第四話 上級生の校舎には近付かないに限る
男なら、これと決めたら後退あるのみ。
異論は認めない。人は下がってこそ成長すると思う―――俺自論だ。
こんなこと言ってたら、また姉貴にボコられるな。
日が沈み始め、すでに夕刻となっている王都メリゼルは、帰宅ラッシュの如く人が道端に溢れていた。修道服のようなダボっとした普段着姿の民間人や、黒いローブを纏った魔法使いたち。そして学校帰りの学生。
人が多い。酔いそう…………俺はこの時間帯が一番嫌いだ。だから毎日、脱兎の逃走のように学園から帰っていたのだが、何が悲しくて今日は逆走しているんだろうね。
「……はぁ」
ため息がもはや、「あぁ~」になっている。
少し前を歩いていたタチバナは、俺のため息を耳障りに思ったのか、怪訝な顔をこちらに向けた。
「ため息を吐きすぎると、幸せが逃げるよ?」
「ははは、気にするな、俺に吐き出すほどの幸せなんてない……」
「うっ、真顔でそういうこと言うのやめようよ……」
哀れむような目をされた。しょーがねぇじゃん、たぶん俺の幸せは、姉貴という疫病神によって刈り取られたと思うのよ。
え? 自業自得?
ご冗談を。俺ほど学業に余念なく徹底している奴はいない。サボるときはサボる。やるときもサボる。試験の前は一夜漬け。これぞ真の学園生活である。
「さて、どこにいるって?」
校舎の中に入ったのはいいが、第五学年が何の授業をしていたのかなんて知らない。
「クレリア先輩は実習室だよ。いつもそうだから」
「は? 授業じゃねぇの?」
「クレリア先輩みたいな騎士資格取得者は、授業には自由参加だから、基本的には出てないんだよ」
………何その羨ましい制度。授業受けなくていいの!?
「その代わり、メリゼル魔法教会に入ってきた仕事の依頼を引き受けたりもしてるんだって……」
何その面倒くさい制度。仕事しなきゃいけないの?
どちらにせよ俺が在学中に騎士資格取るなんてぜってぇ無理だけど。てか、卒業するかどうかも分からない。
とにもかくにも、今は先輩のところへ行くことだ。行って………そしてハッキリ修行を辞退させて頂こう。
俺は未来を諦めない。
この堕落した人生は、永劫だ!
◇ ◇ ◇
上級生のいる校舎に行くとき、下級生の身としてはどうにも緊張するもので。ないとは思うが、殺されたりしないよね、的な恐怖が俺の中で渦巻いてしまう。何このチキンハート………弱すぎだね、俺。こんなんで《竜皇》とか呼ばれてるクレリア・オルゴートとまともに会話なんて出来るのだろうか。
姉貴が家に連れて来たのは大分前で、ほとんど話さなかったからたぶん俺のことなんて覚えてないだろうし。何かマジで怖くなってきた。
「なんか顔色悪くなってない?」
タチバナが心配そうに訊ねてくる。俺は気丈に振る舞うような感じでこう言った。
「大丈夫。姉貴と会う前だと思えば、大体こんな顔色だ」
「………コウジ、どれだけお姉さん怖がってるのよ……しかも、大丈夫の意味が分からないし……」
心配顔が一転、呆れ顔に変わる。
いや、怖いんだよマジであのお姉様は。悪魔が可愛く思えるほど怖い。外面が良いから他人には優しく良い人に見られがちだけど、内面は最悪。特に弟(俺)に対して最悪。ガキ大将と子分並の上下関係で、昔から何度も泣かされてきた。今となってはケンカこそしないが、トラウマなのか、姉貴の顔を見ただけですぐに畏まる体勢をとる有り様だ。
昔の俺よ、よく堪えてたな。
いや、今も大概、堪えがたいけど。
そんな姉貴の知り合いで、しかも上級生。恐怖センサーのスイッチ、オン。
途端、
俺の身体が、得体の知れぬ寒気を感じ取った。え? マジでこんなセンサー俺に付いてたっけ? なんて冗談を浮かべることも出来ず、俺は立ち止まった。
前から聞こえてくる、コツ、コツ、という控え目な足音。
背筋が凍る感覚と、胸を抉られ心臓を掴まれたような息苦しさが、俺の全ての感覚を奪っていく気がした。
「……コウジ?」
急に身を強ばらせた俺に、タチバナは少し驚いた目を向けてきた。だが、今の俺は、何も答えられそうにない。
喉の奥までカラカラになって、上手く声を出すことが出来なかった。
足音が段々近付いてくる。
すぐにでも逃げ出したかったが、足が床に縫い付けられたかのように、動かない。
「どうしたの?」
肩を優しく掴まれ、タチバナが除き込むように顔を近付けてくる。普段の俺ならドキドキものだっただろうが、生憎と、今はろくな鼓動もさせて貰えない気がした。
息が出来なくなる。そう思った瞬間、
「…………あれ? ………下級生の子?」
ほんわりとした、柔らかい女生徒の声が響いた。
慌てて視点をハッキリさせて見ると、
そこには、天使と見間違えるほどの、美人がいた。
腰まである薄金色の長い髪に、琥珀色の瞳。白い肌とおっとりとしたたれ目が特徴的な、絶世といっても納得できるほど美しい容姿の少女。
メリゼル魔法学園の制服を着ているということは、ここの生徒………リボンの色は、第五学年。
けど、クレリア・オルゴート先輩じゃない。
この人のことは、俺でも知っている。
「エレナ・サイフォリオ先輩……」
その名を呼んだのは、俺ではなく横にいたタチバナだった。
このメリゼル魔法学園で、クレリア・オルゴートと並ぶ有名人。在学中にして騎士資格を取っている、戦場の魔法使い。
そのサイフォリオ先輩は少し小首を傾げながら、タチバナの顔を思い出すように言った。
「え~と、ああ、あなたは確か、クレリアの弟子だよね?」
「は、はい……」
今度はタチバナも、完全に萎縮していた。ただ話すだけで、この圧迫感。半端じゃない。
「修行を受けに来たのかな………いいなぁ、弟子………」
ぽつり、と呟きを溢しながら、先輩は今自分が歩いてきた通路の先を指差す。
「クレリアなら、あっちの第二実習室にいるよ」
「あ、ありがとうございます!」
「はぁ~い、どういたしまして!」
そうしてまた先輩が歩き出すと、何故か再び、俺のまん前で止まった。
…………………………何で?
俺、なんかした? スゲー見てるよ。今からカツアゲでもされるの? 俺、空気読んで会話に入らなかったよね。むしろ空気になってたよね。なんで見られてるの? 土下座した方がいいの?
姉から学んだ、何かあったら土下座体勢、が発動する寸前、先輩の顔色をうかがおうと目線を少し上げてみる。
目が眩むような美人顔。
だが、俺は素直にドキれない。その眼差しを見たとき、俺の腹の中から沸き上がるものが、感情を押し潰していく。
そう、俺の本能たる、逃走したい感が刺激される目だった。
「わたしの魔力に当てられたのかな? ごめんね、かなり抑えてたつもりなんだけど………随分と感覚が鋭いんだね…………」
――――さすが、カイトウ先生の弟さん………。
それに対して、俺は何も言葉を返せなかった。