06.夜会の主役
良い意味では二人の、悪い意味では一人の。
夜の帳を下ろそうとも、いくつもの照明と絢爛豪華なドレスで溢れる夜会の光を隠すことはできない。
今夜は王家主催の夜会だ。
社交シーズンの終わり頃に開催される夜会は、誰もが冬支度が始まる前だと妙に浮かれている節がある。
それに社交界デビューしたものの、良い相手が見つからない子女達が焦る姿も見受けられて、普段の活気とは違う熱を帯びるのは毎年の話だ。
エディットがまだ成人していないので、去年までは出会いに焦る令嬢を適当に摘まみ食いしては逃げていたのだが、今年のティエリには何としても同伴させたい人間がいたのだが、その目論見は叶わずにいる。
王家主催の夜会ばかりは夫婦で行く必要があるという建前で、ティエリの色のドレスを纏ってエスコートされるよう、何度となく手紙を送っても、すぐさま断りの手紙が届く。
先週に至っては、諦めずに手紙を送ろうとした時に断りの手紙が渡され、レオニーは仕事に向かったので手紙は結構と伝えられたのだ。
──馬鹿にしている。
あんな女なんか放っておきなさいと言って、結婚以来どこかヒステリー気味な母親が、エディットのドレスを仕立て始めたのは初夏の始まる頃で。
未成年であるが既にティエリの愛人でもあるエディットは、金に糸目をつけないと言った母親の言葉に、これでもかと普段では頼めないようなドレスを仕立ててもらっていた。
横に座る彼女をチラリと見る。
可愛らしさを全面に押し出したドレスの色は薄桃色で、胸元が大きく開かれたデザインだが、幾重にも重ねられたレースがきわどい所を隠しているので下品にはならない。
腰から下は光沢のあるオーガンジーの布を幾重にも重ねて、まるで一輪の可憐な花のようだった。
髪飾りも同じ薄桃色の生花と不揃いな白真珠が飾られて、耳と首には揃いのイヤリングとネックレス。
生花と髪を束ねるリボン、それから指輪の宝石が深緑で、そしてスカート部分に金糸によって刺繍されており、ティエリの色を身に着けて寵愛をアピールしたものだ。
対するティエリの衣装も母親が無断で用意しており、エディットの瞳の青を基調に、襟元や袖口に金の刺繍がされている。
一切レオニーの色の含まない礼装は、愛が無い夫婦を物語っているかのよう。
それが、どうにも酷く気に食わない。
別にティエリはレオニーに対して愛情があるわけではない。
中々見かけることのない、身分も申し分ない上玉を手に入れたいだけだ。
いわばコレクションのようなものである。
人によってはパトロンになっている画家の絵であったり、稀覯本だったりを集めるところを、ティエリにとっては蒐集対象が女であるに過ぎない。
むしろ、数多くのいい女を好きにできるなんて、男のロマンだろうと思っているぐらいだ。
それなのに、レオニーという女は妻であるにも関わらず、ティエリに身を差し出そうとしないでいる。
二言目には契約のことを口にするが、夫婦に必要なのは妻が夫に従順であることと、夫の為に見目麗しく装うことだ。
それを理解できないから、あんなに生意気なのだ。
意地を張るせいで今宵の夜会に参加できないレオニーは、このまま意地を張るとどの夜会にも参加できなくなることを思い知ればいい。
ティエリは寛容だ。
反省するようならば、チャンスぐらいは与えてやってもいい。
ティエリのために美しく装うならば、自身を装う花としての役割を与えてやろう。
ティエリの考えは止まることなく続き、いつもより早く王城に着いた感覚に陥りながら、エディットに手を刺し差し出した。
今宵のティエリに添えられた花。
馬車から出てきたエディットを見て、周囲の空気が僅かに変わった。
入場を待つ貴族達が知り合いを見つけて歓談しながらも、チラチラと視線を向けてくる。
それがエディットにも伝わったのか、不安そうにティエリの腕に縋り、上目遣いで見てきた。
このような場で臆するなど、貴族令嬢としては相応しくない。
だが、本当に見た目だけは良い。
周囲から向けられる視線は好奇心だけではないことから、それは堂々と可愛らしい愛人を持てることへの羨望だと思い、ティエリの気分も上昇する。
今日のところはエディットを連れ回して自慢したらよしとしよう。
そう考えながら、城の使用人の誘導に合わせてゆっくりと廊下を進んでいった。
「モンジャルダン侯爵夫妻とご令息、クレーク子爵令嬢の入場!」
両開きの重々しい扉は既に開かれており、そこから昼間のような明るさの大広間へと入れば、既にそれなりの数の貴族と縁者達が始まりを待ちわびていた。
学園時代の知った顔もいれば、若気の至りを楽しむティエリのことを知っている顔見知りもいる。
その中から悪友たちの姿を見つけてエディットを連れて行けば、誰もが訳知り顔でティエリの背や肩を叩いてきた。
「なんだ、行き遅れ女を連れてコソコソ来るのだと思ったら、可愛らしい令嬢を連れてきたじゃないか!」
「堂々と愛人を連れて歩いて、残念な本妻殿はどうした?」
取り巻く彼らの質問は良くも悪くも興味の赴くままであり、ティエリは一瞬黙ってから、「年増なんかみっともなくて連れ歩けるか」とだけ返す。
レオニーが美しかったことを言っても信じるか疑わしい。
たとえ信じたとしても、エディットを連れているティエリの状況から、逆にレオニーから無下にされていることに気づかれる可能性がある。
それを貴族として、友人相手でも弱みを見せるつもりはない。
「でもまあ、そうだよな。適齢期を迎えても婚約者の一人もいなかった女なんて。
自分に魅力が無いと自己紹介しているようなものだ」
「公爵令嬢だからって押し付けられて、ティエリも大変だな」
思い思いに慰めを口にする彼らに、エディットの肩を抱きながら、これ見よがしに肩をすくめてみせる。
それからは新しい話題へと興味は移っていく。
今年の葡萄酒の出来や、他国から持ち込まれた新しい硝子の工芸品。
それから隣国で流行り始めた、平民の少女が貴族の妻になるというサクセスストーリーの歌劇。
合間に聞こえる入場者の名前を聞いては、目を付けている令嬢や夫人だったかと確認する。
彼らと話している間にも、大広間に人は増えていった。
社交界に回る話は早い。
時折、人々がティエリとエディットを見ては、視線を外して他の者との会話に興じる。
その中のどれだけが、ハズレのような本妻を放って、まだ花咲く前の蕾のような愛人を連れているティエリの話をしているのだろうか。
もし、レオニーを連れていたらどうだっただろうかと思う
誰もが視線を外せず、隣に立つティエリに羨望どころから嫉妬の目で見ていたかもしれない。
やはり、次の夜会にはレオニーを連れて行こう。
決意と共にグラスの酒を飲み干したところで、一際高らかに入場のラッパが鳴らされた。
既に大広間に人は満ちている。
これは王家の入場の合図だ。
「ご歓談を止められよ!
国王陛下と王妃殿下、王太子殿下ご夫妻、宰相閣下の入場である!」
一際響く大きな声に、誰もが話をピタリと止めて、貴族達とは反対側にある両開きの扉が開かれるのを待つ。
騎士達によって音も無く開かれた、背の高い扉の向こう側に見える人影達。
「我らが太陽、国王陛下と王妃殿下のご入場!」
入ってきたのは、この国の王だ。
威厳はあるが威圧的ではない雰囲気を持つ、齢50歳を迎えたばかりの覇気のある王である。
ただ、公爵夫人と同じ髪と瞳の色は、ティエリに色々思い出させて少々気分が悪い。
そして、同じ色をレオニーで見ていれば、なおさら。
自然と唇の片側が歪みそうになるので、侯爵令息の面の皮が押し留める。
傍らの王妃はといえば、いつ見ても麗しい令嬢のような人物だ。
ティエリの母親と変わらない年の頃ではあるが、いまだ新妻のような愛くるしさを持っている。
一度は手を出してみたい気もするが、公になったらモンジャルダン侯爵家の一員だったとしても厳罰は避けられない。
「春の陽射したる黄金、王太子殿下と王太子妃殿下のご入場!」
続いて入ってきた二人を見て、さすがに表情に嫌悪が薄く出るのを止められなかった。
きっと離れた場所にいる母親も同じだろう。
結婚式に参列した時と変わらず、線が細いままである王太子は、溌溂とした妻をエスコートして歩いている。
横にいる妻が健康的であればあるほど、王太子が病的にさえ映るのだが、二人は気にしていないようだった。
「宰相閣下及び、宰相補佐を務められるアルマン王弟殿下と、モンジャルダン侯爵令息夫人のご入場!」
最後の入場者の名前に、女性達が悲鳴にも似た声を上げ、周囲に今までにない程のどよめきが広がった。
当然だ。傾国と言われている王弟殿下は、14歳の時に女性に襲われかけたという噂の後から、離宮に籠って出てこなくなって長い年月が経っている。
それによって多くの夫人や令嬢達は、心から嘆き、そして心から襲った女性のことを恨んだのも昔の話。
彼の美貌を知っている者は再び会えることを祈っていただろうし、噂だけ知る者はどれ程の美貌なのかと興味津々だ。
もはや儚くなったのではないかと思っていたところでの登場に、誰しもが驚き、宰相補佐という肩書に誰のことかと一瞬悩んだのは当然のことだろう。
すぐに冴えない二人組がいたことを思い出し、ついでに人によっては過去にいらぬことを口にしたことまで思い出して、顔を蒼褪めさせた者達もいる。
けれど、姿を現した彼らを見ると、誰もが心ごと奪われたように言葉を無くして見つめるだけとなった。
現れたレオニーは、以前にティエリが見た時より、も美しさに磨きがかかっていた。
大人びた色香を纏わせるドレスは黒に始まり、スカート部分の裾に続くにつれて変わる橙にも似た黄金の色。
どちらもティエリの色ではない。
「あの王弟殿下のか……」
無意識に舌打ちをする。
胸の大きく開かれたドレスは、その形の良さを惜しみなく披露しているくせに、少しも下品さを感じさせない。
レースやフリルが控え目なせいか、体のラインが強調されるドレスは見たことのないデザインだったが、上品な色気に満ちていた。
装飾品は黒真珠と金細工で作られており、髪と耳、首元を飾っている。
そういえば、今日の母親も黒真珠を装飾に使っていた。
レオニーと同じだと知って、怒りで震えているだろう。
エディットがティエリ寵愛を受けているとアピールするのと同様に、レオニーはアルマンとの関係を見せつけるドレスだ。
隣に立つアルマンも、服の生地の色味は黒ながらも髪を結ぶリボンや、胸元のハンカチはレオニーの髪色であり、袖口の縁にはアクアマリンのような瞳を連想させる淡い水色が使われている。
あれが噂の、という囁きがあちこちで聞こえ、そして彼らの美しさと色気に耐性の無い、初心な令嬢や令息達がとろけた吐息と共に、数人が倒れていく。
たとえ倒れずにいたとしても、麗しい二人組に感嘆の溜息を落とし、誰もが羨望の視線で見つめるだけ。
けれど、アルマンの視線の先には常にレオニーがいて、レオニーの視線の先にはアルマンしかいない。
まるで二人だけの世界にいるかのように、誰にも視線を向けることがない。
時折何かを囁いては二人で微笑み合っている姿は、周囲にただならぬ関係を匂わせるだろう。
あれはティエリの女だ。
そのはずなのだ。
だというのに、こちらを探しもしないでいる。
いや、見向きもしないのはレオニーだけではない。
ティエリとエディットに向けられていたはずの視線は、今や全て彼らに奪われ、今宵の主役だといわんばかりに立っている彼らに注がれている。
「とんでもない美女が出てきたな」
「本当に。あれなら年増とか関係ないと思えるな」
レオニーへとねっとりとした賛辞を口にした悪友たちが、思い出したようにティエリへと視線を向ける。
そこに含まれる感情は、どこか見下すような、小馬鹿にしたものに変わっていた。
「いやあ、夫の見る目が無いと大変だ」
「あんな麗しい美女を見逃すなんて、ティエリの審美眼もたいしたことなかったな」
「そこの愛人も可愛らしいが、あれと比べれば、なあ?」
先程と打って変わって、冷笑を伴う会話が場を埋めていく。
その言葉の数々に、いつものエディットならば怒りを抑えることができずに、相手を声高に非難していただろうが、今の彼女はそれどころじゃない様子だった。
「おいおい、ティエリ。可愛い愛人様が、傾国殿下に視線が釘付けだぞ」
言われたことに慌てて下を向けば、エディットが頬を染めて見ている先にはアルマンがいる。
冗談じゃない。
レオニーだけではなく、エディットまで持っていかれたらモンジャルダン侯爵家の恥だ。
エディット、と強めの声で窘めたら、バネ仕掛けの人形のように首を跳ね上げてティエリを見上げた。
表情でわかる、仕出かしたという顔。
「ち、ちがうの! 見たことない人だから誰かなと思って!」
言い訳じみた言葉を並べようとするエディットに、ティエリは舌打ちで返す。
「適当なことを言うな。ここにいる大抵の女達は、誰もが王弟殿下殿に釘付けだ。
隠す必要もない」
吐き捨てられた言葉で、エディットが叱られた仔犬のようにしょげてしまう。
いつもなら、その姿を見れば溜飲が下がったものだが、今日ばかりは苛立ちが収まりそうにない。
エスコートしていた手を邪険に振り払えば、一丁前に傷ついた顔をしているが、その間さえも視界の端に傾国と謳われる男を視界に入れている。
無意識だとすれば、随分性質が悪いだろう。
周囲にいる友人達の小馬鹿にした笑みは深くなり、今にも笑い出しそうだ。
それもこれもレオニーが。
彼女がそうやって愛人と入場しているのがおかしいのだ。
ティエリは仕方がなくだが、レオニーは意図的である。
これは彼女を叱りつけて、必要であればどちらの立場が上なのかを多少手を上げてでも知らしめなければならない。
女性に手を上げるなど普段ならば論外だが、レオニーは妻だ。
それはティエリの所有品という意味で、何をしても許されるのだから。
だが、レオニー達のいる方向へと歩き出したティエリだが、それよりも先に声をかける者がいて、思わず足を止める。
「アルマン王弟殿下!」
驚愕で口が開きそうになる。
なぜなら、誰よりも先に彼女達へと、いや、レオニーを無視してアルマンに声をかけたのは、外ならぬ自分の母親だった。
その顔に浮かぶ感情は混沌だ。
歓喜、嫉妬、憎悪といったものが混じり合い、喩えるならば狂気だろうか。
どこか鬼気迫る表情に危うさを感じて止めようと思うものの、碌でもないことが起きるのではないかという予感めいた焦燥に駆られるも、巻き込まれたくない感情が足を床へと縫い付ける。
父親はどこかと見回しても、周囲にそれらしい姿は無かった。
その間にも母親は貴婦人らしからぬ足取りで距離を詰めており、今や二人の正面に立っていた。
三人との距離は近くないが、何が起こるのかと見守る周囲によって静まり返った中では、声を拾うのは難しいことではない。
だがそれは、ティエリにとっては悪夢の始まりでしかなかった。
** *
「あら、お義母様。御機嫌よう」
優雅に挨拶をするレオニーを無視し、オレリアーヌはアルマンへと近寄ろうとする。
それを邪魔するのはレオニーではなく宰相だ。
「モンジャルダン侯爵夫人。挨拶どころか許可もないまま近づかれるのは、王族に対して不敬でありますぞ。
高位貴族として、周囲の模範となるような行動を心掛けて頂きたい」
言っていることは大変真っ当な話だったが、それが侯爵夫人であるオレリアーヌの癇に障った。
「伯爵ごときが、侯爵夫人である私に意見しようというの?
それも、家系図の名すら碌に書けない新興如きが」
手にした扇子が追い払うように、宰相へとぶつけられた。
言い淀むことさえなく、はっきりと示された見下した態度に、周囲の表情は様々だ。
宰相に取り立てられた伯爵に嫉妬する者達の、同乗したかのような嘲笑。
品の無い言い方に眉を顰める者や、表情を変えずに事の成り行きを見届けようとする者。
だが、そんなことはオレリアーヌにはどうでもいい。
手に入れたいものが目の前にあるのだ。
「アルマン殿下。お労しいことでございます。
このような当家の不出来な嫁のせいで、愛人などという立場にされるなんて」
オレリアーヌの言葉に、大広間の中は再びどよめきが生まれる。
とはいえ、彼らの登場時よりはそう大きくもなく、二人の距離感を見れば察する者も多い。
「今一度申し上げますが、そこの小娘など捨てて、手狭な別邸などではなく本邸でお過ごしくださいませ。
モンジャルダン侯爵家での生活がいかに優雅なものかを、殿下に教えて差し上げましょう」
夢見る乙女のような口振りで、紡ぐ言葉は毒と欲に満ちているオレリアーヌ。
対するアルマンの表情は冷めきったもので、僅かに視線だけはオレリアーヌに向けたものの、すぐにレオニーへと戻して言葉だけ返してくる。
「あいにく、レオニーが私を捨てない限り、私からレオニーを捨てるということはないな。
それに彼女と過ごすのならば、あの狭さも楽しいものだ」
どう聞いたって拒否でしかない言葉に、けれどオレリアーヌが引く様子はない。
当初は面白がって見ていた人々も、徐々に困惑した空気を漂わせ始めていた。
「まあ、そうでしたの。高貴な方となれば、あの手狭さが却って珍しいのでしょうね。
承知しましたけれど、やはり小娘は邪魔でしょうから公爵家に返して、代わりに私が一緒に過ごすのはいかがでしょうか?」
何を聞いたら、そういう返しになるのだ。
周囲の誰しもがそう思っただろう。
本人を除いて。
遠回しな返しでは理解されないのだと気づいたアルマンが、少しばかり唇を引き結んで表情を変える。
それだけで周囲は感嘆の息を吐いて、彼の色香に魅入られていた。
オレリアーヌも自身が相手の表情を変えたのだという事実に、恍惚とした気持ちで美しい顔を見つめる。
次の瞬間には上昇しつくした感情が、奈落にまで叩き落とされることになるのだが。
「モンジャルダン侯爵夫人には、遠回しな言い方では伝わらないらしい。
はっきり言わせてもらおう。纏わりつかれて迷惑だ」
美しい形の唇から明確に語られる拒絶の言葉に、オレリアーヌはピタリと動きを止めた。
「レオニーの愛人になったのだから、見たくもない顔を見る羽目になっても仕方が無いと思っていたが、ここまでくると貴女は異常だ。
思い違い甚だしい態度を改めないのならば、今ここで夫人が困るようなことを暴露することになる」
今度は周囲の人々の動きが止まった。
誰もが想像するのは、14歳の少年だったアルマンを襲おうとして未遂に終わったという事件だ。
いまだに襲った女性の名前は明かされていない。
よほど高い地位の者だったのか、低い地位の者であっさり処分されたかのどちらかだと言われているが、結局当事者以外は誰も本当のことを知らないままである。
まさか、という視線がオレリアーヌに向けられた。
それが本当ならば、オレリアーヌは侯爵夫人であるときに、いたいけな少年を襲おうとしたことになる。
大広間にいる大半の夫人が、嫌悪へと眼差しに乗せる感情を変えていく。
子の親であればなおのこと。
誰もが彼の美しさに翻弄されて、その煌めく瞳に映してもらおうと押しかけはしたが、貴族として、人としての道理はわきまえているのが大半だ。
少なくとも王族に害を為して、無事に済むわけがないという前提は良きストッパーになっていたのだが、それすら振り切った人間が目の前にいる。
今や狂人という役のオレリアーヌの舞台が出来上がっているが、愚かな道化師を演じる彼女はまだ自分の役柄に気づいていない。
動きを止めていたオレリアーヌが再び動き出す。
切ない溜息を吐き、扇を広げて恥じらうように顔を伏せ、そのくせ獰猛な野獣のようにギラギラとした瞳をアルマンに向ける。
「どうして意地悪なことを言われるのですか。
そんな昔にあったことなど、夫と話し合った上で、水に流して解決したことでしょうに。
今更持ち出すなんて、私をそんなに困らせたいのですか」
オレリアーヌが困ったとでもいうような笑みを浮かべる。
まるで、ちょっとした悪戯を言いつけられた子供のようで、都合の悪さは理解できていても、その重さをごまかせば何とかなると思っていそうな彼女に、周囲の人間が一歩と下がる。
既に会場は狂気を発信源に、理解できぬものへの恐怖が伝播していくのを止められないでいた。
本来ならば愚行を止めるべきモンジャルダン侯爵や王家が声をかけぬ以上、夜会に参加した者達はここで起こることを見守ることしかできない。
言葉を返さぬことを了承に意としてでも受け止めたのか、オレリアーヌの表情は再び恍惚へと染まる。
まるで年若い令嬢が恋に入れ揚げているようだが、オレリアーヌは既に成人した息子を持つ侯爵夫人だ。
侯爵夫人として美しさを保つ努力は怠っていないが、どれだけお金をかけたからといって老いを止められるものではない。
それにオレリアーヌは美貌の持ち主でも無かった。
貴族としては平均的な容姿で、悪くもないが、決して人の目を引く美しさもない。
せめて、人柄が良ければ救いはあっただろうが、今この場で曝け出された本性は醜悪の一言に尽きる。
今の彼女にある価値は、侯爵夫人という立場だけだった。
「意地悪、で済ませることがこれか」
いつの間に控えていたのか、レオニーの従者や他の使用人らしき者達が封筒をいくつも住み重ねた銀のトレーを捧げ持っていた。
それは手紙だろうか。紙の色は褪せているものから、真新しさを感じるものまで様々だ。
数はやたらと多く、そして厚みのある封筒に書き手の執着を強く想像させられる。
積み上げられた中から、アルマンが一通を抜き取って蜜蝋の部分を見せた。
近くにいた者はそれがモンジャルダン侯爵家の家紋だと気づき、誰かが名前を口にしたことで、ゆっくりと大広間に広がっていく。
ここでようやくオレリアーヌも非常に不味い立場にいることを理解したのか、僅かに顔を蒼褪めさせながら笑みを引き攣らせた。
「今日のアルマン殿下はご機嫌が悪いようですね。
困った方。また日を改めて、私と殿下の別邸をお訪ねしますわ」
慌てて逃げようとしても、既に整った舞台では逃げようがない。
「お義母様、まさか今更逃げられるとでも?」
ここから借りられる信用という融資はございませんよ、と爽やかな笑みでレオニーが笑う。
その目に宿るのは戦う意志などではなく、徹底的に叩き潰そうとする勝者の怒りだった。
「アルマン様を見かけた日から、熱心に手紙を寄越してくるので警戒はしていたのですけど。
まさか、ヴァランタン公爵家の家紋を偽造した上、まだ幼い私の名を使ってアルマン様を呼びつけるなんて、随分と卑怯な手管でしたこと」
レオニーの言葉に、大広間にあったざわめきは全て消え失せた。
侯爵夫人が、他家の家紋を偽造し、幼い公爵令嬢の名を騙り、未成年の王弟殿下を手籠めにしようとした。
とんだスキャンダルだ。
蒼褪めていたオレリアーヌの表情が紙のように白へと変化し、それが事実であるのだと裏付ける。
「あの日、私が離宮に訪れたから嘘が発覚したことで未遂に終わり、本当によろしかったこと。
完遂されていらっしゃったら、侯爵家も、実家の伯爵家もまとめて爵位返上で、二親等ぐらいまでは処刑されていたでしょう」
淡々と語るレオニーの口ぶりに、罪の重さが大広間の空気を冷やしていく。
そこまでの罰となれば、公開処刑で晒し首だってあり得る。
「ああ、でも一つだけ良かったこともあって。
あれから暫くは私の名を使われないようにと、いつだって離宮で過ごすことになったのがご縁で、こうしてアルマン様を愛人としてお迎えできるようになったことかしら」
そうして笑い合う二人に感じる親密な空気はそこかと、周囲にいる人々は納得する。
「さて、ここまで恥を晒せば、残りを知られたところで今更だろう。
あの日、私に関わらないことを誓約したのを忘れていないか。
誓約書に期限は無かったはずが、ならば今でも届く手紙の意味を問いたい」
アルマンが問えば、オレリアーヌの視線が泳ぐ。
「そ、それは、そう! 殿下に謝りたかったからですわ!
まだ何も知らぬ殿下に対し、もう少し段階を踏むべきだったと反省しておりましたの!」
既に冷静な考えができないのか、未だある未練や執着、欠けた倫理観が返す言葉から漏れ出ている。
アルマンの表情は変わらないままだが、氷のように冷めきった雰囲気が解ける様子は見えなかった。
「ほう、謝りたいという割には、書かれている言葉は卑猥で欲望丸出しだった気がするが。
ならば一通、読んでみて周囲の判断をもらおうではないか」
アルマンの言葉に、たまらずオレリアーヌが悲鳴を上げる。
「そんな! 止めてください!
そんなものを読まれたら私は……!」
読まずとも、何が書かれていたかを会話から察することができた周囲の表情は、呆れと軽蔑に満ちていく。
唯一違うのは、驚きで何も言うことができずに立ち尽くす息子のティエリくらいだろうか。
そして、周囲の人々が視線だけで探しても、モンジャルダン侯爵の姿は無かった。
「今宵の夜会は社交シーズンを無事に終えたことを労うものだというのに。
王の開会宣言も早々に、つまらぬ余興となった」
彼らに近づきながら口を開いたのは王太子だ。
床へと崩れ落ちたオレリアーヌに一瞥だけくれた後、すぐに処理を行うために再び口を開く。
「モンジャルダン侯爵夫人は今日の夜会に相応しいと思えないので、早々に帰られた方が良いだろう。
衛兵、そこの痴女を連れていけ」
最後の言葉にオレリアーヌは顔を上げて王太子を睨みつけ、けれど周囲から向けられる表情に顔を伏せると、両腕を掴まれて連れて行かれた。
大広間から出ていくのを確認してから、王太子が盃を上げる。
「さて、余興はおしまいだ。
皆、今宵は大いに楽しんで帰ってくれ!」
王太子の言葉と同時に、止まった音楽が流れ始める。
城の使用人たちは飲み物を持って大広間内を回り始め、アルマンとレオニーは王のいる玉座の後ろへと控える。
王太子夫妻が踊り始め、ヴァランタン公爵夫妻が続けば、そこからようやく夜会の空気はにぎやかなものへと戻っていくのだった。
いつまでも途方に暮れ立ち尽くす、ティエリだけを残して。




