第40話 熱い手のひら
先行き未知数だったライオールでの生活も1週間近くが過ぎ、シホはここ最近の暮らしを振り返っていた。
あれほど前途多難だったダンスレッスンも最近は褒められることが多くなり、次の曲、また次の曲の学習に進むなど、順調そのものである。
ダンスレッスンに勤しむ傍ら、約束どおりラスティンの稽古に付き合ったり、またミリウスを交えてお茶をしたり、学院にいたころのような生活も取り戻せている。
また、お茶といえばレナードだ。
相変わらず多忙でなかなか姿を見ることはないが、顔を合わせたときにはいつものように、軽食を兼ねた茶席を共にする。
ミリウスへの接し方について、いろいろ苦言を呈したいところがあり、何度も訴えているのだが、いままでそれが聞き入れられた試しはない。
それでもミリウスの過労や重圧がこの先少しでも軽くなるのなら、これからも幾度でも同様に訴えていくつもりだ。
ミリウスは――少し変わった。
もともと真面目で誠実な人柄だったが、それが以前にも増して積極的に表に出てくるようになったと思う。
なにかにつけてシホたちを気に掛けているのか、ダンスのレッスンにも、自分も忙しいだろうに空き時間を見つけては、欠かさず顔を出してくれるようになった。
そしてシホが上達すると同じように喜んでくれ、失敗すると慰めてくれるのだ。
二人きりの秘密の逢瀬――夜のバルコニーでも、ミリウスは新たな一面を見せる場面が増えた。
日々他愛ない話をするだけの時間なのに、何がそれほど楽しいのか、彼はよく笑うようになった。
一度、シホがレナードに小言を賜っていたことが原因で時間に遅れたときなど、彼にしては大変珍しいしかめっ面をして、
『…………遅いです』
と、拗ねてみせたこともあった。
どんどんと年相応の表情が増えるミリウス。
喜ばしいという思いと同時に、こんな日々が少しでも長く彼に続いてくれればいいと、彼のこれからの長い大変な人生を思うと祈りたくもなる。
だからシホはせめて笑うのだ。
ミリウスが、ミリウスでいられるこの瞬間を心に焼き付けておけるように。
それは今後の人生で、彼にとって大事な指針と支えになるだろう。
「…………ふぅ」
覚えたてのワルツを2曲続けて踊って、シホは満足げな息をついた。
「これ、完璧じゃないか!? ついに俺たち、ダンスという強敵を倒したんだ!!」
天に拳を高々と突き上げるラスティン。
散々繰り返してきた自主練の成果が出たのだろう。もうラスティンと二人だけで踊っても、ミスらしいミスもない、舞踏会に出て行けそうな域までダンスの練度は上がっていた。
「そうですね……」
部屋の入り口から、パチパチと拍手と共にミリウスが入ってくる。
「あ、ミリウス、来てたの?」
「ええ、思いのほか会談が早く終了したので。ダンスのほうは――かなり良くなっているみたいですね」
あのミリウスに認められるということは、お墨付きを得たに等しい。シホはますます嬉しくなって、同じく顔を紅潮させたラスティンと二人で手を取り合って、ここまでの苦労を労い合った。
「………………ただ」
「?」
「その…………ひとつだけ懸念が」
ミリウスは、喜んでいるところ悪いが……といった、恐縮するような顔を見せながら何事か呟く。
「え、何か変なところある……!? 私? 私なの!?」
「いえそうではなくて……」
じっとミリウスの視線が釘付けになっていることに気づいて、シホは自分に過ちがあったのかと青くなった。
「大丈夫、先生はちゃんと踊れています。……ラスティンも」
「それなら何の問題があるんだ?」
ラスティンが首を傾げる。
「問題ではないんだ。……二人だけで踊るなら。ただ舞踏会当日は――――」
そこまで聞いて、シホは理解した。
「当日は、ほかの人とも踊らなきゃならない??」
ギクリ、とラスティンが肩を強ばらせる。
「俺は先生としか踊らないからな!!」
「それでレナードが許してくれるならいいが……」
「ぐっ……」
レナードがどう考えているかはわからないが、シホから見ればラスティンはよくやっているように思う。
とりあえずオープニングダンスの役割さえ、主催家として果たせればよいのではと思うのだが……その後の判断はレナードとラスティン次第だろう。
「先生、ラスティンは講師夫人との練習で問題は?」
講師夫人と踊った場合、ということだろうか。
それならば問題があり次第厳しい指導が入るので問題ない。
「大丈夫、ちゃんと及第点をもらってるよ」
「それならば、いまできることはここまでか……」
ミリウスは考え込む。そして顔を上げて再びシホを見た。
「先生はどうなんです? 夫人からは何か……」
「うっ」
「あるんですね?」
「うぅ…………」
夫人からの指摘はこうだ。
「ダンス自体は問題ないって。ただ、ミリウスも言ったように、当日はラスティン以外の人とも踊るから、それを考えて変な癖をつけないようにしなさいって……」
自分ではそんなつもりはないのだが、踊る相手がラスティンだけなので、知らずと癖のようなものがついているらしい。
「でもドーリス夫人が相手役だと身長が足りなくて、あまり練習にならないんだよね……」
彼女はその強烈な個性のせいで大きく見えるが、身長自体はシホより小柄なのである。ヒールを高くしてもらっても、男役にはかなり厳しい。
「なら兄貴にでも頼めばいいんじゃね? ダンス上手いし」
ラスティンがぽんと助け船を出すように提案する。
たしかにレナードなら社交界で浮名を流すだけあって、ダンスも相応に上手いのだろう。
だがそのまま素直に『はい、そうですね』と依頼した場合、彼のただでさえ忙しい時間を潰してしまうことに、チクチクと嫌味を言われることになりかねない。
「うぅ~ん…………」
シホは頭を悩ませる。
いま嫌味を言われるべきか。それともあとで舞踏会当日に嘲るような笑みで馬鹿にされるべきか。
まったく面白くない天秤を揺らし、前者を取った。
「よし、背に腹は代えられない。忙しいだろうけどレナードにお願いして…………」
「それは、俺ではダメでしょうか」
「?」
振り返れば、ミリウスが真剣そうな顔をして立っていた。
「え、悪いよ。ミリウスだって忙しいのに……」
同じ忙しい人間なら、あの嫌味な働き者のほうに面倒を振りたい。
ミリウスにはここまで散々付き合ってもらったし、できれば休んでいてほしいのだ。
「大丈夫です。ダンスの相手役くらい、まったく苦労には入りません」
「そう…………?」
そこまで言うのなら、頼むべきだろうか。
シホとしてはミリウスのほうが安心できるし、願ったり叶ったりではあるのだが、何分無理をしがちなミリウスのことである。過労が心配だった。
「大丈夫です」
そう念押しされれば、断る理由もない。
「じゃあ、お願いできる?」
シホはミリウスに、ダンスの練習を申し込んだ。
ミリウスとのダンスは、それは世界が変わるような経験だった。
本格的に踊るのは初めてだというのに――とにかく踊りやすい。まるでいままでずっと二人で練習をしてきたかのように、息もステップもぴったり合ったワルツだった。
「すごい…………」
思わず感心する。
いままではダンスの最中にほかのことに気を取られる余裕はなかったのに、いまではしっかりとミリウスの顔を見上げ、感心することができている。
それほどに彼はシホのことをよく知り、スマートにシホをリードしてくれていた。
「お褒めにあずかり光栄です」
そうはにかまれると、距離の近さもあってか、シホまで恥ずかしく紅くなってしまう。
ミリウスは変わらず涼しげな表情で踊っているのに、自分だけ急に初心者だったことを思い出して、シホは一歩ステップを乱した。
「……っ危ない!」
「!!」
すんでの所でミリウスがぐっとシホの腰を引き寄せ、難を逃れる。
中断することなく優雅に続きのステップに移りながら、ミリウスはもう一度シホの背を引き寄せ直した。
「……気をつけてください。気を許してくれるのはありがたいですが……油断は大敵なので」
「あ、はは……」
たしかにミリウスが咄嗟に支えてくれなければ、そのまま二人して無様に倒れ込んでいたかもしれない。
思った以上に力強く頼りになる熱い腕に、その温度を背中に感じながら、シホはミリウスを見上げるのだった。
端正な顔立ち、さらさらとした金の髪。
きっと舞踏会に出れば、会場中の令嬢たちが放っておかないだろう。
その横顔が、少しだけ照れくさそうに紅く染まっているのが何だか面白かった。
「ありがとうね、ミリウス」
「いえ…………」
背に添えられた腕が、そっと力を緩める。
今度は柔らかく引き寄せられ、彼に手を引かれくるくると円を舞った。
再び彼の腕のなかに戻る。
それはとても自然で、懐かしくなるような安堵感があった。
二人のダンスレッスンは、家令のエイムズがミリウスを呼びに来るまで続いた。
名残惜しそうに振り返るミリウスを見送って、シホは手を振る。
まだ、ドキドキしたあの瞬間の熱い手の温もりが、背中に残っているような気がした。




