08.最初から決まっていたこと
気づいてしまった愚か者。
あの日、別邸から追い出されたティエリが、惨めな気持ちで本邸に戻ってから数日。
攫ってでもレオニーを手に入れようと、ならず者を雇って別邸の門前で待ち構えさせたりしたものの、本当にレオニーは帰っていないようだった。
それどころか使用人の数も減り、今ではメイドの姿は一切なく、屈強そうな護衛と門番ばかりが姿を見せるのみ。
本当に離宮に連れて行ったのだとしたら、ティエリでは呼び戻す方法がわからない。
侯爵家の当主となるだろうティエリは、王城で職を得ていないことから伝手などないし、以前にあった女性絡みのトラブルから、必要最低限の登城しか許されない時期もあった。
それに母親である侯爵夫人の醜聞で、悪友から届く手紙が煩わしい状態であり、彼らに頼めばいらぬ噂まで一緒に流れるとわかっている。
簡潔な用件のみの手紙をレオニーに送ってみたが、未開封のままで返されている。
さらには、そんなところに母親が帰ってきた。
彼女は王都に辿り着いた足でそのまま別邸へと押しかけ、そしてティエリ同様に追い払われている。
それどころか、アルマンが離宮に帰ったのはティエリが押しかけたからだと吹聴され、ここ最近では母親と顔を合わせる度に、ヒステリックな母親の声が屋敷に響く始末。
普段なら娼館に逃げるだけで済むのだが、常に父親が不在とあれば、隙あらば離宮へと向かおうとする母親を制止する役目はティエリしかいない。
エディットは体調を崩したのだと言って、最近では部屋に籠ったままだ。
ティエリが怒りに任せて手紙のことを詰ったので、ほとぼりが冷めるまでは顔を合わせるつもりがないのだろう。
そんな仮病に医者を呼ぶ必要はないと思ったが、いい加減エディットの態度も腹立たしい。
こうなったら医者を呼んで仮病だとはっきりさせて、怒鳴りつけるなりして鬱憤を晴らさないと、ストレスでおかしくなりそうだった。
そして、こんな時でも姿を見せない父親が恨めしい。
愛人を数人抱えている父親は、本邸に居ることがほとんどなく、侯爵としての仕事も愛人宅でしているのだとは聞いている。
父親が不在なことにも母親は不満を抱えていたが、今回の件さえ無ければ、ティエリとしては面倒な仕事を任されることのない楽な環境を歓迎していた。
母親からは度々、後を継ぐことを考えて励みなさいと言われるが、あれだけ遊び回っている父親が、愛人と遊んでいる片手間にできることなのだ。
大したことはしていないのだろうし、もし優秀な者を雇っているならば、ティエリが当主になっても引き続き働いてもらえばいいだけだ。
ティエリに求められることは、モンジャルダン侯爵家の子を産ませることが最優先である。
その為には、どうにかしてレオニーを手に入れなければならないが、結局何も思いつかず、同じ考えを巡っては一日を終わらせる生活を過ごすばかり。
けれど、そんな生活に転機をもたらしたのは、久しぶりに帰ってきた父親だった。
出迎えて早々に、自身の汚名が返上されないのは、何も対策を取ってくれない父親のせいだと罵る母親と、それを聞き流しながら家令と話す父親。
ティエリが物心付いたときからよく見る光景だ。
いつだって、母親は淑女であることを忘れたように感情のままに責め立て、父親は聞いているような顔で聞いていない。
母親はモンジャルダン侯爵家に求められて嫁いできたのだと、自信に溢れた顔で幼いティエリに語っていたのだが、父親の態度がティエリに違和感だけを与えてくる。
とはいえ、ティエリはモンジャルダン侯爵家の要素を引き継いでいる。
いくら不仲とはいえ、父親も正妻である母親のことは尊重しているはずなのだ。
「陛下から呼び出しの手紙が届いていたので、明日は全員で登城する。
他の予定を入れないようにと、朝早くなるだろうから夜更かしは程々にしておいた方がよい」
それだけ言うと父親は立ち去ろうとしたが、階段を上る足を止めて母親とティエリを見る。
「わかっていると思うが、エディット嬢はモンジャルダン侯爵家の者ではないので、同伴は一切認めない。
間違っても彼女に伝えることは許さないし、着飾らせれば連れて行けると思わないように」
途端に悲鳴にも似た非難を叫び始めた母親を一切見ないまま、再び父親は階段を上り始める。
そうして寝室にも横にある自分の部屋にも入らず、一番端の客間へと姿を消していった。
** *
久しぶりの王城は、今まで以上に余所余所しい印象をティエリに与え、そして仕事や手続きなどで通り過ぎる人々の視線までもが、隠す気も無い感情が見えて刺さるようだった。
今日の呼び出しは公式ではないのか、謁見の間ではなく広い応接間に案内され、程なくして国王の訪れが知らされる。
礼をもって出迎えるために、立ち上がった父親に倣ってティエリも立ち上がり、母親も渋々といった様子で腰を上げる。
すぐに扉が開かれ、国王と共に王太子が入ってきた。
その後ろには宰相と、それから政務官らしき者が二名。
レオニーとアルマンは来ないようだった。
格式ばった礼を執り、恭しく下げた頭をゆっくり戻せば、感情の無い笑みだけ貼り付けた親子が席に着き、ティエリ達にも座るよう勧めてくれる。
すぐにお茶の用意が調えられ、役目を終えたメイド達が壁へと控えるのを確認して、国王は口を開く。
「この度の呼び出しに応じ、ご苦労である。
さて、予定の調整はしているが多くの者が次を待っており、時間がいくらあっても足りぬ身。
すまないが、手短に済ませるよう願いたい」
父親に向けた言葉は柔らかく、あくまでこちらに協力を求めるようだが、モンジャルダン侯爵家に時間を割く価値もないのだと言っているに等しい。
そして話し合う時間を取る気も無く、これから国王の言葉は要請などではなくて、命令だということが言外に匂わされている。
恐らく言われることは、母親に関することだろう。
昨年の夜会で起こした騒ぎについて、王家とモンジャルダン侯爵家での話し合いは成されていないはず。
少なくとも父親が動いたという話はどこからも聞いていないし、だからこその呼び出しだと考えている。
何を言われるかで対応は変わるのだろうが、動じることなく笑顔を保ったままの父は何を言うことも無く、国王の言葉の続きを待っている。
母親の方も面倒な事は父親任せで済ませようとでもいうのか、そっぽを向いたまま扇を広げ、口を開くことはない。
そしてティエリも口を開くことは許されない。
どれだけティエリが色々考えようとも、会話の主体となるのは父親だ。
これから言われるだろう王家からの難癖を躱して、モンジャルダン侯爵家が不利にならないような話に持っていってもらう必要がある。
愛人との怠惰な生活に耽る合間にしか仕事をしない無能な父親に、それができるのだろうか。
当主を代わった方が良いのではないかと思うことは度々あったが、ティエリが積極的に侯爵としての仕事を覚えようとしたことはなかった。
当主の仕事をするのが面倒だからと、今まで放置していたことが悔やまれる。
「先の夜会での話だが、過去に誓約書まで書いたにも関わらず、モンジャルダン侯爵夫人の態度が改まることはなかった。
むしろ酷くなったといっても過言ではないだろう」
はっきりと言われた母親の悪行に、思わずティエリは身を竦ませる。
国王の話しぶりは静かなものだが、顔は少しも笑っていない。
「あれだけのことをし、ましてや過去の真実が暴かれたとあっては、王家としてもこれ以上隠し立てをしてまで庇う理由もない。
かつての事件で侯爵が随分と奔走し、妻を庇い立てたとしても。
違うか、侯爵よ?」
想像していた通りの言葉に、父親が粛々とした表情で頭を垂れる。
「陛下のお言葉の通りでございます。この度は我が妻の誠意なき行動にて、アルマン王弟殿下のお心を再び曇らせたこと、モンジャルダン侯爵家当主として深く謝罪致します。
当家が王家に対して悪意が無いことを証明するために、おっしゃられることは全て受け入れるつもりでございます」
父親の言葉に、国王が満足そうに頷く。
最悪だ。
このままだと王家に何でも命じられ放題になってしまう。
特にティエリを見て、なんともいえぬ微笑みを浮かべる王太子が何か企んでいそうで、薄気味悪くて仕方がなかった。
だが、ティエリにはこういった交渉の経験は無く、何が最善かはわからない。
できることは、ただ話の中で自分が損をすることはないかを聞くだけ。
「あの時もそうだったが、侯爵は理解が早くて助かる。
単刀直入に申し渡そう。モンジャルダン侯爵令息夫人レオニーを宰妾として召し上げる。
これを王命とする」
一瞬、言葉の意味が分からずに、思わず国王の顔を凝視する。
宰妾という言葉が耳慣れなく、戸惑うことも数秒。
学園で学んだ国史の教科書に描かれた、麗しい女性の肖像画を思い出した。
思い出したのもティエリが格段勉強熱心だったからではなく、学園時代に悪友たちと、この顔とお付き合いできたらという下世話な話で盛り上がったからだ。
同時に言葉の意味も思い出す。
宰妾は、王家の為に尽くす婦人を指す。
それは政治的なパートナーの意味合いも強いが、社交界に流行や新しい文化を花咲かせ、時として子を産めぬ王妃の為に王族の血を引いた子を産む役割も持つ。
息を呑んだのは誰だったのだろうか。
ティエリのような気もするし、隣の母親な気もした。
明らかに顔色が変わっただろうティエリを見ることもなく、王家とモンジャルダン侯爵家双方の話は進んでいく。
「現在、王太子には子がおらず、大病を患ったとあれば、これから先で儲けることが難しいという可能性もある。
そのため、いざという時に代わりに王家の子を産める者を探していた」
国王の言葉を引き継ぐように、代わって王太子が口を開いた。
「レオニーは王家の血を色濃く引く外戚であり、モンジャルダン侯爵令息とは夜の営みは行わないと明文化されている。
侯爵令息には王家主催の夜会にまで連れて来る愛人がいるのだから、子の問題を気にする必要もないだろう」
そんなわけがあるか。
怒りが腹の底でグラグラと煮立つ音が聞こえそうだ。
だが、さすがに酒が抜けている今では、王家に喧嘩を売ることは命知らずと知っている。
怒りを眼差しに乗せて睨むも、線の細い王太子は笑みを絶やすことなく、ティエリの怒りを真っ向から受け止めることなく流している様子にも見受けられた。
むしろ、怒るティエリの反応を楽しんでいる節すら見られて気分が悪い。
けれど、そんなティエリの気持ちなど、父親には伝わらない。
「承りましょう。両家にて署名した婚約誓約書には、夫婦らしいことはない旨を記載しておりますのも事実。
また、当家から宰妾が召されたとなれば、王家への忠誠を示せるでしょうから。
このような形での、陛下のご配慮に感謝致します」
父親の返しは模範解答とも取れる、王家に恭順を示したものだ。
だが、口からスラスラと流れる言葉は、あたかも最初から用意されたような感覚すらティエリに与える。
国王の言葉に何一つ驚くことなく、最初から用意された芝居の台本を読むような。
まさか。
ティエリが父親へと目を向ければ、薄く笑ったままの顔がやはり知っていたかのように見え、まるでティエリの疑惑を肯定しているかのようだった。
「うむ。前侯爵の見る目さえあれば、モンジャルダン侯爵家はもっと繁栄したであろうに。
実に残念なことだ」
顎を擦りながら言われる国王の言葉には、過分なまでの嫌味が込められている。
ティエリの祖父が母親を選んだのが失敗だと言われているのだ。
羞恥と怒りで頬が熱を帯びる。
だが、否定どころか、発言すら許されていない。
「国王陛下。あの小娘が宰妾になるということで、間違いないのでしょうか?」
それなのに唐突に割って入ったのは、歓喜に震える声だ。
横にいる母親だと気づき、ゾワリと背筋に悪寒が走った。
ティエリでさえ、この後に母親が何を言うかを想像できた。
これ以上は喋らせてはならない。
そう思うのに、母親の気を引けるような言葉がティエリから出てこない。
「ならば、アルマン様が愛人でいる必要はなくなるのでしょう。
是非とも」
バシャリと水の音と共に、母親の声が止まる。
ティエリの視界にあるのは、髪先から茶を滴らせて呆然とする母親と、手にしていたカップを母親の頭上で逆さにして中身をぶちまけた父親の姿だった。
「すまない、手が滑ったようだ」
故意であることを隠す気の無い、白々しい嘘を口にした父親が、国王へと視線を向ける。
「このような姿となれば、御前にいるには相応しくなく。
妻が席を辞することをお許し頂いても?」
国王からの許可と共に、王城のメイドや他の使用人達が母親を連れ出そうとする。
今まで父親から、ここまで強引なことをされたことは無かった。
父親の顔を何度も見直しては、口を開き、そして何も言わないままに口を閉じといったまま、母親は応接間の外へと出て行った。
「夫人のことはご心配なく。
風邪などひかぬよう、控え室で乾かすものや温めるものを用意しておきましょう。
持ち手の短いウォーミング・パンもあるので、シーツなどで巻けば、抱きかかえて温まるのに丁度いいでしょう」
和やかな笑い声が部屋に響く。
国王も、王太子も、父親も笑っているこの場が酷く居心地が悪く、いっそ母親に付き添う形で一緒に出て行けば楽だったのではと、ティエリは今更後悔していた。
母親の頭上にあったカップは、完全に真上というよりもやや前にあったせいか、母親を濡らしてもソファへの被害はない。
手際よくテーブルと床が拭かれ、新しいお茶が用意される。
よく見たら、先程のお茶よりも色が濃い気がする。
それに母親は熱さを訴えることはなかった。
もはやティエリにとって、どこからどこまでが仕組まれていたことなのかがわからない。
再びお茶の用意が済めば、新たな書面が広げられた。
手にした父親が確認するのを、横からティエリも覗き込む。
そこに書かれていたのは、レオニーを宰妾とするという王命の文書だった。
書類の下部には署名する欄が一つだけしかない。
ティエリの意見など一切聞かれることのない、当主の判断だけで済むものだ。
「王命とあるが、王家が宰妾を持つのは随分と久しいこと。
双方の意思に間違いがないよう、書面としようではないか」
これに父親が署名したら、たとえティエリが当主になったとしても、王命は継続となるだろう。
理由はわからないが、王家は最初からこれを狙っていたのだ。
最初からレオニーを宰妾にするつもりで、ティエリと結婚するように王命を下した。
もしかしたら母親への仕返しなのかもしれない。
だが、そうだとしても、ティエリが被害を受ける必要はないはずだ。
何が悪かったのだろうか。
考えても浮かぶのは、レオニーに対する恨み言だけだ。
あの女が最初から美しく装っていたら。
あの女が意固地になって愛人を持つなどせず、ティエリに従順であったならば。
あの女が夜会に同伴するのを断らず、ティエリに添う花であったならば。
あの女が全部悪いのだ。
目の前の父親が気軽な様子でペンを手にすると、サラサラと名前を書いてしまう。
瞬く間にティエリが関わる契約が、また一つ成立してしまう。
「これで侯爵令息夫人は王家の宰妾だ。
既に別邸から退去しているようだが、以降は離宮で過ごすことになる。
間違いがあってはならぬからな、レオニーが子を産んだとしても夫との面会は禁止とする」
よいな、という言葉に反論もできず、承諾の意を返す父親を横目で睨むことしかできない。
結局、馬鹿にしていたはずの父親にさえ何も言えず、話はさして時間をかけることなく終了しした。
「それにしても侯爵夫人があの様子では、侯爵も社交の場で肩身が狭かろう」
「あの時より社交の場にはあまり姿を見せないようにとしておりましたが、以降も暫くは慎むべきかと」
穏やかな口調での会話は、当の本人がいない間に交わされる話題へと変わっていく。
「ただ、当家から宰妾が召されたのならば、意図せぬ受け止められ方をされないよう、どこかのタイミングでは顔を見せねばならないとは考えております」
「うむ。昔と変わらず思慮深いものよ」
満足気に国王が頷き、豊かな髭を撫でつけながらチラリとティエリを見て、すぐに父親へと視線を向け直す。
「とはいえ、侯爵夫人と令息は己の境遇に納得していないだろうし、再びいらぬ騒ぎを呼んでモンジャルダン侯爵家の名誉を地の底まで落とす可能性だってあろう。
次に夜会へと招く際は、代役を立てることを許可する」
深々と下げられる父親の頭。
言葉の意味を理解しながらも、受け入れることができず、ティエリの視線は王家と父親を交互にさまよう。
次の夜会に参加するときには、母親とティエリではなく、他の女と子を連れて行っていいと言われたのだ。
何かの間違いだろうと、瞬きも忘れて彼らを見るが、これで話し合いは終わりだと、挨拶も早々に国王と王太子は部屋から去っていく。
残された父親は自身の執事にペンを渡し、そこでようやくティエリと正面から向き合った。
「新たな契約によって、今日から宰妾に会うことは許されない。
それを守らなければ、罰は厳しくなるだろうことを忘れないように」
「そんなの、あんたが勝手に了承したからだろうが。
あの女がいれば、不名誉な噂話を無かったことにできたかもしれないのに!」
ティエリの非難の声は、荒ぶる感情で声高になっていく。
だが、父親は気に掛ける素振りも見せずに、淡々とした声で返してきた。
「何をどうしたら、今の状況を彼女一人手に入れただけで、好転させられると思っているのやら。
さらに自分では何一つできず、他人任せな挙句に文句ばかり。
あれは一体どういうつもりで、自分の息子を育てたのやら」
どの口がそれを言うか。
ほとんど見ない父親が、ティエリの教育について語る資格などはない。
「確かに母上はアルマン王弟殿下に執着しているが、それもこれも、あんたが愛人の家に入り浸って、母上を蔑ろにするからだろう!
ちゃんと侯爵夫人として扱えば、こんなことにはならなかった!」
感情のままに吐き出されたティエリの本音を、けれど父親は表情を変えることなく小さく嗤い声を上げた。
「本当にあれは都合の悪いことを一切言わず、そしてお前は何も知らないのだな」
どこか呆れを含んだ声音が、ティエリの怒りに不安という水を差す。
「順番が逆だ」
意味がわからず、ただただ父親の話の続きを待つしかない。
「お前の母親がアルマン殿下の事件を起こす前、私には愛人など一切いなかった」
どういうことだ、という言葉は出なかった。
その言葉の真偽がわからなかったからではない。
急に父親が他人のように思えたからだった。
愛情の希薄な人間だと思っていたが、今日は一層強くそれを感じる。
淡々と語られる言葉が嘘に思えなかった。
ティエリの物心が付いた頃には父親は家に帰ることがほとんどなく、そして時折家に戻ってきた父親を詰る母親を見るのが日常だった。
だから、てっきり母親ばかりが我慢を強いられていたのだと思っていた。
もし、もしも本当に、母親の不貞が先なのだとしたら。
「だ、けど、母上は、あんたの子を産んでいる。モンジャルダン侯爵家の跡取りである俺を産んで、ちゃんと義務は果たしている」
もう、何を言いたいのか、ティエリ自身にさえわからない。
母親が子を産みさえすれば、何をしてもいいわけではないのはわかっている。
それを口にしたのは、それしかないからだ。
それなのに、父親は数秒ティエリを眺め、首を横に振る。
「お前が私の息子である可能性は限りなく低い」
何気なく父親が吐き出す音の繋がりに含まれた、聞いてはいけない言葉の意味。
ティエリは思考が止まり、息を止め、体の震えを感じたときには叫ぶのを止められなかった。
「嘘だ! 嘘をつくな! どう見たって俺はモンジャルダン侯爵家の子だ!」
とんだ嘘つき野郎。この最低な屑。侯爵家の恥。
ありとあらゆる貧相な暴言を吐いて、父親を罵る。
対する父親は凪いだ様子で、ただティエリを見ているだけだ。
ティエリが散々に罵声を浴びせて、肩で息をつく頃、再び父親が口を開いた。
「お前は確かにモンジャルダン侯爵家の血筋だ。
だが、やはり私の子である可能性は低い」
誰が呼んだのか、いつの間にか部屋の中には騎士が控えている。
ティエリが父親に手を出そうとしたら、すぐに取り押さえられるだろう。
叫び疲れたティエリが暴力を振るうほどの気力がないのをいいことに、父親の聞きたくない話は続いていく。
「なにせ結婚式の翌日には、私は領内で起きた揉め事の仲裁をする為、暫くあれのいる王都のタウンハウスから離れていたのだから」
父親の細められた目にある感情はわからず、そこに映るティエリの姿ははっきりとしない。
「半年も経って帰ってきたときには、大いに驚いたものだ。
なにせ、出産日が些か怪しいお前を身籠っていたのだからな」
結婚式の翌日から不在だった父親。
半年後に戻れば妻が妊娠している。
当然の話だが、たった一夜のことであっても子はできるものだ。
だが、出産日が怪しいとなれば、誰だって疑いたくなるというもの。
そしてティエリが五歳になるまでは、祖父母がしょっちゅうタウンハウスを訪れていた。
つまりはそういうことで、父親はあり得ない不貞を疑っているのだ。
「あれもそうだが、お前の祖父も倫理観がすっぽり抜けた人間の類だ。
つまり、お前は私の子ではなく、前侯爵の子の可能性の方が高い」
笑みを作っている父親の唇が、少しだけ歪んだ気がした。
その後、父親と何を話したかは覚えていない。
気づけば帰りの馬車の中で震えており、温かな毛皮に包まれて憔悴仕切った母親と二人、気まずい雰囲気のままに侯爵家へと帰っていったのだから。
この年、社交シーズンの始まりを告げる夜会では、宰相の横には新たな補佐官達が並び、そして王家の宰妾としてレオニーが紹介されることになる。
そんなレオニーの横にはアルマンが変わらずエスコートしており、事情を察した者達はいらぬことを口にせぬようにと、唇を微笑みの形にだけして拍手をした。
それとは別に、傾国の美貌が浮かべた微笑みに、耐性を持たない若い令息と令嬢達が、控室や自宅送りになった数は多かったのだが。
ただ、これから始まる王都での忙しない日々が宣言される中、モンジャルダン侯爵家の姿は無かった。
宰妾は造語です。




