前編
翌週に控える定期試験。
学院中は、そわそわしている。
ミレイユ・ドルネ侯爵令嬢は、今日も廊下を女王のように歩いていた。
「ちょっと、道を空けてくださる?」
「ええ、そこよ。私のドレスが触れるわ」
淡く笑いながらも、言葉の刃は容赦ない。
彼女の周囲だけ、空気が自然とひれ伏すかのように。
高慢で、美しく、才色兼備。
それが“本物のミレイユ”。
そしてその陰に——
いつも彼女の従姉妹、リリアナがいた。
でも試験当日の今日は違う。
ミレイユ本人が「面倒だわ」と言って登校を放棄したため、
試験監督に提出される答案は リリアナが“ミレイユとして”書かなければならない。
……大丈夫。あのミレイユを、今日だけは私がやる。
リリアナは寮の鏡の前で最後の確認をした。
高慢な令嬢特有の“ゆっくりとしたまばたき”、
人を見下ろすときの角度、
口元にだけ笑みをのせる表情。
練習した通りに、すべてを並べていく。
家のため。
この偽装が続く限り、かろうじて生活が保たれる。
やらなきゃ。そう、自分に言い聞かせて。
教室に入った瞬間、数人の生徒がそわりと背筋を伸ばした。
「ミレイユ様、今日はいつにも増してお美しい……」
「……なんか、いつもより雰囲気違わない?」
やだ……バレてないよね……?
いや、大丈夫。“ミレイユの優雅さ”は崩してない
リリアナは表情を動かさず、
ゆるやかに席へ向かう。
徹底的に本物をコピーした所作だけが、彼女を支えていた。
試験監督・レオナルドが教壇に現れた。
教室が、ひやりと引き締まる。
彼は学院一、冷徹と噂される教師。
公平、正確、そして容赦がない。
その視線がリリアナを捉えた。
一瞬、ほんの一瞬だけ。
リリアナの心臓が跳ねる。
__……見られてる?
レオナルドは何も言わず、試験用紙を配り始めた。
そして彼女の机の前でぴたりと足を止める。
黄金の瞳が、まるで“本物と何か違う”と告げるように揺れた。
「……ミレイユ・ドルネ。体調は?」
しっとりと落ちる低音。
探りの匂いがした。
リリアナはミレイユの特有の“鼻で笑う息”を再現し、
優雅に微笑んだ。
「問題なくってよ、先生。ご心配には及びませんわ」
完璧。
言葉も、声の調子も、いつもの”本物”そのもの。
レオナルドは短く頷き、用紙を置く。
だが去り際、
ほんのわずかに眉を寄せた。
わずかな“違和感”
だが、胸にしまい込み、彼は試験を開始させた。
リリアナは誰にも悟られぬよう、
ミレイユが得意とする筆圧と筆跡を模して答案を書き進めていく。
大丈夫、大丈夫。
私は、ただ正解を書けばいい
最後の一行を書き終え、
あえてゆっくりと見直し、席を立つ。
提出箱へ向かう背中は、完璧な侯爵令嬢のそれ。
終わった……。
今日の私は、誰よりも美しく、強く、高慢で——
扉の前で一瞬だけ呼吸を整え、
振り返らずに出ていく。
カチリ。
閉まる扉の向こうで、
レオナルドはしばらく動かなかった。
視線は提出箱ではなく、
今まさに去った令嬢の消える後ろ姿に吸い寄せられていた。
「……完璧すぎる。
あれが本当にミレイユか?」
疑念と、
理由のわからない“引っかかり”。
彼の心に、小さな亀裂が入った瞬間だった。
昼下がりの講義室には、まだ熱の残る秋の光が満ちていた。
ミレイユ・ドルネ——否、その姿を借りたリリアナは、一歩も引かずにその光を背負い、講壇に立つ男の視線を真正面から受け止めた。
「……成績について、説明を願おうか。ミレイユ嬢」
レオナルド・フィルモア。
冷徹で知られる若き教師。侯爵家の次男にして、規律を例外なく乱さない男。
その淡々とした声音さえ、どこか温度を失っていて、刺さるように冷たい。
私は、伏目がちな本来の自分を押し殺す。
代わりに、従姉妹の完璧な振る舞いを、なぞるように重ねる。
「説明……? あなた、私に落ち度があるとでも?」
微笑む——けれど、それは笑みではなく、侮蔑の刃。
ミレイユがいつもやっていた、あの“美しい形だけ”の冷笑。
背筋をすっと伸ばし、顎を少し上げる。
光を弾く金の髪を、無造作に揺らすふりをする。
完璧に演じなきゃ。家のために……バレてはいけない。
彼の目が細くなる気配。
けれど私は怯まず、その紫紺の瞳を正面から受けた。
レオナルドは、ゆっくりと机の上の答案を指で叩く。
「先週の模試、あなたは一問たりとも間違えていない。
だが、その前の小テストは、ほぼ全滅だったはずだ」
「気まぐれよ。私の実力は、測れるところで見せないと意味がないでしょう」
従姉妹の常套句。
すらすらと出てくる自分が、少し哀しい。
レオナルドはほんの一秒ほど沈黙し——そして、低く言った。
「……君は、妙だ」
その声に、胸が跳ねる。
けれど私は、仮面を崩さない。
「妙? あなたの考えすぎでは?」
男は答えなかった。
ただ、私の立ち姿を――逃さず、じっと観察するように目で追う。
その眼差しは、冷徹というより、何かを確かめる者の静かな執着に近く、背筋がふるりと震える。
どうして。どうしてそんなふうに見るのだろう……
演じ切ったはずなのに、喉の奥が乾いていく。
だが仮面は崩さない。崩しては、いけない。
最後に、私はミレイユらしい一礼をして踵を返す。
高慢で、美しく、誰の指図も受けない令嬢のふりをして。
足音を響かせて教室を出た瞬間——
私は小さく息を吐き、己の胸の鼓動を押さえ込んだ。
だが背中に刺さる視線が、なおも離れない気がした。
……先生は、きっと気づいていた。私が“本物ではない”ことに。
廊下の静寂の中で、リリアナはそっと目を閉じた。
その後ろ姿を、レオナルド・フィルモアは長く、長く見つめているとも知らずに。
扉が閉まる音が、講義室にわずかな余韻を残した。
ミレイユ・ドルネが——いや、彼女“に見える少女”が去ったあとも、レオナルドはしばらく目を伏せなかった。
机に置かれた答案用紙を指でなぞる。
「……やはり、妙だな」
紙の上の文字は、完璧そのものだった。
だが、それが“ミレイユ”という人間の持つ癖と、微妙に噛み合わない。
例えば——
従来の小テストでは必ず見られた、特有の“筆圧の濃淡”。
今日の答案にはそれがない。
書いたのは、別人だ。
確信に近い直感。
だがそれを裏づけるには、たった一度の対面だけでは足りない。
それでも、彼女の立ち姿を思い返すと、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
完璧に演じている。
おそらく彼女の振る舞いを、寸分違わずなぞっている——だが。
……目が違う。
氷の仮面のように整った表情のくせに、視線だけがやけに痛々しく澄んでいた。
侮蔑を装っているはずなのに、ほんの僅かに震えていた。
あれは恐怖ではない。
覚悟と、諦めの混じった光だ。
「何を抱えている……?」
そう呟いた瞬間、レオナルドは自分の声の低さに気づき、眉根を寄せる。
他人の事情に踏み込む気などなかった。
教師としての職務を淡々と果たすだけ。それが彼の矜持だった。
なのに——あの少女の背中が離れなくて、思考が停滞する。
まるで、引かれてしまったように。
なんと呼びかけたら、振り返るのだろうか。
そんなことを考えている自分に、苛立ちすら覚える。
机の上の答案をひとつにまとめながら、彼は深く息をついた。
「……近いうちに、もう一度話を聞こう」
職務のため——そう言い訳をしながら。
リリアナは今、廊下の隅で壁に手をつき、息を整えたまま動けずにいた。
完璧に演じ切ったつもりでも、脚は震えていた。
胸の奥では、レオナルドの視線がまだ燃えるように残っていた。
どうしよう……なんであんな目で……
冷たいはずの男の眼差しが、妙に熱かった。
その熱を、彼女は今も振り払えずにいる。
「先生……どうして」
呟きがひとつ落ちた。
部屋に戻ると、リリアナ・ドレイクはまず壁にもたれ、息を押し殺した。
室内の空気は冷たい。
けれど胸の奥は、ずっと熱が残っている。
……どうして。あの人の視線は、怖くないんだろう。
冷徹な教師。淡々と、鋭く、容赦のない男。
“ミレイユ”としての自分が睨みつけても、一切ひるまない。
それなのに。
あの目は、どこか……痛かった。
嘘を見抜かれそうで、触れられたわけでもないのに心臓の奥が揺れた。
——軽い足音。
従姉妹のミレイユが部屋を覗き込んでいる。
白いレースのスカートを揺らし、わざとゆっくりと。
微笑みながらも、眼差しは冷たく光っている。
「おかえり。……上手に演じられたみたいね、リリアナ」
「……ええ。言われた通りに」
リリアナの声はかすかに震えた。
本人は気づいていない。ミレイユは、しっかり聞き取っている。
「まさか、失敗したんじゃないでしょうね」
リリアナは慌てて首を振った。
「失敗なんて。……先生も気づいていなかったわ」
ほんの一瞬の沈黙。
ミレイユの瞳が細く狭まり、まるでリリアナの奥の奥を覗き込むような鋭さを宿す。
「本当に?」
リリアナは息を呑んだ。
脳裏に、レオナルドのあの目が蘇る。
理解しているかのような、確かめようとする、逃さない光。
本当は……気づいているかもしれない。
だが言えるはずがない。
家の借金。
ミレイユから受けている“支援”という名の束縛。
やめれば家が潰れる。両親はリリアナの肩に全てを乗せている。
嘘をつくしかない。
「本当。私の演技を疑うなんて、失礼ね」
ミレイユの顔で笑って見せる。
ミレイユは微笑み、リリアナの頬に指を触れた。
優しい仕草のくせに、爪が少しだけ皮膚に食い込む。
「ねぇ、リリアナ。あなたは私の影なの。……絶対に、ほころばないで」
囁きは甘く、冷たかった。
リリアナは小さく頷いた。
胸がじんと痛んだ。自分が表に立つことはきっと、一生ない。
その夜。
レオナルド・フィルモアは自室で灯りも付けず、窓辺に立っていた。
静かな夜気の中、今日出会った少女の姿だけが、妙に鮮明だった。
「完璧すぎる……いや、完璧“に見せようとしている”?」
作り物の優美さ。
磨かれた仕草。
だが今にも崩れそうな脆い沈黙。
あれを“高慢な令嬢ミレイユ”として説明するには、無理がある。
「……何を抱えている、君は」
思わず独り言が漏れる。
彼は冷徹であるべき教師だ。
だが、リリアナが見せたほんの一瞬の震えを、見逃すほど鈍感ではない。
ただの問題児ならいい。
ただの演技ならいい。
けれど——
「助けを求める目をしていた」
あの光景が脳裏から離れない。
レオナルドは静かに息を吐き、椅子に腰を下ろした。
ある疑念が、ゆっくりと形を取り始めていた。
まだ言葉にはできない。
だが、彼は本能的に理解してしまう。
——あれは、ミレイユではない。
そしてそれ以上に。
「……気になる、など」
呟き、苦笑する。
職務から外れた感情が芽生えかけている自分に、わずかに苛立つ。
なのに抑えきれない。
リリアナ・ドレイクは、静かに、彼の心を揺らす。
翌朝。
学院の中庭には朝露が残り、風はまだ冷たかった。
リリアナ・ドレイクは、今日も“ミレイユ”の顔をして教室に入った。
背筋はぴんと伸び、歩幅も練習した通り。
視線は強く、言葉は刺のある貴族の令嬢。
完璧だ。
完璧なはず。
けれど——
教室の前に立つ教師レオナルドの視線が、
彼女の動きを一つ一つ追いかけてくる。
……見られている。
ただそれだけで、胸の奥がざわつく。
授業が終わった後。
レオナルドは生徒たちを下校させ、最後にリリアナを呼び止めた。
「……ミレイユ・ドルネ嬢。少し残りなさい」
声は冷静。
だが静かな部屋に響くと、妙に胸に触れる。
リリアナは微笑みを形作る。
完璧な令嬢としての表情。
ゆっくりと教師の前まで歩く。
「何か? 先生」
レオナルドは机に片手を置き、長い腕をゆっくりと組む。
目が、冷たいほど澄んでいた。
「昨日の件について、少し確認がある」
「……昨日?」
「“君”の態度だ」
リリアナの心臓が、かすかに跳ねる。
ばれてはいけない。
絶対に。
落ち着いて……私はミレイユ。
「態度? 問題があったかしら?」
わざと挑発的に顎を上げる。
しかしレオナルドは微動だにせず、ただ静かに言った。
「強く返す必要はない」
時間に小さな亀裂が入ったようだった。リリアナの肩がわずかに揺れる。
——この人、知ってる。
レオナルドは歩み寄る。
机を回り、真正面から彼女を見下ろした。
「ミレイユ嬢。君は昨日……震えていた」
空気が止まる。
「……震えてなど……」
否定しようとした声が、かすれた。
レオナルドは追い詰めない。
怒らないし、声も荒げない。
ただ、静かに真実を置く。
「ほんの一瞬。誰も気づかない程度の……微かな揺れだ」
リリアナの呼吸が浅くなった。
ちがう……ちがう。気づかれたくないのに。
彼はさらに一歩近づく。
影がリリアナの目元に落ちる。
「君は、本当に……“ミレイユ”か?」
核心に頬がひきつった。
喉が痛いほど乾く。
「当然でしょう。私はミレイ——」
「昨日の答え方は、あの高慢な令嬢のものではなかった」
その言葉は、刃ではなく、静かな水滴のように落ちる。
なのに胸の奥に深く、深くへ沈んでいく。
逃げたい。
でも、逃げられない。
レオナルドの目は怒りではなく、ただ純度の高い観察をしている。
嘘を貫けば貫くほど、自分の方が苦しくなる。
どうして……どうして、気づくの……
唇が震える。
「……先生には、関係ない……」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
ミレイユなら絶対にしない声。
レオナルドの眉が、ほんのわずかに動いた。
「関係なくはない。生徒の“異変”は見過ごせない」
異変。
本当の自分が、もう隠しきれない。
次の言葉が、決定的だった。
「君は……助けを求めているように見えた」
息が止まり、視界が揺れた。
——助けてほしいなんて。
そんなはず……
言ったら全部、壊れてしまう。
なのに。
その声だけが、嘘に触れる。
「ミレイユ嬢。……いや」
彼の声が少しだけやわらぐ。
「——君は、誰だ?」
リリアナの指が、震えた。
沈黙が、部屋の隅で重たく響いていた。
リリアナはまっすぐ立っているつもりだった。
けれど足元の感覚は薄れ、呼吸はうまく入ってこない。
レオナルドは、追い詰めるような色を一切見せない。
ただ、静かに。
彼女が倒れないように見守る距離で。
「もう一度聞く。——君は、誰だ?」
その言葉が胸に刺さり、何度も反響した。
どう言えばいい?
どうしたら守れる?
どこまで嘘をつき続ければいい?
答えを探すほど、声は出なくなる。
「……ミ……レイユ、よ」
自分でも情けないほどかすれた声だった。
ミレイユなら、もっと高飛車に言い切れるはずなのに。
レオナルドは、彼女の揺れを静かに受け止める。
「昨日、君は震えていた。
そして今日……その声は、あの令嬢のものではない」
「言わないで……」
胸の奥がきしむ。
仮面が割れる“音”が聞こえた気がした。
「助けが必要なら、『助けて』と言えばいい」
その一言が、いちばん残酷だった。
優しすぎて、嘘をつき続けることが、痛くなる。
リリアナは、ぎゅっとスカートの端を握りしめる。
「……先生には、関係……ない」
「ある」
即答だった。
低く、しかし強く。
彼はまだ一歩も近づかないまま、言葉だけで距離を詰めてくる。
「君は今、私の“生徒”だ。
見て見ぬふりは……できない」
やめて。
そんなふうに言わないでほしい。
だって。
「……先生。
先生が……触れたら、壊れます」
初めて漏れた“本当の言葉”。
レオナルドの目がわずかに揺れた。
けれど彼は慎重に、触れずにそばにいる方法を選ぶ。
「触れない。
壊さない。
だから……教えてほしい」
声が、胸を温める。
リリアナは、唇を噛みしめた。
誰かに弱さを見せるのは、怖い。
でも、もう、隠しきれない。
「……私……は」
言いかけて、喉がつまる。
涙が落ちそうになる。
その瞬間。
レオナルドが、やっと一歩だけ近づいた。
触れない。
けれど逃がさない距離。
「名前を——」
静かな声が、落ちてくる。
「君の“本当の名前”を、聞かせてほしい」
名前。
それは、今まで守ってきた最後の砦。
けれど。
もう嘘は痛すぎた。
リリアナは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「……リリアナ・ドレイク」
言った瞬間、膝から力がふっと抜けた。
隠していたものがすべてほどけていく感覚。
苦しくて、でもどこか……救いに触れた気がした。
レオナルドの表情が、静かに変わる。
驚きでも、怒りでもない。
ただ、とても……優しかった。
「……そうか」
その小さな呟きの奥に、
彼自身の“決意”が灯る気配があった。
教師として。
そして——それだけでは収まらない何かとして。
レオナルドは視線をそらさず、言葉を落とした。
「リリアナ。
君の事情を話してくれとは言わない。
だが……」
息を整え、
「これからは、私が“見ている”。
君を一人にはしない。それを忘れないでくれ」
触れなかった。
けれど、その言葉は指先よりも温かく。
リリアナの喉が震え、声にならない息が漏れた。
……ずるい。
そんな風に言われたら、泣いてしまいそうになるから。
次の日、レオナルドは気づいている。
エレガントな動作、冷たい微笑、完璧すぎるカーテシー。
“ミレイユ・ドレイク”のふるまいは、どこから見ても本物だった。
だが、息づかい。
立ち姿の重心。
言葉を選ぶときの、ほんのわずかな間。
ミレイユなら、あんなふうに言葉を吟味しない。
いつものミレイユは、思考より先に傲慢さが口を突く。
だが目の前の少女は、たった一拍、“恐れ”を飲み込んでから微笑む。
――従姉妹のリリアナ。
噂にしか聞かない名だったが、ようやく腑に落ちた。
彼女は完璧に偽装している。
だが完璧とは、時に本物よりも本物らしかった。
「……以上ですわ。ご納得いただけましたかしら?」
涼しく笑う“ミレイユ”。
しかし、彼女の手の指先はほんのわずかに震えている。
レオナルドは、淡々と書類を閉じた。
「よくやったな」
一瞬、リリアナの肩がかすかに揺れた。
だがすぐに氷のような表情で取り繕う。
「褒めていただけるなんて光栄ですわ」
「褒めてはいない」
扉へ向かい、すれ違いざま――
レオナルドは呼吸の音が聞こえる距離で、低く囁いた。
「……“ミレイユ”。おまえは、今日、よほど必死だった」
リリアナの心臓が強く跳ねた。
だが表情だけは偽物の令嬢のまま、ぴくりとも動かない。
レオナルドはそれ以上は言わず、ただ視線だけを落とす。
けれど彼は暴かない。
その必要がないから。
「――よく演じきったな、リリアナ嬢」
リリアナの呼吸が止まった。
扉が閉まる。
廊下に背中を預けたレオナルドは、瞼を伏せた。
──知られるほど、逃げたくなるのに。
翌週の小テスト。
リリアナはリリアナとして最前列に座っていた。
問題は簡単だった。
だが簡単だからこそ、誤魔化しようがない。
解ける……全部解ける。だけど、ミレイユじゃないから解いちゃいけない。
ほんの少しだけ間違える。
ミレイユが普段しないような凡ミスを、意識的に散りばめる。
それをしているとき、胸の奥がじくりと痛んだ。
自分の価値をごまかして生きる苦しさ。
“できないふり”を続ける惨めさ。
そんなリリアナの手元を、レオナルドは静かに見ていた。
……やっぱり、解けるんだな。
ミレイユがこんなスピードで解答を埋めることは、絶対にない。
筆圧も、視線の動きも、まるで違う。
リリアナ本人の実力が、隠しきれないほど滲んでいた。
「……時間です。提出を」
立ち上がろうとしたリリアナの足元が、わずかにふらついた。
前夜、睡眠はほとんど取れていない。
従姉妹から渡された課題の代筆。家の帳簿の整理。
眠れない理由はいくらでもあった。
紙束が手から滑りかけた瞬間――
「危ない」
レオナルドの手が、その紙を受け止めた。
指先が触れるほんの一瞬の接触。
その一瞬だけで、リリアナは呼吸の仕方を忘れた。
「あ……っ」
「大丈夫だ」
教師としての声なのに、妙に優しい。
レオナルドは紙束を整えながら、ふとリリアナの顔をのぞき込む。
「……無理をしている顔だ」
その言葉が、喉の奥を刺す。
否定すれば崩れそうだった。
肯定すれば、すべてが露見する。
だからリリアナは、何も言えずにただ目を伏せた。
やめて……見ないで。気づかないふりをして。
切実な願いほど、言葉にはならない。
レオナルドは静かに視線を下げた。
そして提出された答案を開いた瞬間、胸が痛んだ。
……本当に苦しんでいるんだな。
あえてつけた“凡ミス”が、逆に痛々しかった。
正しい解き方を知っている者が、意識的に誤魔化した跡。
それがレオナルドには、はっきりと見える。
その夜、レオナルドは珍しく職員室に残ったまま、窓の外をずっと見ていた。
「どうして君は、そんなふうに自分を殺す……?」
その問いが、静かに胸を締めつけていた。
試験から二日後。
リリアナは夕暮れの廊下をゆっくり歩いていた。
授業が終わった後の教室は、静かで、どこか冷たい。
その冷たさが、今の自分にはちょうどよかった。
今日もミレイユの代わりに提出する課題を、こっそり準備している。
ミレイユの字を真似して、癖をずらして——
そうやって“自分じゃない誰か”に組み替えていく作業は、いつも胸の奥を削る。
誰でもいい。誰か、気づいて。
……いいえ、気づかないで。お願い、知らないままでいて……
矛盾した願いが、喉の奥で絡まっていく。
その時だった。
「……リリアナ」
背後から、静かな声。
振り返った瞬間、心臓が跳ねる。
レオナルドが教室の入口に立っていた。
夕陽が背後から差し込み、彼の横顔を淡く照らしている。
その静かな佇まいに、逃げ場を失った心を見透かされそうで怖い。
「少し、いいだろうか」
「……はい」
拒める空気ではなかった。
逃げ出す力も残っていなかった。
レオナルドは教卓の横まで歩き、ふと視線を落とした。
「この前の試験についてだが……」
——来る。
胸が苦しくなる。
「君は、本来もっと高い評価を取れるはずだ」
一瞬で息が止まった。
喉までせり上がる動悸をごまかすように、リリアナは笑みのようなものをつくる。
「それは……買いかぶりです」
「いいや。私の目は誤魔化せない」
その声はとても静かで、だからこそ逃げられない。
「答案を見た時……君が“わざと間違えた”と、すぐにわかった」
リリアナの指が震えた。
何かを落としそうになるかのように。
「どうして……そんなことを?」
どうして。
彼にだけは、その問いを口にしてほしくなかった。
「……理由なんて、ありません」
「あるだろう」
「ありません」
言葉が尖る。
本当は怒っているのではない。
ただ、触れられたくないところに触れられた。その、痛みだった。
レオナルドは目を細めた。
「君は、誰かの影にいるべき人間じゃない」
その一言が、胸の奥を刺し貫いた。
ミレイユの影。
家の都合。
自分の意志などない日常。
私のことなんて……知らないくせに。
涙が出る前に、リリアナは顔を伏せた。
「……すみません。今日は急いでいるので」
逃げるように歩き出す。
だが足音が追ってこないことに、少しだけ胸が痛くなる。
教室の外へ出た瞬間、リリアナは壁にもたれ、小さく息を吐いた。
いやだ……知られたくない。
……あの声、優しすぎて、逃げられない。
矛盾した思いが、胸の奥で静かに渦を巻く。
振り返れば、きっと彼はまだ教室にいる。
自分を責めるような顔で、答案を見つめているのだろう。
どうして……こんなに心が揺れるの?
わからない。
わからないのに、涙が一粒だけ落ちていった。
夜の寮は静かだった。
廊下の灯りは落とされ、遠くで時計の針だけが微かに刻む。
リリアナは自室の机に向かっていた。
目の前には、ミレイユ宛の課題。
癖の強い筆致を真似し、言い回しを変え、丁寧に整える。
頭は重い。
手は冷えている。
胸の奥に、暗く沈む石のような息苦しさ。
「……まだ、終わらない」
膝の上で握りしめた布が、しっとり濡れていた。
いつの間に涙が落ちていたのだろう。
泣くつもりなんてなかったのに。
泣く理由はいくつもある。けれど、ひとつも口にできない。
私がやらなきゃ……ミレイユが困る。
家は……私を必要としている。私しか、できないんだから。
それは本当の“必要”なのか。
ただの口実なのか。
考え始めると、胸が痛くて、息ができなくなる。
机の端には、ミレイユから昼間届いたメモがある。
『今日の課題、あなたがやっておいて。どうせ暇でしょう?』
たったそれだけ。
その言葉は残酷なほど軽い。
……暇なんかじゃない。
でも……言えない。
ペン先がぶれた。
自分でも気づかぬまま、字が滲む。
「……っ」
喉の奥で、声にならない声が漏れる。
気丈なふりをしようとするほど、胸の奥が削れていく。
もう限界に近いのに、誰にも悟られたくなかった。
机の引き出しの奥から、古びた家族の紋章入りの封筒が目に入る。
家からの要求や命令が入っていたもの。
その存在を見ただけで、心が軋む。
どうして……こんなに苦しいのに。
どうして……やめて、って言えないんだろう。
ぽたり、と涙が落ちた。
紙の上でゆっくりと染みが広がっていく。
その時だった。
「……リリアナ?」
扉の向こうから、そっと呼ぶ声。
心臓が跳ねる。
聞き慣れた、あの静かで深い声。
レオナルドだ。
「廊下で、灯りがついていたから。まだ起きているのか?」
返事ができない。
声を出したら、崩れてしまいそうで。
「……返事がないな。入ってもいいか?」
リリアナは慌てて涙を拭い、机に背を向けた。
肩が震えているのを隠しきれない。
「すみません、今は……」
扉の向こうで、短い沈黙があった。
その沈黙が、やけに優しい。
「……わかった。無理はするな」
それだけを残して、彼の足音は遠ざかっていく。
扉の隙間から漏れた灯りが揺れ、すぐに暗闇が戻る。
リリアナはそっと膝を抱えた。
もう、ペンも持てない。
声も出ない。
知られたくない……のに。
「どうして……あんな声で呼ぶの……?」
壊れそうな心にそっと触れたような声音が、胸の奥で温度を残している。
だから余計に、涙が止まらない。
助けてほしいなんて……言えるわけない。
誰もいない部屋で、こぼれる嗚咽を押し殺した。
翌朝。
校舎の窓から差し込む光は淡く、静かな廊下を照らしていた。
リリアナはいつも通りの顔をしていた。
完璧に整えた髪、落ち着いた所作、丁寧な微笑み。
昨夜どれほど泣いたかなんて、誰にもわからない。
……はずだった。
「リリアナ・ドレイク」
名前を呼ばれる。
振り向くと、そこにはレオナルドが立っていた。
静かな瞳。
けれど、その奥は……昨夜より、ずっと深かった。
「昨日の宿題を提出するように」
「……はい」
そう言って差し出した紙束を、レオナルドは受け取り、
その手が、ふと止まる。
紙の端。
ひどく小さく、薄い滲み。
リリアナは息を飲んだ。
ほんの小さな涙の跡。
夜中の涙が、乾いて残っていた。
彼は視線を上げる。
リリアナから目をそらさずに。
「……昨夜、泣いたのか?」
優しい声だった。
追い詰めるでもなく、責めるでもなく。
ただ事実を、静かにそっと触れるように。
「っ……」
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
「泣いていません。これは、ただの……」
「にじみ方が、『ただの』ではない」
言葉は淡々としているのに、どこか苦しげな響きがある。
「君の字は乱れていない。手も震えていない。だが——紙だけが、泣いている」
リリアナは思わず俯いた。
喉の奥がきゅっと締めつけられる。
どうして、こんなふうに気づくの。
どうして、知られたくない時に限って。
レオナルドは紙束を胸元に抱え、静かに言った。
「リリアナ。君は、もう限界なのではないか?」
「違います。私は……大丈夫です」
「大丈夫な者は、深夜に灯りをつけたまま、声も出せないほど震えたりしない」
「っ……見て……たんですか」
「見えた。……聞こえた」
リリアナの心臓が跳ねた。
昨夜の震える声。
こらえた息。
押し殺した嗚咽。
聞かれていた……
それだけで足元がふらつきそうになる。
「君が耐えている理由は知らない。言いたくないなら、言わなくていい」
レオナルドの声が、ほんの少しだけ低く、柔らかくなる。
「ただ——」
彼は静かに続けた。
「君がひとりで壊れていくのを、黙って見ているつもりはない」
その一言が、胸の中に深く落ちる。
重くて、あたたかくて、苦しいほど優しい。
「……どうして……そんなふうに……」
「君が、ひとりで背負うには、あまりにも細くて、綺麗な背中をしているからだ」
リリアナは息を止めた。
告白ではない。
慰めでもない。
ただの事実として告げられたような、彼の心の温度。
そんなこと……言われたら……
涙がまたこぼれそうになる。
レオナルドはそれ以上言わなかった。
追い詰めないために。
触れないために。
ただ、そばにいるために。
「教室に行きなさい。……顔は、今のままでは隠しきれないだろう」
その言葉すら優しい。
リリアナは、震える声で返した。
「……はい」
廊下を歩きながら、胸の奥が静かに痛む。
どうして……気づいてくれたの?
気づかれたくなかったのに。
でも本当は——気づいてほしかったのかもしれない。




