第62話 星々の下で
レナードに教えられたテラスのある大窓に近づくと、彼の言っていた『監視役』だろう。給仕役の使用人が、厳しい目でぴたりと窓の前に貼り付いていた。
ミリウスの存在に気づくと、恭しく一礼する。
「この先にランドール嬢が?」
「はい。誰も近づかぬよう制止しておりましたので、いまはお一人かと」
「……すまない。ご苦労だった」
再び頭を下げる彼の隣を進み、テラスへとつながる大窓に手をかける。
窓を開けると、夏らしい少し湿り気を帯びた夜風が吹き込んできて、ミリウスの金糸の前髪を掻き乱した。
一歩、二歩と、テラスの先へと進み出る。
そこには、ひとり夜空を見上げる彼女がいた。
会場の喧噪が、遥か後方に流れていく。
静寂に満ちた空間で、青いドレスの彼女はひとり佇んでいた。
「ランドール嬢……!」
逸る心そのままに、足早に彼女の側に駆け寄る。
そうして彼女の隣に立ち、呆けたように振り返る彼女の顔を覗き込んだとき――――――ミリウスは、心臓がぎゅっと握り潰されるような気がした。
新たな来客の存在に、ゆっくりと振り向いた彼女。
そのミリウスが愛した大きな瞳には――――たっぷりと目一杯に溜まった涙があった。
「…………!!」
「あ、ミリウス…………ああごめんね。急にこんなところに来るとは思わなかったから……」
シホはごしごしと目を擦ろうとして――いまは夜会用の化粧をしていたことを思い出したのだろう――そっと指先だけで目元を拭った。
「変なところ見られちゃったね。ごめんね」
忘れて、と彼女は言うが、忘れられるはずもない。
「何か……あったんですか??」
自分のいない間に。彼女がこんなにも傷つくようなことが。
一瞬でも彼女の側を離れたことをミリウスは心の底から悔やんだ。
「何も……ちょっと感傷的になっちゃっただけ」
「感傷的……?」
「私、幸せ者だなぁ~って……」
一体それがどうして、涙と結びつくというのか。
目にした先生の涙は、間違っても感動の涙とは違っていた。
揺れるような不安と心細さを湛えた、傷つく者の涙だった。
「ほら、私、こんなに綺麗な衣装も着せてもらったし。自分じゃ絶対にできないような経験をたくさんさせてもらったし。まるでお姫様みたいになれて――――この2週間、本当に、本当に楽しかった」
それはミリウスが心の底から聞きたかった言葉でもあった。
けれどそれを――先生は。
まるで別れの言葉のように悲しく告げるのはどうしてだろう。
「先生…………」
不安が、胸の内から膨れ上がる。
「ねぇ、ミリウス」
「!」
「私ね、ここに来られて本当によかった。ここに来て――学院内とは違う、皆の本当の姿を見られて――皆を知ることができて……本当によかった」
シホは、先生は、涙の消えた瞳で笑顔を浮かべて語りかける。
「ミリウス。格好良かったよ。立派な王様になってね」
笑顔は、言葉は、向けられる全ては、この上なく嬉しいもののはずなのに。
そこに押し潰されたような悲しい寂しさを感じるのは何故だろう?
「先生――――」
「ごめんね。王様の大変さなんて全然わかってない平民なのに。勝手なこと言っちゃって」
「そんなことは――」
「でも、今しかないような気がしたから。もうすぐ、いつか会えなくなる――――きみたちは、私にとって雲の上の人だもの」
だから、会えて幸せ、と。
まるで終わってしまった、終わることが決定している過去のように――――先生は語る。
「そんなっ、雲の上なんかじゃ」
「雲の上なんだよ。きみたちから見れば、その距離はあまりわからないのかもしれないけれど」
会いたいと、ふと思ったときに。
するりと旧友を探すように会えるのは、雲の上に元から住む者だけの特権だ。
そう、先生の瞳は悲しげに語っていた。
「私たち平民の側から見れば、貴族は――ましてや王族なんて雲の上も上。声をかけることもできなければ、姿を見ることさえままならない。天上に輝く星々と、神々と変わらない――――……」
そんな遠い世界に住む人々と出会ってしまった。
言葉を交わしてしまった。
だからこそ永遠の、いつか来るその別れの日を思って、先生は涙していたというのだろうか。
その言葉に、先生の痛みに。気づいてしまった瞬間、ぎゅっと心臓が引き絞られるように痛んだ。
「そんなこと……言わないでください」
言うな。言わないでくれ。頼むから。お願いだから。
胸が、肺が、痛む体中が、全身が。
彼女のなかで決定づけられた未来を全力で拒む。
「遠い存在なんかじゃない……こんなにも、こんなにも近くにいる。こんなにもっ――――!!」
気づけば、無我夢中で抱き締めていた。
「こんなにも近い。先生は――――ここに、俺の腕の中にいるのに……!!」
触れられるのに。声を聞けるのに。
それなのにどうして、自分から遠くへ行こうとするのか。
離れていこうとするのか。
「俺は、先生と、ずっと一緒にいたい。側にいたい」
その傍らで、ずっとその後ろ姿を追いかけて。
ずっと焦がれ続けてきた。
「先生………………」
抱き締めた先生の熱い体を引き剥がす。
そしてその赤く上気した頬を包んで、潤む瞳を正面から覗き込んで、ミリウスは告げた。
「先生………………好きです。俺は先生が…………好きなんです」
触れるのをためらってしまうくらい。
壊してしまいそうで、怯んでしまうくらい。
大切で、守りたくて、傷ついてほしくなくて、守らせてほしいくらい――――――愛おしい。
「だから、そんな悲しいことは言わないでください――――」




