第52話 その手を振り払わないで
ミリウスに手を引かれ、どれほど歩いたのだろうか。
初めはゆっくりだった足取りが、段々と速くなり、ついには追いつけなくなったあたりでシホは降参の音を上げた。
「ちょっと……ちょっと待ってミリウス!!」
追いつけない、と息を荒げて零すと、ピタリとシホの腕を引いていた青年の足は止まった。
「そんなに急がなくても……。一体何がどうしたっていうの?」
シホからすればまったく意味不明の状況だった。
レナードと今後の身の振り方について立ち話をしていたところ、突然ミリウスが現れて、臣下であるはずのレナードを威圧するような発言を残して、シホをその場から連れ去ってしまったのだ。
黙して語らない青年の背中からは、特に急ぎの用件があったようには見受けられない。
とにかくあの場からシホを引き離したくてこんな無茶をした…………それくらいはさすがに鈍い自分でもわかる、とシホは目前にいる生徒の広い背中を見上げた。
「…………先生は、」
「?」
ようやくミリウスが何かを口にする。
「先生は、レナードのことを――――……」
あの男がどうしたというのか。
「レナードが、どうかしたの?」
シホがその名を告げると、それだけでびくりとミリウスの肩が揺れた。
ゆっくりと振り向いた瞳には、恐れのような……焦りのような、ミリウスの揺れる感情が見て取れる。
「先生はレナードと……その、何の話をしていたんですか?」
「レナードと?」
シホが聞き返すたび、ミリウスはなぜか心臓をぎゅっと握られたような苦しそうな顔をする。
「それは…………ええと…………」
シホが言い渋ると、途端にミリウスは焦ったように狼狽し始めた。
矢継ぎ早に問いかける。
「まさか、請われたんですか!? ライオール夫人に!?」
「ライオール夫人? ……って、ラスティンたちのお母さんよね? それがどうして急に……? え、何か夫人から話が来てるの???」
今度はシホが狼狽える。
まったく予想もしていなかった人物の名に、頭が混乱する。
ライオール家当主の妻である夫人なら、いまごろ王都別邸で夫とともに暮しているはずだ。
「?????」
どういうこと? とシホがしきりに首を捻ると、ミリウスはホッとしたように安堵の息をついた。
「ライオール夫人になるよう請われたわけではないんですね……」
どこをどう間違ったらそんな話になるのだ。
(ああ、そうか…………最後の部分だけ断片的に聞いたから――――)
ミリウスが現れる直前、レナードの話していた台詞を思い出す。
――私は、あなたにライオールに来て欲しい……。
――私には、あなたが必要だ――――……。
あの半端な台詞だけを聞いていたならば、誤解することもあるかもしれない。
「あっはは、面白……! ぜんぜん、ぜんぜん違うよミリウス……!!」
なんとも真面目な彼らしい早合点だ。
「私はレナードに、ライオール軍の指導教官にならないかって誘われてたの。それが、ライオール夫人って……! まさか、そんなことあり得ると思う?」
シホがあまりにも腹を抱えて笑うからだろう、ミリウスもやや戸惑ったのち、憑き物が落ちたように安堵する。
が、今度は別の何かが引っかかったのか、再び険しい表情になってしまった。
「ライオール軍の指導教官……どういうことです?」
今し方レナードに聞いたばかりの説明を繰り返す。
するとミリウスは、その端正な顔立ちの眉間に深い皺を刻んだ。
「俺に……先生の人生について口を挟む資格はありません。ですがどうか――――ライオールには行かないでください」
「どうして?」
シホとしては、そう悪い話でもないと思ってしまったのだ。
だから髪に触れるレナードの手も振り払えなかった。
もし今年を終えて、いまの生徒たちが学院から去ってしまっても――――どこか、細い糸でもいい。彼らと繋がる道が残せたなら……。
それが自らの心の拠り所になるような気がしていた。
「――――レナードは危険です」
ぴくり、と聞き捨てならない言葉にシホは素早く反応した。
「レナードは……他人を利用します。彼の目的に必要ならば、それが誰であろうと」
特に、と言葉を切ってミリウスは辛そうな顔をする。
「特に――――女性は。あの甘い言葉で絡め取られて、利用し捨てられた者を数多く見ました」
だからシホにはそうならないでほしい――――そんなミリウスの切実な願いがシホに流れ込んでくるようだった。
(だからあんなに心配して…………)
普段のミリウスからは考えられない振る舞いだった。
あれは他でもない、担任を守らんとして、彼なりに一生懸命動いてくれた結果だったのだ。
これに応えなくては――彼の思いやりを無下にすることになるだろう。
「大丈夫、安心して。私は利用されたりしないから」
むしろレナードとシホの関係はどちらかというと、互いに利用し合うような協力関係だ。
レナードはシホに学院内の、シホはレナードに学院外の情報を求め、違いに手持ちのそれを交換する。
それぞれが、それぞれの場所で、互いに手の届かない場所でのミリウスの保護を求めて組んだ、いわゆる保護者同盟のような関係だ。
一方的に利用されるなど……純粋なミリウスには少し後ろめたいが、そこまで自分はお人好しではない。
「本当に…………ですか?」
「そんなに私は騙されやすそうに見える?」
心外だ、とばかりに口を尖らせて見せれば、
「先生は…………隙が多いんです」
「?」
初めて言われた言葉に、思わずシホは目を丸くする。
(隙がなくて色気もないとか、戦闘民族だとかは散々ファビアンに言われたけど……)
それが、隙が多い? 一体どこをどう見たらそう映るのだろう??
「簡単に――――レナードに髪まで触れさせて。……ああいったことは許さないでください。…………男なら自分に気があると勘違いして、ますます調子に乗りかねない」
「ああ……」
たしかにそのあたりレナードならば敏感に察知して、巧妙に女心に付け込んできそうではある。
すとんと納得して、シホはひとつ頷いた。
「本当にわかっていますか……?」
「わかってるって」
「じゃあもし俺がこうしても――――」
そっと伸びてきた腕が、シホの髪をさらりと掬い上げる。
「………………」
「………………」
自分で掬い上げた黒髪だというのに、それを手にミリウスは固まって………………やや時間が経ってから、真っ赤に茹で上がった。
「っ、だからこうした場合は振り払ってくださいと――!!」
「だって本人の目の前じゃない! 感じ悪いでしょう」
「そうでなくては意味がないんです!!」
売り言葉に買い言葉。シホが肩を怒らせて、
「じゃあすぐさま振り払えばよかったの!?」
そう言えば、
「それはもちろ――――――」
即答しかけて、その光景がまざまざと脳裏に浮かんだのだろう。
途端に酷く傷ついたような顔をしたミリウスは、シュンと大人しくなった。
うっすらと、目には涙さえ浮かんでいるように見える。
「ええと……やっぱり感じ悪いよね。ごめんね」
……要はシホがそのような場面にならないように気をつければいいだけのことである。
「今度からはちゃんと気をつけるから、なんか……ほんとごめん」
ミリウスは信頼できる人間が少ないせいか、ひと度他人を信頼すると、とことん心を寄せるようなところがある。
(なんというか……危なっかしいなぁ)
人を信じやすく傷つきやすい王様というのは、どうなのだろうか。
個人的にはとても好感が持てるのだが……それで王宮でやっていけるのだろうか。
シホにとってもはいつまでも、自身を慕ってついてきてくれる可愛い生徒だ。
それが傷つくのは――――やっぱり見ていられない。
「ミリウス。気を取り直して甘いものでも食べに行こうよ」
厨房に行けば、何か残り物の菓子でも出してくれるかもしれない。
運が良ければ、中庭でレナードのように茶を楽しむことだってできるだろう。
「ほら、早く!」
今度はシホが手を引いて、大きな子供のようなミリウスを連れて歩く。
その手がおそるおそる、やがてきゅっと握り返される感触に、シホもまた心が満たされるのだった。




