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第107話 馬車の中で


 ミリウスに手を引かれ、ランドール商会の外へ出たあとも、彼はその歩みを止めることはなかった。


 当惑するシホを引き連れたまま通りを進み、少し離れたところに停車していた馬車に向かって迷いなく進むと、その辻馬車の御者もまたこちらに向かって手を振った。


(もしかして……待たせていたの?)


 当然、ミリウスたちもまた街を移動してきたのであれば、何らかの移動手段を使用したのだろう。

 そのとき乗車した辻馬車に、いくらか追加の金を支払って待ってもらっていたのかもしれない。

 ミリウスを出迎えた御者の顔は晴れやかだった。


「あの、ミリウス……」


 街を駆け、絶えず客を乗せている辻馬車を、いつまでとも期限の知れぬ時間待たせることは容易ではない。

 彼がそれなりの金額を支払ったであろうことを察してシホが躊躇うと、ミリウスは硬い声でひと言、


「乗ってください」


と、そう言った。




(たしかに、待たせた以上乗らないと意味はないんだけど……)


 それでもミリウスに押し切られ車内に押し込められながらシホは戸惑った。

 それはミリウスが、シホが乗車したことを確認するとすぐさま自分も乗り込み、そのまま馬車を発車させようとしたからだ。


「ちょっと待って……! まだアーサーが――」

「構いません。出してください」


 シホの抗議も空しく馬車はカラカラと音を立てて発車する。

 狭い箱形の車内にミリウスと並んで座りながら、シホは完全に隔絶された外界の景色がゆっくりと後方へと流れていくのを見送った。


「……どうせこの馬車にはこれ以上乗れません。定員です」


 だからアーサーを置いていくのは仕方ないというのだろうか。

 たしかに彼ならば自力でいくらでも戻ってこられるだろうが、それにしても……。


 いつにも増して強引な手段をとるミリウスにシホは戸惑った。



 車内にガラガラという車輪の音だけが響き渡る。

 ミリウスのいうとおり、辻馬車である車内は狭く、屋根と壁こそあるものの、座席は二人掛けがやっとだ。

 これではたとえアーサーがその場にいても、乗り込むことは難しかっただろう。


(それは理解できるんだけど……)


 けれど、シホを車内に押し込み発車させるなり、それきり黙り込んでしまったミリウスに、シホはどうするべきか戸惑った。

 隣で頬杖をついて窓の外を見る横顔には、まだ先ほどの興奮が残っているのか、その瞳には煌々たる光を残している。



 シホはなんと声を掛けるべきか迷った。


 そして悩んだ末――やっと声を絞り出した。



「あの……ミリウス、今日はどうしてあの場所に……」


 問いかけながら、本当に聞きたいのはそんなことではないと頭のどこかが気づいていた。

 考えればわかることだ。あの場所にいた理由など、共にアーサーがいたことから考えると、彼が気づいたに違いない。

 腐っても長い付き合いのある彼ならば、勘付かれてもおかしくないような気がした。


 それに、ミリウスも同行させられただけなのだ。


「あ……ちが、そうだよね。アーサーに連れられて来ただけだもんね。ごめんね、私が彼に護衛を頼んだから――――」


 だから仕方なく。彼に同道して。

 そしてこんなみっともない場面を見せてしまった。


「本当に……なんか、恥ずかしい。変なとこ見せて――迷惑かけて、ごめんね」


 言葉にしながら、なぜか握り締めた手の内側が震えていた。





 ミリウスが、ゆっくりとこちらを向く。


 その青い瞳に、失望の最後通牒を突きつけられた気がして、ヒュッと肺が押し潰された。


 険しい表情を崩さぬまま、彼はその唇をゆっくりと開く。


「あなたはどうして――――」


 青い瞳がまっすぐに、刺すように強く、自分のことを見据えていた。


「どうして――――『助けて』、と。そうひと言、言わないんですか! 言えば俺は、どんなことをしてでも――――」



 ――あなたのことを、助けたのに。



 そう吐き出しながら、ミリウスはその胸の内を持て余したように両手を突き出す。

 長く伸びた両腕はシホの頭上を通り越し、揺れる馬車の窓ガラスとの間に、シホの体を閉じ込めた。


 視界が、ミリウスで埋め尽くされる。


「簡単な、たったそれだけのことなのに。なのにあなたは最初から……言うつもりがなかった? 俺たちが目の前に来ても、あの時も…………」


 頭上で、ミリウスの指がガラスを掻く。


「あなたは、脅されれば。金を、何かを盾に取られれば、それで簡単に誰かのものになるひとなんですか! ……そんな、そんな簡単な話なら――……っ!」


 何かを押し殺したようにミリウスの顔が強く歪み、その射貫くような瞳が仄暗く光った。

 その瞳の奥底にはまだ、あの熾火のような青い炎がちろちろと、消えぬまま揺れていた。


 まるで噛み付くように、青い視線がシホを縛る。

 縛って、有無を言わせぬようにして、そして――――。


 ミリウスは、その持て余した両腕で、シホのことを抱き締めた。


「………………」


 彼は何も言わない。

 けれど力強く肌に食い込む指が、彼の意志を告げていた。


 解くことを許さない、と。



 揺れる車内で抱き締められて、ほんの一瞬だったろう時間が永遠のように引き延ばされる。

 その長い空白のあと、シホの頭を掻き抱いたミリウスは、静かに呟いた。


「…………言ってください」

「……?」

「助けて、と。俺はここにいます……いるんです」

「………………」


 ゆっくりとその体を離しながら、シホの目を覗き込んで、諭すようにミリウスは語る。


「俺はここにいます。何を見ても、何があっても、あなたからは絶対に離れない。だから言ってください。『助けて』と。俺を――――必要としてください」


「っ!」


「さぁ、言って。口に出して。言葉にするんです」


 あやすようにミリウスの手が何度も優しく背を撫でる。

 言葉も、瞳も、何もかもが、そうしていいのだと。そうするべきだと、シホのただひと言を待っていた。



「……ぁ………………」


 言って、口にしていいのだろうか?

 そのひと言を。


 ずっと喉の奥底で引っかかっていた――――その言葉を。




 だって私は――――――――……





 『お荷物』、なのに――――。






 脳裏を、吹雪とともに白い世界が埋め尽くす。







 無理矢理、押しつけられた子供だった。

 顔も長らく見ていない息子の、どんな嫁とも知れぬ女との間に生まれた子供。

 そんなある日突然存在を知らされた孫娘だという子供を、あの人たちは押しつけられたのだ。


 両親の――息子夫婦の死の報告と引き換えに。


 出来も良くない、気も利かない。

 おまけに何よりも最悪なことに――――『色付き』の。


 自分を抱えることであの人たちがどれほど苦労したことだろう。

 村での立場もきっと悪くなったはずだ。

 寡黙な祖父に、穏やかな祖母。

 そんなあの人たちが、胸の奥に秘め漏らさぬようにしてきたものは……きっと想像に難くない。


 誰も――――生きているだけで石を投げられる子供など、欲しくなかっただろうに。


「っ…………!」


 『いっそ両親と共に死んでいれば――』


 そう、願われていてもおかしくない存在だったのに。






 だから努力をした。


 死に物狂いで勉強した。


 せめて師匠が認めてくれた魔術で実力が証明できれば、あの人たちにも胸を張ってもらえるかもと思ったから。


 どんな状況でも、どんな苦境でも。

 

 一人で生きていけるようになれと教えられて、その指導に縋りついた。

 痛くて、苦しくて、泣きたくなって、何もかもが絞りきれるように辛くても。ただ、その教えだけ信じていれば、この誰の手も差し伸べられない――――差し伸べられたとしても、その手を取った人に迷惑がかかるような世の中でも、強く生きていけると思ったから。




 なのに、『助けて』なんて言葉――――言える、はずがない。


 だって、もしその言葉を言ってしまって。


 縋って――。


 手を伸ばして――――。


 その掴もうとした手を振り払われたとき――――。



 そのときに、その突き放した瞳を前に。


 きっともう自分は――――生きていけないだろうから。




「っ……!!!」



 息が詰まる。呼吸ができない。

 当たり前のそれすらも、どうしていたのかわからなくなる。


 そんな震える体をミリウスは、そっと抱き締めてあやすように何度も背を撫でた。



「ゆっくり、ゆっくりでいいんです。ただひと言、その言葉を。その役目を――――俺にください」

「…………!!」


 言って……いいの? 本当に?


 迷惑に、ならないだろうか?


 重荷に、なったりしないだろうか?


 一時のきまぐれに期待して――――あとで、余計に苦しくなったりしないだろうか?


 彼は――――自分が見てきた彼は、そんな人だっただろうか?




 ……違う。


 ミリウスは、無責任に放り出さない。


 無責任に、抱え込まない。


 きちんと自分が全うできるだけのものを、精一杯抱えて大事にしてくれる人だ。


 ならば―――― 一度だけ。


 いまだけ、いまこの時だけ、寄りかかっても…………許されるだろうか?



「っ、ぁ…………」


 上擦った声が、気道に詰まる。


 たったひと言。たった、ひと言なのに。


 それを言葉にするのが、こんなにも難しかったなんて――――……。



「……っ、……て。………――――助、けて……っ!」


 押しつけるようなその叫びに、小さな掠れ声に。


「――――はい」


 返されたのは柔らかな抱擁だった。


 自分より遥かに長く、たくましい両腕が、まるで真綿を包み込むように自分を掻き抱く。



「絶対に、あなたは俺が救います――――」



 その耳に滑り込む優しい言葉に、生まれて初めて。




 何かを、許されたような、そんな気がした。






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