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阿呆な娘と男の話

魔法の解ける音

作者: 柊 晶

獣人さんはロリコンではないです。一応。二人に恋愛感情はないです。今の所。

ああ、ついにこの時が来た。

男は溜息のような吐息に混ぜて、そっと小さく呟いた。男に寄り添い、普段と違ってやや不機嫌そうに口を尖らせるセフィムはそれに気付かない。腰まで伸びた柔らかな髪をくるくると弄りながら斜め下に目線を落とし、すん、と小さく鼻を啜る。いつも好奇心に瞳を輝かせる彼女にしては、とても珍しい仕草。それを静かに見下ろして、男は寂寞とも落胆とも違う、小さな喪失感に胸を焼いていた。


この無垢な少女に初めて会ってから、一体何年経っただろう。それほど長くないはずだが、もう随分とこの温みに微睡んでいたような気がする。けれど、

ああ、それも、もう終わる。


「ねえ、学校ってどのくらい行っているものなの?もう戻って来られないって本当?」


縋るように見上げる彼女。それに曖昧な笑みしか返せないことに、内心情けなくてたまらなくなった。


この国にはある程度の年代の子供たちを集めて教育を行う機関があった。男子はほぼ強制に近いが、女子がそこに通う例はさほど多くない。それなのに、近いうち、彼女はそこに送られるのだという。阿呆な娘に常識を学ばせようと、つまりはそういうことなのだろう。家庭教師も付けず、自ら奴隷小屋付近に追いやっておきながら、大したことである。


柔らかな髪を撫でる。そうっと、そうっと。柔らかい、日に当たった羊の毛皮にも劣らぬ柔さのそれに触れながら、小さく、謝罪を口にした。


「私は、以前お仕えしました場所でも、送り出しはしたのですがお迎えした経験はなく…申し訳ありません、正確な期間は分からないのです」

「…そう、そうよね。でも、それだけ長いのね…」

「お嬢様…」


今にも泣き出してしまいそうな声。思わず腕に納めてしまいたい衝動を覚える。それが、自分との別れを惜しんでのことと知っているから、尚更ーーー卒業後との落差を思うと、尚更。

ああ、けれども。

理性で押し留めた腕の先で、ギシリと拳が鳴った。ーーー彼女の卒業、そのときに。自分の命が亡いやも知れぬと思えばいっそ。


「……」


悪魔のような囁きに、じっと瞼を燻らせた。目下にある、柔らかく小さな身体。片腕で持ち上げられるほどの幼い体躯。髪も、頬も。円やかで柔らかで、守りたいという保護欲を抱かせつつも、獣ならばなんと甘美かと喉を鳴らす様を想像して被虐心をも煽られる。

こんな生き物、愛おしまずにどうするべきか。


「…お待ちしております」

「っ、え?」

「貴女が無事学を修め、この家にまた帰って来られる日を、不肖のこの身ではありますが、お待ち申し上げております」


ゆるり、小さく笑んで見せる。何時ものように。


「本当?!」

「ええ、勿論」


服の袂に縋り、ようやく輝きを思い出し始めたその瞳に、一つ頷く。


「私が、嘘を申したことがありますか?」

「ないわ!」


元気な返事。今日初めての彼女“らしい”笑顔に安堵する。与えるのは約束。今生の別れで無いことを教える、再会の言葉。そうして彼は、口を開く。ーーー彼女が“ない”と答えた嘘を乗せて。


「いつまでも、私は貴女をお待ち申し上げております」


そうして花開く笑顔に、心の内で別れを告げた。




※ ※ ※ ※ ※ ※




「…ねえ、私、知ってるの」


セフィムは物言わぬ縫いぐるみに話しかけた。


「あの人は知らないと思っているみたいだけれど、でも、私は知っているの」


灰色の兎だ。質素な部屋に似合わぬ、否、唯一の子供部屋を匂わせるもの。彼女の半身程ある大きいそれは、二体あることも合間ってまるで彼女を埋めんとするよう。


「私が、普通でないことも。…あの人の生活が、酷いものであることも」


しかし同じ灰色、同じ大きさであるのに、その二体には大きな違いがあった。片方は丁寧に丁寧に縫われているのに対し、もう片方は既に糸が解れ、腕が取れかけている。

その、綺麗な兎に手を伸ばして、彼女はその腹に顔を埋めた。


「知ってるわ。だって、街に何回も降りたもの」


兎は返事をしない。ただ抱きしめられたことで上向いた顔が、つぶらに天井を眺めるだけ。


「…学校ってね、色んなことが学べるらしいの。本当に、色んなことよ?」


もごもご、もごもご。布にくぐもり、不明瞭な声が響く。


「女性でも、学で身をたてた方もいらっしゃるんですって。そうしたら、きっとお父様も褒めてくださるわ」


堂々と、この家でも胸を張れる。ただ食事をし、眠るだけの人間ではなくなる。


「そしてね、今度は私があの人を雇うのよ

。家のことをしてくれるのでもいいし、研究の助手でもいいわ」


何年経っても、ふかふかふわふわの兎。自分が用意したとはいえ、決して質のいい材料ではなかったというのに。それでも、いつまでも彼の兎は彼女を癒す。


「そうしたら、ずっと一緒よ。ずーっとずーっと一緒なの。ねえ?」


オーリ。


世界で最も心を暖める名前を呟いて、彼女はそっと目を閉じた。

獣人さんが思うよりは世間知らずじゃなかった女の子の話。

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