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勇者の伝承と絶望の夜



 地下室は、昼間よりもさらに深く、冷たい闇に沈んでいた。

 シカクは部屋の隅にある古びた毛布にくるまり、膝を抱えて座り込んでいた。ランプの火はとうに消え、石の壁の隙間から入り込む微かな月明かりだけが、この陰惨な部屋を照らしている。


 眠れるはずがなかった。

 目を閉じれば、水汲み場で自分に平伏していた人々の狂気じみた顔が浮かんでくる。そして、右手の甲で未だに淡く発光し続けている四角形の紋様が、自分が置かれている絶望的な状況を執拗に突きつけてくるのだ。


(勇者……俺が、勇者……)


 シカクは暗闇の中で、右手の紋様を見つめた。

 この世界において、「勇者」という存在がどれほど特別で、どれほど重い意味を持つのか。まともな教育を受けていないスラムの子供であっても、吟遊詩人の歌や大人たちの噂話で嫌でも耳に入ってくる。


 魔王。

 それは人類にとって絶対的な天敵であり、数百年もの間、大陸の北半分を支配し続けている絶望の象徴だ。

 定期的に南下してくる魔物の大軍勢は、人間の国を次々と滅ぼし、数え切れないほどの命を奪ってきた。どんなに優秀な騎士団も、どんなに強力な魔法使いも、魔王の圧倒的な暴力の前では無力だった。


 そんな絶望の世界において、唯一の希望として語り継がれているのが、神に選ばれし四人の使徒――『勇者パーティ』である。

 伝説によれば、彼らは皆、常人とは比較にならないほどの桁外れな能力を持っているという。

 剣を振るえば山を両断し、魔法を唱えれば海を蒸発させる。彼らが戦場に現れるだけで、何万という魔物の軍勢が塵となって消え去る。まさに、一騎当千の化け物たち。


 だからこそ、人々は勇者を神のように崇め、彼らが魔王を倒してくれることを信じて疑わないのだ。


(……無理に決まってるだろ、そんなの)


 シカクは自嘲気味に口の端を歪めた。

 山を両断する? 海を蒸発させる?

 今日の昼間、子供が投げた小石すら避けられずに逃げ出した自分が?

 重い木桶を運ぶだけで息を切らし、血を見ては吐き気を催している、このひ弱な身体で?


「冗談じゃない……」


 震える声が、暗い地下室に虚しく響いた。

 これは何かの手違いだ。神様とやらが、とんでもない人選ミスをしたに違いない。

 もしかすると、街にいる別の同姓同名(名字はないが)の少年と間違えたのではないか。あるいは、ただのタチの悪い悪戯か。


 だが、右手の紋様から伝わってくる微かな熱は、これが現実であることを残酷なまでに証明していた。


(もし、王都の騎士団が迎えに来たら……どうなる?)


 シカクの優秀すぎる頭脳は、最悪のシミュレーションを次々と展開していく。

 王都へ連行され、豪奢な城で王様や貴族たちの前に引きずり出される。彼らは満面の笑みで、自分に魔王討伐の勅命を下すだろう。伝説の武具や、多額の支援金を与えて。

 そして、実戦の場に放り込まれる。

 そこで初めて、彼らは気付くのだ。自分たちが崇め奉った勇者が、剣の振り方も知らない、魔法の『ま』の字も使えない、ただの臆病で無能な少年であるということに。


 その時の彼らの顔を想像して、シカクは身震いした。

 期待は、容易に憎悪へと反転する。

『騙したな』『この偽物め』『神を冒涜した罪人だ』

 そう罵られ、袋叩きにされ、最悪の場合は異端審問にかけられて火あぶりになる。昼間に父親が言った言葉が、現実味を帯びて脳内に蘇る。


(……逃げたい)


 本能がそう叫んでいた。

 今すぐ、この地下室から飛び出して、誰も自分のことを知らない遠い国へ逃げてしまいたい。

 だが、金もない、体力もない、おまけに右手にこんな目立つ発光する紋様を刻まれた十五歳の子供が、どこへ逃げられるというのか。野盗や魔物に襲われて、野垂れ死ぬのが関の山だ。


「……っ……」


 八方塞がりだった。

 進めば魔王か人間に殺され、逃げても野垂れ死ぬか捕まって焼き殺される。

 シカクの人生は、この右手の紋様が出現した瞬間に、完全に『詰んで』しまったのだ。


 毛布を頭からすっぽりと被り、震える体を小さく丸める。

 死体漁りの子として蔑まれ、日陰で泥水をすするように生きてきた。決して幸せな人生ではなかったが、それでも、命の危険を感じることはなかった。ただ息を潜めていれば、明日も同じような惨めな一日が来るだけだった。


 その惨めな日常すら、もう二度と戻ってこない。


「……助けて……」


 誰にともなく呟いたその声は、冷たい石壁に吸い込まれて消えた。

 外からは、時折、酒場から漏れ聞こえる酔っ払いの笑い声や、野良犬の遠吠えが聞こえてくる。

 世界はいつも通りに回っている。自分一人の絶望など、誰も気にも留めていない。


 シカクは毛布の中で、一睡もできないまま、ただただ震えながら夜明けを待つことしかできなかった。

 明けない夜はないと言うが、シカクにとっては、朝日が昇ることこそが、さらなる絶望の始まりを意味していた。

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