〈伍〉1 夜半の道化
午後8:00
夜空に星が散らばり、雲で霞んだ真円の月が人気の無くなった住宅街を淡く照らした。
通りには、人どころか野良の犬猫一匹すらいない。繁華街や駅前ならまだしも、普段から人の出入りが乏しい此処は、ちらほら明かりのつく家もあるが、他の地帯よりもかなり早めの就寝となっている。昨今は両働きの親も多いから、自然といえば自然なのか。
そんな寂しい住宅街の、街灯が幾つか壊れて他より暗い(月明かりのお陰でそうでもなかったり)十字路の交差点の一角に立つ俺は、凹凸の激しい血濡れのガードレールの前で、白い笹百合の花を手にしてそれを眺めていた。
「……………」
ただ無言でその花を見つめて立ち尽くす。歩道を背中に、道路と向かい合っている俺は、百合の茎を持って何度も回しながら弄って、それを十分も繰り返すと自分の奇行に気付いて、ハッと溜め息を吐いた。
「……ま、約束したしな」
誰に聞かれることもない独り言を言うと、しゃがんでガードレールの支柱の脇に花を置く。花から手を離して、一瞬、また声が聴こえたような錯覚に陥ったけど、流石にそれはないと考えを改めて、手を合わせよ
「ヒハハハハ〜」
うとした直後に面妖な笑い声が交差点に轟いたかと思うと俺の視界に黒く長く伸びた足が映ったかと思う前に花を問答無用で踏み潰した。
「…………………」
「ヒハハ? おんやおんや〜? もっしかっして、つっきもーのくーんっかなん??」
見上げると、自分より頭二つ分も大きな男が、ニヤニヤしながら俺を見下ろしている。
朝(いや昼前)に電話を掛けてきた『天邪鬼』だ。
夕焼けよりも鮮やかな橙色に染めた短髪に、耳にピアス、瞼、唇にリングを四つずつ。着ている服は何故かスキーウェアで、所々血が付着している。こんな奴に近づこうと考える輩の気が知れないと考えさせられる様だ。
……本日最後に一番逢いたくない奴に逢ってしまった。情報屋も情報屋だけど、こっちの姿はさらに常軌を逸しているからなぁ。冷夏だからまだスキーウェアは許すとしても、血塗れはどうなんだ。そこのガードレールさながらじゃねぇか。しかも花踏みやがったしまだ踏んでるし気付いてない振りして若干足動かしてにじってるし花多分もう原形留めてないだろうしそれで俺の顔窺ってまだ笑ってるし。
「ヒハハハハハハハハ〜! ん〜? あり、怒っちゃった? 怒っちゃっちゃった!? わぁ〜おッ! 眼が吊り上がって斑鳩みった〜いヒ〜ッハハハハハ!!」
「…………別に良いけどよ」
俺は心底呆れて立ち上がる。
この男には何を言っても通用しないのだから、それが懸命だ。それより、と俺は面倒そうに天邪鬼に向く。
「こんな所で何してるんだ。お前の家は此処ら辺じゃないだろ」
「ヒハ、うんうんえっとねん、今キャラオケ帰りなんだに〜」
「カラオケって」
朝。
天邪鬼から“カラオケに行こう”という電話が来たけど、まさか…、
「……朝からずっとか」
「ヒハハッ、ずっとずっとズズズ〜っとなん♪」
………声帯、どれだけ鍛えてんだよ。朝からこの時刻までの相当な時間を一人で歌ってたって、面白味なんて欠片もないだろうに。
だが、天邪鬼は毛程も気にしないで、
「でもでも、付き添いに店のおにーさんが居たから、観衆には困らなかったんだよん。ちょいしてから別のおにーさん達も来たしね〜んヒーハハハ」
「おにーさん?」
「そうそう三人組のズッコケさん! お金をどうか恵んで下せ〜よ〜って言いながら僕々ちゃんの歌を聴いてくれたんだに〜。んでんでね、お礼に拳を恵んであげたんだよん」
ヒハハハハ〜、とまた笑い、俺は察する。
三人組のおにーさんは不良で、金を寄越せと天邪鬼を脅し、哀れ三人組は天邪鬼に逆リンチされたと。こんなところだろう。
……笑えねぇよ。
「ヒハハ、後々」
「ん?」
呆れる俺に、天邪鬼は愉快な笑みをやらしい笑みに変えながら、ニタニタと続ける。
「今日の“茶番劇”の締めが此処ーって、憑物が教えてくれたからに〜」
「…」
そうだった。
天邪鬼には予め、“今日に誰が俺の部屋に来て俺はそれをどうして”という一連のあらましを、一から十まで全部一週間前に教えていたんだった。
今日、俺の身に何が起こり、誰と逢い、
何を感じて何を思ったかということを、
ちょうど彼女が悪霊に殺された、一週間前の日に。
「ヒッハハハ! そのお元気凛々な様子だと、やっぱり死に損なっちゃったみたいだなん♪」
悪霊にズタボロにされた俺を見て、天邪鬼は残念そうな、面白がるような調子で笑い、
「嗚呼、死ぬつもりも無かったけどな」
俺は血でベトベトの天邪鬼を視界に入れずに、つまらなそうな、どうでもよさそうな調子で流す。
例えばの話だ。
もし、今日自分の身の周りの出来事を、最初から全て把握していたとしたら。
もし、朝に朝霧しおりという女性の霊が、自分の部屋に来て助けを求めることを事前に知っていたら。
もし、昼に彼女と街を歩き、家へ行き、彼女の記憶を取り戻し、彼氏の元へ行くことを知覚していたら、
もし、彼女と彼氏が再会出来、未練を遂げた彼女が成仏することを知り得ていたら、
もし、彼女を殺したのが悪霊で、その悪霊の目標物が本当は俺自身だったということを、一から十まで全部が全部、自分の知識の中に取り入れてあったとするならば。
「物好きズッキーニさんだよな〜ん? これから何が起こってー、何々が始まってー、何々々が終わってーって、ぜぇーーんぶ“視通して”るんのに、知らない知んないわっかりっまっせ〜んの一点張りだかんに〜〜」
「………」
もし、
自分の能力が、視る能力が、この世にあるもの全て、自分の心のみならず、他人の心も、現在も、過去も、未来も、あらゆる次元のあらゆる異世界も何もかもを見透かし、視通し、知り尽くせてしまうのならば。
そう、確かにこれは“茶番劇”だ。
「斑鳩だったらこーゆーだろに〜、『ハッ、下らないな』って感じ」
「……さっきから気になってたけど、誰だよ斑鳩って」
ヒハヒハ笑う天邪鬼に俺は聞く。人の名前を覚えるのが極端に苦手な(というより覚える気が無い)天邪鬼にしては、個人の名を覚え続けているのはかなり珍しい。
すると天邪鬼は笑いながら、
「ヒハハッ! 前に路地裏で喧嘩してるの見つけちゃって、僕々ちゃんも加勢したらも〜強いのなんの! 僕ちゃん、傷を負わされたの初めての処女ちゃんだったのさん!」
「成程。俺の名前も覚えてないのに、斑鳩って奴は覚えてるのか」
「ヒッハハハハハ! 憑物は憑物で漬物だから良いのっさん♪」
「意味判んねぇよ」
“視通した”通りの言葉を話して、俺も“視通した”通りの言葉を話す。
予定調和。
そうなるように最初から決まって、定まって、流れている通りに、
そうなるように決められ、定められ、流される。
まるで、人形が舞台の上で面白可笑しく踊り続ける、喜劇のように、
自分の意思など一切入らせてはくれない、操られるままの悲劇のように、
自由に未来を視れるのに、自由に未来を変えられるのに、敢えて自身の望みを断ち切って、為すがまま、流れるままに身を任せる。
例えばの話だ。
もし、悪霊が何者かの手によって俺に差し向けられたとして、その通過途中に朝霧しおりという女性の犠牲が伴うとして、それを一から十から百から千まで知っていたとして、“敢えて”知らぬ存ぜぬ振りをしていたとするならば、
彼女が殺されるのを知っていて、わざと視逃していたとするならば、
彼女を真に殺したのは、トラックの運転手でも、悪霊でも、他の誰でもない、
朝霧しおりを殺したのは、
俺だ。