血と泥の地下室
血と泥の混じった、ひどく錆びた鉄のような匂いが鼻を突く。
薄暗い地下室の冷たい石床の上で、シカクは黙々と作業を続けていた。
天井から吊るされた古びたランプの灯りが揺らぐたびに、壁に掛けられた不気味な手術道具の影が、まるで生き物のように蠢く。鋸、メス、骨を砕くための重い金槌。どれも血と脂が染み付き、黒ずんでいる。
ここはシカクの父親が経営する『裏の治療院』。王都から遠く離れた辺境の街の中でも、さらに日陰に位置するスラム街の地下。表の医者には到底診せられないようなワケありの犯罪者や、金のない奴隷たちが運び込まれる、掃き溜めのような場所だ。
「おい、そこ。止血が甘いぞ。これ以上血を流させたら、明日からの肉体労働に使えなくなるだろうが。金貨一枚で買った奴隷なんだ、すぐ死なれたら大赤字だぞ」
「……はい、すみません」
頭上から降ってくる太った商人の苛立った怒声に、シカクはビクッと肩をすくませながら、汚れた布を傷口に強く押し当てた。
目の前の粗末な木台で横たわっているのは、近郊の魔力鉱山で使い潰され、落盤事故で右腕と左足を酷く潰された奴隷の男だった。年齢はシカクよりもずっと上のはずだが、極度の栄養失調と過労で、まるで枯れ木のように痩せ細っている。
右腕は二の腕の辺りから不自然な方向に曲がり、皮膚を突き破った白い骨が剥き出しになっていた。このまま放置すれば確実に感染症で死ぬ重傷だったが、治療院に運び込まれた以上、最低限の「労働力として生かすための処置」は施さなければならない。
(……脈拍はかなり弱い。呼吸も浅い。でも、まだ熱はない。傷口からの細菌感染さえ防いで、無理やり骨を元の位置に戻せば、最低限歩くことくらいはできるようになるはずだ)
シカクは頭の中で冷静に状況を分析し、父親から教わった通りの手順で手際よく処置を進めていく。
まず、煮沸した水で傷口の泥と血を洗い流し、自作の薬草をすり潰したペーストを分厚く塗り込む。そして、悲鳴を上げて暴れようとする奴隷の体を、父親と共に力ずくで押さえつけながら、外れた骨を「ゴキッ」という嫌な音と共に元の位置へと押し込んだ。
「ぎ、ぎゃあああああああッ!!」
麻酔などという高価なものは、この地下室にはない。男の絶叫が狭い石室に反響し、シカクの鼓膜を容赦なく震わせた。
血を見るのも、肉が裂けた傷口を見るのも、他人の生々しい痛みの声を聞くのも、正直に言えば恐ろしかった。気を抜けば胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくるし、死の匂いが染み付いたこの場所から今すぐにでも逃げ出したかった。
手が震え、背中には冷や汗がびっしょりと張り付いている。
けれど、ひ弱で力のない十五歳の少年であるシカクには、この陰惨な仕事を手伝う以外に生きていく術がない。
震える手を必死に抑え込みながら、縫合用の針と太い糸を手に取り、裂けた肉を乱暴に縫い合わせていく。
「ちっ、相変わらず気味の悪いガキだ。死体漁りの医者の息子なだけはある。あんなに血肉を見ても、平然と針を刺しやがる」
商人がシカクの手元を見下ろしながら、あからさまな侮蔑の表情を浮かべて床に唾を吐き捨てた。
シカクは反論することもできず、ただ視線を落として包帯をきつく結んだ。
平然としているわけではない。ただ、怯えて泣き喚けば親や客に殴られることを知っているから、必死に感情を押し殺し、心を切り離して『作業』に没頭しているだけだ。
「……終わりました。とりあえず、出血は止まりました。骨も繋いであるので、数日は絶対安静にしないと、またすぐ外れます」
「ふん。まあいい、親父に報酬を取りに来いと伝えろ。俺はこんな気味の悪い場所、一秒でも早く出たいんでね。安静になんてさせてられるか、明日には馬車に乗せて別の鉱山に売り飛ばす」
商人は忌々しそうに鼻を鳴らすと、乱暴な足取りで地下室の階段を上っていった。
バタン、と重い木の扉が閉まる音が響き、地下室にようやく静寂が戻る。
「……ふぅっ」
シカクはほうっと深く息を吐き出し、木盆に張られた水で、血にまみれた両手を洗い流した。
透明だった水が、あっという間にどす黒い赤色へと染まっていく。その赤色を見るたびに、自分の手にも洗っても落ちない『穢れ』がこびりついているような気がして、シカクは何度も何度も強く肌を擦った。
シカクには名字がない。
奴隷の治療や、身元不明の死体の処理、あるいは冒険者が持ち込んだ魔物の死骸の解剖といった「誰もやりたがらない穢れた仕事」を請け負うシカクの家は、この街で最も忌み嫌われる底辺の存在だった。
表通りを歩けば石を投げられ、「死体漁りの子」と罵られるのが日常だ。
だからこそ、この地下室の暗闇だけが、シカクにとって唯一外の悪意から身を隠せる、惨めな安全地帯だった。
「……シカク、終わったか」
薄暗い階段を下りてきたのは、シカクの父親だった。
無精髭を生やし、落ち窪んだ目には常に深い疲労を滲ませている。医者としての腕は確かだが、彼はいつも無口で、シカクに対しても最低限の指示しか出さず、父親らしい温かい言葉をかけてくれた記憶は一度もない。
「うん。止血と縫合は終わったよ。……でも父さん、あの人、商人は腕の怪我しか気にしてなかったけど、肋骨にもヒビが入ってると思う。呼吸の時の胸の膨らみ方が左右で違った」
「……そうか。よく気付いたな。だが、商人が頼んだのは腕と足の治療だけだ。余計な治療をして恩を着せても、あの商人は追加の金など払わん。放っておけ」
「……わかった」
父親の冷徹な言葉に、シカクはそれ以上何も言えなかった。
ここはそういう世界だ。金にならない命に価値はないし、他人に優しくできるほどの余裕は、この地下室には存在しない。
「血塗れの布と、使った道具を洗ってこい。外の共同井戸の水を汲んでこい」
「うん」
シカクは重い木桶に血まみれの布と刃物を放り込み、両手で抱え上げた。
地下室から地上へと続く階段を上る。一段上るごとに、血の匂いが薄れ、代わりに外の乾燥した風と、街の喧騒が近づいてくる。
扉を押し開けると、眩しい陽光がシカクの目を容赦なく刺した。
外の世界は、どこまでも明るく、残酷だ。
今日もまた、いつものように誰かに蔑まれ、石を投げられる一日が始まるのだと、シカクは重い足取りで路地裏へと踏み出した。




