第110話 氷の女王
晩餐会。
ライオール邸ですでに経験済みのそれに『大丈夫だ』『問題ない』と何度も言い聞かせてきたというのに、さっそくテーブルについたシホは彫刻の如く固まっていた。
(天井が……高い!!)
ライオール邸の天井も見たこともないほど高かったが、ここは大公城、その比ではない。まるで吸い込まれそうなほど、シャンデリアの上には黒い闇が広がっていた。
(おまけにテーブルが……すごく長い!!)
一体何人で掛けるのかと思うほど、細長いテーブルが3人の間には横たわっていた。
――――3人。そう、3人なのである。
隣には平然とした常と変わらぬ佇まいで微笑を浮かべるミリウス。そしてカチコチの自分。
そしてそんな二人のテーブルを挟んだすぐ正面には――――リンデール大公オーレリア殿下が冷然とした笑みを浮かべて鎮座していた。
(あわ、あわわわわわわわ……)
「あら、わたくしとしたことが。ごめんなさい。わたくし、どうも黙っているととても冷たく映るようで……」
即位時の年齢から計算すると30も半ばほどの美女は、年相応の艶やかさの中にどこか少女めいた軽やかさを伴ってくすりと微笑った。
「いえ、この度は殿下のお計らいで、こうして貴国にお招きいただいたこと、大変光栄に思います。ウィルテシアを代表して、私からもお礼申し上げます」
「まぁ、ミリウス殿下こそ、うちの公女の我が儘にお付き合いいただいて大変感謝しておりますわ」
晩餐会は、留学の機会を設けてもらったことへの感謝から、和やかな空気で進んでいく。
リンデール大公オーレリア。
彼女は若干19にして即位した、若き公国の君主だった。
父大公の崩御に伴い、長女である彼女が次期大公として即位した。
公位継承に男女の区別はないとはいえ、まだ若干19の娘だったという彼女の道は、決して平らではなかったと聞く。
多くを聞き、そして優しいだけの邪なものを退けて、冷厳たる威風のもとに、いまこうしてここに君臨しているのだという。
(そんな人が……目の前に……)
すぐ目の前で穏やかに微笑む白き美女は、氷の厳格さと母のような包容力を備えていた。
「あら……困ったわ。お食事は口には合わなかったかしら?」
心配そうにオーレリアが首を傾げる。
「い、いえ……!!」
まさか彼女に見とれて手が止まっていたとは白状できない。
シホは慌ててフォークを口に運ぶ。
「そういえば、この度はせっかく殿下にお越しいただいたのに、夫も同席させられなくてごめんなさい。あの人ったら、こんなときに限って風邪を引いて」
――きっとユリスがいないせいね。気落ちしてるのよ。
そう告げる彼女は、夫を気遣う妻のようで、娘を思う母の顔をしていた。
「あの人ったらユリス、ユリスって言ってしょうがないの。あの子ももう12なのに。そのうち結婚でもするようになったなら、号泣でもするんじゃないかしら?」
それはかの夫君には気の毒なようで、どこかとても可愛らしい話に聞こえた。
「ミリウス殿下は、こちらの生活はいかがかしら? もうお帰りになるころで恐縮だけど……どこか過ごしにくいところはなかったかしら?」
いいえ、とミリウスは首を振る。
「リンデールは素晴らしい場所で、何もかもが興味深く、大変充実した日々を過ごさせていただきました」
「そう、それならお招きした甲斐があったわ」
安心したように、オーレリアはふわりと微笑む。
「殿下はリンデールをつまらない国だとはお思いになられないのね。わたくしたちも完璧な国だとは思わないけれど、それでもこの国を愛しているの。……ウィルテシアのように、大国といえる国ではないけれど」
少しだけ残念なように微笑って、オーレリアはそれを切り出した。
「ねぇ、殿下。もし殿下さえよろしければ――――将来、このリンデールにお越しになるつもりはないかしら?」
それは再度の来訪――――単なる交友の誘いでないことは、オーレリアの真剣に光る瞳から察せられた。
オーレリアの白銀の、その奥にわずかに紫水晶の輝きを閉じ込めた瞳が、彼女の氷のような熱意を物語っていた。
「ユリスは12よ。外の国への興味も深い。殿下にとってもそう悪くない伴侶になると思うわ」
それはミリウスへの――――次期大公の配偶者への誘いだった。
「もちろん殿下は次期国王候補のお方。ウィルテシアで国王として即位された場合はこちらに来ていただくわけにはいかないけれど、それでもわたくしたちは、あなたと繋がりを持ち続けたい…………あなたは、信頼のおける方のようだから」
――ユリスの妹には、ラナという子もいるのよ。
そう娘たちを紹介するオーレリアに、ミリウスは笑顔で耳を傾け…………そして、ゆっくりと話を切り出した。
「オーレリア大公殿下。大変光栄なお話ですが…………」
「あら、年の離れた妻はお嫌い?」
「そうではありません」
ミリウスはゆっくりと首を振る。
「私には、すでに心に決めた相手がいるのです」
(…………!)
真っ直ぐに大公を見つめて穏やかに語るミリウスに、密かにシホは驚いていた。
「あら、すでにご婚約を?」
「いいえ。まだ……。あくまで私の片想いですので」
なんと……あの学園祭での占い婆の話は本当だったのだ!
もちろん器用なミリウスのことだから、この場限りの角を立てない嘘だという可能性も考えられる。
それでも妙に落ち着き払って語るミリウスの口調からは、その嘘はとても信憑性があるように思えた。
「まぁ、殿下ほどの方が片想いなんて。余程お相手の方は難敵ね」
「えぇ、本当に…………」
おぉ……まるで本当に想い人がいるかのようである。
王族の社交とはこういうものなのか、それともミリウスに本当に想い人がいるのか。
まるで歌劇の続きを求めるかのようにシホは先が気になった。
「…………先生、話を聞いていますか」
「ん? え、あ……ごめん。ちょっと別のことを考えてて……」
「………………」
若干ムスッとしたミリウスが、恨みがましい目でこちらを見る。
集中力を欠いたことを責められているようだった。
「す、すみません…………」
「フフっ。いえ、いいわ……面白い方なのね、シホさんは」
「……!!」
今日一日で憧れの人と化したオーレリアに名前を呼ばれて、シホは一瞬で紅くなる。
「それにとてもお可愛らしいわ。これで実力もあるのだから、さぞかしあちらこちらの殿方から引く手あまたなのでしょうね?」
くすくすと微笑うオーレリアの美貌にシホは見とれるが、その横でミリウスの眉間の皺は深くなるばかりだった。
「……コホン。そのことで、今日は殿下にお話があり参りました」
「あら、急に改まって何かしら?」
「彼女を――――リンデール人であるシホ・ランドール。彼女を、この度正式にウィルテシアに招きたいと、そう考えています」
「…………!」
それで、ミリウスは自分をこの席に同席させたのか。
リンデール人である自分を、正式なウィルテシア国民として招き入れるために。
「彼女は私の師であるとともに優秀な魔術師で、人望にも優れる女性です。私は彼女に――――より広い視点で、ウィルテシアの国全体のために尽くしてもらいたいと考えています」
……ミリウスがそんなことを考えていたとは知らなかった。
自分が不甲斐ない姿を見せたせいだろうか。
だからミリウスが自分をこの国から連れ出そうとしているのか。
そんなことを考える余地がないほど――――オーレリアに理由を語るミリウスの口調は理路整然としていた。
まるでずっと以前から――――長い時間をかけてそのことを考え続けていたように……。
「そのためには、オーレリア大公殿下。あなたの許可が必要なのです」
リンデールにおいて、出稼ぎは推奨されども、国を捨てる行為には罰が与えられる。
それは国ではなく、残された者の隣人たちの手によって。
そうならないためには、お墨付きが必要なのだ。
国のために、国主の名の下に国を出たというお墨付きが。
「………………それは、そちらのシホさん本人が了承していることかしら?」
オーレリアの瞳が鋭く光る。
ミリウスの視線もまたこちらを向き、シホはうっと黙り込んだ。
「シホさん。あなたはリンデールを出てウィルテシアに行きたいのかしら?」
「………………」
それは、言葉が出なかった。
リンデールを捨てて、ウィルテシアに行く。
それを国主であるオーレリアに告げる、その勇気がなかった。
「ねぇシホさん。あなたを責めているわけではないのよ。ただあなたが……どうしたいのか、それをわたくしはきちんと聞いておきたいの」
ただ純粋に、そうなのだと。
だから教えてくれとオーレリアは懇願した。
「わた…しは…………」
私は、どうしたいのだろう。
どこで、何をしたいのだろう。
そんなこと――――いままで考えたことがなかった。
(いままでは、生きるのに必死で――――)
がむしゃらに、その日とその少し先のことだけ考えて生きてきた。
初めは力をつけたくて。認めてもらえるような力が欲しくて。
次は稼げるだけの力が欲しくて。一人で生きていけるだけの実力が欲しくて。
その次は――――借金を返せるだけの報酬が欲しくて。
ただ訳のわからぬうちに敷かれた望まぬ未来を、撥ね除けられるだけのお金が欲しくて。
そうして、その日とその少し先。将来襲い来るかもしれない悪い未来にだけ備えながら生きてきた。
何がしたいだとか。どこにいたいだとか。誰といたいだとか。考えたことがなかった。
(いや――――…… 一度だけ、考えたことがあった)
ライオールの、夏の夜空が広がる広い屋敷で。
皆といたい、と。
リースターの皆とこれからも共にいたいと、そうではない未来を嘆いたのではなかったのか。
あの日こぼしたのは――――たしかに涙だった。
(私は――――皆と一緒にいたかった)
そのためにはウィルテシアで、彼らの側で、いつでも彼らに会いに行ける場所にいなくてはならない。
それは、つまり、そういうことではないか――――。
「私、は…………私は…………。もし許されるなら…………っウィルテシアに――――行きたい」
「――!!」
残す家族のことだとか。
まだ返さなければならない借金だとか。
そうして諸々のことを全て置いて忘れ去っていいのなら――――それが紛れもない自分の本心だった。
「……そう。あなた自身がそう言うのなら、しょうがないわね」
オーレリアはゆっくりと目を閉じる。
「優秀な人材の引き抜きは、リンデールにとっても痛手なのだけど。……まぁ、残りたいと思わせられなかったこの国がきっと駄目だったのでしょうね……」
天を仰ぎ黙考すると、オーレリアは姿勢を正し今度はミリウスを真っ直ぐに見つめる。
「うちから貰っていく以上、わたくしの元国民は、そちらで幸せにしていただけるのかしら――?」
オーレリアの挑戦的な問いに、
「それは――――もちろん。必ず、彼女はウィルテシアで幸せになります」
力強くミリウスは言い切った。
「そう……。それならばわたくしは、わたくしにできることをするしかないわね。宰相に――――後で構わないから部屋に来るよう伝えてちょうだい」
オーレリアは何か事務的な手続きがあるのだろうか。
傍に控えていた執事に言づてを託すと、ワインの最後の一口を飲み干した。
「とても楽しい晩餐会だったわ。お二人とも、またいらしてね」
そういうとオーレリアは、茶目っ気たっぷりに、
「そろそろごめんなさい。これ以上長引かせるとあの人が泣き出しちゃう」
そう言って広間を後にした。
「ふふ、あの人ってきっと、公配殿下のことだよね。仲がいい夫婦で羨ましい――――」
「……羨ましい、ですか」
ミリウスがなぜか真剣な瞳で、こちらをじっと眺めている。
「仲がいい夫婦っていうのは、誰でも憧れるでしょう?」
「……そうですね。先生も、そうしたい人がいるんですか……?」
その問いかけに、シホは一瞬固まって、
「まさか。まだ全然、影も形も見えないよ」
そんなまだ見ぬ影を笑い飛ばして、シホは部屋を後にする。
後ろに続くミリウスが、そんな背中にじっと視線を送り続けていた。




