第27話 ファビアン・フローリー
ファビアン・フローリーという男は、平たく言えば『妾の子』だった。
暇を持て余した貴族の主人が、暇潰しに使用人に手を出し産ませた子供。
……どこにでもよくある話だった。
しかし当然、そんなことをして呑気に伯爵家の一員になれるはずもなく。正妻の怒りを買った母子は、当然のように屋敷を追い出された。
ファビアンは5つのころまで、母親と共に下町の娼館宿の宿舎で育った。
母が古い知り合いを伝手に転がり込んだそこは、同じく父親不明の子供や日中宿舎にいる女たちがたくさんいて、子供を預けるには丁度良かったのだろう。母はよそで洗濯女をしながら、ファビアンをそこに放り込んでいた。
娼館宿に身を寄せながら、それでも身だけは売らなかった女――そんな高尚な女ではなかった。母は、自分の価値を誰よりも知っていた。
類い希なる、男なら誰でも惹きつける異様なまでの美貌。だから自分を娼館で売り出せば、大いなる価値がつくことも理解していた。
けれど、それでは満足しなかった。
『商売女で大金を稼いだって意味ないでしょ。上客の妾になったって、所詮は妻の代替品。2番じゃない。 わたしは1番になりたいの。誰もが憧れる奥方様になりたいのよ』
夜ごと爪を磨きながらそう豪語し、それだけの価値が自分にあると信じていた。
だからこそ洗濯女として各家に潜り込み、身形のいい男を漁る。
それが他人の男だろうと構わない。むしろ他人が価値を置く男のほうが、手に入れたときより自分に価値が出る――。
そう信じるような、良く言えば上昇志向の強い――悪く言えば野心家で、友人の仕事を見下し自分だけは高みで輝こうとする――女の嫌な部分を集めたような女だった。
そんな母も、ファビアンが5つのときに死んだ。
どこぞやの大商会の跡取り息子に手を出して、その婚約者に刺されたらしい。
他人の男を漁り続けた、当然のような結末だった。
それからというものファビアンは、娼館の小間使いとして働くことになった。
芋の皮むきから、掃除、洗濯。寝床を確保し続けるためとはいえ、我ながら器用にいろいろ覚えたと思う。
そのうち娼館の1階にある酒場で注文をとれるようになると、さらに重宝がられるようになった。
誰かが面白がって娘の服を着せると、そこにはどこに出してもはずかしくない美少女看板娘が出来上がった。
男と知らない客は健気に働く少女を可愛がったし、正体を知った常連客は、それはそれで面白がった。
親こそいない生活だったが、それなりに賑やかな子供時代だったと思う。
そんな子供時代が突然終わりを告げたのは、ファビアンが9つのときだった。
使いで街に買い物に出かけていたときに、人攫いに遭った。
馬車で延々揺られた先で、地下の闇市で競りにかけられた。
落札したのは、金だけは有り余る下級貴族の男だった。
男は大層ファビアンを気に入った。
美しい、神々の奇跡の傑作だと持て囃し、彼で遊ぶ傍ら、金で買ったおもちゃであるはずの少年に教育を施した。
身形を整え、マナーを教え、師までつけて上流社会の人間が学ぶような知識を身につけさせた。
そうして下町のボロ切れを纏った少年を、一流の紳士に磨き上げようとした。
決して善意などではない。
それが彼の『遊び』だったのだ。
磨いて、磨いて、磨き上げて――そうして誰よりも美しく、誰よりも輝かしい未来の貴公子を創り上げて――――そして汚す。
自身が生み出した理想の芸術品を組み敷いて、その悲鳴を聴くのが、醜い男の悦びだった。
血と、暴力と、足枷と、豪勢な暮らし――。
そんないびつな生活から抜け出せたのは、12歳になったころだった。
男が死んだ。天蓋付きの寝台の上でだった。
ファビアンはすかさず抜け出した。
逃げ出して、記憶も曖昧なままにとにかく遠い街まで流れ着いて、そして下町の浮浪児集団に転がり込んだ。
初めは金の計算ができ、字も読めることから、盗みの役に立つからと取り立てられた。けれど程なくして、気づけば他の誰かに付くでもなく、ファビアン自身が彼らを率いるようになっていた。
簡単な話だった。
ファビアンの言うことを聞いていたほうが、盗みの確率が上がったからだ。
新入りだが目端の利く少年の言に従っていたほうが飯が増えるのなら、群れは彼に従った。
また、ファビアンが怖い物知らずだったのも役立った。
盗みや他集団との抗争で怪我をしようとも、魔法があればいくらでも治癒ができた。
どこでどう利用されるかわからない以上公言しなかったが、医者など空想上の生き物でしかない浮浪児集団においては、刃も骨折も恐れないファビアンは、さぞかし豪傑か頭のキレた奴に見えただろう。
屋敷に囚われていたときに、血反吐を吐くたびに医者代わりの治癒魔法使いがやってきた。
その術を死に物狂いで見て、覚えて、隠れて書棚の魔法書を読み漁って身につけた生きる術だった。
誰にも話さず、誰にも教えず、決して気取られないように大事に守った最後の命綱。
それがこんなかたちで役に立つとは。
けれどそれを最後まで隠し通せなかったことが、ファビアンの運命をまたしても変える分岐点になった。
たまたまあるきっかけで、魔法が使えることが周囲にバレた。
そしてそれが偶然にも、忌々しいフローリー伯爵家に伝わった。
結果、跡取り息子のいなかった伯爵は、かつて放逐したはずの息子に白羽の矢を立てた。
そうしていま、自分はここにいる。
薄暗い下町の通りを歩きながら、ファビアンは遠い走馬灯のような記憶に浸っていた。
きらきらとした新市街から、幾重もの区画を隔てる外壁を経て辿り着ける旧市街。そこはまさに、別世界だった。
傷んだ家屋、汚れた看板、路地裏から漂う煤けた臭いに、どこからか聞こえる下卑た笑い声。
それでも路上の明かりだけは絶やさず焚かれているのは、さすがアーミントンといったところか。
あくまで貧民街ではなく下町の体裁を保っているのが、豊かな街の証拠だった。
(それでもやっぱり、ドブの臭いはするんだな)
上下水道の行き届いた新市街では嗅ぐことのなかった臭い。
しかしここでは、うっすらと染み付くように漂っていた。
(懐かしい臭いだ)
忘れていた。
綺麗な檻のなかで暮らす内に、すっかり忘れてしまっていた。
そもそも自分の居場所は『こちら側』だったはずなのに。
この腐ったような臭いのなかで、自分は育ったはずだった。
それが綺麗な服を着て、綺麗な顔で、綺麗事を言う人間たちに囲まれていたせいで、すっかり勘違いしてしまっていた。
まるで自分も――『そちら側』の人間であるかのように。
いくら衣服や所作で取り繕ったとしても誤魔化せない、身体の芯にまで染み付いたドブの臭い。
薄汚いドブネズミ。それが自分の本性だったはずなのに。
「………………」
きらきらとした光溢れる空間だった。
あのサロンは、たとえ夜の静寂に包まれようと、薄闇をほのかに照らすランプがひっそりと部屋中に置かれ、明るすぎず暗すぎない、絶妙な空間を創り出していた。
光と闇が共存する、不思議な空間。
だから心地良いと――そう思ってしまった。
眩しすぎる世界のなかで、光と闇の合間に漂うように立つ女。
きれいごとを言いながら、それでも地に足ついた感覚で、向こう見ずな馬鹿はしでかさない。必ず結果を伴いながら、それでいて誰かに手を差し伸べ笑いかける。
そんな人間だから、いつか痛い目を見るのではないか。騙されて後悔する日が来るのではないか――。
そんなことを思ってしまった。
普段はしっかりしていても、警戒心もなく眠りこけて。そこにつけいる男など五万といるだろうに。
無防備に寝入る姿に、危うさと、わずかな苛立ちと、言いようのない親しみと、不思議なものが胸をよぎった。
自分が、ちゃんと見ていなくては。
人のいい上流階級の人間では、育ちのいいお坊ちゃんたちでは気づかない部分まで、ちゃんと自分が見ていなくては。
人を疑うことしか知らない自分だからこそ、気づけて守れるものもある――――そう、思っていた。
浮かれていた。
必要とされていることに。
こんな自分でも役立つのだと、勘違いしていることに。
だから、見落としていた。
『ファビアン――?』
あのときの、寮の奥から現れたミリウスの呆け面。
驚き、どうしてこんなところに――?と珍しがる。
家主のシホと、まるで同じような瓜二つの反応。
つまりは――それほど入り浸っていた、ということなのだろう。
もちろん監督生で根も真面目なミリウスが、教師のもとを訪れ教えを請うことは不思議じゃない。
けれどどうして、一般生徒が利用するサロンではなくその奥から出てきたのか、とか。
普段は身形に一片の乱れもなく着こなしている王子が、制服の上着を身につけず、その下のシャツだけ慌てて身につけたような格好をしているのか、とか。
目にした瞬間、咄嗟に湧いて出たのは怒りと――そして失望だった。
なんだ、結局王子様も男で、シホも女だったというわけだ。
自分などがわざわざ出しゃばって世話を焼かずとも、あいつを見ている奴はちゃんといる。
愚かで、間抜けで、何も見えていない自分だけが空回りしていた――そんな結末。
何もかもがすべてどうでもよくなって、勝手に裏切られた気になって失望のままに寮を出た。
翌日、ミリウスから事の経緯を説明されたが、それでも気分が晴れることはなかった。
寮の奥から出てきたのは、シホの研究室で呪紋について教わっていたためで、上着を脱いでいたのは事情は話せないが、呪紋を身に刻む実験をしていたからだということだった。
『信頼しているお前だから明かすんだ。だからこれは誰にも他言しないでほしい』
そう切実に訴える姿は、あのクソ真面目な王子様のことだ、本当のことなのだろう。
あの馬鹿正直な人間たちに、嘘偽りであのような演技ができるはずがない。
そう頭は判断するのに、最後の最後でどこか疑り深い心が鎌首をもたげる、どうしようもなく醜い自分。
17年生きてきた人生で染み付いた、変えようのない性根だった。
たとえこの世のすべての人間が善人になったとしても、最後の最後、その瞬間まで、自分は人を疑って生きるのだろう――……。
そんな自分が、どうしようもなく嫌になった。




