第99話 ホットミルク
魔物の討伐試験を終え、平時の落ち着きを取り戻した観測室で、ミリウスは先ほどの魔物戦について熱く語るラスティンの会話に付き合っていた。
次の移動時間までの間の束の間の休息だ。
演習場の職員たちも、王族を抱えた状態での最も危険な時間が過ぎたことで、皆どこかゆるりと緊張感が解けていた。
「しばしお待ちを」
待機を促された室内で、皆それぞれが自由に行動している。
先生はアーサーといくつか話をした後、この場の責任者である壮年の男と、今後の日程について確認するためか先ほどから話し込んでいる。
ミリウスが聞き耳を立てていると、話はまとまったのか、会話は雑談ともいえる方向へ流れていった。
「リドー教官。この度は大変お世話になりました」
「なに、私も自分の仕事をしただけさ。それに……『教官』はやめてくれ。あの頃は私も頑張ってそれらしく振る舞っていただけなのだから」
どうやら二人は旧知の間柄らしい。
「それよりも、ランドール。まさかきみがウィルテシア王族の護衛としてここに来るとはな。相当腕を買われているようだ」
「はは…………」
先生は曖昧に濁すと、成り行きです、と謙遜した。
「おまけにアーミントンでも教鞭を執っているとは、生徒からの人望もあるようだ。………………実に惜しいな、きみを手放したことは」
(――――!)
「いまからでもよければ、戻ってくる気はないか。……この有り様だ。いまこの隊は、隊を率いる指揮のできる人間を欲している。いまのきみならば――――」
「リドー長官。……時間です」
ぴしゃりとそう告げて、アーサーが二人の間に割り込んだ。
先生は躊躇いがちに二人を見比べて、そしてこれが最後の機会になると察したのだろう。長官に何かを問いかける。
「あの……ジークは。彼はいまどこに――――……!」
「ジーク…………?」
聞き慣れない人名に首を傾げるように、リドー長官は記憶を探る。
「ああ、あの隊にいた『彼』のことか――――」
シホの顔が、ぱっと華やぐ。
「彼ならば――――亡くなったよ。半年前に」
新たに構成された隊で、新人を庇っての戦死だった。
そう淡々と告げる長官の、あまりに日常的な報告に、シホの華やいだ顔が徐々に色を無くすように陰りを見せる。
そして何も窺えない表情になった後、
「そうですか。……ありがとうございました」
それだけを言って、踵を返した。
*
それからも先生は、いつものとおりだった。
視察を終えたミリウスたちを都まで引率し、笑顔で夕食を取らせ、『明日は休みだからって夜更かししちゃダメだからね!?』と言って、早めに就寝するよう生徒たちに促した。
――いつもどおりだった。
……何もかもが。
そうして『おやすみ』と閉じられた扉の向こうで、先生は一人泣くのだろうな……そんなことをミリウスはぼんやりと思った。
むしろ、ずっと泣いていたのかもしれない。
押し殺した感情のなかで、表情一つ変えず、行動と感情をズタズタに切り分けて、なんでもないような顔をしながら、その切り捨てられた気持ちの破片で人知れず泣く……。
シホ・ランドールというその女は、そうして静かに泣くような気がした。
「………………」
こんなとき自分は何もできない。
何もしてやれない。
彼女が苦しむときこそ支えてやりたいのに、何一つしてやれることがない。
「………………っ」
閉ざされた壁の向こうで今まさに涙に暮れているかもしれないシホを想像して、ミリウスはベッドから飛び起きた。
――自分で自分が嫌になる。
とても眠ることができそうになかったので、宿の階下に降り、何か飲もうと思い部屋を出た。
先日先生たちと歓迎会を開いた食堂兼バーでは、客こそいなかったが、店主が先ほどまでいた客の後片付けをしていた。
「すまない。何か寝付けるものを――――」
そう、店主に注文したときだった。
店の奥に引き返す店主と入れ違いに、背後でカタリと足音がした。
振り返る。
そこには――宿の備品だろう――薄い女性ものの夜着に、ガウンを羽織ったシホがいた。
「あ……ミリウス…………」
生徒がいるとは思わなかったのだろう。
先生は少々狼狽えた様子で視線を彷徨わせると、『眠れない?』と聞いてきた。
「――少し。喉が渇いてしまって」
「そう……」
ホッと安堵したような先生の目元はわずかに赤い。
おそらくやはり――――泣いていたのだろうと察せられた。
「先生は……?」
「私も、喉が渇いちゃって」
そうは言うが、本当に喉が渇いただけなら、部屋に備え付けの水差しで事足りる。
ミリウスのように嗜好品を求めて気軽に足を延ばせる状態ではなかっただろう先生が、それでも押して部屋を出てきたのには、訳があるはずだった。
(部屋に居辛いのか、それとも…………)
自分にも覚えがあった。
苦しいときに暗い一人の部屋にいると、次々に後悔や罪の意識、悪いことばかりが心を重く占めていくのだ。
それらから逃れるように外気を求め、明るい場所へと逃れたことが何度かあった。
きっと先生も、そうなのだろう。
「よければ……少し話をしていきませんか?」
生徒からの願いという形でなら、彼女も断ることはないだろう。
そう彼女の行動を見越して、ミリウスは食堂の一角に彼女を導いた。
「何か飲み物を。――ホットミルクでいいですか?」
こくりと頷く先生に、ミリウスは席を立つ。
店主に追加のホットミルクを注文すると同時に、少しばかり長居をする詫びに手持ちの銀貨をそっと置く。
「それと、追加のホットミルクには、蜂蜜と…………ブランデーを多めに入れてくれ」
今夜のような日の先生には、きっとこれくらいのほうがいいのだろう。
すぐさま店主が用意したカップを2つ手に持って、ミリウスは席に着く。
温かな湯気が漂う飲み物に、いくらか先生の気分も落ち着いたようだった。
日常の他愛ない話をし、軽く笑い合えるまでになった後。
先生はしばらく考え込んで…………ぽつりとひと言、呟いた。
「あのね、ミリウス。お願いがあるんだけど…………」
「なんです?」
「明日、授業も視察もお休みじゃない? だから午前中だけでいいの。あなたの護衛も――――休んでいい?」
「それは…………」
もちろん、その権利は先生にもある。
先生の護衛が外れる時間、ミリウスは大人しく宿で衛兵に守られていればいいだけだ。
それで誰にも迷惑は掛からない。……が。
「先生は……どこかに出かけられるんですか?」
それは仕事ではない。つまりは彼女のプライベートな部分に関わる話である。
ミリウスが口を差し挟んでよいものか迷ったが……聞かずにはいられなかった。
「ちょっと……ね」
「………………」
先生は言葉を濁す。言いにくいことなのかもしれない。
しかしミリウスが根気強く待っていると、先生は沈黙に耐えかねたように行き先を教えてくれた。
「……お墓参りを、しようと思って」
それはつまり――――。
聞かずともわかる。それは今日、先生がこれほどにまで落ち込んでいるその原因。
かつての仲間、『ジーク』と呼ばれるその男の眠る墓のことだった。
「………………」
「駄目…………かな?」
「いえ。是非、行ってあげてください」
貴重な機会なのだから、きっとその方も喜びます――。
そんな彼女の背を押すような言葉をつらつらと吐きながら、それでも内心首をもたげるのは、浅ましい疑問だった。
――その男は、先生にとって何だったのか。
――そこまで心痛めるほどの、大事な人間だったのか。
――それは――――自分たち生徒よりも?
――俺が死んでも先生は……そこまで悲しんでくれるのだろうか……?
心優しい先生ならば、誰にだってそう心を痛めるだろうに。
先生が必死にその男の行方を知ろうとしたばかりに、卑屈な嫉妬心ばかりが渦巻いた。
卑屈で、矮小で、それでも先生を手に入れたい――振り向いて欲しい、浅ましい自分。
そんな凝った考えを胸の内に溜めるから、つい口先から出てしまった。
「その墓参りに――――俺もついていくことは可能でしょうか?」
「……?」
先生は、何故だ、とわかりやすく顔に書いてある。
それはそうだろう。見ず知らずの人間の墓参りに付き合う人間など普通はいない。
せめて親類縁者になる人間の家族でもあれば理解できそうではあるが――……。
「おそらく、この地で墓参りということは。調査討伐隊の方々のことでしょう。それならば俺も――――この国を、現実を、知っておきたい」
口先は適当な嘘を創り上げる。
もちろんそうした王族としての使命感もあったが、一番大部分を占めるのは、先生への関心だった。
先生は誰の墓に、どんな気持ちで向かいその故人と対面するのか――。
そのとき先生は――――また心を痛めたりはしないだろうか。
(一人には――――したくない……)
先生は逡巡した後、ミリウスの王族としての覚悟のようなものと理解したのだろう。
わかった、とひとつ頷いて、自分の無理な願いを承諾してくれた。
「それじゃあ、また明日……」
明日の予定を確認し合おうとしたところで、先生の目蓋がとろりと落ちる。
どうやらミルクに忍ばせたブランデーが効いてきたようだ。
ふらふらと立ち上がる先生の肩を抱き、部屋まで支える。
ほとんど意識のない彼女を連れて、彼女の部屋へと入った。
今日はまだ眠った形跡のない寝台に、ゆっくりと彼女を横たえる。
そうして布団を掛けて、ミリウスはその枕元にゆっくりと跪いた。
「どうか、良い眠りを――――」
せめて、夢の中くらい、彼女を苛むものが訪れなければいい。そんな祈りを込めて、そっと彼女の手の甲に口づける。
本当は、その安らかに寝息を立てる唇に口づけたい。
けれどそれはまだ許されないから、せめて、願うように祈りを込めて口づける。
彼女に、シホに幸多からんことを。
そして願わくば、その一番身近で、彼女に幸を与えられる人間が、ほかでもない自分であることを。
そのために惜しむものなどなにもない。
ただ、彼女のために――――。
静かな夜は、そうしてゆっくりと更けていった。




