第30話 目覚めの朝
それからシホ・ランドールが目を覚ましたのは、早朝の白い朝日が窓から射し込む時刻になってからだった。
目を刺す目映いばかりの陽光に、寝返りを打とうとして「うぅ…」と呻く。
ずっと同じ体勢で寝ていたからだろうか。至極身体が痛い。
特に背中が、高いところから落とされたかのように、鈍い痛みを訴えていた。
(うーん……昨夜は、何をしてたんだっけ)
ファビアンを追いかけて、旧市街へ行ったところまでは覚えている。そして確か彼を見つけて、声をかけて――――……あぁ駄目だ、そこから先が思い出せない。
ひどく億劫ながらも、無理矢理まぶたをこじ開けて………………そして固まった。
「……………………」
知らない天井だ。
リースター寮の私室でも、サロンでもない。知らない単調な木目の天井。それががらんと頭上に広がっていた。
「………………」
おまけによく耳を澄ますと、隣から自分のものではない人間の寝息のような音が聞こえる。
「………………」
おそるおそる首を右隣へと向ける。
するとそこには、大変よく見知った、震えるほど恐ろしく整った容貌の男の寝顔がそこにはあった。
「ファっ――……!?」
――ビアンだ。
見間違えるはずもなく、昨夜自分が追いかけていたはずの男子生徒の顔がそこにはあった。
幸せそうに眠りこけて、ああこうして見ると、普段は見慣れてしまっているけれど、やはり天使のように綺麗な顔立ちだ、と改めて感動してしまう。
(って、ちがう!! そうじゃない!!)
問題は、この状況だ。何故どうして自分がファビアンとひとつの寝台を分かち合う状況になっているのか。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
頭は必死に回答を急かすのに、答えをちっとも導き出さなかった。
そうこうしているうちに、隣でうめき声がする。
視線を向けると、ファビアンが隣で猫のような大きなあくびをして起きるところだった。
「あー……ファビアン? おは……よう?」
とりあえず挨拶をしてみる。
すると彼は眠そうに2、3瞬いたあと、
「……はよ」
とだけ短く挨拶を返した。
「え、ええと……」
事情を聞きたいような、聞くのが恐ろしいような。
色々と確かめたいことはあるのだが、身動きができないのが問題だった。
そう、遅れて気づいてみれば、自分はファビアンにがっちり抱え込まれたまま眠っていた。
血の気が引く。
これはマズい。教師として非常にマズい状況な気がする。
脳裏に警告音がわんわんとこだまするが、当のファビアンは至って自然体だ。
むしろ飼い主が久々に帰ってきた猫のように、身をすり寄せて甘えてくる。
しまいには体を起こすと、未だ横たわったままのシホの上に覆い被さって、爆弾発言を落としてきた。
「昨夜は楽しかったよ。ありがと、せーんせ?」
とろんとした溶けるような瞳で、そのまま滴り落ちるような色香を匂わせながら、ファビアンはシホを両腕の間に閉じ込めて、そっと額にキスを落とした。
「………………」
「どうしたのセンセ? そんなに怯えなくったって――――――ぐぇっ」
問答無用の掌底をみぞおちに叩き込んで、寝台から床に転げ落ちたファビアンを無視し、がばりとその場で身を起こす。
そして手早く身辺の確認をした。
壁に制服の掛けられた簡素な部屋。おそらくここは学生寮、ファビアンの私室だろう。
よく見れば窓からの景色にも覚えがある。
先日外から見張っていた覚えのある、あの窓だ。
そしてこの寝台。
乱れた跡はあるが、小さな寝台に二人で寝ていればそういうこともあるだろう。
それに何より、自身の姿を見下ろして、シホは、ひとつの事実を結論づけた。
(――――大丈夫、問題ない)
勝手にブーツが脱がされていることや、シャツのボタンがやけに多く開いていることは気になるが、とりあえずショートパンツとベルトはしっかりそのまま身につけていた。
『間違い』は起こっていない。
となれば、気にするべきはファビアンのほうだ。
床で打ち付けた頭を抱えて、小さく体を折り畳んでいる青年を見下ろして、シホは無言で腕を組んだ。
「………………」
「ってーなぁ!! せっかく人が親切心でここまで運んでやったのに!」
「…………え?」
「お前ちっとも覚えてねーのかよ! 人がどんだけ苦労したと……クソ重いんだよ、痩せろ!」
「!!!」
ショックだった。ひたすらにショックだった。
たしかに人より筋肉質だと自覚していたけれど、痩せろとまでは今まで一度も言われたことがなかったのに。
むしろスレンダーだとか、手足が長くていいねとか、そんな言葉を真に受けて信じていたのに……!
あれは全部、お世辞だったということだろうか。
あわあわと十年に一度くらいの衝撃に目の前が暗くなる。
「ってほんとにそんなこの世の終わりみたいに落ち込むなよ……」
あまりの落胆ぶりに見かねたのだろうか。
ファビアンが憐れみの視線とともに、寝台に再び座り込んで顔を覆うシホに手を伸ばす。
「悪い、冗談だって」
「ほんとうに?」
「本当本当」
たしかにファビアンはすぐに悪態をつく人物だが、まったく思ってもいない罵倒を人にするような人間ではない。
つまりは、彼が苦労したのは本当だろう。
ぼんやりと蘇り始めた記憶を辿ると、おぼろげながらうっすらと酒場での光景が浮かんできた。
つまり自分は酔い潰れて、彼にここまで運んできてもらったらしい。
もちろんリースター寮まで送ってもらえれば最良だったが、この警備状況だ。ファビアンとしてもこれが精一杯の方法だったのだろう。
そこまで思い至って、シホは申し訳なくなって詫びた。
「ごめんね……迷惑かけて。重かったのに……」
「マジで根に持つのな、お前……」
「だからごめんって言ってるじゃない。私のせいで……」
一歩間違えれば、ファビアンだって見つかる恐れがあっただろうに。
それでも危険を押してシホを連れ帰ってくれたのだ。
これには礼を言わずしてなんと言う。
「いや元はといえば俺のせいで……」
「勝手について行って迷惑かけたのは私だよ」
「けど俺の代わりにお前は酒を飲んだんだろうが。まさかあんなに弱いとは……」
「?」
「とにかく、お前は今後一切、酒は禁止な。自分が弱いことを自覚しろ」
ぴしりと額に指を突きつけて、真剣な顔で忠告してくる。
「そんな。たしかに迷惑はかけたけど大げさな…………」
今後一切禁止だなんて。教師同士の付き合いもあるし、そもそも酒豪ではないがシホだって嗜むくらいの酒は好きだ。
不満を露わにするとファビアンは、今度こそ両目を鬼のように吊り上げて――――……。
「酔った上で誰彼構わず抱きついて、今度こそ本当に抱かれたいのなら話は別だが」
とんでもないことを口にした。
「いや、まさか。そんな……」
「お前自分の状態を見てまだそんなことが言えるのかよ」
「………………」
自分の姿を見下ろして絶句する。
はだけて大きく開いた襟元、ボタンも必要以上に外されて、下着の一部まで覗いてしまっている。
おまけによくよく見れば胸元の、鎖骨の丁度下あたり。衣服を着ていれば本来見えないだろう場所に、紅い点がついている。
「どこまでやればお前が起きるかと思ったが――いいか、お前はそこまでされても正気にはならない。俺だったからいいものの、他の奴にそれ以上を望むのなら話は別だが」
「……!!」
「相手が自分に興味がないと思う前に、自分が相手を誘う可能性を考えろ。酒に酔って自覚がないならなおさら」
「………………はい」
痛烈な反省会だった。
そういえば前にも一度、ラスティンとミリウスに忠告されたことがあるような気もする。
あのときは大げさな子たちだなぁと気にも留めなかったが、まさか自分にそんな悪癖があったとは。
「うぅ……お酒、やめます…………」
「そうしろ」
「うぅ…………」
酒を楽しめなくなるという事実と、自分に予想もしなかった悪癖があった事実に打ちのめされて鼻を啜っていると、またしても見かねたのか、ファビアンがぼそっと低く呟いた。
「まぁどうしてもって言うなら。飲むときは俺を誘え」
「……?」
「それなら、酔い潰れても今日みたいに介抱してやるよ」
彼なりの助け船だったのだろう。
その優しさは、素直にありがたかった。
「でも、きみは未成年でしょ。酒場はダメだよ」
まぁ、日中の酒場で、飯屋としての営業がメインの時間帯であれば、問題ないのかもしれないけれど。
「んじゃ、飲みたくなったら部屋飲みな。お前んとこのサロンに集合だ」
「きみはお酒以外で、だけどね」
ひとしきり笑い合って、ふと更に明るみを増してきた日差しに窓を振り返る。
そろそろ外で人が活動し始める時間だ。
お暇するべき時刻だろう。
「それじゃファビアン、私はこれで……」
窓から出て、不可視魔法を行使しながら帰れば、誰にも見つからずに戻れるだろう。
「またね」
窓枠に足を掛けると、室内を振り返る。
そこには、満足そうな笑顔の青年が静かに佇んでいた。
*
それからというもの、ファビアン・フローリーの遅刻癖はぴたりと止んだ。
時たま眠そうな目をこすっていることはあるものの、概ね以前のように、優等生とはいいがたいものの、最低限の生徒らしい規律を守るようになった。
もちろん、それは教師陣が把握していないだけで、時には他人の目を盗んで羽を伸ばしているのかもしれないけれど。今のところ大事になるようなことは起きていないようだ。
シホとしては、めでたしめでたし……という結末なのだけれど。
「おい! 他人が使いかけの道具を勝手に奪い取るなよな」
「奪い取る……? お前が道具を手当たり次第に放り出したままにするからだろう! 今使っているものとそうでないものくらい、わかるように片付けろ!」
額を突き合せて威嚇し合うファビアンとミリウスを前に、シホ・ランドールはリースター寮の研究室で溜め息をついた。
(この二人を同時に教えるのは失敗だったかも……)
知識の吸収度はどちらも同じくらいだから、呪紋を習いたいという彼らを同時に招いてみたのだけど、結果はこの惨憺たる有り様だ。
(今度からは別々にするか……せめてもっと広い場所でしよ)
小さな研究室に詰め込まれ、さながら互いの餌を取り合っていがみ合う犬猫のような光景に、シホは密かにそう決意する。
「とりあえず、今日のところは休憩しよっか。ほら、根を詰めすぎるのもよくないし」
なんとか仲裁しサロンに誘導すると、紅茶と茶菓子を手にソファで一息つくことを勧める。
「ほら、お前も座れよ」
菓子を出したまま立ち尽くしていたシホに、ファビアンがバンバンと隣の席を叩く。
「あ、じゃあお言葉に甘えて……」
ソファに腰を下ろすと、今度は向かいの席からミリウスの剣呑な視線が飛ぶ。
「ファビアン、お前は先生に向かってそんな――」
「知るかよ。羨ましいなら羨ましいって言えよ、王子サマ」
「!!」
ファビアンは何かふっきれたのか、今まで以上にミリウスに対して挑戦的な態度を取ることが増えた。
それでも険悪な雰囲気ではないことから、シホとしては距離が縮まった証拠だと考え、微笑ましく静観していたのだが……。
「ほら、お前も食えよ」
「え? あ……うん、……美味しいね」
ファビアンが摘まみ差し出した菓子を、そのまま口に運ばれ言われるがまま咀嚼する。
エメリーが実家からの贈り物だと寄越した菓子だが、本当におすすめだというだけあって美味しかった。
「~~~~~~!!」
しかしそんな光景を、黙って見ていられるミリウスではなく。
マナーに厳格な監督生の逆鱗に触れたのか、またしても二人は取っ組み合いの争いを始めてしまった。
「どうしろっていうの……」
年相応に人に腹を立てたり、争うことを覚えたミリウスも。
学院内においても気負いも引け目もなく過ごすことができるようになったファビアンも。
どちらも歓迎するべき事柄だけど。
(こればっかりは…………)
夏も近づく休日の午後、一難去って、また一難。
頭痛の種は消えそうにない、アーミントンでの生活だった。
次章、ミリウス恋愛編『ライオール地方(避暑旅行)編』です。




