。
でも実際は、そのスタイルだと歩きにくくて良く転んでしまう。友達のうちに上がるときなんて、ジーパンの裾がずるずるして「あんた、その上げ底すごいね」って笑われて……。
それでも私は、その背伸びを止められない。
私の席からほんの数歩で教室のドアに辿り着いてしまうサヤマに、絶対この気持ちは分かりっこない……。
『キーンコーンカーンコーン……』
机の脇に立ち尽くしたままサヤマの残像を睨みつけていると、予鈴のチャイム音が鳴った。私はふくれっ面のまま、今朝買ったばかりの〝抗菌加工〟と書かれた新品ノートを取り出し、さっきまでサヤマが座っていた机の上をバサバサと払う。
「よし、サヤマ菌の駆除完了!」
満足した私は席につき、机の脇のフックに通学鞄をぶらさげた。
学校指定の黒い鞄は重いしカッコ悪いからって、他の子は自分の好きなトートバッグを使う。でも、私はこの鞄を気に入っている。
今時珍しいセーラー服も、膝丈ジャストのスカートも、紺色のハイソックスも、茶色いリーガルのローファーも。全部が、今しか似合わないもの。
お化粧も私にはまだ早い。髪も体育の時に邪魔にならない、おさげかポニーテールがちょうどいい。
ちょっと田舎の、そこそこ学力の高い市立高校の一年生。スカートが短いとかメイクが派手な子は、逆に浮いちゃうくらいのんびりした校風の中で、私は見事に目立たず『クラスメイトA』として存在している。同じ学年どころか学校中に名前が知れ渡る、人気者のサヤマとは違う。
……サヤマは、私の名前知ってるのかな?
私はちゃんと知ってるよ。
何となく、開いたノートの隅に『佐山悠太』と書いてみた。
コンプレックスだらけの私も、暗記力だけはかなり自信がある。そのおかげで、ちょっとレベルの高いこの学校に入ることができたくらい。特に人の顔と名前は絶対に忘れない。
だから私は人から顔や名前を忘れられると、余計にさみしくなってしまうんだ。
まあ『チビ子』というあだ名は、サヤマもクラスの皆も、絶対忘れないだろうけどね。
私の名前は……。
『相川千夜子』
書きながら、チビのチの字がかぶっているのが本気で悔しいと、私は一人むくれた。