第36話 夜風の逢瀬
晩餐会を終えて自室に戻ると、そこは昼間に案内されたときよりも遥かに広く感じられた。
滞在期間中の私室として与えられた客室だが、シホの感覚では部屋というより家に等しい。
(寝室に居間に入浴室まで……ほとんど家ね)
もちろん元々はそれなりの賓客をもてなすための部屋なのだろうが、そこに自分が居座っていることにまだ慣れない。
(昼はまだメイドやラスティンがいたんだけど……)
もちろん案内役のラスティンはすでに自室に戻っているし、世話役としてシホにつけられたメイドたちも、すでに用はないと帰してしまっている。
だから余計に広く感じるのかもしれない客室で、ぼすん、とシホはベッドに沈み込んだ。
(贅沢な一日だったなぁ……)
屋敷に到着するなり、案内と称してラスティンに城中を引き回された。
応接室のあとに、談話室、中庭、シホの私室となる客室、それに屋外の訓練場。
その後は家族を紹介するからといって、使用人たちの作業場まで連れて行かれた。
仕事中の彼らをつかまえて、一人一人にシホを紹介して回ったのである。
そのたびに茶を振る舞われたり、来客用だという上等な菓子を出されたり。
なかにはあとで部屋に届けさせるからと言って、園丁からは大輪の薔薇までもらってしまった。
そして夕刻には、あの晩餐会である。
なんとも豪勢な、まるで一夜で王族にでもなってしまったようだった。
(王族、か…………)
ベッドの極上ともいえる布団に頬を擦り寄せる。
(みんなにはこれが『普通』なんだよね……)
その事実に、どこか心の奥底に風が吹く。
学院での生活でも散々自覚していたつもりだったが、あくまでつもりだったようだ。
いくら貴族学校といえど、学院はあくまで身分平等な学び舎。貴族と庶民出身者で設備や対応に差をつけない。
しかしそれが、ここでは明確に見える形で残されている。
表階段と裏階段。
きらびやかな主人の道と、使用人のための裏通路。
豪華な調度品の室内に、そこでの生活を支えるための裏方仕事の作業部屋。
誰もそれを苦にせず、むしろ誇りと思って働いているようだったが、シホ自身がそのどちら側に属する人間かといえば、間違いなく後者――使用人のほうに近いのだ。
間違っても、こんな豪勢な布団で寝そべっていていい身分ではない。
(あくまでお客さんだから……)
彼らの厚意で、こんなことが許されているだけ。
ではこの期間が終わったら――学院での生活が終わってしまったら――――。
彼らとは、もう顔を合わせることもできないのだろうか?
「………………」
胸の奥を吹き抜ける冷たい風の正体に目を閉じて、シホはぽつりと漏らす。
「ははっ……なんだ。なんだかんだいって、ちゃんと先生らしくなってるじゃん」
一人きりの部屋で、そう静かにこぼした。
*
「やめやめっ、せっかくの休暇なのに、辛気くさくなる」
暗い考えは気も蝕むという。さっさと振り払うのが吉だ。
シホは勢いよくベッドから立ち上がると、リビングを抜け、バルコニーへと繋がる大窓を開けた。
部屋に案内されたときから気になっていた大窓だ。
なるほど外に出てみれば、庭園から吹き上がるそよ風が、なんとも柔らかく心地いい。
「気持ちいい~」
大きく伸びをして、誰も見ていないのをいいことに、へにゃりとバルコニーの柵に体を預けると、気分を盛り上げんと鼻唄を歌う。
夜風にうっとりと目を閉じた頭が無意識に選んだ曲だったが、我ながら軽快にリズムを刻めたと思う。
数分前のしみったれた空気を吹き飛ばす良曲だ。
「ふふ~ん♪」
高らかに最後の高音を気持ちよく歌い上げて、よしっ、と大きく伸びをする。
――――――そこまでだ、よかったのは。
「……………………え?」
大きく伸びをして、回れ右90度。部屋に戻ろうとした瞬間、ある人物と目が合うまでは――――……。
バッチリと、目が合ってしまった。
「ミリ……ウス…………」
――いつからそこに!?
シホがご機嫌に視線を移したそこには、隣室のバルコニーに立っているミリウスの姿があった。
「えっ、あっ……え!?」
状況が飲み込めずパクパクと口を動かすシホに構わず、ミリウスは吹き出しかけた笑いをこらえると、実に紳士らしい拍手を送った。
「やめて! これ以上傷口に塩を塗らないで!!」
顔が熱い。火が出るようだ。
先程までの心地いい夜風はどこへやら、体から火が出るように暑い。
「いるならいると言ってよ~~!」
悲痛な叫びがバルコニーに響いた。
(そもそも、どうしてそんなところに!? 明かりもつけず!?)
シホとて他人のことは言えないが、部屋の明かりも点けずにバルコニーに出るなどどうかしている。
そんなことをするのは天体観測をする学者か、人目をはばかる盗人か、自分のように下手に寝付けなくなった人間くらいだ。
(あ…………そうか)
人目をはばかるから。
どうしても衆目を集めてしまう立場の人だから外に出ることも叶わず、かといって室内にいることもできず、少しでも風通しのいい安らげる場所を探して、こうしてバルコニーで涼んでいたのかもしれない。
改めてシホは、手を伸ばせば届きそうな場所にいるミリウスを見た。
「ミリウス、なにしてたの?」
「先生こそ。歌の練習ですか?」
「茶化さないで」
もうその話題は終わりだ、とばかりに睨みつけると、ミリウスは観念した、とばかりにぽつりと零した。
「涼んでいただけですよ。……本当に」
様子を探るようにミリウスを観察するが、彼は困ったような笑みを浮かべるだけだった。
「眠れない?」
「まぁ……そうですね。先生もですか?」
「うん……なんだか落ち着かなくて」
「ははっ、環境の変化ですかね。先生でもそんなことがあるんですね」
小さな発見をしたように、嬉しそうにミリウスは弓形に目を細める。
「だってこんな豪勢な部屋、泊まったことないもの」
ライオールに来る途中の宿もそれは立派なものだったが、あくまで宿。城とも称される大邸宅は格が違う。
「学院とは何もかもが違い過ぎて、この待遇になれないというか……落ち着かないというか……」
――本当に自分がここにいていいのかと不安になる。
そのことを告げると、ミリウスは穏やかに説くように語りかけた。
「いいんですよ。先生は招待され、招かれて来た来客なんですから」
与えられた設備を使うのも、もてなしを堪能するのも、それこそが招待主への返礼となる。だから存分に使うといいとミリウスは諭す。
「それに俺も……なんだか落ち着かないんです。だから気分転換でもしようと思って」
「ミリウスが?」
元々王族であるミリウスからすれば、ここの設備も気後れするものではないだろうに。
なぜ落ち着かないというのだろう?
「学院とは違い過ぎて……」
それはそうだろう。
「とても静かで……」
たしかに心地いい静謐が漂っている。
「あの喧噪が………………懐かしい」
「………………」
黒板にチョークの音が響く教室、挙手して発表する生徒の声、がやがやした食堂に、放課後学寮に向かうまでのくだらない会話を重ねる帰り道。
一瞬でよぎったそれらがここにはないことを思い出して、シホは胸の奥をつかまれたような気がした。
(そうだ……ミリウスは言ってたじゃない)
自分は聞いていたはずだ。
『――俺も一人で行くよりは先生と一緒のほうが、ライオールで肩身が狭くなくて助かります』
見ていたはずだ。
ミリウスが馬車から降りるなり、一斉に顔を伏せ彫像のように凍りついたライオール家の使用人たちを。
ここでのミリウスは『王族』だった。
絶対的な権力を持つ、他者が並び立つことを許されない至上の血統。
ゆえに誰も、彼と対等には語らわない。
あれほど人のいい使用人たちも。
ミリウスが信を置くレナードさえも。
みなが彼を『王族』として接している。
誰も彼『個人』を見ようとはしていない。
唯一対等に接しているのが友人のラスティンだが、それもここでは限られた時間だけだ。
ミリウスの予定を聞くに、明日からも日中は謁見希望者の対応に追われ、ゆっくりと語らえる時間など、夕食の席くらいだろう。
学院でファビアンと取っ組み合いの喧嘩をしていた日々が、とても遠い場所にあるような気がした。
「……じゃあ落ち着かない者同士、明日もここで話をしない?」
「……!」
「私も忙しくなりそうだし、きっと愚痴とか言いたくなると思うんだよね」
予想外のダンスレッスンという試練に、ありありとその光景が目に浮かんだ。
「それにミリウスにも色々教えてもらいたいし……」
「俺に?」
意外な申し出だったのだろう。ミリウスはきょとんと目を瞬かせる。
「そ。やっぱり私じゃ、貴族社会のこととか、細かいマナーだとか、そういうのまだわからないから」
自分で頑張って調べてみようにも、目前に舞踏会という期限が迫ったいま、時間がないのが正直なところである。
それに、ラスティンに聞くよりは、ミリウスのほうが正確な気がする。
「私に……教えてくれる?」
「……もちろん!」
目を丸く、頬を上気させたミリウスが、嬉しそうに破顔する。
やはり監督生らしく、真面目で献身的な人柄が見て取れる。他人の役に立てることを心の底から喜ぶ良い人柄だ。
シホは自慢の生徒に胸を熱くしながら、さっそくいくつか質問を重ねた。
「へえ、そうなんだ。知らなかった……聞いておいてよかった。勉強になったよ!」
ミリウスは尋ねた質問になんでも答えてくれる。
その説明も簡潔でわかりやすく、シホ以上に指導者に向いている気もする。
「ありがと、せーんせ!」
ふざけて普段自分が呼ばれているようにミリウスのことをそう呼ぶと、彼は真っ赤になってそっぽを向いた。
「やめてください。俺が先生なんて……」
「だってそうじゃない? ここではミリウスが私の先生だよ」
ここは学院ではない。シホにとって知らないことばかりの貴族社会で、そこで右往左往しているシホを導いてくれるのは他でもないミリウスである。
「ここは学院じゃないんだから、ここでは担任も生徒もないよ。私はただの一般市民で、きみはきみ。だから教えを請う以上は、先生と呼んでも変じゃないでしょう?」
「………………」
ミリウスは観念したというように空を仰いで、はぁと息を吐いた。
「わかりました。先生の言い分は納得します。――でも、やはり先生と呼ぶのはやめてください」
どうしてだろう? それほど気に障ったのだろうか?
「…………どうせ呼ばれるのなら、名前のほうがいいです」
口元を抑えて、そっぽを向いてそう答えたミリウスは、照れくさそうに耳元を紅くしていた。
(……そうか! 普段ミリウスのことを名前で呼べる人間なんて限られているから――)
失念していた。
『殿下』と、そう敬われて、親しい友人のような関係に飢えているとミリウスは言ったばかりではないか。
「ご、ごめんね……! うん、ミリウスのことはこれからもちゃんと名前で呼ぶ。絶対に呼ぶ」
「……?」
ミリウスはシホの急激な変化に首を傾げつつも、その後詫びるようにおそるおそる零した。
「いえ、俺のほうこそ……。先生には失礼な態度を取ってしまって……」
「なんのこと?」
「昼に応接室で――――」
ミリウスが言うにはこうだ。
レナードや使用人がいた手前、ついシホに対して上から語るような横柄な態度を取ってしまったこと。
それを詫びていた。
「なんだ、そんなこと」
わざわざ改まるから何事かと思えば、それは当然のことだった。
「王族なんだから当たり前だよ。ほかの人の手前もあるしね。ミリウスはミリウスで『王族』らしく振る舞わなきゃいけないんでしょう?」
それを彼が望んでいるかどうかはともかく、臣下であるレナードも、侯爵家の威信を示す使用人たちも、みながミリウスが王族として振る舞うほうが都合がいいから、そう接しているのだろう。
それについてシホがどうこう言う立場にはない。
「ここでミリウスがそうしなきゃならないことは理解してるし、それでたとえば――呼び捨てにされたって、別に怒らないよ」
からからと笑うと、ミリウスは意表を突かれたように瞠目して、しばらくもごもごと何やら口元を動かしていた。
「シホ・ランドール…………ランドール嬢……ランドールさん……? いや…もっと別の………………シホさ―――――いや――――――『 シホ 』 」
「ん?」
名前を呼ばれたような気がして反応すれば、ミリウスがびくりと肩を跳ねさせた。
「い、いえ、なんでも……」
「そう?」
「き、今日はもう遅いですし、休みましょう。冷えるといけないですから。――――おやすみなさい!」
言うなり背を向けて部屋に戻ってしまうミリウスを見送りながら、シホはその後ろ姿に『また明日ね~』と声をかけて手を振った。
(話した甲斐があったかな? これでゆっくり眠れるといいんだけど……)
自身にもふわりと訪れた眠気に目をこすって、シホもまたバルコニーを後にする。
今度こそ満足な気持ちで倒れ込んだベッドは、ふかふかで良い眠りを届けてくれそうな気がした。




