〈壱〉3
それだけの出来事を経験した彼女は。
≪?≫
生まれて初めて見ました、的な表情で部屋を見回している。
ベッド、窓、ベランダ、畳み、天井、壁、俺。
一つずつ、思い出しているかのように、
一つずつ、確認しているかのように、
一つでも、欠落した情報を復元しようとしているかのように。
「……………」
少し、彼女の肩辺りまで伸びた黒髪に見惚れた俺は、いや、別にどうも思ってないけど、うん、思考をもう一つの問題に移行させる。
彼女はどうして俺のところへ来たのか。
何処にでもある極普通のアパートの、極々普通の一室。そこへ自分が誰なのかも、此処が何処なのかも、何故自分が此処にいるのかも解らない女の子がたまたまフラリとやってきて、それを本当にたまたま、偶然の偶然、運命の廻り逢わせで貴方のお部屋へ来ましたと言われても、ハイそーですかと簡単に済ませる訳にはいかない。
ほんの些細なキッカケすら無しに、“視る能力”を持つこの俺のいるところへ問題を抱えた霊魂が集まるなんて、それはもう必然の範疇だ。
誰かが、意図して彼女を連れてきた。そう考えるのが順当だろう。
≪あの≫
一通り部屋の中を眺めた彼女が、久しく口を開いた。俺はそこで思考を中断、何か思い出してくれたのかと淡い期待を抱いて彼女の言葉を待ってみる。
≪あなたは、かのじょはいないの?≫
「………何故、彼女」
…期待した俺が馬鹿だったな。
深く反省。
している間に、彼女の言葉はまたしても反復される。
≪あなたは、かのじょはいないの?≫
「いない。何か思い出したのか?」
≪あなたは、かのじょ≫
「それはもう良いから。思い出したことは?」
≪…………、≫
改めて問うてみたら、彼女は困った顔で沈黙してしまった。自然、自分も黙ってしまう。いや、それよりも先ずは自分の問題だな。これを解決してからでないと思うように動けない。彼女の問題はその後に解決するとして―――――、
ふと、疑問に思った。
どうして、俺は彼女を助けることに決めているんだ?
彼女を助ける義理など俺にはこれっぽっちも無いのに。
そもそも何故、彼女を部屋の中へ招き入れた?
厄介事になるのは、眼に見えていたというのに。
「………ハ」
馬鹿馬鹿しい。そんなの決まっている。何を今更論じているんだか。
“そうなるように最初から決まって、定まって、流れているからだろうが”。
≪どうしたの?≫
自分が黙っていると、膝立ちで、不安そうな顔の彼女が身を乗り出して近付いてきた。
≪やっぱりたすけるのは、いや?≫
…おお、普通に会話出来てんじゃねーか。最初からそういう喋り方をしろよ。
………ん、自分の思考も正常に戻ったようだ。よし、じゃあ、行動に移ろう。
≪あ………?≫
俺は呆ける彼女に構わず、さっさと立ち上がって玄関の方へ移動する。
靴は……靴下履くのが面倒だから草履にするか。茶色の革草履を履いて戸を開けて、寂れた感のある通路を歩いてアパートを出た。
後ろから彼女が急いで後をついてくるのを肌で感じたが、気にせず先に進む。車がまばらに行き交う道路の、脇の歩道を歩いて進む。進む。進む。
600m進んだだろうか。丁度目の前の横断信号が赤に変わってしまったので俺は立ち止まり、後ろから必死に追ってきていた彼女はこれ幸いと追いつくことが出来た。
信号が変わるのを待ちながら、しれっとして立つ俺。
隣で、霊魂なのに息を切らしながら俺の方を窺う彼女。
≪あの、どうして、だまって、いくんですか?≫
「…」
彼女が話し掛けても、俺は沈黙したまま。
≪あの、どうして、しゃべらないんですか?≫
「……」
≪あのぅ……≫
段々彼女が涙ぐんできた。
肩を震わせて、捨てられた仔猫のような眼をうるませるその姿に、無表情が緩みそうになる。
嗚呼、クソ。やっぱり可愛いなあ。認めたくないけど、やっぱ可愛いよ。畜生め。
ちょっと出来心で彼女を無視し続けたらどうなるか試してみたが、想像以上だ。ヤバイ。サディスティックに目覚めそうだ。この辺で止めておかないと不味い。
これ以上続けると変態人種にまで身を堕としそうなので、俺は彼女の質問に答えることにした。
「今からな、俺の問題を解決しにいくんだ」
≪ !………?≫
ようやく喋ってくれたのが嬉しかった彼女は、うつむいていた顔を上げて、今度は俺の言葉に首を傾げた。
俺は信号が変わったのを見て歩き出し、彼女がついてくるのを確認して説明を続ける。
「あんたの問題は後で解決してやるよ。でもその前に、先に俺の問題から片付けたいんだ」
≪もんだい?≫
まだ首を傾げたままの彼女が、トテトテついてくる。
俺は彼女を先導する形で歩いていき、すぐ近くにある公園を指差して言った。
「問題を解決するには情報が必要だ。だから、これからその情報を扱っている輩に会いに行くんだ。『情報屋』って奴に、な」




