〈参〉2
「あんな娘、ねぇ」
≪………………≫
仏壇の前。
和洋折衷の部屋の中、畳みが敷かれた一室の隅で朱色の座布団に座って線香を上げた俺は、ボソッと呟く。隣で同じく座って自分の仏壇を眺める彼女は沈黙し、塞ぎ込んだまま。
一人、喋り続ける。
「仲、悪かったのかもな」
≪……………≫
「何か、思い出したことはないのか?」
≪……………≫
「思い出して、……ないか」
≪……………≫
これじゃ、本当に独り言だな。それも盛大かつ大胆な独り言だ。いや、なんにしても居心地が悪い。彼女の母親は茶を入れに台所に向かったし、さてどうしたものか…、
「………ん?」
ふと、改めて仏壇を見ると、座壇の隅に白いノートがあった。することも無いし、興味が沸いたのでそのノートを見ようと手を伸ばして、
「それはしおりの日記ですよ」
襖の奥から母親が、茶碗と茶菓子を乗せた盆を持って現れた。
俺は伸ばした腕を直ぐに戻して姿勢を正し、彼女も肩を震わして母親に注目する。
母親はゆっくりとした動きで盆を俺の前へ、向かい合うように座ったかと思うと、おもむろに問い掛けてきた。
「不躾で申し訳ないけど、貴方はしおりとはどういう関係で?」
「関係ですか。友人、としか答えようがないんですけど…たまに会って話す程度の関係、ですかね」
あらかじめ用意しておいた返答を返す。当たり障りのない答に、母親はフッと息を吐いて、
「すいません。私の知る限り、あの娘の友達といえば素行の悪い不良しかいなかったものですから、てっきり貴方もその仲間かと」
そう謝罪して、今しがた俺が掴もうとしていたノートを手にし、またも厳しい目つきでそれを見つめた。
「あの娘が家出した時に持ち出した物の一つです。事故があった日にも、これをバッグの中に入れてありました」
「家出?」
状況が進展しそうな感じだったので、すかさず質問する。彼女は家出少女だったのか。
「ええ、若い男と付き合って、その男性と結婚すると言い張って」
しかも駆け落ち。
これには当の彼女も驚きを隠せないようで、感心したように、
≪わたし、大胆だったんですね≫
(そりゃ、人前で脱衣宣言ばかりしてたからな)
ことあるごとに脱ごうとするのにはそういう理由があったのかそうかそうかてんな訳ねぇ。
「どうかしましたか?」
「ん、いえ、別に」
「…?」
彼女の母親に不審な眼で見られてしまった。もう少し声音を落とさないといけない。
気を取り直して、俺は深いところまで探ってみる。
「不良と友達って言いましたよね? 自分の見た感じ、しおりさん、そんな悪い友人を持ってる風には見えなかったんですけど」
「………それは、」
少し失礼な気もしたが、此処へ来た目的は果たさなければいけない。
隣の彼女も自分の記憶を取り戻すべく、覚悟を決めて身を引き締める。
彼女の母親は、数瞬話すか話さないか迷ったけれど、次第に俺の視線に耐え切れなくなって語り始めた。
しおりの父……夫は、しおりが産まれて間もない頃に病死して、私がずっと女手一つで育ててきました。
別の人ともう一度、とは考えませんでした。あの人のことを今でも愛しているし、あの人の忘れ形見になったしおりを、一人で育てたかったから。
私は、再婚もせずに仕事に励んで、あの娘の養育費を稼いで育てました。
けれどそれが災いして、私は家を留守にすることが多く、あの娘が中学生になった頃にはすっかり仲は険悪、家の中にいるのに一言も会話を交さず、一日を終えることがしょっしゅうありました。
高校生にもなると夜遊びが酷くて、外出してから何日も帰ってこない日が多くなって。
たまに帰ってきたと思ったら、今度は結婚する、なんて言い出すんですもの。
腹に据えかねた私はあの娘の頬を思いきり叩いて叱ったんです。この親不幸者、と。そしたら、お母さんだって私のこと何も考えてないくせに! と返され、家出してしまって。
全く……親の気持ちも知らないで………小さい頃から夢みがちな性格で、皆に見えないものが視えると騒いだことも………。
本当、手間の掛る子でした………。
…せめて、仲直りする時間くらい、残してくれても良かったのに………。
「そうでしたか……」
彼女の母親の話を一通り聞き終わって、ことの経緯は掴めた。
成程。仲は悪かったけど、嫌っていた訳じゃ無かった、と。その場の一時の感情に流されて、すれちがって、仲違いしたまま彼女が死んでしまって。
彼女の母親はそれを悔いている。憎まれ口を叩いてこそいるが、内心では罪悪感で一杯なのだろう。だから、今こうして辛い表情をしている。
後悔して、いる。
≪………お母、さん≫
(思い出したか?)
≪………(フルフル)≫
母親に気付かれないよう彼女に聞くと、彼女は首を横に振る。これでもまだ思い出せないか、と俺は嘆息しかけたが、
≪おもい出せません……けど、≫
(けど、何だ?)
≪けど、けど、けれど、この人は、間ちがい無く、わたしのお母さんです。絶対、そうです。≫
自分の為に、こんなにも辛そうな顔をする人を。
自分の為に、こんなにも思ってくれている人を。
自分の為に、こんなにも心を傷めてくれている人を。
≪思い出せないですけど、ですけど、わかります。この人は、絶たいに、私のお母さんです。お母さん、なのに…≫
母親だと理解出来る。なのに、思い出せない。
それが彼女を苛めている。
≪どうして、思いだせないんですか。わたし、ほん当にお母さんのこと、どうでもいいとか、思ってたのかな…≫
言い終える彼女の顔には、母親と同じ悔しさの念が滲んでいる。思い出せないんではなく、思いだそうとすらしていないんじゃないか。喧嘩して、すれちがって、だから、母親のことを勘違いしたままなんじゃないか。勘違いしたままを満足して、だから思い出せない、思い出さないでいるんじゃないか、と。
だが、それは違う。俺が断言する。それはきっと、
(優先順位の問題、だな)
≪え?≫
俺は彼女の母親が持つノートを指差した。
「あの、その日記見せて貰っても良いですか?」
うっすらと涙を浮かべていた母親は顔を上げて、自分が泣いていることに気付いたらしく、
「はい。……すいません。少し、席を外しますね」
「どうぞ、お構いなく」
ノートを俺に手渡すと、手で目元を隠しながら、居間の方へ去っていった。
俺は母親が完全にいなくなったのを見届けると、ノートを開いて彼女に見えるよう体勢を変える。事故が起こる当日まで、彼女が毎日書いていたであろうこの日記なら、母親のことについても何か記しているかもしれない。
「百聞は一見にしかず、だ。論より証拠、自分の眼で確かめてみろ。本当にしおりは母親のことをどうでもいいと思っていたのかを」
≪あ…≫
彼女も俺の意図に気づいて、右肩から覗き込むように顔を出した。
日記の構成は、頁の上下を線引きにして二日ずつで、俺は頁を捲ってそれらしい内容の行を探す。その内、気になる内容を見つけて捲るのを止めた。
―2006年 6月10日 雨―
今日は珍しく雨が降りました。梅雨の時期だから珍しくないんだけど、今年は異常気象でずっと晴れてたから、たまに降ると変な感じだな。彼はバイトがあるから会えないし、お母さんはいつも通り残業で留守。することもないから、また夜に出掛けて暇を潰しました。
「暇潰しに夜遊び……」
可愛い顔に騙されていたけど、彼女自身、本当に不良まがいの生活を送っていたんだな。理想と現実の違いに絶望しそうだよ。
≪え、えへへ………次、つぎ々、めくりましょう?≫
彼女は苦笑いで誤魔化しながらそう催促する。うん、俺も気にしない方向で頁を捲る。
―2006年 6月18日 晴れ―
今日は彼とデートです! 港近くの遊園地でおもいっきり遊びました。絶叫マシンは彼が怖がっちゃって乗れなかったけど、観覧車には乗れて、夕陽が沈むのを眺めました。綺麗だったなぁ…。
そういえば、彼ずっとそわそわしていたような気がしたけど、気のせいかな?
「遊園地でデェトっすか」
心っ底興味なさそうな俺。
それが気に障った彼女は、
≪…何で、そんなにつまらないかおするですか?≫
「別に、まあ、やることもやってたんだろうなーと思って」
≪……セくハラです≫
訴えられた。
………捲ろうか。
―2006年 6月25日 晴れのち曇り―
今日はすごい日です! きっと私の人生の中でも一番の素晴らしい日です! 彼が、付き合って一周年のこの日に、プロポーズしてくれました! 私の大好きな花を渡して、指輪まで買ってくれて、愛してる、結婚しようって言ってくれました! 幸せです! これはきっと、今まで良いことなんて一つも無かった私に、神様が与えてくれたプレゼントかも。私、今すっごく幸せな気分です…。
「今まで良いことなんて一つも無かった…か」
≪ネガティブ思考ですね≫
「人事みたいに言うな。って、記憶が無いから人事っちゃ人事なんだろうけど。にしても、プロポーズか。……すっかり忘れていたけど、そういえば歳、幾つなんだ?」
≪さあ……お母さんに聞いておけば良かったですね≫
「だな。後で聞いて……ん?」
次の頁を捲ろうとしたところで、頁が数枚抜けていることに気づいた。よくよく見れば切り取られた跡があり、合わさった二頁は鉛筆で黒く塗り潰されている。酷く乱暴に書き殴られていることから、この時の彼女は相当不機嫌だったことが判る。
つまり、ここが家出をした期間の内容、ということになる。
「母親と喧嘩、だな」
≪………≫
頁を捲る。




