第59話 彼女の手
ダンスホールの中心で、想い人の細い腰に手を回しながら、ミリウスはゆったりとした弧を描いた。
彼女を腕のなかに抱き留めて、自由にステップを踏めば、その動きにどこまでも彼女はついてきてくれた。
その大きな瞳も、少し照れくさそうにはにかんだ頬も、すべてがいまはミリウスだけのものだ。
彼女と見つめ合って、寄り添って、二人だけの世界に浸りきる。
ダンスとは、なんと素晴らしいものだったのか――――。
ミリウスはいままで義務でしかなかった遊戯に、心の底から感動していた。
会場中の視線が、いまは自分たちに注がれている。
王族である以上、これまで仕方ないと諦めていた視線。
それがいまは心地良い。
世界中に見せつけたい。
彼女がいま、誰の手を取って微笑んでいるのかを。
安易に彼女の容姿にだけ惹かれ、手を出そうとする輩に見せつけてやりたかった。
(お前たちは知らないのだろうな。先生のこの手の平を――)
焦がれるようにぎゅっと握った指先。
先生はきょとんとしながらも、そっと握り返してくれた。
それだけで痺れる胸に、学院で触れた先生の手の平を思い出す。
訓練の際に、たまたま握手をしたときだった。
まだ先生が赴任して間もないころ、偶然触れた先生の指先は、彼女の容姿には似つかわしくないほど硬かった。
訓練の影響か――。
長年鍛錬を積んだ者のみが得るという武人の勲章に、彼女のこれまでの努力の証を見たような気がしたのだ。
けれどそれから月日か経って、次に彼女の手に触れたとき、彼女の指は随分柔らかくなっていた。
もちろん過酷な前職から離れ、教鞭を執るようになり、剣を握る時間が減ったというのもあるだろう。
けれど、それだけではなかったのだ。
教室で、なんとはなしに耳を傾けていた女子生徒たちの会話。
そのなかで、先生が『おすすめの美容液はないか』と尋ねてきた話が耳に滑り込んだ。
ついに先生も美容に目覚めたのかとエメリーたちは喜んだが、話をよくよく聞けば、そうではないという。
『もちろん普通の化粧水や美容液も教えたんだけど……先生が使いたかったのって、“手” になんだって』
それを聞いた瞬間、先生の伏し目がちな横顔が思い浮かんだ。
自身の手を見つめ、戸惑う先生。
初めて気づいてしまった自身と生徒たちとの違いに、彼女は恥ずかしく思ってしまったのだろう。
(そんな必要はないのに――――)
あのとき初めて、先生のことを『可愛いな』と思ったことを覚えている。
大人びた自立したその姿の陰に、年相応の女性らしいいじらしさがあることに、急に彼女を身近に感じたのだ。
それからさらに月日を重ね、すっかりほかの令嬢と変わらないほどに柔らかくなった細い指先。
そこに彼女のすべてが詰まっているような気がして、ミリウスは愛おしくて再びその手を握り込んだ。
(――――渡せるはずがない。彼女のことを何も知らない人間に)
彼女が剣を振るうことも。
本当はどのように快活に笑うかも。
食べ物は何を好むかも。
休日はどのようなことをして過ごすのかも。
ふとしたときについ鼻唄を歌ってしまう愛らしい癖も。
寝ぼけ眼で、つい緩んだ気配のときに不意打ちのように見せる笑顔の眩しさも。
何も、何一つ知らない人間には。
絶対に――――彼女を譲れない。
網膜に焼き付いた全ての瞬間の彼女を思い出して、ミリウスはスッと視線を落とした。
自分の大切なものに不用意に手を出す輩には、警告が必要だ。
「ランドール嬢」
ミリウスは優しく彼女に呼びかける。
「?」
すると彼女は、まだその呼び名に慣れていないのか、少しだけ気恥ずかしそうに小首を傾げた。
それだけで、ぎゅっとその体を抱き締めてしまいたくなる衝動を押さえつけながら、ミリウスはそっと彼女に向かって体を倒した。
自分より遥かに低い位置にある、その桜色の頬に向かい唇を寄せ――――――そっと、耳打ちをした。
「とても、素敵です。会場で一番のレディだ」
そう囁くと、先生は一拍遅れて真っ赤になり――――これまでの努力が認められたのが嬉しかったのだろう――――照れくさそうに、溶けるように微笑んだ。
その笑顔が、狂おしいほどにミリウスの心臓をつかんで離さない。
(――――けれど、これでわかったはずだ)
ミリウスは彼女の目を盗み、会場中にいる、彼女に声をかけようとした輩を睥睨しながら、紳士的な笑顔を浮かべる。
(誰が、誰に恋をしているのか――――)
とびきり、仲睦まじげに見えるように。
彼女以外の全員に、それを知らしめるかのように。
(自分が何に手を出そうとしていたのか――――いま一度思い直すといい)
王族が、大切に、大切に。
包み込むように守っていた薔薇に手を出す輩など、その逆鱗に触れても仕方がないということに。
「ランドール嬢」
何度でもその名を呼びたくなる。
本当は名前で呼べればいいのだけれど。いまの状況で許されるのはここまでだ。
けれどこうして令嬢としての彼女の名を呼ぶ度、胸が高鳴る。
いまだけは、この瞬間だけは。
学院の生徒としてではなく、一人の男として、彼女の傍に在れるような気がしていた。




