〈弐〉6
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(で、もう大丈夫なんだな?)
≪はい。ごめい惑おかけしました≫
午後2:32。
盛大な独り言を叫んだ場所から歩き続けること三十分以上。小さな商店が軒を連ねる地区に入ったところで、俺としおりは歩行速度を落とした。ここまで来ればもう誰も変態を見るような眼で俺を見はすまい。一安心だ。大勢の衆目に晒されるのが大の苦手な俺としては、あの状況は恐ろしく耐え難いものがあったからな、あー顔が熱って仕方がない。
≪すいません。私のせいではじをかかせてしまって…≫
(いや、別に責めてないから。こら、また落ち込むなって)
≪御わびに脱ぎます…≫
(うん、その発想の転換がサッパリ理解出来ないんだけどそして脱ぐなよ)
彼女も割と元気(?)を取り戻しつつあるようで、記憶の方はさておき、ほぼ通常の会話はこなせるようになっていた。まだ妙に片言な気もするが、気になる程でもない。
強いていうなら、
≪そういえば、あの、どうして判ったんですか?≫
(ん? 何が?)
≪わたしの名前です。あさ霧しおりって…≫
(嗚呼、新聞だよ。交差点にある店で見掛けたんだ。ホラ、しおりって名前が記載されてる)
≪……………≫
(どうした? そんなうれしそうな顔して)
≪えへぇ……あの、もういち度わたしの名まえ、呼んでくれませんか?≫
(…しおり)
≪もう一度≫
(………しおり)
≪もう一度!≫
(……………しおり)
≪もう≫
(しつけぇよ)
………ずっとこの調子であるということか。
自分の名前を知らされてから、どうも名前で呼ばれることが嬉しくてしょうがないようで、さっきから小声で何度も何度も名を呼ぶよう催促されている。記憶を思い出した、という訳ではないから、俺が初めて名付けた感が拭えなくてまた困る。何だか手の掛る犬か猫でも飼っている気分だった。
まあ、可愛いから許すけど。
…甘やかすけど?
≪―――では、次はわたしのいえに行くんですね?≫
(住所までは載ってなかったから、近くの人に聞いて回って探さないといけないけど、名前が判ったからどうにかなるだろ)
井戸端会議に勤む奥様方の横を通り抜けながら、次に行く場所について話す。会話が正常に行われるようになったとはいっても、未だ記憶が戻った兆しが見られないので、じゃあ自宅に往って思い出の品でも探してみればどうか、という流れになったのだが。
≪…………≫
彼女はあまり乗り気では無いらしい。十字路の交差点での一件が、まだ尾を引いているようだ。
(……不安か?)
さりげなく横目で隣の彼女を見て、聞く。不安、というより、恐れているような顔だ。
また交差点の時と同じように取り乱して、自我を忘れて自分を消すのではないか、という恐怖に、怯えている。
けれど、彼女は、
≪……へい気、へいき。――平気ですよ。もう、自分を忘れたり、しません。もう、自分を否定したり、しませんから≫
そう言って、明るい笑顔を見せた。
強がりでも何でもない、心からの明るい笑顔を。
(…取り越し苦労、か)
≪はい? なにか言いました?≫
(いや何も)
なんでもない、と言いながら俺は商店街の道を歩いていき、その後ろを彼女がついて歩く。
≪そういえばわたし、貴方の名まえきいてないです≫
八百屋の前を通った辺りで不意に彼女が言ってきた。
フム、確かに俺は教えてない。そんなに長い付き合いにもならないだろうから必要ないと思い教えなかったのだが、それは建前で、実際は一身上の都合でわざと教えずにいただけ、なのだが。
≪いっ身上のつごう?≫
(家柄の問題でね。加えて、俺って今、親から勘当されてる身だからさ。あまり本名名乗るの不味いんだよ)
≪? じゃあ、なんて呼べばいいですか?≫
(あー、そうだな…)
路上で一人腕を組んで考える。
一応、学校やアパートの名義に使っている偽名(住民登録済)があることはあるけど、アレは自分に合ってない気がするから名乗りたくない。かといって、愛称で呼ばせるかとなるとそれはそれで嫌だ。俺の愛称にまともなものは一つもないからな。しかし駄々をこねても話は進まない…、
仕方なく、割合まともだと思う愛称を教えることにした。
(…憑物。頭のイカれた奴が俺をそう呼ぶから、しおりもそう呼ぶといい。……って、)
答えたところで、後ろにいた筈の彼女の気配が何故か消えた。幽霊が一瞬で消えるなんて成仏以外有り得ないんだけど、話の途中でいきなり消える訳もなし、俺はすぐに足を止めて後ろを振り返って、
「しおり?」
小声で話すのを忘れた。因みに、今俺が立っているのは生花店の店先、目の前には花を買いにきた五十代近くの厚化粧の奥様。
「………しおり?」
思いっきり怪訝な顔で見られた。一瞬、怯んでしまった俺は焦って咄嗟に、
「あ。しおりじゃない? あ〜そっくりだったから間違えちゃったよ。いや人違いですいません」
かなり、いやかなり意味深に取れる言い訳をしてしまった。
「……………」
黙る奥様。
「……………」
笑顔で固まる俺(滝汗)。
「「………………………」」
花に囲まれた二人は、時間という感覚を忘れて果てのない思考と泥沼の中へと沈み込んでいく。
「………………失礼します」
時が止まり、再び動き出してから数秒。
先に動いたのは奥様で、引き吊った笑顔を浮かべながらその場を離れる。と、少し歩かない内に別の奥様方が密集する一群に加わって俺を指差し、ヒソヒソ話して群れをざわつかせていた。
花屋の前で立ち尽くす俺は、
「………………またかよ」
何だか凄く敗北感を覚えたのは気のせいだろうか? ちょっと泣きたくなった今日この頃でしたとさコンチクショウ。
「ハァ…」
本日これで何回目だろうかも数えたくない溜め息をついて、俺を遠くから眺めてヒソヒソってる群れをとにかく無視して、肝心の彼女を探す。
彼女は、生花店の中にいた。
白い花々が置かれたスペースでしゃがんで、その内の一つに見入っている。
俺も至って普通の客を装いながら店内に入り、花に注目する振りをしながら彼女の横へ、腰を屈めて彼女に聞いた。
「あんたは一体何をしているのかな?」
≪このお花、きれいですねー≫
完全スルー。
ヒクッ、とこめかみが攣る。
あー、怒りたい。怒って叱って怒鳴りたい。この超弩天然娘のしゅんとした表情を拝んで泣きそうな顔を見て悶え苦しみたい。俺の身体を駆け巡る黒い衝動を彼女めがけて解き放ちたい。
いじめてぇ………ッ。
≪きれいですね?≫
「…………」
≪綺麗ですね?≫
「…………」
≪綺れいですよ?≫
「………綺麗だな。うん」
無邪気な笑顔を向けられて、俺は諦めた。
くそう、反則だ。また溜め息を吐きたくなってきた。本当、今日一日で何回吐けば気が済むんだろう。ストレスで脱毛症になったらどうするんだバーコード頭は嫌だ……、
≪……………≫
……。
花に見惚れる彼女の横顔が視界に入って考えを止めた。彼女が見つめる花を見て、
「笹百合、か……」
小声で呟いたが、近くで作業をしていた店員に聴こえたらしく、近寄ってきた。
好青年を絵に描いたような店員だ。
彼は営業スマイルで、
「百合がお好きですか?」
「いや、俺じゃなくて知り合いなんだけど」
立ち上がって、下で花を見続ける彼女を横目に答える。すると店員は嬉しそうに、
「ああ、恋人ですね? 僕の可愛い彼女も百合が好きなんですよー」
勘違いされた上にのろけられた。
「……………」
「お買いになりますか?」
うお…のろけたと思ったら速攻接客態度に戻りやがった。なんてマイペース、なんて油断ならない。隣の気まぐれ猫といい勝負だ。こいつは気を抜くと殺られるぞ!
「…お客様?」
っと、店員が心配そうに窺ってくる。俺は少し気まずそうに思案して、彼女の方を盗み見て人差し指を立てた。
「じゃ、一本下さい」
「一本だけ、ですか?」
「友人に上げるなら一本で十分ですよ」
「あ、そうですか。…やっぱり彼女なんですね?」
違くて。
まあ、訂正するのも煩わしいから黙っておく。店員は的を射ていたとしたり顔で、束で桶に入れられた笹百合を一本抜いてレジへ。彼女が気付いて眼で追う中、テキパキ動いて(無駄に凝った仕様で)ラッピングをし、俺は金を払ってそれを受け取った。
店員に軽く礼をして、彼女の元に歩いていく。
(ホレ、さっさと店出るぞ)
≪あ、はい≫
今度はちゃんと返事をしてくれた彼女と一緒に店を出た。
俺は左手に持った百合を胸ポケットに入れ、それを眺めた彼女が尋ねてくる。
≪あの、そのお花、どうするんですか?≫
(んー、色々面倒な問題が片付いたら、後でしおりが事故った場所に供えようかと思って。花、全然無かっただろ?)
≪わたしに、ですか?≫
(ん…、顔を赤らめるな。ほんの気まぐれなんだから)
照れくさそうにうつ向く彼女を制しながら、俺はバツの悪い顔で商店街の出入口を抜けた。




