後編
寮へ戻る廊下は、夜気を含んだ静けさで満ちていた。
足取りは乱れない。乱れてはならない。
けれど、胸の奥に生じたひび割れは、歩くたびにかすかに軋んだ。
――駄目だ、もう限界。
その言葉を、自分自身が一番聞きたくなかった。
成績を偽装し、人格を偽り、従姉妹の影に立ち続ける生活。
それを選んだのは私だと、何度も繰り返してきた。
伯爵家のため。兄弟の学費のため。
貴族のメンツなどどうでもよかったが、家族のためならなんだってやれた。
でも――。
「……っ」
胸が締めつけられ、立ち止まる。
誰もいない廊下の窓辺に手をついた。
月が滲んで見えた。
涙ではない。そんな弱さはとっくに捨てた。
ただ、疲労が過ぎて視界が霞んでいるだけ。そう言い聞かせる。
けれど、ひとつだけ誤魔化せないものがあった。
レオナルドの視線。
あの人は、私の外側ではなく、内側を見ようとする。
それが怖くて、痛くて、どうしようもなく苦しかった。
見られたくない。
でも、見つけてほしい。
その矛盾が、胸の奥で暴れ続ける。
「……どうしたら、いいの」
誰にも届かない呟き。
声にしてしまった瞬間、自分の弱さが形になってしまう気がして、慌てて唇を噛んだ。
そんなとき。
「――リリアナ」
背後から呼ばれた名に、身体がびくりと跳ねた。
振り返ると、月明かりに縁取られたレオナルドが立っていた。
冷徹と呼ばれるその目が、今はどうしようもなく優しげで。
「無理をしている顔だ」
「……して、いません」
反射で否定する。
だって、弱さを認めた瞬間、全てが崩れてしまう気がしたから。
でも彼は一歩近づき、逃げる隙を与えない。
その距離に、鼓動が高鳴る。
「そうやって強がるのは、君が壊れないためだろう。……それくらい、私にもわかる」
「……っ、レオナルド……先生に、そんなこと……」
「君の強さばかり見せられても、私は嬉しくない」
胸の奥を撃ち抜かれるような言葉だった。
――強くなければ、生き残れなかった。
弱さは贅沢だ。
そんなものを持つ余裕は、リリアナ・ドレイクにはない。
なのに。
「……お願いです、これ以上……優しくしないでください」
声が震えた。
抑えても、抑えても、溢れてくる。
涙ではなく、心が軋む音のような震え。
レオナルドがそっと手を伸ばした。
触れられる前に、リリアナは一歩あとずさる。
「触れられたら――壊れてしまうから」
絞り出すような声。
もう、限界だ。
でも、限界を認めたら、もう二度と前に進めなくなる気がして、誰よりも自分がそれを恐れていた。
レオナルドは、ひどく静かに言った。
「……壊れたっていい。
そのときは、私が拾う」
リリアナは息を呑んだ。
逃げ場のない優しさだった。
レオナルドの言葉は、夜気よりも静かに、しかし刃のように鋭く胸へ刺さった。
――壊れたっていい。
そんな言葉、生まれて初めて言われた。
「……先生は、簡単に言いますね」
震えを押し殺しながら呟くと、レオナルドは目を伏せることもなく、真正面からリリアナを見つめ続けた。
「簡単ではない。
私は、生徒に向けるべきではない感情を、ずっと。押し殺している」
一瞬、呼吸が止まった。
レオナルドが、こんな言葉を口にするなんて。
「……そんなこと、言わないでください。私は……ミレイユの代役で、偽りを――」
「それでも、君だ」
遮る声は、低く、動かしがたい確信を帯びていた。
リリアナの喉が詰まり、言葉が出ない。
逃げようと身を引くと、レオナルドもまた同じだけ距離を詰めた。
互いの影が重なる。
「強がりも、偽りも、全部……君が生きるために必要だったものだろう」
「…………」
「それを責める気はない。
だが、自分を罰し続ける必要もないはずだ」
その優しさに触れれば、もう立っていられない。
「……レオナルド先生……」
静かに名を呼んだ瞬間、胸の奥で押し殺していたものがひび割れ、堰が崩れるように感情が溢れた。
「どうしたらいいのかわからないんです……
私は、ミレイユの影で生きてきた。
誰にも期待されなくて、でも……誰かに見て欲しくて……
そんなの、勝手でしょう? 自分でも嫌になるくらい……」
「勝手でいい」
レオナルドの声は、夜に溶けるほど静かだった。
「期待されたいと思うのも、人に見てほしいと願うのも……
誰かに頼りたいと苦しくなるのも……全部、普通のことだ」
「……普通なんて、私にはないのに」
「ある」
一歩。
彼はもう、目の前にいた。
リリアナの頬にかかる髪へ触れそうで触れない距離。
衝動と理性の間で揺れているのが、息遣いからわかる。
「君を“普通じゃない”場所に追い込んだのは環境だ。
君の本質ではない」
「……っ」
「だから――」
言葉が、深いところへ落ちてきた。
「頼れ。
たとえ一瞬でも、苦しいと言え。
私は、君が壊れそうなときにそばにいたい」
耐えていた膝が、わずかに震えた。
そんな願いを誰かから向けられたことなど、一度もなかった。
いつも「強くなれ」と言われ、「耐えろ」と押しつけられてきたのに。
――壊れてもいい。
その言葉が、呪いのように優しく、胸の内で響き続ける。
リリアナは、かすかに唇を開いた。
「……もし……私がいま、倒れてしまったら……
あなたは、受け止めてくれるの?」
「受け止める」
迷いなく返ってくる声。
その瞬間。
リリアナの中で何かが、音を立てて崩れた。
支えていたすべての強がり、言い訳、義務、理性。
それらのひとつひとつがほどけていき、足元がゆらぎ――
ほんの少し、身体が前へ傾く。
レオナルドの手が、反射で伸びた。
「リリアナ――」
抱きとめられる直前。
リリアナは、静かに目を閉じた。
崩れ落ちるように倒れ込んだリリアナの身体を、
レオナルドは寸分の迷いもなく受け止めた。
細い肩が腕の中で震えている。
強がりの影ばかりを見せていたはずなのに、こんなにも軽い――。
思っていた以上に、ひとりで耐えていたのだと知れて、胸が焼ける。
「……大丈夫だ。今は、もう気を張らなくていい」
そう言いながら、抱き寄せる腕がほんのわずか震えた。
抑えつけていた何かが、ひりつくほど溢れそうになっている。
リリアナは、眉を寄せて小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい。こんな……情けないところ……」
「謝るな」
即座に返ってきた声は、いつになく強かった。
リリアナがはっとして目を開く。
けれど、その瞳に映ったレオナルドは怒っているのではなく――苦しんでいた。
「どうして謝る。
君がどれほどの重さを抱えてきたか、知りもしないまま……私は“気づいていたつもり”でいた」
「先生は悪くない。私は……自分で選んだことだから」
「選ばされたんだ」
レオナルドの声音がかすかに揺れる。
「君がこんなふうに腕の中で震えているのに……
教師としての立場を私は忘れられない――」
そこで言葉が途切れた。
続く言葉を飲み込み、レオナルドは目を閉じる。
リリアナの髪に頬が触れそうな距離。
「……触れたら、もっと欲しくなる。
だから、ずっと我慢していた」
低い声が、かすかな熱を帯びて落ちた。
リリアナの喉がきゅっと鳴り、身体がびくりと震える。
抱き寄せる腕の力が、ほんの少しだけ増した。
「君は……ずっと一人で立っていた。
誰にも寄りかかれず、泣きもしないで。
そんな姿を見るたびに……何度、触れたいと思ったかわからない」
「……レオナルド……」
名前を呼ばれた瞬間、彼の息が止まる。
強い。必死で。危ういほどに。
レオナルドはリリアナのこめかみあたりへ額を寄せ、低く囁いた。
「いま倒れてくれたことが……嬉しいと思ってしまう私は、最低かもしれない」
「どうして……?」
「ようやく……君が私に、寄ってきてくれたからだ」
その告白は、まるで自分を責めるような声音だったのに、
抱きしめる腕だけは、優しくて、ずっと欲していた温度で――。
リリアナは息を詰め、ゆっくりと目を閉じた。
「……私……見つけてほしかったのかもしれない」
ぽつりと落とした声は、涙の底からすくい上げたようにか細い。
レオナルドの指先が、微かに震える。
「気づけなくて、すまない」
「ううん……いま、気づいてくれたから……」
言いながら、リリアナはかすかに顔を上げた。
揺れる視線がレオナルドの瞳を捉える。
触れれば壊れてしまうような距離。
それでも、離れてしまえば二度と戻れない距離。
「……そばに、いてくれるの?」
その問いに、レオナルドはゆっくりと彼女の頬へ手を添えた。
「いてほしいと言うなら……どれほどの罰を受けても、離れない」
それは、ほとんど誓いに近い言葉だった。
リリアナは、頬に触れたレオナルドの手の温度に、
じわりと胸の奥がほどけていくのを感じていた。
誰にも触れられないように守ってきた場所に、
やっと届いてくれたような――そんな錯覚ではない温度。
「……罰なんて、受けてほしくない」
震える声で言うと、レオナルドの指がそっと頬をなぞる。
「それでも、構わないと思ってしまうほどに……君が、欲しい」
一瞬、夜気が止まったように感じた。
“欲しい”と言われるなんて思っていなかった。
自分に向けられるはずのない言葉だと、ずっと思っていた。
胸の奥で、張り詰めていたものがかすかに軋み、ひび割れ、
そこから静かな熱がじわりと広がっていく。
「……先生のそういうところ、ずるいです」
ようやく絞り出した声に、レオナルドの目元がわずかに和らぐ。
「ずるくてもいい。君が、いま私の腕の中にいる理由さえ……“私であってほしい”と思ってしまう」
「……先生……」
名前の代わりに呼んだその呼び方で、
レオナルドの喉が低く震えた。
「リリアナ。顔を上げて」
ゆっくりと。
導くような優しい力で、彼は彼女の顎をそっと持ち上げる。
視線が重なった瞬間、
リリアナの心臓は、痛いほどに跳ねた。
彼の瞳の中に、自分がいる。
強く、深く、まっすぐで――逃げられない。
「君が壊れそうで、見ていられなかった。
でも……抱きしめて初めてわかった。
私はずっと、こうしたかったんだ」
「……でも、先生は……」
「教師だからだろう?」
「……うん」
レオナルドは息をひとつ吐き、視線を逸らさないまま言った。
「教師だから、という理由で……君を見ないふりをする方が、もう耐えられない」
リリアナの胸に、溢れそうな熱が広がる。
苦しさと甘さが混ざったような、
初めて感じる種類の感情。
「私、ずっと……自分で立たないといけないと思ってた。
あなたに寄りかかるのは、甘えてるだけだって」
「甘えてくれたらいい。全部、引き受ける」
その言葉は静かで――けれど、強かった。
彼の手が頬から耳の後ろへと滑り、
ほどけた髪をそっとすくって寄せる仕草に、
リリアナの視界がじんわり滲む。
「君が倒れたのは弱さじゃない。ようやく、君の痛みに触れられた気がする」
「……そんなふうに言われたら……離れられなくなる」
「離れなくていい」
すべてを許すような声音。
ただそこにいていいと言われたみたいで、
リリアナは堪えきれず、レオナルドの胸元に額を預けた。
彼は静かに息を吸い、
落ち着かせるように背へ手を回し――
ほんの少し、指に力が入った。
「……ようやく、触れられた」
その呟きは、誰に向けたものでもなく、
ずっと押し殺してきた本音がふいに零れたようだった。
リリアナは、その声の温度ごと受け止めるように目を閉じる。
ゆっくりと、静かに。
二人の確信が同じ場所へ落ちていく音がした。
泣き止んだわけではなかった。
ただ、涙が途切れた一瞬の隙に、リリアナはゆっくりと息を吸い込んだ。
胸の奥が張り裂けるように痛む。
けれど、逃げるのをやめた表情だった。
「……先生」
かすかに濡れたままの瞳が、まっすぐレオナルドを捉える。
怯えは残っているのに、どこか覚悟を抱えた光があった。
レオナルドは言葉を返さない。
彼女が次に何をするのか、ほんの一瞬、呼吸を忘れる。
リリアナは、震える手を自分の胸元からそっと離した。
ためらいがその指に残り、空気を何度もなぞるように揺らぐ。
それでも──彼女は、ほんの少しだけ前へ歩いた。
そして。
彼の服の袖を、きゅっと掴んだ。
指の力は弱い。
今にもほどけてしまうような、慎ましい触れ方だった。
それなのに、その一握りに、リリアナの全てが宿っていた。
レオナルドの瞳が、静かに揺れる。
「……リリアナ」
呼ばれた名が、まるで撫でられたみたいに優しかった。
袖を掴んだまま、リリアナは小さく首をふる。
「ずっと……頼りたくなかった。
弱いところを見せたら……きっと、私は……甘えてしまうから」
声は壊れそうだったが、逃げていなかった。
「でも……もう、ひとりでは……立てそうにないんです」
その言葉は、懺悔ではなく。
敗北でもなく。
「前に進みたいから……助けてほしいんです。先生」
夕暮れが終わろうとする空の下で、
彼女の声だけが、まっすぐに届いた。
レオナルドは、静かに息を吐く。
そして、自分の方から距離を埋めた。
袖を掴むリリアナの手に、上からそっと、自分の手を重ねる。
指先は熱く、掌は迷いなく包み込む。
「頼られた以上……私は手を離さない」
「……っ」
「前に進みたいと言ったのは、君だ。
なら、私が支える。
――望んでくれたなら、なおさらだ」
リリアナの顔が、驚きと安堵でゆっくりほどけていく。
涙はまた零れそうだったが、それはもう絶望の涙ではなかった。
彼女はほんのわずかに、握る力を強くする。
自分から触れた初めての温度。
逃げずに求めた、確かな助け。
レオナルドはその温もりを受け止めながら、低くかすれる声で言った。
「……よく言えたな、リリアナ」
その声音があまりに優しくて、
彼女の胸の奥に、静かな灯がともった。
翌朝の教室は、いつもと同じざわめきだった。
けれどリリアナにとって、そのすべてが少し違って見えた。
目を合わせたレオナルドが、短く頷いたこと。
視線の奥が、昨日の続きであること。
それだけで、胸の奥が温かく、少し痛い。
彼は相変わらず涼しい顔で職務をこなし、凛とした声で指示を出す。
だがひとつだけ、変わっていた。
リリアナが予期せぬことで戸惑う時、
レオナルドは、誰よりも早く “彼女が倒れないように” 空気を調整していた。
言葉を重ねすぎない。
目で「大丈夫だ」と告げる。
必要なときだけ、そっと支えの一言を置く。
誰にも気づかれない小さな動作が、昨日の温もりの続きだった。
リリアナの胸は静かに震える。
頼った自分を後悔しなかった。
──ただ、次はどう歩けばいいのかがまだわからなかった。
一方で。
ミレイユの今日の笑顔は、いつもより“張って”いた。
机に肘をつき、わざと気だるげな仕草をしながらも、
その視線は鋭くリリアナを捉え続けている。
「……最近、あなた。妙に静かね?」
軽く言ったその声の裏に、疑念と焦りの色がある。
家の情勢が揺らいでいることをミレイユは知っている。
だからこそ完璧に振る舞い続けなければならない。
従姉妹のリリアナの弱さは、彼女の世界を崩す “余計なノイズ” だった。
──気づいているのだ。
リリアナの表情がほんの少し明るいことに。
そして、それが誰の影響かも。
「まさか、あなた……変な気は起こしてないでしょうね?」
笑っているのに、声は冷たかった。
リリアナは俯きかけたが、昨日のレオナルドの温度が背中を支えた。
「……私は、あなたの望む人形には戻れないわ」
“戦いの火蓋” の呟きが落ちた。
授業が終わると同時に、レオナルドは書類を抱えて職員会議に向かった。
だが、ただの会議ではない。
「このクラスの定期試験、採点基準の見直しを提案したいのですが」
さらりと、しかし計算された声。
内容は、ミレイユの不正を表沙汰にしないまま “偽装をしづらくする” 方向への調整だった。
点数に客観性を高く求め、記述式のチェックを複数人で対応する案。
誰も反対しない。むしろ正論だった。
誰にも気づかれないように──
ただ一人を守るためだけに緻密に積み上げられた罠。
……これでひとまず、リリアナに負担をかけずに済む。
心の奥で、昨日触れた震える指先の温度が残っていた。
レオナルドは職務を理由に、それ以上の感情を表に出さない。
だが、彼の動きはすべて「リリアナがもう折れないように」織り込まれていた。
帰り支度をしていたリリアナの横に、影が落ちた。
顔を上げると、レオナルドがいた。
「今日、よく頑張ったな」
声は低く、誰にも聞こえないような距離で。
リリアナの胸が、きゅっと締まる。
「……先生が、見ていてくれたからです」
彼は何も言わない。
ただ、かすかに表情が緩んだ。
その沈黙が、昨日の触れた温もりと繋がっていた。
「明日も、同じようにいけるか?」
「……はい。いきます」
レオナルドは満足したように頷き、
ほんの一瞬だけ、彼女の肩に手を置いた。
触れてはいけない限界線の、ぎりぎりの優しさ。
リリアナは驚いて息を呑む。
瞬間、レオナルドは手を離した。
「君が歩こうとしている限り、私はその道を整えるだけだ」
それは告白ではない。
でも、ただの教師の言葉でもなかった。
リリアナはその背中を見送りながら、
胸の奥に灯った光をそっと抱きしめた。
──二人の距離は、静かに、確実に縮まっている。
その日、ミレイユは妙に笑顔が多かった。
扇子で口元を隠しながら、軽やかにリリアナへ声をかける。
「ねぇ、今日の放課後。先生に呼ばれているの。あなたも一緒に来てくれる?」
その声音は甘い。
けれど瞳の奥では、焦燥がぎらついていた。
──“二人の空気が変わった”
ミレイユは確信していた。
その変化は、彼女にとって許せない。
完璧で、美しく、愛されるのは自分だけでいい。
従姉妹のリリアナは、ただ都合よく使われる影であるべきなのだ。
先生の前で、あの子がどれだけ愚かか見せればいい……
ミレイユはそう考え、
リリアナを“自分だけが優遇されているように見せる”罠へ誘う。
まだ生徒のいる教室。
ミレイユは芝居がかった声でレオナルドに訴えた。
「先生、最近の成績の件で……心配なことがありまして。
私、彼女の面倒を見ているんですけれど、どうしても……」
“優しい完璧な令嬢”を装って、
リリアナだけが怠けているように仕立てるつもりだった。
リリアナは戸惑って固まる。
ミレイユの視線は冷たい。
だが──
レオナルドは書類を閉じ、静かに言った。
「心配はいらん。
彼女の答案は、君のものより一貫性がある」
ミレイユが固まった。
「え……?」
「記述の癖で大体わかる。
今年に入ってから、君の答案には“複数の筆致”が混ざっている」
ミレイユの顔がさっと白くなる。
リリアナは息を呑んだ。
レオナルドは、ずっと気づいていたのだ。
「誰が誰の面倒を見ているか──誤解があったようだな」
教室中が静かになるような、
静かで冷たい声。
ミレイユは震える指で扇子を握りしめた。
「あ、あの……私は……!」
「これ以上、彼女を利用するのはやめなさい。
それだけだ」
その優しい声が、いちばん残酷だった。
ミレイユは走り去った。
扇子を落としても気づかないほどに。
完璧さが崩れた音を鳴らしながら。
リリアナが震える手で扇子を拾おうとすると、
レオナルドの手が先にそれを掴んだ。
「君のせいじゃない」
短い言葉に、胸が痛むほどの温度が宿っていた。
「……どうして……ここまで」
泣きそうな声が漏れた瞬間、
レオナルドは、ごく自然に、彼女の頭をそっと撫でた。
教師としての線を、静かに越えて。
「守りたいと思ったんだ。
それが理由になるなら……それでいいだろう」
リリアナの視界が滲んだ。
昨日より、近い。
彼女は小さく頷き、
その手に初めて、弱さを預けた。
翌朝、学院に衝撃が走った。
ミレイユの実家・ラングレー伯爵家が不正書類の件で査問にかけられ、
父が拘束されたという知らせ。
誰よりも先にその噂を耳にしたのは、リリアナだった。
「……ミレイユ……」
昨日まで威厳と美しさを纏い続けていた従姉妹の姿が胸に浮かぶ。
けれど、同情より先に来たのは、
“これで、私は自由になれるのか”という小さな希望だった。
同時に、罪悪感が胸を刺す。
ミレイユは彼女を利用した。
けれど、完全な悪ではなかった。
孤独で、期待に縛られた少女だったことも、
リリアナは知っていた。
学院の中庭。
噴水のそばで、レオナルドが静かに待っていた。
「……聞いたか」
リリアナは頷く。
「ミレイユは?」
「邸に戻された。伯爵夫人が錯乱しているらしい。
彼女は……なんとか崩れないようにしているだけだろう」
レオナルドの瞳は冷たくも温かく、
どこか彼女の未来を案じる教師のそれだった。
リリアナはそっと口を開いた。
「……私、行かなきゃいけないと思うんです。
従姉妹として、話すべきことがあるから」
「危険だぞ。今の家は混乱している」
「それでも、逃げたくない。
これ以上……誰の影にもなりたくないんです」
その言葉に、レオナルドがわずかに目を見開いた。
昨日、彼に弱さを預けた少女とは違う。
どこか、芯に小さな灯を持った表情。
「……わかった。送る」
「先生は来なくていいです」
「行く。職務外でもな」
一拍置き、彼は静かに言葉を落とした。
「……君をひとりで行かせられるわけがない」
その声音はあまりに自然で、
リリアナの胸がじんわり熱くなる。
伯爵家。
豪奢なはずの応接室は、大混乱の余韻に濁っていた。
ミレイユはソファに座り、
虚ろな瞳で窓の向こうを見つめている。
「……リリアナ?」
かすれた声。
リリアナは歩み寄り、静かに言った。
「ミレイユ。私はもう……あなたの影には戻れない」
ミレイユの肩が震えた。
「だと思ったわ。
あなたの方が、ずっと優秀だったもの」
リリアナはかぶりを振る。
「……そうじゃない。
あなたが上に立たなきゃいけなかった理由、全部わかる。
でも、私はもう従いたくない。
私の人生は……私のものだから」
ミレイユは泣かなかった。
ただ静かに、負けを受け入れるように目を閉じた。
「行けばいいわ。
あなたは自由に生きて。……私は、ここで片をつけるから」
その背中は、小さく、孤独だった。
屋敷を出た瞬間、リリアナは足を止めた。
胸が痛くて、呼吸が震える。
レオナルドはそっと近づき、
彼女の肩越しに空を見上げた。
「……よくやった」
その一言だけで、涙がこぼれそうになる。
「先生……私、こわかった。
でも、もう……嘘で生きるのは嫌で……」
声が震える。
レオナルドはそれ以上何も言わず、
そっと彼女の手を握った。
それは教師ではなく、
ひとりの男としての触れ方だった。
リリアナの喉がきゅっと鳴る。
「……レオナルド様」
「名で呼んでくれたな」
微笑んだ彼の目は、驚くほど甘い。
「リリアナ」
名を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
「君を初めて見た時から……ずっと気づいていた。
誰の代わりでもなく、君自身を見たいと思った」
リリアナの心が跳ねた。
「……先生、でも……私は……」
「身分も職務も越える。
それでも君が欲しい」
風も声を奪うほどの、告白。
リリアナはそっと彼の胸元を掴んだ。
先日、助けを求めた小さな手とは違う。
自分の意思で彼を選ぶ手。
「……私も……
あなたと生きたいと思ってしまいました」
レオナルドは静かに彼女を抱き寄せた。
初めての、まっすぐな抱擁。
「もう影には戻らせない。
これからは――俺が、お前を照らす」
リリアナは目を閉じ、
その胸の温度に身を預けた。
もう逃げない。
もう誰かの影ではない。
光は、こんなにも近くに。




