〈肆〉4
「…………!」
能力が戻った。
朦朧とする意識が無理矢理覚醒されて、思考が急激に正常さを取り戻していく。
霞む眼を何度か瞬くと、自分を絞め殺そうとしている悪霊の姿も視える。
悪霊と呼ばれる存在の姿を、改めて視据える。
『人間』だ。
赤黒く、霊とは思えない程に生々しい人の群れが、幾十幾百の数で融け合って俺の倍々の身体を成している。
所々では一部の人が千切れて垂れていたり、地に伏した塊が這って元の身体と繋がったりして、異常なまでの様相を晒しているが、
何より異様なのは、それでも未だに“人の形を保とうとしている”ということ。
数多くの悪霊がより集まって合わさって、もう“人”と定義していいのかも判らないような有り様と化しているのに、
まるで執着するように、
まるで固執するように、
未練がましくも“人”の形を保とうとしている。
最も穢れた魂が、肉体という器を捨てて欲を満たすのに最適な姿を選んだ結果が、
『人間』の姿。
「………ハッ」
思わず、笑った。
殺され掛けているこの状況で、ついそんなことも忘れて笑ってしまった。
……確かに『人間』だな。『人間』の他に例えようが無い。こんな矮小で極小で微々たる存在、『人間』をおいて他にいない。
≪ヴル゛ル゛ル゛ル゛ル゛……≫
悪霊の数十の腕の塊が、さらに俺の首を締め上げた。
このままだと本当の本当に死ぬというくらい。
気管がますます圧迫されて、息が出来ない。
けれど、
「視せて、やる……」
俺は普段と変わらない調子で『人間』に話し掛ける。
息も出来ない状態で、でも『人間』と初めて垣間見えた時以上の冷静さを滲ませて、
掠れ過ぎて聞き取れない声を発しながら、
「……視せ…やる、よ。本…日最、後………の、貸し、出しだ……。思……存ぶ、堪能しや、がれ…。…………それ、で、」
右手で『人間』の身体に触れながら、
笑い、ながら、
「“視”ね」
視る眼を、貸した。
≪ギ、ア゛…………?≫
ビキリ、と。
硝子にひびが走ったような音が木霊する。
悪霊の姿はまた視えなくなって、自分を掴んでいた力も急に無くなり、身体が地面に落ちて尻餅を突く。
首絞めから解放された俺は、ゼーゼーと新鮮な空気を吸い込んでは吐き出して息を整え、
視えなくなった悪霊の苦しむ声を聞いて、ククッと嘲笑う。
「……どうだ? 酷いもんだろ、“それ”は。お前達が逝くことを拒んで、ずっと畏れていた世界だぞ」
≪ア゛ッ……ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッ?!?≫
聞こえているのかどうか、悪霊は悶えるような声で叫ぶ。
さっきまでの余裕など何処にもない。みっともなく叫声を上げて、さらに耳障りな音を辺りに反響させる。
生者に恐怖を抱かせる存在が、
今、視ている光景に恐怖している。
「―――“地獄”。生前に罪を犯したクソ共が逝き着く世界、あの世の世界」
悪霊の啼き叫ぶ声を聴きながら、ひとりでに呟く。
仏教では、人は死んで魂だけの存在になると、二つの世界へ逝くとされている。
一つは『悟界』。
一つは『迷界』。
『悟界』は善き行いをし、煩悩の限りを捨て去って死した者だけが昇る世界。
『迷界』は悪しき行いをし、煩悩の限りを尽くして死した者だけが堕ちる世界。
昇った者は声聞、縁覚、菩薩、仏のいずれかに行き、
堕ちた者は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天を廻って彷徨い、穢れた魂を延々と責め続けられる。
が、勿論これは観念の話で、宗教によってその定義は様々、『悟界』や『迷界』といった世界は実際には存在しない。
人の想像から世界は生まれない。
生まれはしないが、
だが、“地獄”は在る。
根拠は明白。
しおりという存在がそれを証明している。
悪霊という存在がそれを証明している。
死者という存在が証明されているのなら、必然、死者が還らなければならない場所も在るという確かな証明となる。
だから“地獄”という世界も、存在する。
今悪霊が視ている世界が“地獄”と呼ばれる世界だ。
世界を視る、とは言っても、ただ見るだけではない。
視たモノを体感するのだ。
地獄に送られた罪人達の魂が受ける拷問。
仮初めの肉体を与えられ、刃で全身の皮膚を剥ぎ取られ、切り裂かれ、針で眼を刺され、耳を刺され、鼻を削がれ、舌を抜かれ、爪を剥がされ、指を潰され、杭で手を貫かれ、骨を折られ、微塵に砕かれ、血を抜かれ、内臓を引き抜かれ、重石で潰され、業火で炙られ、五体を八つ裂きにされて、磨り潰されて、さらに焼かれ、最後に身体を元の姿に戻され、また刃で切り裂かれ、
その繰り返し。
何度も、何度も、何度でも、
無限の苦しみを与えられ、責められ、苛まれる。
二度死ねない罪人を延々殺し続ける。
それらを、その身に体感する。
≪ア゛ア゛ァ゛、ア゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ッッ! ア゛ァ゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!≫
姿は視えなくても判る。
悪霊は死に続けている。
地獄で受ける痛み、苦しみを存分に味わっている。
あの世に逝くことを拒否して、地獄に堕ちることを畏れていた悪霊だ。長くは保たないだろう。
昼間でしおりが成り掛けたように、
その魂は消えて無くなるだろう。
穢れを落として成仏するんじゃない。
穢れ切った魂を磨り減らして消滅させる。
罪人に赦される機会を与えることすら許さない。それが“地獄”たる所以なのだから。
「………終わったな」
木にもたれ掛かったまま、悪霊に打たれた箇所を労りながら、濃紺に染まり始めた夏空を見上げて呟く。辺りが暗くなって気温が下がったせいか、蝉もいつの間にか泣き止んでいる。
これで問題は“一応”片付いた。
根本的な問題、“しおりを俺のアパートに向かわせて、そのしおりを殺した悪霊を差し向けたのは誰なのか”というのが残ってはいるけど、それは明日以降考えよう。今日は街のほぼ全域を歩いたり、とち狂った悪霊に襲われたりでもう疲れた。
あー…、でも、しおりの事故現場にも寄らないといけなかったな。胸のポケットに入れたままの百合の花を供えないと、家に持って帰っても生ける花瓶なんてある訳も無いんだし。でも面倒だな………。
と、そんなことを頭の中でぼやいていると、
ガッ、と。
足首を強く掴まれる感覚がした。