狂気の貢ぎ物と籠城
薄暗い地下室の小窓から、埃っぽい陽光が差し込んできた。
朝だ。
一睡もできなかったシカクは、隈の落ちた重い瞼を擦りながら、のろのろと毛布から這い出した。
右手の甲に目を落とす。四角形の紋様は、朝の光の中でもはっきりとその存在感を主張するように、淡く発光し続けていた。夢ではなかった。
「……最悪だ」
掠れた声で呟き、重い足取りで階段を上る。
父親はもう起きているはずだ。朝の支度をして、また一日、血生臭い治療の手伝いをする。いや、そもそも昨日の一件で、表を歩くことなどできるのだろうか。
一階の治療室に顔を出すと、父親はすでに起きており、机に向かって何やら羊皮紙に書き込みをしていた。
「……起きたか」
「うん。……父さん、あの……」
シカクが何か言いかけるより早く、ドンドン! と激しく扉を叩く音が響いた。
「シカク様! いらっしゃいますか! 勇者シカク様!」
扉の向こうから聞こえてきたのは、異常に甲高く、興奮しきった女の声だった。
シカクはビクッと肩を震わせ、後ずさる。昨日、水汲み場で狂ったように平伏していた主婦の一人の声だ。
「おい、出ろ。お前に客だ」
「む、無理だよ! 出たくない! 怖い……!」
シカクが首を横に振って拒絶すると、父親は舌打ちをして立ち上がり、自ら重い木の扉を開けた。
「……何の用だ。ここは治療院だぞ」
父親の低い声に、扉の前に集まっていた数人の街の住人たちが一瞬たじろぐ。しかし、彼らの目は異様な熱気を帯びており、すぐに父親を押し退けるようにして中を覗き込んできた。
「医者! シカク様は、勇者様はどこだ! これを持ってきたんだ!」
「私のも受け取ってください! うちで採れた一番良い野菜です!」
「俺はとっておきの干し肉を持ってきた! 勇者様、どうか魔王討伐の旅の足しにしてください!」
彼らの手には、木箱や籠が抱えられていた。
中に入っているのは、新鮮な野菜、高級な干し肉、果物の砂糖漬け、さらには丁寧に編まれた真新しい衣服まである。
この貧しい辺境の街では、どれもこれも簡単には手に入らない贅沢品ばかりだった。
それを、彼らは競い合うようにして治療院の土間に置き始めたのだ。
「おお、勇者様! いらっしゃった!」
部屋の奥に隠れていたシカクを見つけると、彼らは再び地面に膝をつき、祈るように手を合わせた。
「昨日まで、勇者様とは知らずに無礼な態度をとってしまったこと、どうかお許しください!」
「死体漁りだなんて言って、本当に申し訳ありませんでした! どうか、どうかこの貢ぎ物を受け取って、我々の罪を赦し、村をお守りください!」
謝罪の言葉を口にしているが、彼らの顔には「これで自分は勇者に恩を売った」「これで自分は救われる」という、醜悪なほどの自己陶酔と打算が浮かんでいた。
シカクは吐き気がした。
昨日まで、自分の後ろ姿に石を投げて笑っていた人間たちだ。「穢れがうつる」と唾を吐き捨てていた人間たちだ。
それが、右手に光る紋様が出たというだけで、掌を返したように自分の足元にすがりつき、貴重な食料を貢いでくる。
(気味が悪い……狂ってる……!)
彼らはシカクのことなど、欠片も見ていない。
ただ自分たちの恐怖を和らげてくれる「神の使い」という偶像にすがりつき、安心したいだけなのだ。
もし、ここで「俺は戦えない」と言えば、この大量の貢ぎ物はどうなるのか。彼らのこの熱狂的な笑顔は、どんな顔に変わるのか。
「……いらない」
「え?」
「いらないっ! 俺は何もいらない! 帰ってくれ! 俺を見ないでくれ!!」
シカクは半狂乱になって叫ぶと、耳を塞いで再び地下室へと逃げ込んだ。
階段を駆け下りる背中に、「勇者様!?」「おお、何と欲のない、謙虚なお方なのだ!」「さすがは神に選ばれし者だ!」という、さらに狂気を増した彼らの歓声が追ってきた。
もう、言葉すら通じない。
彼らは自分たちの都合の良いように現実を解釈し、シカクを「完璧な勇者」という鋳型に無理やり嵌め込もうとしている。
地下室に逃げ込んだシカクは、重い木の扉を内側から厳重にロックし、隅の暗がりにうずくまった。
もう外には出られない。
誰とも顔を合わせたくない。
それからの数日間、シカクは完全に地下室に引きこもった。
食事は父親が無言で運んでくる干し肉と水を少し口にするだけ。水汲みにも行かず、治療の手伝いもしなかった。
外からは連日、シカクを一目見ようとする街の住人たちや、近隣の村から噂を聞きつけてやってきた巡礼者たちの騒ぎ声が絶え間なく聞こえていた。
「勇者様! どうかお姿を!」
「我が子に祝福を!」
その声を聞くたびに、シカクは恐怖で毛布を被り、耳を塞いだ。
世界が自分を追い詰めてくる。
見えない縄で首を絞められ、少しずつ、少しずつ処刑台へと引きずられていくような、真綿で首を絞められるような恐怖。
そして、その『処刑の執行人』が到着したのは、シカクが地下室に引きこもってから五日目の昼下がりのことだった。




