〈参〉1 夕刻の再会
「朝霧ねぇ。……知らないよ」
「朝霧しおり? ああ、新聞で呼んだよ。悲惨な事故だったらしいね。住所? それは判らないな」
「交通事故で死亡した女の子の家、か。ふうん。あたしは知らないけど、あそこの家の人が顔広いから、知ってるんじゃない?」
「朝霧? 事故で娘さんが亡くなったところかい? 確か南方面のアパート群のどれかに住んでたんじゃなかったかな」
「此処ら辺で朝霧っていったら…そこの道を曲がって四棟先のマンションにいた筈だよ。うろ覚えだけど」
「朝霧ならこのマンションの十階に住んでますよ。何か用ですか?」
「誰だよ、ったく。…朝霧? うちは麻桐だ。帰りやがれクソガキ」
「あれ、麻桐じゃなくて朝霧さん捜してたんですか。えーっと、確か、ここから坂を上った丘にあるマンションに住んでたと思いますよ。すいませんね、どうも」
午後4:27。
「此処か……」
街路樹が建物を囲むように植えられた、町を一望出来る丘の上のマンション。その入口前、道路に立って上を見上げた俺と彼女は、
「………超がつく高級マンション、か」
≪凄いごう華ですねー…≫
とんでもなく豪奢な高層住宅に呆気に取られていた。
高い。高すぎる。
我が家のボロアパートとは雲泥の差がある。
こっちは誰でも好き放題上がり込めて、扉もちょっと強引に引っ張れば外れてしまいそうなのに、此処はマンション入口から既に電子ロック付きの自動ドア、横に指紋、網膜照合装置という厳重体勢だ。たかだかマンション如きにここまでするとは、余程住人達は腹黒くそして他者に気を許さない徹頭徹尾冷徹主義者つまり大金持ちなのだろう。
イコール。
隣の彼女も金持ち、ということになる。
当の本人は忘れているが。
≪私、こんな所にすんでたんですか?≫
「みたいだな。深窓の令嬢って奴だ」
違うけど。
そんなことは気にせず、中に入る為に照合装置の前へ移動。いつまでもマンションの真ん前でうろついていたら怪しまれるし。
さて、自動ドア横にある、指紋、網膜照合装置だ。このマンションの住人以外、誰も入ることが出来ないように設置されているから、至極当然、俺は入ることは出来ない。
お手上げだ。どうすることもできない。一巻の終わりだ。諦めて帰ろう。
「って言ったら物語は進まなくなるな…」
≪はい? なにか言いました?≫
「いや何も。それよりしおり、ちょっとこっち向いて」
?、と首を傾げながら彼女は言われた通り此方を向いた。いちいち仕草が可愛……うん、それはともかく、俺は彼女と向き合って立ち、彼女の瞳を見つめる。
≪あ、あの、何ですか?≫
「………いや、別にやましいことじゃなくてな。いや本当だって、ホントだよ?」
本当です。
続いて、また顔を赤くしている彼女は放っといて左手を見せてもらい、改めて照合装置の方へ向き直った。
照合装置は四角い枠の中に上下二つの走査盤があり、上が網膜、下が指紋の照合になっている。俺はまず上の走査盤に自分の指を押して、
『網膜認証』
抑揚の無いアナウンスが何処からともなく聴こえてきた。次いで、その下の走査盤も同じように指で触り、
『指紋認証、完了しました。おかえりなさいませ、朝霧しおり様』
アナウンスが鳴り、自動ドアは音もなく開いて道を開けた。
彼女は呆けて眼を丸くし、俺は自動ドアが閉まらない内にさっと中へ移る。
さてさて、侵入成功だ。次は階の特定だな。郵便受けを見れば判るだろう。
やたら広い通路の左右に備えられた郵便受けをざっと見通し、朝霧の名前を探して……見つけた。番号は1974、三十七階か。これまた高い所にお住まいだ。当然、エレベーターで行かないと。
≪あの! あの、あの、待って下さい!≫
と、エレベーターの開閉ボタンを押したところで彼女が追いついてきた。静的な見た目とは裏腹に腕をパタパタ振って俺に聞いてくる。
≪さっきのどうやったんですか? どうやってあけたんですか? もしかしてま法使いさんですか?≫
魔法使いってまた、ぶっ飛んだ発想を。いや、そんなに変わらないか。
エレベーターが降りてきて扉が開く。俺はそれに乗ってボタンを押して、上階に着くまでに教えてやることにした。
彼女も随分必死に聞きたがっているようだし。
「えっと、さっきのは、簡単に言えば視せたんだよ。機械にしおりの網膜と指紋を」
≪視せた?≫
キョトンとする彼女に、俺は判りやすく説明する。
「俺は今、しおりを視てるよな? 霊魂であるしおりを視てる。これって霊感があるから視えてる訳じゃなくて、視るっていう行為そのものが一つの能力なんだ。いろんな物や、者を視る能力。俺の身に備わってる能力だ。ここまではいいか?」
≪よくないです≫
よくないらしい。
「……続けるぞ。で、この視る能力ってのはかなり特別で、相手に“視せる”ことも出来る。俺が視たものを他人に視せることも出来るし、この能力自体を相手に渡して視せることも出来る。ここまでは?」
≪……? よくわからないです≫
よくわからないらしい。
「…………つまり、だ。俺はさっきのセキュリティシステムを、俺の能力で騙したんだよ。俺が視たしおりの眼と指紋を機械に“視せて”、俺が朝霧しおりだと思わせたんだ。しおりは此処の元住人だろ? なら、しおりの識別登録がまだ残ってるんじゃないかと思ってね」
≪は〜、成程です≫
気を取り直してさらに判りやすく説明すると、彼女はようやく理解したようで、
≪あの、それって…、≫
「ん?」
≪すっごくズルイですね≫
誉められるならいざ知らず、罵られた。
「…………他に言葉は無いのか」
≪え? えっと…、すごく、反そくですね?≫
「そうじゃなくて」
≪…せこいですね!≫
「けなす言葉は置いといてさ」
≪……女装ですか?≫
「確かにしおりに成り変わったけどもさ! ……いや、もういい、もういいです」
下らない禅問答を繰り返している内に、三十七階に到着する。
エレベーターを出ると、二手に通路が分かれて20m置きに入居者の玄関口と名札、部屋登録番号が記されていた。俺は目の前にある扉の名札と番号を見て、隣も確かめ、右側通路から数が小さい順に並んでいるのを確認する。
彼女を連れて左側の通路を歩いて一つ一つ確かめていく。
一分程歩くと、彼女の自宅を見つける前に通路の端に辿り着き、そこでさらに右に曲がっていることに気がついた。そちらを見れば、また通路が延々続いて曲がり角がある。
どうやらこのマンションは四角い正方の形で設計され、中心に各々の部屋が隣接、密集しているようだ。隣人の騒音とかが気になりそうな構造だけど、勿論防音対策は万全なんだろうなぁ快適なんだろうなぁ別に羨ましくはないけど。
「それにしても数が多いな。朝霧ー…、朝霧はー…」
≪あ≫
通路を半周しかけたところで、先に彼女が声を上げた。
視線の先にある玄関の名札は『朝霧』、番号は1974。
ドンピシャだ。此処が彼女の元住んでいた部屋で間違いない。
早速俺は玄関口まで進んで呼び鈴を鳴らそうと手を上げた。インターホンの下にあるボタンに指を掛け、
「……準備はまだか?」
立ち止まったまま、近づいてこない彼女に聞いた。寸前で決心が揺らいだのか、返事が返ってくる気配がない。やれやれしょうがないな、と諦め半分呆れ半分の俺は、彼女を勇気づける言葉でも掛けてやろうかと玄関から離れて、
「アラ? ………どちら様ですか」
俺が退いた瞬間扉が開いて、中から二十代前半の若い女性が現れた。彼女と同じく真っ直ぐな黒髪と端正な顔立ちで、青い花柄をあしらったブラウスと灰色のロングスカート、片手にハンドバッグを持つ女性は、彼女の姉だろうと思った。
離れた位置にいる彼女に向かおうとしていた俺は、少し迷ったが仕方なく優先順位を変更、一先ず彼女の姉らしき人から対応する。
「あの、朝霧しおりさんの部屋を訪ねに来たんですけど……お姉さんですか?」
「母ですが」
「あ、お母さんですかそうですかー。……………………」
………………。母?
「あの、失礼ですけど、貴方このマンションの住人ですか? どうしてしおりを?」
「え?」
聞かれて、正気を取り戻した俺は、
「あー…、そうですそうです。しおりさんとは友達で、最近部屋を留守にしていたものですから、しおりさんが亡くなったのを知らなかったんですよ。それで遅ればせながら、線香を上げられないかと」
壮大にして過大なる疑問は、んー………うん、後回しにするとして、口から出任せでそう説明。彼女の母親は数瞬怪訝そうな顔で(特に胸ポケットに入れた花に眉をひそめて)俺を眺めていたが、その言葉で一変して厳しい表情に、玄関口から踵を返すと、中へ戻って俺(と後ろの彼女)に手招きした。
「どうぞ、上がって下さい。あんな娘の為に来た人を、追い返せはしませんから」




