第48話 白い花
部屋に戻り、今日ばかりは大人しく部屋の浴室で身を清めたシホは、一人時間を持て余していた。
ラスティンを問いただす、と息巻いたミリウスの追及は長く続いているようで、彼らはその後の夕食の席にも姿を見せなかった。
従僕の手を止めて伝え聞いたところによると、二人は和解したようなのだが、それでも随分長い間シホを連れ出したことについてミリウスからお説教があったようだ。
(あとでラスティンに謝らないとなぁ……)
彼の逃避行に付き合わされたのは事実だが、結局シホも自分の意思で付いていったのである。
その後の拳による交流も含めて、シホにも責任となる部分が大きい。ラスティンにばかり責めを負わせるのは不公平なように思えた。
(ミリウスは……顔を出してくれるかな)
今夜のバルコニーの件だ。
すっかり恒例になっている交流は、シホにとっても憩いのひとときとなっていた。
(でもミリウス、怒ってたなぁ……)
真面目な彼のことだ。
非力な(ように見える)女性が、乱暴を振るわれることなど、決して見過ごすことができないのだろう。
(まさかあれほど怒るとは思ってなかったけど……)
念のため使用人に噂されることも警戒して、上着をきつく押さえ込んでいたのに、つい油断してしまった。
それがミリウスには、乱暴を受けてでも気丈に振る舞い、痩せ我慢をしているように映ってしまったのだろうか。
(難しいなぁ……)
どれだけ長く付き合っても、生徒の心を推し量ることは難しい。予想外のことで自信を失ったり、逆鱗に触れたように怒り出す。
(私の経験値が足りない、って可能性も)
本当の教員なら、もっと上手く取りなせたのだろうか。
もんもんとした気持ちで、目を閉じる。
「…………………………よしっ」
カチャリ、とバルコニーに繋がる窓を開けて、彼を待つ。
どうしても今日、彼と会って話をしておきたかった。
「……………………」
けれどいくら待てど暮らせど、ミリウスはバルコニーには姿を現さなかった。
(………………なんで)
それほど彼を、怒らせてしまったのだろうか。
勘違いをさせて、恥を掻かせたから?
それとも不用心なさまに、最低限の警戒心もないと呆れられたのだろうか?
ラスティンとの話し合いは、もうとっくに終わってるはずなのに――――……。
それでも全く姿を現す気配さえない隣室に、シホの心はざわめいた。
「……っ」
踵を返すと、バルコニーの大窓を開けて室内に戻り、あるモノを手に部屋を出る。
ミリウスの忠告どおり、部屋着は人目に触れても問題ないもの。一分の隙もないよう、部屋履きだってブーツに履き替えた。
いつ誰の目についても問題ない格好で、ミリウスがいる客室の前に立つ。
息を吸って、厚い扉をノックした。
ノックを繰り返すこと複数回。
無人かと諦めかけた室内から、扉がゆっくりと開かれる――。
そこには、夕刻顔を合わせたときと変わらない姿のミリウスがいた。
「……先生、どうしたんですか」
――こんな夜分に。
そう付け加えられ、また説教を受けそうな予感がして、知らずと身を縮こまらせる。
脳裏にいつしかの『男の部屋に入ってはいけない』――そう言ったミリウスの言葉が浮かんだ。
「だ、大丈夫! 部屋には入らないから。顔を――顔を見に来ただけ……」
全力で、廊下からこの先、室内には一歩も入らない決意を露わにして、なんとかミリウスを繋ぎ止める。
彼の忠告を無視した行動を取ると、すぐに彼はこの場から姿を消してしまいそうな気がした。
「……………………」
ミリウスはじっと沈黙したのち、じろりとシホを一瞥する。
そしてスッと、その長い腕をシホに伸ばしてきた。
「――――っ!」
ビクリ、と肩を竦ませて、無意識にシホは一歩引く。
「あ、ごめ…………」
そう言い終わる前に、ミリウスはキュッと伸ばし掛けた腕を引っ込めた。
「………………」
「………………」
沈黙が落ちる。
最初に沈黙を破ったのはミリウスだった。
「こんなところで立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
「えっ………………いや、それは…………」
「どうしたんです」
「いや……今日は、いいかなーって……夜も遅いし」
何故かいまになって積極的に部屋の中に招こうとするミリウスに、シホは頑なにそれを断った。
「前は入ったのにですか」
「ちょっ……! 誰が聞いてるかわからないんだから迂闊なことは言わないで!」
「誰もいませんよ」
ミリウスの言うとおり、辺りを見渡しても、遅いこの時間帯は、見回りの兵も周辺にはいないようだった。
(意外とちゃんと見てるのね……)
淡々とした、どちらかといえばどこか恐ろしい静けさを身に纏っているミリウスは、正気ではないのかと思っていた。
けれどしっかり周囲の様子を把握しているなど、冷静な部分もあるらしい。
これなら話ができるかも――とシホは思った。
「あのねミリウス――――」
「――先生は、」
シホが切り出した言葉に被せるように、ミリウスの低い声音が覆い被さる。
「先生は――――どう考えているんですか」
空色の、暗い瞳がシホを見下ろしていた。
「自分が危険に晒されることを。傷つけられることを。――――大した問題ではないと思ってはいませんか」
「…………」
「先生ほどの腕なら、無闇に傷つけられることもないでしょう。多少の怪我も簡単に治すこともできるでしょう。――――でも!」
――――治せないものだって、あるんです。
ミリウスは腕で顔を隠し、震える声音で呟いた。
「ラスティンに聞きました。あいつを説得するためだって――。でももし、それで怪我をしたら! ほかの人間にも同様のことをして、相手が簡単に先生を組み伏せられると理解してしまったら!」
悪意を持った別の誰かが、先生を襲わないとは限らないでしょう――!
と、叫ぶように悲痛な声でミリウスは漏らした。
「もし……もしそんなことになったら……俺は耐えられない」
そんな現場を目撃してしまったら。
項垂れ暗い目をした先生の姿を目にしたら。
その小さな肩にどんな声をかけたらいいのか、わからない……わからない、とミリウスは繰り返す。
「先生は、何も考えてなさすぎです。愚かだ。考えなしだ。この上ない馬鹿だと言っていい――」
普段の彼なら耳を疑うような暴言の数々。
しかしそのどれもが、シホの身を案じて吐き出されたものだと、シホの胸には突き刺さった。
「……ごめんね。ありがとう…………心配してくれて」
ミリウスの震える言葉に乗った熱い思いは、シホの胸にも届いていた。
「そうだよね……心配、かけるよね」
シホがほかの皆の身を案じるように。
ミリウスだって、周囲の人間を当然案じるだろう。
「うん……気をつける。これからは心配をかけないようにする」
それだけが、シホがミリウスにしてあげられる約束だった。
「――本当に、ですか」
「本当に」
「……絶対に?」
「絶対……は約束できないけど。信じられない?」
「ご自身のこれまでの行動を振り返ってください」
「あは、あはは……」
基本的に、その場その場で衝動的に動くシホである。
何も否定はできなくて、乾いた笑いを漏らすしかない。
ミリウスは未だ信用しきれないといったジトッとした目で、シホのことを見つめている。
「ええと……なるべく無茶はしないよう心がける。私も皆に心配をかけたいわけじゃないから……。ちゃんと、自分を大切にする」
「…………絶対、ですよ」
まだ若干不安げならがも、なんとかいつもように明るい表情を取り戻し始めたミリウスに、シホは忘れていたあることを思い出した。
「そうだミリウス。今日はこの用で来たんだった」
「?」
ごそごそと、背中に隠していた『ソレ』を取り出す。
「はい、お土産! ミリウスの分の花だよ」
そう言ってシホは、ミリウスの手の中に白い花束を押し込んだ。
「夕方はいろいろあって渡せなかったんだけど……。昼間湖で見たときに、綺麗だなぁって思って。きっとミリウスに見せたら、喜んでくれるかな……って」
それはシホの希望のようなものだったけど、わずかな期待を込めておそるおそるミリウスを見上げると、彼は大きく見開いた目をきらきらとさせて、食い入るようにその花束を見つめていた。
「ね、綺麗でしょう?」
シホが一目で気に入った花だった。
だからこそ、ミリウスにも見せたいと、そう思った。
「ええ……とても、綺麗です」
見入るように微笑を浮かべて、ミリウスは幸せそうに噛みしめる。
「喜んでくれて嬉しいけど……ミリウスって花が好きだったんだね?」
あまりに好感触な反応に、正直驚いていた。
たしかにシホが寝込んでいた見舞いの際などは、よく花を持ってきてくれたものだが、ミリウス自身がこれほどまでに花好きだとは思わなかった。
「花も美しいとは思いますが…………俺は先生が、俺のことを考えてこの花を摘んできてくれた――――その気持ちが何より嬉しいです」
ミリウスはそっと、白い花束を包み込むように優しく花弁を撫でる。
その様子に、まるで自分が撫でられているように錯覚してしまい、落ち着かなくてシホはそわそわと視線を彷徨わせた。
「……そんなに気に入ったのなら、今度は一緒に行ってみる?」
「え……?」
「私と、ラスティンと、3人で。きっと気に入ってもらえると思う!」
「3人で………………」
ミリウスは一瞬落胆したかのような表情を見せたが、すぐさまいつもの笑顔を取り戻す。
「いいですね。いつか――――3人で」
「ね!」
この日、シホには新たな楽しみが増えた。
いつの日かあの場所に3人で行くことがあれば、きっとそれはとても楽しい小旅行になるだろう。
できればファビアン始め、ほかの生徒たちにも見せてあげられればよかったのだけど…………。
そんなことを考えていたから、気づかなかった。
一人楽しく未来を語るシホを、とても優しい目で見つめている存在があることに。
白く、目映い花を抱き締めながら、それと同じく尊い花を見つめるように、けして視線を離さない慈しみの眼差しがあったことに。
二人の間に咲く白い花だけが、それらを静かに見つめていた。




