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地下室への逃亡と冷たい現実



 群衆の狂熱的な歓声と、泥まみれになりながらすがりついてくる手から逃れるようにして、シカクは全速力で走り出した。

 後ろから「勇者様!」「お待ちください!」という声が追ってくるのがわかったが、振り返る余裕などない。ただひたすらに、自分が唯一息をできる場所、あの薄暗く血生臭い地下の治療院を目指して足を動かし続けた。


 肺が焼けるように熱い。体力のないシカクにとって、街の端にある水汲み場から治療院までの距離を全力疾走するのは、それだけで拷問に等しい苦痛だった。

 喉の奥からヒューヒューと変な音が鳴り、足がもつれて何度か転びそうになる。それでも、背後から迫りくる「過剰な期待」という見えない怪物から逃れるためには、立ち止まることなどできなかった。


「はぁっ……はぁっ……っ!」


 裏路地に飛び込み、見慣れた治療院の重い木の扉に体当たりするようにして中へ転がり込む。

 カンヌキを力任せに下ろし、扉に背中を預けてズルズルとへたり込んだ。

 冷たい石の床の感触と、染み付いた薬品や血の匂いが鼻を突く。いつもなら気分が悪くなるその匂いが、今だけは外界から隔絶された安全な結界のように思えて、少しだけ心が落ち着いた。


 しかし、休む間もなく、奥の部屋から不機嫌そうな声が響いた。


「……何の騒ぎだ。扉を壊す気か」


 薄暗い廊下の奥から、ランプを持った父親が顔を出した。

 落ち窪んだ目と無精髭。いつもの無感情な顔だが、シカクの荒い息遣いと尋常ではない顔色を見て、わずかに眉をひそめている。


「父、さん……」

「水はどうした。桶と布を忘れてきたのか。……馬鹿な真似をしたな。新しく買い直す金など、うちにはないぞ」

「ち、違うんだ……そんなことより、これ……!」


 シカクは震える右手を持ち上げ、ランプの灯りに晒した。

 父親の視線が、シカクの手の甲に釘付けになる。

 薄暗い治療院の中でも、そのいびつな四角形の紋様は、微かに、だがはっきりと自ら光を放っていた。決して消えることのない、呪いの焼き印のように。


「……それは」

「わ、わからない! いきなり手が燃えるみたいに熱くなって、光って……それで、水汲み場にいた人たちが、俺のことを『勇者』だって……!」


 シカクの言葉は尻すぼみになり、最後は恐怖で泣きそうになっていた。

 助けてほしかった。

 普段は冷たい父親だけれど、これは異常事態だ。「ただの病気だ」「お前が勇者なわけがないだろう」と、大人として、医者として、この狂った事態を否定してほしかった。


 しかし、父親の反応はシカクの予想とは全く異なるものだった。

 ランプを持つ手がピタリと止まり、その落ち窪んだ目が、静かに、そして値踏みするようにシカクを頭の先から足の先まで舐め回したのだ。


「……十五年ぶり、か」


 ポツリと、感情の読めない声で父親が呟いた。


「え……?」

「前の勇者が魔王軍の幹部と相打ちになってから、ちょうど十五年。時期としては符合するな」

「ま、待ってよ! 父さんまで何を言ってるの!? 俺が勇者なわけないじゃないか! 剣なんて持ったこともないし、魔法だって使えないんだよ!? こんなの、何かの間違いだ!」


 シカクが必死に訴えかけるが、父親の表情は微塵も揺るがなかった。

 彼は無表情のままシカクに近づくと、その右手を乱暴に掴み、紋様を至近距離から観察し始めた。


「……間違いかどうかは関係ない。その手に光る紋様が刻まれたという『事実』だけが重要なのだ。勇者の紋様は、どんな魔法でも偽造できない神の奇跡だと教会が定めている」

「痛っ……離してよ!」

「騒ぐな」


 ピシャリと言い放たれ、シカクはビクッと肩をすくめて黙り込んだ。

 父親はシカクの手を離すと、ランプを壁のフックに掛け、深く溜息をついた。


「……お前がどれだけ無能だろうと、その紋様が出た以上、お前はもう『勇者』として扱われる。王都の教会や騎士団が黙ってはいないだろう。すぐにこの街にも使者が来るはずだ」

「そんな……嫌だ! 俺は魔王となんて戦いたくない! 殺されるに決まってる!」

「逃げられると思うか? 勇者の義務を放棄した者は、人類への反逆者として異端審問にかけられ、火あぶりになる。歴史がそう証明している」

「ひっ……!」


 火あぶり。

 その言葉に、シカクの背筋に冷たい氷柱を突っ込まれたような悪寒が走った。

 魔王と戦って惨殺されるか。それとも逃げて人間に焼き殺されるか。どちらに転んでも、待っているのは凄惨な『死』しかない。


「父さん……どうしよう……どうすればいい……?」


 シカクはついに堪えきれず、ポロポロと涙をこぼし始めた。

 父親の服の袖を弱々しく掴み、助けを求める。

 しかし、父親はその手を冷たく払い退けた。


「俺に泣きついてどうにかなる問題ではない。……お前はもう、俺の息子ではなく『神の所有物』になったのだ。俺の手には負えん。地下へ行け。騎士団が来るまで、余計な騒ぎを起こすな」

「……え?」

「聞こえなかったのか。地下で大人しくしていろと言ったんだ。お前が外をうろつけば、面倒な客が集まってくる」


 それは、実の息子に対する言葉としてはあまりにも冷酷な突き放しだった。

 助けようとする素振りも、同情する様子すらない。まるで厄介な荷物を押し付けられたような、あるいは……何かを計算しているような、そんな冷たい目。


 シカクは絶望的な思いで父親の顔を見上げたが、そこには親としての温情は欠片もなかった。

「……はい」

 シカクは力なく返事をすると、重い足取りで地下室へと続く階段を下りていった。

 血と泥の匂いが染み付いた、あの暗い石室へ。

 世界中から期待されながら、世界で一番孤独な勇者の、最初の夜が始まろうとしていた。

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