第41話 小さな背中
「……ふぅ」
長い一日を終えた夜。ミリウスは帝国式の浴場で湯に浸かりながら、息を吐いた。
今日一日の疲れを押し出すような吐息だったが、不思議と心は軽い。
手のひらで湯を掬い上げると、この湯を絶賛していた先生の顔が思い浮かんだ。
(――――無邪気だったな)
子供のように喜んでいた。
ミリウスにとってはこの浴場も、特段珍しいものではない。
王宮に比べてやや小ぶりだな…としか思わない見慣れたものだったが、シホの喜ぶ様を見ていると、いままで気にも留めていなかったものが、なんだか特別なものに見えた。
(王宮に招待すれば、どんな反応をするだろうのだろうな……)
思い描くだけで、ミリウスの胸の内をほくほくと温めてくれる。
ミリウスにとってシホは――新鮮と驚きを詰め込んだ宝箱のような存在だった。
彼女についてそのあとを歩くだけで、暗く淀んでいただけの人生に、目映いばかりの彩りと発見が訪れた。
それがミリウスには、この上ない幸福に思えた。
(この湯だってそうだ――先生が勧めなければ、今更わざわざ来ようとは思わなかった)
身を清めるだけなら、客室付きの浴槽を使えばいい。
以前の自分なら、それで済ましていたはずだ。
(先生が勧めてくれたから……)
体の内から解けてゆく疲労に、ミリウスはゆっくりと目を閉じた。
(………………。といっても、先生が使ったあとの湯ということが気にならないわけではないが……)
もちろん一般的なバスタブに比べれば数十倍以上ある湯である。
ほとんど新しい別物といっていいのだが、同じ空間で先程まで先生が過ごしていたと考えると、なんだか落ち着かないものがあった。
体を洗浄するための石鹸や、湯をかけるための湯桶、噴水と同じ仕組みを利用したシャワーの前などに先生がいたと思うと、なんだか尻にむずむずするような感覚が走った。
(いかんいかん……!)
邪な考えを振り払って、今日の出来事に集中する。
二人で踊った、ダンスレッスンだ。
先生は、本当に上手くなった。
相当に努力したのだと思う。
初日に大泣きして打ちひしがれていた先生を思うと、その努力の量に自然と頭が下がった。
(それに――――……)
まったく見込みがないと講師になじられて、
『ではやめておきますか……?』
助け船を出したつもりの自分に、先生は
『ん、大丈夫。ちゃんとやる。仕上げてみせるから』
と、涙を拭いながら答えたのだ。
きっと今までも、そうして生きてきたのだろう。
先生は自分のことを、器用なほうではないと言っていた。
師である人物にも散々叱られたし、なじられた。
それでも繰り返し練習することで身につけてきたのだと。
あのか細い腕と、男に比べればはるかに少ない体力で、先生は努力することだけを頼りに、ここまで自身を鍛えてきたのだろう。
そんな先生の半生を垣間見て――――自然と笑みが漏れていた。
(愛おしい…………まさか先生に、そんな感情を持つ日が来るとはな)
もちろん恋愛感情ではない。
レナードが危惧しているようなものではない。
ただ先生を――シホを見ていると、愛おしく、大事に、大切にしたいと、幸せになってほしいと強く思うのだ。
(俺にそうしてくれたように――……)
シホにだって、見守ってくれる人間や、支えてくれる人間がいてもいいと思う。
だって彼女は、自分たちが思っていた以上に――――小さかったのだから。
ダンスレッスンの際、腕の中に閉じ込めた彼女を見て思った。
『(先生は――――こんなに小さかったのか?)』
いつもはあれほど頼もしく、広く感じた背中が、すっぽりと両腕のなかに収まっていた。
背に手を回せば、それは彼女の背の大部分を覆った。
それほどまでに彼女は小さかったのだ――。
そんな背中に、ずっと守られていた。
見下ろせばそこには、少女がいた。
少女と形容すれば、女性である先生は怒るだろうが――そうとしか見えない、ミリウス自身とそう年齢の変わらない一人の少女がいた。
艶やかな長い黒髪を、誰にも触れさせないよう堅く短くまとめ込んで。
薄く色づいた唇は、いつものように朗らかに自分に語りかけるのに、そうかと思えば、ちょっと息を乱した瞬間『んっ』と悩ましげな吐息を漏らす。
大きな瞳を覆う睫毛は、ミリウスが熱心に見つめる視線を遮るためのものかと思うほど長く美しく、どうにかその間をかいくぐって、その先にあるあの美しい瞳をもっと眺めていたい、近くで見たいと思ってしまう。
そんなどこにでもいる――世界中どこを探してもほかにはいない、少女だった。
(だから大切にしたい――……)
あの細い腰を抱いたとき、誰にも渡したくないと思った。
こんなにか細くて、折れそうで、頼りないのに。それを利用しかねない人間になど渡してなるものかと思った。
(レナード…………)
悪い人間ではない。
しかし彼は、シホを利用するだろう。
彼は使える駒は余すことなく使う人間だ。
シホが有益で利用できると判断した瞬間、彼はその手を手段を選ばず彼女に伸ばす。
いつかの、茶会での光景。
シホの髪へと伸ばされたレナードの手。
あの指が、同じようにシホに触れるなら――……。
「――――――ッ」
ミリウスは頭を振って、思考を断ち切るように湯船を出た。
乱暴に体を拭い、浴場をあとにする。
ただ、大切にしたい。
何よりも、誰よりも――――……。
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