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第42話 夏夜の戯れ


 その晩、シホが散歩がてら邸内をゆるりと歩いていると、前の廊下からフラフラと歩いてくる一人の人物がいた。


「ん……?」


 よく目を凝らせば、それはほかでもない、ミリウスだった。


「どうしたの……!?」


 見れば彼は髪も濡らしたままで、満足に拭いた形跡もない。

 おまけに、普段はきっちりと着込んでいる服を、今日はボタンを三つも外して、惜しげもなく赤く上気した肌を晒していた。


(え……え!? もしかして湯でのぼせた……!?)


 頬を赤くしたミリウスは何も答えない。

 が、その様子を見れば一目瞭然だった。

 ちょうど昨日、シホが帝国式の浴場を強く勧めたばかりだった。


(だから長湯をして――――)


 それでこの有り様なのか。

 頬を真っ赤にしたミリウスは、目もうつろで、足取りもフラフラと覚束ない。


 咄嗟に転びそうになるところを支えに入って、シホは辺りを確認した。



(従者は……! いない……か……)


 通常ミリウスの身の回りの世話には、この屋敷の使用人があてられる。

 が、それもいないところをみると、ミリウスが追い返してしまったのかもしれない。

 シホは思案し困り切った末――倒れそうになるミリウスの腕を取り、彼の体にしっかりと腕を回した。


「ミリウス、大丈夫? とりあえず部屋まで歩ける?」


 無理ならどこか座れる場所にミリウスを置いて、人を呼んでこよう。

 そう考えたのだが、ミリウスは虚ろな眼差しで瞬きしながらも、わずかにこくりと頷いた。


(大丈夫ってこと? ――そうだよね、ミリウスだって人を呼ばれるのは困るかも……)


 ある意味これも失態である。

 王族として威厳を保っているさなか、湯あたりで倒れたというのは下手をすると醜聞になりかねない。


(どうにかして……せめて部屋まで運ばないと……)


 シホはこんなときに部屋に魔法書を置いてきたことを悔やんだ。


「ミリウス、頑張って。そんなに遠くない、あと少しだから……」


 意識もなくなりそうなミリウスを、何度も呼び起こして、シホは部屋を目指すのだった。







「ふぅ……」


 なんとか人目につくこともなくミリウスの部屋まで辿り着いて、シホはそっと胸を撫で下ろした。


(よかった……誰にも見つからなくて)


 大事な生徒の評判に関わることである。

 大きな役目を達成した気になって、シホは大げさに安堵の息をついた。



「……っと、いけない。ミリウス、ほら、水。お水飲んで」


 部屋の水差しから注いだ水を、グラスごとミリウスの手のなかに押し込む。

 彼はそれをじっと見つめたあと、一気にぐっと飲み干した。


「よしよし……」


 これでとりあえずは、脱水症状で倒れることもないだろう。

 まだボーッとしていているミリウスの前に立ち、『私がわかる? シホだよ』と尋ねるが、綺麗な空色の瞳はいまだ焦点を結ばず、心ここにあらずといったところだ。


「仕方ない……か」


 濡れ鼠のような生徒を前に、そのまま放っていくわけにもいくまい。まだ体調が戻っていないことも心配ではあるし……考えたのち、シホはとりあえず彼の髪を乾かすことにした。



「はーい、ちょっと失礼しますねー」


 なるべく事務的に言って、けれど少し楽しくなりながら、部屋にあったタオルで彼の髪を乱暴に拭く。

 ほとんど水気は切れていたので、湿気を取り直すくらいだが、それでもガシガシと髪をかき混ぜれば、見慣れた金色の髪がふわりと立ち上がり、目映い光を取り戻した。


「このままでもいいけど……せっかくだし」


 シホは自身が風呂に入るときに使っている魔法を行使する。

 風の魔法と火の魔法を組み合わせた、要するに温かい風を起こせる呪文なのだが、それを唱えるとシホの周囲にふわりと乾いた風が巻き起こった。


「短い髪だけど、風邪を引くといけないからねー」


 温風になびく髪を手櫛で梳く。すると、うっとりと目を閉じる彼に、思わずその頭を撫でていた。


(…………子犬みたい)


 その姿はシホが幼いときに飼っていた牧羊犬によく似ていた。

 もちろん毛色はまったく違うけれど、そのシホの指先にされるがままになっている姿はよく似ている。

 あの子もまた、シホがその背を撫でると、嬉しそうに目を閉じて、そのあとでペロペロとシホの顔中をなめ回してきたものだった。


「♪~♪~~」


 なんだか気分が良くなって、鼻唄を歌いながら髪を掻き混ぜる。

 すると突然、ぱしりとその手が掴まれた。


「え、ど、どうしたのミリウス……」


 シホが戸惑っていると、ミリウスはぼーっとした瞳のまま、その手を自身の頬に持っていく。



「!?」

「冷たくて……きもちいい…………」


 シホの手のひらにじっと頬をすり寄せるミリウスの肌は熱かった。たしかにこれでは、シホの指先のほうがひやりと冷たく感じるだろう。


(って……それってちょっとマズくない!?)


 体温が上がりすぎている。これは今すぐ冷やさなければ取り返しのつかない事態に陥る可能性もあるだろう。


(冷やす……冷やす……冷やすってどうするんだっけ!?)


 まさか魔法で氷漬けにするわけにもいかず、シホは急遽動転した頭で考える。その間もミリウスは気持ちよさそうにシホの冷たい指先に頬ずりしていた。


(とりあえず……服を脱がす!)


 ミリウス自身がボタンを3つも開けていたのだ。きっと自分でも相当暑かったのだろう。

 ごめんね、と詫びながら残りのボタンも外して、とりあえず上半身の衣類を剥ぐ。


 勝手をすることに罪悪感がないわけではないが、ここまでならすでに呪紋の実験で目にした姿だ。ミリウスも怒りはしないだろう。

 ――なにしろ緊急事態である。


「あとは…………」


 部屋を見回して、棚の上に置かれた扇を手に取ると、シホはそれを手にミリウスに向けて緩やかな風を送った。


「………………」


 ――が、こんなものでどれほど効果があるというのか。

 そよ風以下にしかならない風にまどろっこしくなって、シホは呪文の詠唱に切り替えた。


「木々渡る風よ――――」


 シホとミリウスの周囲に、森を駆け抜ける涼風が吹き渡った。

 風量を抑え、室内を荒らさないよう細心の注意を払いながらシホはその風をミリウスに届ける。

 これであれば時間をかければそれなりに、彼の火照った体を冷ましてくれるはずだ。


「うぅっ、寒…………」


 シホはぶるりと身を震わせる。

 この風はのぼせたミリウスにはちょうどいいが、平熱の自分自身のことはすっかり念頭から抜け落ちていた。

 ただの風でも、思いのほか体温を奪われる。


 薄手の夏服を纏った両腕を掻き抱いて、シホはぶるりと身を震わせた。





「――さむいんですか?」


 そんなときだった。耳に低い舌足らずな声が滑り込んできたのは。

 同時に、ぐっと腕が引き寄せられる。

 次の瞬間には、寒さを訴える体は、大きな熱を持った両腕に抱き締められていた。


「!?」


 ほかでもない、ミリウスである。

 彼は無意識なのか、まだ朦朧としている意識で、シホをぎゅうと抱き締めてきた。


「え……と……」


 引き剥がすべきだ、と脳は判断するのに、同時に、彼の善意から来るだろう行動を、乱暴に引き剥がすことに躊躇が生まれた。


(元はといえば、私がお風呂を強く勧めたせいだし……)


 なんとかやんわりと引き剥がせるように、少しずつ腕を外していく。


「ミリウス、しっかりして。もう大丈夫でしょう?」


 抱き締められている間に、彼の体温も随分引いてきたことを感じていた。


 そう、あとは水でも飲んで、眠りにつけば…………。

 ――明日には回復しているだろう。


 そんなことを思って、彼を立たせたのが間違いだった。



 魔法を解き静寂の戻った室内で、彼の手を引く。

 リビングから寝室へ。まだ足取りの不確かな彼の手を引きながら、薄暗闇のなかを移動する。

 そして、そんなことをしているから――――足下の椅子につまずき、二人して寝台に倒れる込むことになる。


「……っ痛~~~」


 ぶつけた小指の痛さに身もだえる。

 身を捩り小さく体を折りたたんでいると、そこがいつの間にか寝台の中央付近であることに気がついた。

 伸ばした体の頭上に、上級貴族御用達のふかふかの枕がぼすんと当たる。


(お、降りなきゃ……!)


 そう思い、実行に移したときにはもう遅かった。


「………………」


 焦点も虚ろな、据わった目をしたミリウスが、気づけば覆い被さっていた。

 頭の両脇に、彼の長い腕が伸びている。

 見上げた表情は、どんな意図なのか全然読めなくて、ただただ彼は真っ直ぐにシホのことを見つめていた。


 彼に限ってそんなことはないだろうが、万一の事態に備えて拳を握る。

 魔法書のない中どれほどのことができるかはわからないが、彼のためにも、黙ってじっとしているわけにはいかなかった。



「ミリウス、あのね――――……」


 すっと、彼の手が伸びる。

 それはシホの耳元からこぼれた髪を、そっと掬い上げた。


「――――――……」


 熱に浮かされたようにミリウスの顔が近づき、そしてそっと掬い上げた髪に口づける。


「…………??」


 何が起こったのかわからなくて、シホはただただ戸惑った。

 やがてミリウスは茫洋とした瞳でじっとシホのことを見つめたあと――――フッと微笑って、



「大事に…………大切に………………するから…………」



 消え入りそうな声を呟いて、そして意識を落としたのだった。




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