第1章 匂いは嘘をつかない
私の鼻は、嘘と薬の区別をつける。人は言葉を重ねて自分を飾るが、匂いは黙って真実を並べる。甘さ、青さ、鉄の微かな粉末――それらが層になって、その人が今日どんな皿を舐め、どんな薬を飲み、どんな嘘を隠しているかを教えてくれる。
港町の外れの小さな薬屋で、私は今日も瓶に指を滑らせながら粉末の説明をしていた。客は必ず「あの薬は効くのか」と聞く。効きます、と答えるのが無難だろう。だが私には、効く薬と“効くと信じさせる薬”の区別がつく。効くふりをするものは、長くは保たない。人の体も、国も同じだ。
「鳴海瑠璃、宮中に来てほしい。」
真冬の声は手紙ではなく、目で届いた。簡素な字面には理由が書かれていない。だが彼の背後に漂うのは、金属と薄い柑橘の混じった匂い。血の匂いじゃない。計算された消臭――そして、何かを隠すために意図的に置かれた香だ。呼ばれて行かない理由が、そこには無かった。
私は深呼吸をして店を出た。商いの最中でも、嗅覚は休めない。通りに漂う魚と潮の匂い、遠くで燃える薪の香、湿った石畳の匂い……すべてが一枚の地図になる。
宮中は想像よりも静かだった。門をくぐると、香の管理が徹底されているのがわかる。人の息と衣の匂いだけが淡く漂う。私は自分の感覚を研ぎ澄ませながら、真冬とともに中庭を歩いた。
「ここで起きた事件の説明だ。」
真冬は淡々と語る。宮廷で、王族や側近が微量の中毒に見舞われる事件が続いている。症状は軽く、表面上は健康だが、体内には微かな薬物の痕跡が残る――普通の薬学では説明できないものだという。
「匂いに層があるんです。」私が口を挟むと、真冬は目を細めた。
「層……ですか?」
「はい。時間軸と成分の重なり。何を先に食べ、何を飲み、どんな環境にいたか。匂いが重なって痕跡になります。人の嘘も、匂いの層の中に現れる。」
真冬は軽く頷き、少し微笑んだ。「だから君が必要だったのか。」
最初の現場は、宮廷の小さな書斎。被害者は王族の側近。部屋に入ると、木材と古紙の匂い、淡い香料、そして――わずかに腐った柑子のような香り。微かな異変が鼻を刺す。
「これは……。」
私は目を閉じ、呼吸を整える。匂いは、時に声よりも雄弁だ。最初の層は昨日の夕食。次に、昨夜の寝室の布の香。最後に、今日の薬の匂いと、誰かが意図的に残した微かな化学物質。誰が何をしたか、匂いは語る。
書斎の窓際、猫の柑子がひょっこり現れる。
「にゃー」
私は微笑む。こいつも匂いに敏感だ。少し鼻をひくつかせると、ある引き出しの前で座った。中身を確認すると、隠されていた薬瓶が出てきた。小さな硝子瓶に封された、無色透明の液体。匂いは甘く、微かに鉄の味。微量の毒――王族用の薬としては極めて不自然だ。
「なるほど……狙いはここか。」
真冬も私の肩越しに匂いを確認する。彼は理論派だが、こういう感覚的判断には素直に従う。私の嗅覚を信じてくれること、それが唯一の救いだ。
その日、事件は小さな謎として片付いた。だが、匂いの層は他にも続いている。宮廷の影には、もっと深い陰謀が潜む。王位継承、医術を使った偽装、そして薬の記録の改竄……。
「匂いは嘘をつかない。でも、人は匂いを偽る。」
私はそう呟き、次の層を追う覚悟を決めた。
宮廷薬師――小さな港町の少女が、皇宮の秘密を嗅ぎ分ける物語の始まりだった。