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激痛と狂乱の始まり



 共同井戸の冷たい水で、全ての布の血を洗い流し終えた。

 シカクは濡れた布を籠に移し替え、ふうっと額の汗を拭った。後はこれを治療院の裏庭に干して、今日の厄介な仕事は終わりだ。

 重い木桶を持ち上げようと、右手に力を込めた、その時だった。


「……ッ!?」


 突如、右手の甲に焼鏝やきごてを力任せに押し当てられたような、尋常ではない激痛が走った。


「あ、ぐ……っ!」


 木桶を取り落とし、シカクはその場にうずくまった。

 あまりの痛みに声すら出ない。息が詰まり、全身の毛穴から脂汗がどっと吹き出した。

 まるで皮膚の下で何かが蠢き、骨を直接焼かれながら、無理やり焼き印を押されているような、生々しく暴力的な熱と痛み。

 蜂に刺されたとか、刃物で切られたとか、そういう次元の痛みではない。魂そのものに直接干渉してくるような、絶対的な強制力を持った激痛だった。


「な、なんだいあの子。急に倒れ込んで」

「気味が悪いわね。何かの発作かしら? 放っておきましょう。穢れがうつるわよ」


 騒ぎに気づいて、少し離れた場所で井戸を使おうとしていた数人の街の住人たちが立ち止まった。しかし、彼らは顔をしかめてシカクからさらに距離を取る。彼らの目には、不気味な病にでもかかった薄汚い子供が、勝手に苦しんで転げ回っているようにしか見えていないのだろう。


「い、痛い……痛い……ッ!」


 シカクは彼らの冷たい視線など気にする余裕もなく、自らの右手を左手で強く押さえ込んだ。

 熱い。右手の甲が、燃えているように熱い。

 そして、その熱と痛みは、信じられないほどの眩い『光』を伴っていた。


「……え?」

「な、なんだあの光は……!?」


 シカクの指の隙間から、まるで太陽の欠片を握りしめているかのような、強烈で神々しい光が溢れ出した。

 遠巻きに見ていた住人たちも、その異常な現象に息を呑んで立ち止まる。

 それは、ただの魔法の光ではない。この薄汚れた路地裏を照らし出すには、あまりにも不釣り合いで、純粋で、暴力的なほどの清らかな光量だった。


 やがて数十秒の後。

 骨を焼くような熱と痛みが、波が引くようにスッと消え去っていくと同時に、溢れ出していた光もゆっくりと収まっていった。

 荒い息を吐きながら、シカクは恐る恐る、自分の右手の甲を見た。


 そこには、今まで何もなかったはずの青白い皮膚の上に、淡く発光する奇妙な紋様が深く刻み込まれていた。

 形は、直線で構成されたいびつな『四角形』。


(なんだ……これ。火傷の痕……じゃない。刺青? いや、そんなもの入れた覚えはない)


 シカクが呆然と自分の手を見つめていると、不意に、カチャンという甲高い音が響いた。

 見れば、先ほどまでシカクを「穢らわしい」と罵っていた初老の女が、持っていた水汲み用の壺を地面に落としていた。割れた壺から水が流れ出ていることにも気づかず、女の目は限界まで見開かれ、シカクの右手に釘付けになっている。


「あ、ああ……まさか。十五年ぶり……」

「おい、嘘だろ……あの手に浮かんでるのって……」

「おとぎ話の……伝説に聞く、神に選ばれし者の証……勇者の、紋様……ッ!?」


 周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。

 勇者。その言葉の意味は、本を読まないシカクでも知っている。

 十五年ごとに、世界を魔王の脅威から救うために神によって選ばれる、たった四人の使徒。

 だが、それはあくまで英雄たちの物語であり、自分のような底辺の人間には一生関わることのない絵空事のはずだった。


「ば、馬鹿な! 死体漁りの医者の子が、勇者様だって言うのか!?」

「でも、あの光……間違いない、本物だ! 神が、我らを見捨てておられなかったんだ!!」


 次の瞬間。

 先程までシカクを汚物のように避けていた住人たちが、血相を変えてシカクの元へ殺到した。


「ひっ……!」


 今度こそ本当に石を投げられる、あるいは気味の悪い紋様が出たことで袋叩きにされると思い、シカクは思わず頭を抱えて身をすくませた。目をきつく閉じ、痛みに耐える準備をする。


 しかし、いつまで経っても、降ってくるはずの暴力は訪れなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、むせび泣くような、熱狂的な声。


「おおお……っ! 勇者様! 我らが希望の光が、まさかこんな所に現れるとは!」

「神よ、感謝いたします! これで、これでやっと魔王の脅威から解放される!」

「勇者様、どうか我々をお救いください!!」


 そっと目を開けると、信じられない光景が広がっていた。

 彼らはシカクを取り囲むと、泥で汚れた地面に両膝をつき、シカクに向かって深く、深く平伏し始めたのだ。

 狂気にも似た熱狂と、畏敬の念。

 さっきまで「穢れがうつる」と言っていた主婦すら、涙を流しながらシカクの泥まみれの靴にすがりつき、祈りの言葉を叫んでいる。


「……は?」


 シカクは完全に固まった。

 理解の範疇を超えていた。昨日まで、いや、ほんの数分前まで自分をゴミのように扱っていた人間たちが、今は自分を神のように崇めている。

 彼らの目は、シカクという『一人の人間』を全く見ていない。ただ、右手に刻まれた『紋様』という偶像だけを見て、そこに自分たちの勝手な希望を投影しているのだ。


「おお、勇者様! どうか魔王を倒して、この貧しくて苦しい生活を終わらせてください!」

「去年も隣村が魔物に襲われたんだ! 勇者様! どうか我々のために剣を取ってくれ!」

「勇者様万歳! 我らが希望の光に祝福を!!」


 一人、また一人と、通りを歩く人々が騒ぎを聞きつけて集まり、シカクの右手を見るなり同じように熱狂の渦へと巻き込まれていく。

 まるで、渇ききった砂漠でオアシスを見つけた狂人たちのようだった。

 その光景の中心で、シカクの心臓は、さっきの激痛とは全く違う『恐怖』で早鐘のように鳴り始めていた。


(……やめろ)


 彼らがシカクに向けているのは、純粋で無責任な『過剰な期待』だった。

 魔王を倒してほしい。世界を救ってほしい。自分たちの生活を豊かにしてほしい。

 その全てを、何の力もない、剣すら握ったことのない、ただの臆病な少年の両肩に、彼らは満面の笑みで乗せようとしているのだ。

 彼らにとって、勇者とは「自分たちのために命を懸けて戦うのが当然の存在」なのだから。


(やめてくれ……! 俺は違う! 俺はただの、力もなくて、怖いのが嫌なだけの少年で……ッ! お前たちを救う力なんて、これっぽっちも持ってないんだ!)


「ち、ちが……俺なんかじゃ……!」


 震える声で否定しようとしたシカクの言葉は、群衆の異常な歓声にかき消された。

 いや、仮に彼らに聞こえていたとしても、誰もシカクの言葉など受け入れないだろう。彼らは「勇者」という偶像にすがりつきたいだけで、シカクという人間の本当の姿などどうでもいいのだから。


 もし、ここで「自分には無理だ」「人違いだ」と大声で叫べば、彼らのこの熱狂はどうなるのか。

 裏切られたと激怒し、今度こそ自分を引き裂こうとするのではないか。「勇者のくせに魔王から逃げる気か」「この偽物め」と、袋叩きにされる未来が容易に想像できた。


 どちらにせよ、もう元の「ただ蔑まれるだけの日常」には戻れない。

 シカクの優秀すぎる頭脳は、その残酷な事実を正確に弾き出していた。

 剣も魔法も使えない、死体漁りの子。そんな自分が、魔王と戦うために最前線へ引きずり出される。


「あ……ああ……」


 顔を引きつらせながら、シカクはただ、胃の奥がギリギリと締め付けられるのを感じていた。

 世界で一番弱く、臆病な少年に、世界を救うという重すぎる枷が掛けられた、絶望の瞬間だった。


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