05.レオニーの傾国な愛人
見せるな、危険。
あの日の宣言通り、別邸は暫く静けさを保っていた。
時折ティエリが様子を見に行ったが、僅かに漂う塗装材の匂いと、それから換気の為か窓を開け閉めする使用人の姿が見えるくらいか。
時折、家具が運び込まれたりや、庭師らしい者の指示で使用人が苗木や低木を植えているのを見かけたりや、花壇を作っていたくらいで静かなものだ。
だから、あの女が移り住むのはまだまだ先の話だろうと思い、仕事を他に押し付けて部屋に籠り、エディットとの蜜月に溺れていたところ、気づけば別邸に住んでいたのだ。
それらしい人を見かけたと報告があって、思わず舌打ちをする。
まだ惰眠を貪ろうとするエディットを部屋に残してきており、何か軽く食べたら戻ろうと思っていた矢先の話で、自然と顔に不機嫌が滲み出る。
既に今は正午に差し掛かっており、母親も軽い昼食を摂っているところだった。
「モンジャルダン侯爵家に住み始めたにも関わらず、挨拶もしないなんて。
ヴァランタン公爵家はどんな躾をしたのやら」
そう言いながら、母親は眦をキリキリと吊り上げて席を立つ。
「ティエリ、ついておいでなさい。
あの小娘に躾をしなければ。こういったことは最初が肝心なの」
手にしたパンを見つめて、溜息を一つ。
席を立ちながら舌打ちをもう一度。
そうしてから床にパンを投げつけて歩き出した。
母親を置いて行かない程度を心掛けながら、本邸の廊下を足早に歩き去り、裏の勝手口から出た先を少し。
鉄柵越しに見つけたのは、いつかの青年だ。
相変わらず、他の使用人達より仕立ての良い服を着ていた。
やはりレオニーの従者だったのだろう。
あちらが目敏くティエリを見つけると、お行儀の良い笑顔で会釈をする。
「これはこれは、お揃いで。モンジャルダン侯爵夫人様と令息様におかれましては、ご機嫌よろしくなさそうで。
既に日も高い頃にお出でになられるとは、昨晩は夜更かしでもされたのでしょうか」
まるで内情を知っているかの発言にティエリは眉を顰めるが、相手は気にした様子もない。
「お前の下らないお喋りを聞くほど暇じゃない。
それより、あの行き遅れがもう来ていると聞いたが?」
「お嬢様のことでしたら、昨日の晩よりこちらに滞在されております」
ティエリの言葉にある侮蔑など気にした様子も無く、青年は溌溂とした笑みを崩すことはなく答える。
だが、「奥様」ではなく、わざわざ「お嬢様」と言うところに含みがあって、ティエリの心がかさついた手で逆撫でされたようにけば立つ。
「ならば、まずは最初に本邸に挨拶に来るべきではないのか?
ヴァランタン公爵家がエディットへの対応をきちんとしないから、モンジャルダン侯爵家は恥をかいたのだ。
本来なら本邸の扉の前で膝をつき、謝罪の一つでもするのが筋だろうが」
ティエリが更に言葉を続けた途端、青年が弾けるような笑い声を上げた。
まるで大道芸でも見かけた子どものような、あまりにも屈託のない笑い声に、怒るよりも呆気に取られてしまう。
「はは、は、モンジャルダン侯爵令息様。ご冗談でしょう?
色々申し上げたいことはございますが、お嬢様は両家で結ばれた契約を厳守するつもりですので、本邸に伺うことは一切ございませんよ」
そのようなお約束でしたでしょう、と言われて、そうだったとティエリは思い出す。
だが、正論を返されて納得する性格ではない。
「確かに本邸には入らせないが、これは喩えであって、つまりはあの女に誠意が無いと言っているんだ。
王命によって仕方なく、侯爵家の利益にもならなければ、美しくさえもない年増を娶ることになった俺は被害者だ。
まずは門の外からでも本人が伺いを立て、会えるまでそこに立ち続ける気概が無い時点で問題だろう」
「会う気が無い相手を立たせ続けたいとか、とんだ特殊プレイ過ぎて性癖を疑いますね。
それにお嬢様はお仕事があるので、モンジャルダン侯爵令息様ほどお暇ではございません」
ティエリの人格を含んだ拒否が返される。
「とはいえ、今日はお休みでございますので、こちらにいらっしゃいますが。
既に朝のうちに仕事を終えられて、庭に何を植えるか相談をしていたところですし」
向けられた視線に、貴方達と違ってと言いたげで、言葉の一つ一つがティエリを怒らせようとするかのようだった。
「今、庭師と話も終わったので、噂をすれば姿を見せてくれるかもしれませんね」
その言葉に誘われるようにして、陽の差す庭に姿を見せた女性に、ティエリは大きく息を呑んだ。
柔らかなピンクベージュの髪をハーフアップに結い上げた姿は麗しいという一言に尽き、サファイアのように煌めく瞳でティエリを見たかと思えば、微笑みを作る唇はみずみずしい果実のよう。
陶器のような肌は滑らかで、あの行き遅れ女みたいにソバカスなどは一つもない。
上玉だ、とティエリは思う。
昼間だからかドレスは胸元の開いていないデザインだが、エディットに負けない、形の良い胸の盛り上がりは確認できるし、そこから続くウエストのくびれは実に魅惑的だ。
「君、は」
自身の上ずる声など気にせず、ティエリは無意識に一歩前へと踏み出す。
あの行き遅れの侍女だろうか。
見た目ならばエディットも悪くなかったが、目の前の女性は大人の色気だけではなく、品性や高貴さを持ち合わせている。
彼女こそ、侯爵令息であるティエリに相応しい。
二人を隔てる柵が無ければ、すぐにでも腕を掴んで、本邸にあるティエリの寝室に連れ込んでいただろう。
触れた鉄柵は冷たく、だからか余計に彼女の温度に触れたくて仕方がない。
「どうか、貴女の名前を。名前を聞いていいだろうか?」
囁きにも似た掠れ声は、けれど正しく目の前の佳人に伝わったらしい。
少しだけきょとんとした顔でティエリを見返し、それから可笑しさを堪え切れないように、声を上げて笑う。
その声すらもティエリを魅了して、恍惚とした面持ちで、鉄柵を握ったまま彼女を見つめる。
そこへ、背後から信じられないといった声音が届いた。
「その声、もしかしてレオニーなの?」
母親の声に、「そんな馬鹿な」と言おうとしたティエリだったが、そういえば行き遅れの髪も同じ色だったのを思い出す。
そんな、まさか。
「いやだ、お義母様も旦那様も。
そんな驚かなくても、確かに私はレオニーですわ」
笑うのを止めぬままに、上玉だと思った女は優雅で美しいお辞儀をした。
まだ手の入れられていない地面の上でもぶれない、美しい姿勢が高位貴族の令嬢だと知らしめる。
よく聞けば、声も初めて会った時となんら変わってなどいない。
「なんだ、その姿は?
社交界でも両親に似ない劣った女だと噂だったし、実際王城や夜会で遠目に見た時もみっともない姿だっただろうが!」
「虫除けですね。この姿で宰相補佐などしていますと、顔だけの女と舐められるか、それとも攫われるか。
最悪、どこかの女好きみたいな方に、手籠めにされる可能性がありますので。
とある経験者の忠告を受け、幼い頃からあのような格好をしておりましたけど」
それの何が問題なのかわからないといった風に、小首をかしげる姿すら愛らしく、それが一層許せない。
「結婚する相手に本当の姿を見せず、今になって行き遅れになる外見ではなかったとか、おかしいだろう!」
ティエリによって鉄柵が重い音を立てるが、そんなことぐらいで倒れることもなければ折れることも無く。
わかってるいるからか、レオニーに驚く様子はない。
ティエリが詰るように言ったことに対しても、大して気にしていないだろうといった様子なのはすぐにわかった。
「王命による、行き遅れ年増との望まぬ婚姻が嫌で、あのような態度を取り、そしてこちらの申し出を受け入れて契約を結んだのでしょう?
私達の間にあるのは同じ戸籍にいるという事実だけですし、それだけあれば問題無かったはずですから、今更そう言われましても」
それに、と続ける言葉はひどく楽しそうな声音に変わっていく。
「私達にはそれぞれに可愛い人がいますのですから。
旦那様は私のことなど気にせず、あの可愛らしい方の待つ部屋までお戻りください」
そう言ってから、あら、と胸の前で手を合わせる。
「せっかくですから、私の愛しい方を紹介しましょう」
途端に細められた瞳には、言い知れぬ色気が満ちる。
「ああ、でもお気をつけて。私の変わり様如きに驚いているようでしたら、愛人を紹介したら魂が抜けてしまうかもしれませんわね」
艶めかしい唇の動きに、ティエリはゴクリと唾を飲む。
「私の最愛は傾国なの。
この人達に会わせて、正気でいられるかしら?」
「倒れるかもしれませんよ」
レオニーと従者は笑い合う。
それからレオニーに言い付けられた青年が走り去り、暫くすると一人の男性を伴って現れる。
そして彼の姿を見た誰もが、レオニー以上に目を奪われたのだ。
「ア、アルマン王弟殿下……?」
母親の上擦った声に、興奮と歓喜が混じっているのに気がつくが、同時に圧倒的なまでの美貌の前にはそうなるのもティエリだって理解できた。
なにせ同性のティエリですら、後ろでドサリと何か重い音がしたのに、目の前の男から片時も目を離せないのだから。
年の頃は30歳前後といったところか。
漆黒の髪は星の輝きを塗りつけたように艶を持ち、星々を抱える夜を独り占めしたかのような印象を与えた。
それより下で形を成している造形美は、神々を模した数多の石像よりも遥かに美しい。
体の線は細いながらも、同時に無駄の無い美しい肢体を想像させ、その体を隠すようにして纏う服も洗練されていて、何一つ隙が無かった。
いや、彼ならば布一枚纏うだけでも絵になっただろう。
玲瓏な目元から送られる視線を感じるだけで、体中が歓喜を叫び始めるし、彼の口から発される言葉はどのような音を奏でるのかと期待で胸が躍る始末。
ティエリでこれならば、女性である自身の母親など大変なことになっているに決まっている。
さすが、噂の傾国の息子だった。
王弟殿下アルマン・ヴァルグレンヌと、母親である側妃のことを知らぬ者はいない。
傾国の美女と謳われ、彼女を目にした全ての男を魅了する。
果てには婚約破棄や離縁がいくつにも起きた末に、騒動を収束させるために側妃になったという話は、今でも親世代では語り草となっている話だ。
そんな美の塊から生まれた一滴。
傾国の息子は、同じように傾国だった。
離宮に隠れるように住んでいるとは聞いていたが、まさかレオニーの愛人になろうとは。
気づけば、ティエリと同様に、母親も鉄柵へと手をかけていた。
いや、それだけではなく、鉄柵の隙間から焦れたように手を伸ばしている。
さすがにティエリは我に返ったが、母親はそうではなかったらしい。
「アルマン殿下、アルマン殿下! まさか私の屋敷にいらっしゃるなんて!」
夢見心地で話しかけようとする母親は、まるで恋する乙女のようだ。
母親の女の部分を見てしまい、酷く居心地が悪い気持ちになりながら目を逸らす。
「そんな狭い別邸などにいらっしゃらず、どうぞ本邸においでくださいませ。
侯爵家一同で歓迎いたしますわ」
冗談じゃない、とティエリは思う。
ここまで人を魅了するのだ。
エディットが見たらどういう反応をするかは目に見えているし、最悪の場合、母親と醜悪な争いをする可能性だってある。
使用人達だって同じ状態か、もっと抑えが効かなくて騒動に発展するのは、さすがにティエリだって理解していた。
気づかないのは夢中になっている母親だけだ。
母親の暴走が止まらない中、美貌の王弟殿下は微笑みを絶やさないまま、首を横に振って拒絶する。
その仕草一つでさえ、溜息を落としそうなまでに美しい。
「あいにく、私はレオニーの愛人だから、彼女から離れるつもりはない。
それにだ。耐性の無い人間の中に放り込まれたら、どうなるかくらいは想像できるから、遠慮させて頂こう」
「ああ、つれないお方。そんな小娘など気にせず、打ち捨てればよいでしょう。
使用人も追い払って、私と二人きりになれば問題ありませんわ。
ちょうど料理人がお菓子を焼いたところです。一緒に頂きませんか?」
なおも言い募る母親から、アルマンが視線を外す。
「打ち捨てるべきは、みっともなく騒ぎ立てる貴女の方だ」
言いながら、そっとレオニーに寄り添い、彼女の柔らかそうなピンクベージュの髪を一房掬い上げて、唇を寄せた。
間近に芸術すら超えた顔を寄せられても、動揺することなく微笑むレオニー。
発狂したように叫ぶ母親を無視する二人は、どこまでも絵になった。
こんなことなら物は試しと手を出してさえいれば、輝く宝石なのだと気づくことができたのに。
もっとも、ティエリがどれだけ惜しんだところで、今更の話ではあるが。
「アルマン様、お呼び出ししたところ申し訳ないのですが、モンジャルダン侯爵家の使用人達に見られては面倒かと。
そろそろ屋敷の中に戻りましょう」
「そうだな。レオニーの為に珍しい茶葉を手に入れたから、今日はレモネードではなくお茶にしよう」
「嬉しいです。私も流行りのお店で焼き菓子を買ってきていますので、それでお茶を頂きましょう」
歯噛みするティエリの前で、甘ったるい会話が繰り広げられている。
ティエリと、横でヒステリックに叫ぶ母親なんて存在しないかのように。
まるで見せつけるかのように微笑み合った二人は、「じゃあ戻ろうか」と言って背中を見せると歩き出す。
すぐに姿は見えなくなって、少ししてからティエリは白昼夢のようだったと気を持ち直したが、母親は柵を掴んだまま泣き出していた。
そういえば、後ろでした音は何だっただろうと振り返ると、メイド長が倒れているのを発見する。
これは目を覚ましたら一番に、今見たものを口外しないように言っておかなければならないと考えながらも、母親がこの状態ならば難しいとも思う。
父親がいれば父親に、いなければ家令に相談だ。
ともあれ二人をどうにかするには人手だと、ティエリは屋敷へと走り出した。




