〈肆〉2
「…しおりに言いたいこと?」
彼は首を傾げて聞き返す。質問の意図が判らないのだろう、けど俺は何も答えずに無言で彼の言葉を待つ。
真剣な面持ちで、両の眼を彼に合わせたまま、じっと待つ。
そんな俺の様子を察したのか、彼も砕けた調子を捨てて考え始め、
「―――しおりに言いたいことは、一つだけですね」
余り長くは掛からず、ものの数秒で彼は顔を上げて俺に答えた。
恐らく、考えるまでもなく最初から辿り着いていた答えを、口にする。
「……愛してる」
その言葉を、声にする。
「どんなに憎まれても、どんなに恨まれても、どんなに呪われても、どんなに嫌われても、……たとえ死んでいたとしても、君を愛していると、言いたいです」
しおりと同じように、
自分を偽ることなく、
彼は言い切った。
俺はその言葉を聞いて軽く頷く。
「じゃ………次は本人に伝えるといい。お邪魔虫は退散するから」
「え?」
歩いて彼の隣まで行って、ポンと肩に手を置いた。
またきょとん顔になっている彼を無視して、俺は“後ろ”を向いて喋る。
「貸し出しはお前が成仏するまでだ。ま……お互い悔いの残らないようにな」
それだけ言って、俺はさっさと門をくぐって去っていった。
俺は石畳を歩いて上り気味の坂を上がる。
頭上からは蝉の騒がしい声。木々はそよ風でざわめき、葉擦れの音と重なって。
あーこれでようやく終わったなー、と考えながらそれらの雑音を聞き流して、
「………」
ボソリと、呟く。
「……さて、俺の問題を片付けに行くか」
墓地の方では、一人残された彼がその場で突っ立っていた。
因果な邂逅を果たした少年は、何がしたかったのかおかしな質問をして、それに答えると意味不明なことを言い残して帰っていってしまった。一連の出来事に彼は訳が判らず、動くに動けなくなっている。
しかしその混乱も僅かに治まると、早く帰らないと暗くなるということを思い出し、少年に続いて門の外へ出ようと足を動かした。
彼が一歩目を踏み出そうとして、
その時、
≪………栄司さん≫
後ろから彼の名を呼ぶ声がした。
彼以外には誰もいない筈の墓地の方から、彼以外には決して判らないだろうその声に耳を疑い、
「―――――ッ」
即座に振り向いて息を呑む。
天使像の影から歩いてくる、一人の女性の姿を確認する。
あの日と同じ白いワンピースを着た、生気の無いその顔に、あの日とは違う表情を浮かべた彼女が。
どれだけ再会したいと懇願しても、絶対に叶うことはないと諦めた朝霧しおりその人が。
彼の方へ、歩いてくる。
一歩ずつ、ゆっくりと、
あの日のように、走ることはなく、
今度こそ、辿り着くと信じて、
彼の目の前へと、歩いてきた。
「………しお、り?」
彼は動揺する。
今、自分の前に立つしおりが本当にしおりなのか、この朝霧しおりは本物なのか、それとも先程まで自分がしおりのことを話していたから、そのせいで幻覚でも視ているのか。
彼の頭はまた混乱する。混雑して、乱雑になる。
声の出し方まで忘れたような錯覚に陥る。
『もし―――、もしもの話だ。』
「………あ」
彼はふと、思い出した。先程の少年の、あの言葉を。
『もし、今この場でしおりに逢えるなら、しおりと再会を果たせるなら、』
『あんたは、しおりになんて言いたい?』
少年は全て判っていて、そんなことを聞いたのか。
聞いて、
『じゃ………次は本人に伝えるといい』
自分に機会を、与えてくれた。
どうやったのかは判らないが、
少年はしおりを此処へ連れてきて、自分に逢わせる為に尽くしたんだ。
きっと、それは自分の為にではなく、しおりの為に。
『お互い悔いの残らないようにな』
少年が与えてくれた、最期の機会。
悔いの残らないように、するには、
「―――しおり!」
彼はしおりを抱き締めた。
生身が無いから当たり前だが、感触が一切無い。空を掴むような、でも、不思議としおりの身体に触れている感覚が彼に伝わる。
彼はしおりを抱きながら喋る。
「僕は、君に謝らないといけない。僕は…ッ」
言い掛け、途中でしおりの人差し指が彼の口を塞いだ。
訝る彼に、しおりは微笑んで話す。
≪……私も、貴方に会ったら謝ろうって、決めてました。決めてました。決めてたの。決めてたけど、≫
微笑みながら、彼に身を預けて、彼の耳元で、囁く。
≪けど、そんなことより、謝ることより、今一番言わなきゃいけないことを言わないとって、思ったから。さっき貴方が言った、私に言いたい言葉を言って? 私も、貴方に一番伝えたい言葉を言うから≫
謝るよりも、言わなければならないことを。
謝るよりも、言いたいことを。
今、一番に伝えなければならないことは、
夕暮れの下。
一人の青年は天使が降り立つ聖なる墓地で、一人の女性と再会した。
限られた時間の中、限られた機会を与えられた二人は、互いが互いにその想いを伝え合う。
青年が生きている内は、最早二人が逢うことは出来ないだろうから。
いつかまた、二人が逢えるその時が来るまでの、一時の別れの言葉の代わりとしてその言葉を、
二人が最も伝えなければならない、想いの言葉を、
二人は同時に、口にした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
しおりの未練である彼との再会は、これで終わりを告げた。
後は二人で言いたいことを伝えあって、お互い満足すればしおりは勝手に成仏する。丸一日掛けて彼女と街を練り歩いた甲斐があったということだ。
まあ、成仏する際に立ち会えないのは少しばかり気掛かりではあるけど、恋人同士の時間を邪魔する程野暮な性格はしていない。その上、俺にはまだやらないといけないことがあるから、どのみちあの場に留まる選択肢は無かった。
やらなければならないこと。
先送りにしていた問題。
しおりがどうして俺の元へやって来たのか。
「……………」
林間の遊歩道を渡ってきた俺は、墓地の反対側にある公園に足を運ぶ。
公園は、左右に簡素な造りのベンチと自動販売機、北側から西にかけて高台が設けられ、ところ狭しと建物が密集する様子を眺められる。
さらにその向こうには深緑の山々が覗いて、見晴らしの良さを提供している。まさしくデートスポットに相応しい場所だった。
…裏手に墓地が無ければ、だが。
「此処の区画整理を担当した奴の気が知れないな。いや知ったこっちゃないが」
本当にどうでもいいことを呟きながら、林から少し離れて広く開け放たれた場所へ歩く。高台の方からは距離を取って、“万が一にも落ちることのないようにする”。
フーッと、長く息を吐いて、
「―――いい加減、出てきたらどうだ? 今の俺には“視る眼”は無いぞ」
真っ赤な空に向けて、墓地の方には聴こえない程度の大声で言った。
誰もいない筈の場所に。
誰がいるであろうことを強く確信して。
返事はすぐに俺の耳に届いた。
≪ア゛≫
真横に伸びた雲が西陽を隠し、赤く焼けた空が急に暗さを増した。
暗転する世界の中で、“それ”は、俺の目の前で呻き声を上げる。
≪ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア≫
不協和音なんてものじゃない。
鼓膜を突き破って三半規管を食い破り、脳髄という脳髄をぐしゃぐしゃに押し潰して壊死させるような、とてつもない嫌悪感に満たされた声だ。虫酸が走る。
俺は不快な音に顔をしかめて、
「交差点からずっと後をつけて、狙いもしおりからすぐに俺に移し変えてたな。でも手は出さなかった。俺の能力を畏れて」
平然とした口調で声のする方へ話し掛ける。
そうだ。
しおりは事故で死んだ訳じゃない。
この“何か”に憑き殺されたんだ。
十字路の交差点で待ち伏せて、
しおりが彼に釣られて自分の懐に飛び込むのを見越して、
狡猾にも、第三者のトラック運転手を昏倒させて事故に見せかけた。
この“何か”は、
「…―――殺人、暴行、恐喝、詐欺、強盗、強姦、ふん。一通りの罪は犯した自縛霊の塊、てところか」
生前に欲望のままに周囲を傷つけ、
近づく者全てを手当たり次第に犯し、
死した後も現世にこびりついて離れなかった、
穢徳にまみれた、死霊の魂塊。
生きとし生ける者全てが恐怖する存在。
『悪霊』だ。