〈肆〉3
≪――――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!≫
「うぁ?!」
唸り声と共に、右肩に衝撃が加わった。
後ろに倒れ掛かった俺は右足で辛うじて踏ん張り、直後に左の頬に風を切る感覚を覚えて横合いに飛ぶ。固い地面と芝に身体を擦りながら倒れると、さっきまで俺がいた場所に、見えない“何か”が通過する音が聴こえた。
俺は直ぐ様立ち上がって、林の方へ駆ける。
「クソ! 多少霊感があるくらいじゃ、姿まで見えない……がッ!?」
今度は背中。
前に走っていたこともあって、勢い良く転んでしまった。揉んどり打ちながら転がって、悪態を吐いて周囲に眼を凝らす。
……やっぱり見えない。視る能力をしおりの彼に貸した状態じゃ、悪霊の攻撃をかわすことは無理だ。少しの霊感とありったけの五感だけでやり合うのはやっぱり無謀………、
「うぶ………ッ」
四つん這いの俺の顎に突き上げる痛み。
反動で起き上がったところへ、さらに鳩尾にも重たい一撃が捩じ込まれ、後ろの木々の一つに叩きつけられる。
「……………ッッッ!!」
しなやかな木が揺れ、背骨が軋んだ。
肺に溜まった空気が一気に吐き出されて息が出来ない。
歯を食い縛って耐える俺の首に、悪霊の手らしいモノが絡みついて木に押しつけ、息を吐き掛けてくる。
≪ブジュヴヴヴヴ………≫
「臭…いんだ、よ………」
吐き気を催しそうな臭いだ。気を失いそうになる。けど、此処で意識が飛んだら、確実に死ぬことに、
≪ア゛ハァァァァァァァ……≫
「……ッ」
悪霊が笑ったような気がした。
こいつの目的は、生前に繰り返し行ってきたことの反復。
何度も、何度も、何度も、何度も、
何度でも、他者に危害を加えてその時に得られる愉悦に浸ること。
その欲望を満たす為にしおりを殺し、今まさに俺をも殺そうとしている。
俺を殺せることに、快感を覚えている。
悪霊の手の力が増した。
息が詰まる。
血流が滞る。
思考が止まりそうに、なる。
視界が、ぼやける。
不味…い。
息…が、出来……酸素……足り………、
間に…………合わ………な…。
本……うに、
………死、
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――、
≪―――視る眼を、お返しします≫
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
≪―――、もう逝かなくちゃ≫
「……しおり?」
少年が悪霊に襲われている頃。
徐々に闇が差し迫る中、不意にしおりはそう呟き、彼に抱き寄せた身体を離す。
≪言いたいことも伝えられたし、いつまでも此処にいたら、あの人に迷惑掛けるから≫
「……、」
しおりは諭すような顔で言い、彼は暗い表情で俯く。伝えたいことは伝えたとはいっても、やはり別れをしなければならないというのは躊躇ってしまう。
そう簡単に、割り切れるものではない。
そう言外に語る彼に、しおりは、
≪そんな、そんなそんな顔、しないでね? もう二度と会えない訳じゃ、ないから。ただ、少しだけのお別れだから。また、会えるから≫
「………うん。判ってる」
今生の別れではなく、一時の別れ。
しおりはあの世へ逝くことになり、彼は現世で生きていく。
そしていずれは、彼もしおりと同じようにあの世へ逝き、
そこでもう一度、再会するのだ。
だから、
≪…幸せに生きてね? 私は笑顔であっちの世界に逝くから、貴方も十分に生きて、長生きして、笑顔で私の所へ来てね≫
「うん、判ってる。すぐに後を追ったりはしないよ。…幸せに生きるから。笑いながら、しおりに逢いに逝くから」
だから、
≪………別の女性と一緒に来たらどうなるか、………判る?≫
「…………浮気は、しません」
だから、
≪うふふ、冗談冗談、冗談だよ。他に好きな人が出来たら、一緒になっても良い。私のことを忘れてくれなければ、それだけで良いから≫
「………うん」
だから、
だから、
だから。
≪―――さようなら、英司さん。また、逢う日まで≫
「―――さよなら、しおり。また、逢える日まで」
―――また、逢える、その時まで、
――暫しの、お別れを。