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護るべきもの

挿絵(By みてみん)

 病は遂に彼女を蝕み始めた。

 いや、今まで平穏に生活できていたのが奇跡的だったのだ。

 レーヴァの騎士ウォルフガングの妻セレーネは、年が明けた間もない頃からこれまでに経験がないほどに身体の不調を肌身に感じていた。

 元々、蒲柳(ほりゅう)(しつ)であった彼女は、幼い頃から長くは生きられないと言い聞かされてきた。セレーネ自身はそれが宿命だと割り切って、悲観的になった事はない。

 天使様の御心に委ねていれば何の心配も感じなかった。

 父親が仕えていた領主家との縁でウォルフガングと出会い、当初こそはとても体調が安定していたので、新婚1年目までは平穏に幸せな結婚生活を営んでこれた。

 だが、徐々に不安定さも目立つようになっていた。

 セレーネ自身、いつかは来るべき時が来るのだろうと思っていた。それでも最後まで諦観(ていかん)の境地にいられるはずだと思っていた。

 本当にその時が迫るまでは。


 セレーネの異変は、胸の激しい痛みから始まった。

 不調になる時、決まって鼓動を大きく感じて恐ろしいほどに脈が早く感じる。

 それが今年になってから動悸がつらく、胸に刺しこむ痛みすら伴う。

 少しずつではあるが、早く深く重くなってきているのがわかる。

 伏せったままベッドから出られない日が増えていた。

「ごめんなさい、あなた‥‥」

 簡単な食事の準備もできない事さえある。

「何を言う。このようになるまでお前に苦労をかけていたのは‥‥私の方だ。医者にも相談してある、もちろんレーヴァ神殿の神聖魔術師にも。家事のことは心配するな」

 主君からの勧めもあり、夫は勤めてる領主館の使用人から交代で普段の妻の身の回りの世話に来てもらうよう頼んでいた。領主の外廻りの仕事はウォルフガングがすべて担っているので、他の人間では中々代わりが出来る者が居なかった。

 レーヴァ領主シグルドの子飼いの騎士はウォルフガングしかいないからだ。

 それでも何日かに一度は、ウォルフガングは出仕を休んでつきっきりで付いていてくれた。セレーネは心苦しく思ったが、夫は否定する。

「シグルド様からの心遣いだ、心配しなくていい」

 一度だけ苦手な料理を用意してくれた事があったが、台所で味見をした瞬間から無言で鍋ごと近くの小川まで運んで中身を全て流してしまった。

「何も捨てなくても。あなたの手料理、食べてみたかったのに」

「‥‥絶対に、ダメだ」

 滅多に見せないであろう青ざめた顔で、夫に即答で拒否された。

 その様子があまりにも可笑しくてセレーネはくすくすと笑っていた。

 妻に笑われてウォルフガングは仏頂面の渋い顔で後片付けを始める。

 余計に台所が散らかったようにも見えた。身の回りの世話をしてくれる領主館の使用人が見たらきっと呆れる事だろう。

 夫の手料理を食べられる機会はなくなったようだ。

 以後、ウォルフガングは2度と試そうとはしなかった。


 騎士としてのウォルフガングは領主の右腕としての役目を果たしていた。

 レーヴァの領民にも信頼され、いつ訪れるかわからない有事に備えて、日々の鍛練を怠らない謹厳実直な騎士である。それを疑う者はレーヴァには居ないだろう。

 ウォルフガングの名前を出すと皆が大変良くしてくれた。レーヴァにやってきたばかりの頃、セレーネはそれが誇らしく嬉しかった。

 しかし、家庭人としてのウォルフガングは‥‥。

 何の役にも立たない、何も出来ない、家庭生活不適合者だった。

 セレーネが気がつかなければ、服に穴が空いていようと着ているし、洗濯をすれば力加減が出来ず破いてしまう。剣がどこにあるのか忘れる事などないのに、上着や下着などは家のどこに何があるかも、ほとんど把握出来ずにいる。

 整理整頓や掃除も壊滅的。

 馬の手入れや厩舎の掃除は出来るのに、自分の部屋の片付けはロクに出来ない。

 家庭的な方面での生活力は無いに等しい。野営訓練なら最低限は出来るのに、自宅では飲み水一杯を汲むことすらスムーズに出来ない。

 もちろん言えば動くが、下手に触られない方がマシである。

「お前に‥‥世話をかけて、ばかりだな」

 家事どころか、身の回りの事すら何も出来ない不出来な夫。

 それをセレーネは微笑んで許した。

「家に居る時くらいは、あなたは私の夫と言うだけでいいの。剣を置いた瞬間から、騎士でなくて良いのです。安心して私に任せてください」

 だから、ウォルフガングは家では妻に従い、任せっきりになっていた。

 心身ともに緊張感を失い、すべてをセレーネに委ねる。

「やれやれ、“レーヴァの黒狼”と呼ばれ近隣に名の知られた戦士も、家に帰れば奥方にすっかり甘えて飼い慣らされ‥‥寝て食うだけの犬のようだな」

 呆れながらも満足気にそう評したのは領主シグルドだった。

 領主館では就寝していても何時でも飛び起きる事が出来る騎士が、セレーネと共に家にいる時は熟睡して起こしても起きれないほど深い眠りに落ちてしまう。

「どうしてだろうな、私はそなたと一緒だと‥‥本当に騎士である事を忘れてしまったように、気が緩んでしまって。こんな風に眠れるなんて子供の頃以来だ。でも、これでは騎士は失格だな」

 ウォルフガングは屈託なく笑った。普段は強面の無愛想で通っている男が、セレーネの前ではなんの疑いもない無邪気な笑顔を見せている。

 そんな夫だから。

 セレーネは自分の身体の悪化を、徐々に恐れるようになった。

(私が居なくなったら、誰が‥‥この人を支えてくれると言うの? 誰が、この人から騎士の重荷を降して、責務から解放してあげられるの?)

 セレーネの知る限り、誰も代わりになってくれる者など居ない。

 夫は決してシグルドのような才能溢れた稀代の戦士ではない。

 努力の積み重ねで鍛え抜いて騎士になった人だった。

「剣技は凄腕でもなければ、戦士として並外れた体格でもない。ウォルフの素質才能そのものは凡庸(ぼんよう)なのだ。あいつは、それを努力だけで補って私に付いてきた」

 シグルドから夫の話を聞かされた事を思い出した。

 剣の道についてセレーネは何もわからないが、確かにウォルフガングに対する最初の印象では戦いに身を置く人に見えなかった。

 これほど無骨で武人然(ぶじんぜん)としていても、どうしても人を斬れる人間には見えない。

 それでも、誰かに危険が迫れば、騎士として人々を守る為に誰よりも真っ先に飛び込んでしまう。

 剣ではなく、その身を盾に引き受けて背負い込んでしまう人なのだ、と。

 そんな夫を後ろから支えてくれる人が、他には誰も居ない。

 もしも、またデビルの襲撃のような事や、事件事故に倒れた時は?

「ウォルフをどうか支えてやってくれ」

 以前、シグルドにそう頼まれた言葉の重さが今になってわかった。思わず、自分が居なくなった世界で、支えを失い、1人になってしまう夫の姿を想像した。

「‥‥ウォルフ‥‥さま」

 セレーネは生まれて初めて、自分の中に死の恐怖と生への執着を覚えた。

 それは、想像以上にとても恐ろしい怪物だった。


 それからのセレーネの体調は寄せては返す波のように。具合が良くなって元気に戻る事もあれば、翌日には起き上がることも出来なくなるという事の繰り返しだ。

 次第にウォルフガングが領主館に泊まり込む日が増えていった。

 仕事が立て込む時はウォルフガングは領主館に泊まり込み、セレーネの世話を人に任せていた。帰るたびに申し訳なさそうにしている。

「なるべく、帰って来れるようには気をつけているんだが‥‥すまん」

 夫は苦しい言い訳を繰り返している。ウォルフガング自身は少しでも妻に付いていたかったが、仕事を口実に家に戻らない日が増えていた。

 自分が妻のそばにいても負担になるばかりで療養の邪魔にしかならないと、自分が妻の身体を消耗させてしまうのだとウォルフガングが苦悩している事を、領主館の使用人から聞かされていた。

 仮に聞かされてなかったとしてもセレーネはお見通しだったろう。

 この弱い身体が、愛する人を苦しめて、遠ざけてしまう‥‥。

「私なら大丈夫です。ウォルフ様はお仕事なんですから、気になさらずに。私はお帰りを待ってますから」

 妻の健気な態度に、ウォルフガングが切ない表情に変わる。

 果敢な武人である夫の不機嫌そうな強面(こわもて)が。

 まるで、今にも泣き出しそうな少年の顔にすら見えてくる。顔馴染みの街の人たちが、今の夫の顔を見たらきっと驚くに違いない。

「セレーネ‥‥」

 皆が知る、街を守護する勇壮な騎士の姿はそこに無かった。

「寂しい想いをさせてしまって‥‥私は‥‥悪い夫だ。お前を幸せにすることが出来なくて‥‥苦しめてばかりいる‥‥私が‥‥」

 口ごもり、言葉を詰まらせながら辿々しく話す。慎重に精一杯に、言葉を選んで話そうとする時は、いつもこうなるのがウォルフガングの癖だった。

 エルバの天使祭への旅の途中でも、結婚を申し込まれた時も。

 寡黙なウォルフガングは訥弁(とつべん)な事をみっともないと恥じていたが、セレーネは夫のこの癖が誠実さを表しているようで、愛しさすら感じていた。

「いけませんよ、そんな風には思わないでください。私はあなたと一緒になれて、あなたの妻になれて本当に良かったのですから」

 しかし、納得しないウォルフガングは苦しそうに喘ぐようにして言葉を紡ぐ。

「私と結婚したから‥‥身体を弱らせてしまったのは‥‥じ、事実なのだ。出会った頃は‥‥エルバまで巡礼に行けるほど元気だった。それなのに、私が‥‥お前に苦労ばかりをかけてしまったから、こんなにあっという間に‥‥」

 わかっていても何もしてやれない。動けば余計な迷惑しかかけられない。

 何が人々を護る騎士だと、ウォルフガングは呻いた。

「そんなに、心配しないで‥‥私は充分幸せにしていただけてるんですから」

 いくらセレーネ自身が言葉を尽くしても、不器用な夫の心が悲しみに暮れ、苦悶に揺れている様子をどうする事も出来なかった。本当に大切な事に対して、心情にそぐわないことに、都合よく誤魔化して物分かりがよくなれる人ではない。

 その点についてウォルフガングの頑固さを嫌と言うほど理解している。

 夫は自分を責め続けるのだろう。愛情を失わない限り、これからも、きっと。

「あなたに、こんなにつらい想いをさせてしまって‥‥」

 セレーネは早いうちから手紙を残しておこうと決めた。

 もしも、自分が居なくなっても、夫を慰められる言葉を残して置きたいと。

 それで納得できる人では無いのだろうけど、何かせずにはいられなかった。

 だがそれは、それほど遠い未来ではないと予感していた。

 そして、その予感は当たっていた。


 夏の昼下がり。

 初夏の頃から回復の兆しが見え始め、しばらく元気に過ごしていたセレーネは、家で過ごす分には問題なく日常生活を送っていた。

 しかし、昨夜からまた少し寝込んでしまった。

 まったく起き上がれないほどではなかったが、倦怠感が強くめまいもする。

 夜勤明けの早い時間に自宅に戻ってきたウォルフガングが、家の窓を開けて空気を入れ替えようとセレーネに話しかけた。

「葡萄畑もこれから秋まで実りの時期だろう、香りがわかるか?」

 緩やかな風が流れ込み、葡萄畑からの香りがセレーネの寝台にも届く。

 レーヴァに葡萄の実るこの季節は、忘れ難いあの日の夏の思い出。

 まだそれほど昔の話では無いのに、2人で馬に乗り、エルバへの旅をした思い出も遥かに過ぎ去りし遠い日のようだ。

「今日もお休みにはなれないのですか?」

「ああ、時間が取れたから‥‥少し、そなたの顔を見に戻っただけだ」

 秋の収穫時期が近くなると、繁忙期前に済ませたい領民からの厄介ごとの申し立てが前倒しに押し寄せてくるのがレーヴァの領主館の恒例行事である。

 しかし、平和な田舎街。厄介ごとらしい厄介ごとなど、ほぼ無いに等しい。

 それでも申し立てに応じて、精査しては対応するので仕事が増える事には違いない。シグルドの執務の忙しさは、そのまま現場廻りのウォルフガングの仕事量にも影響する。シグルドが動けない代わりの役目は全て引き受けることになる。

「毎年のことだ。私がしっかり支えねば、お館様が倒れてしまう」

 徹夜で帰れない日も多い。仮眠だけとってまた出かける事を繰り返していた。

 夫は疲れた様子を見せないが、神聖魔術師の妻にはお見通しである。

「お願いがあるの‥‥私に、治癒魔法使わせてください」

 ベッドに寝たままのセレーネが突然言った。

「しかし‥‥お前‥‥」

 綺麗な青と緑の間の様な瞳がこちらを真っ直ぐ見ている。

 出会った時から、その儚さの象徴に見える瞳に見つめられるとウォルフガングは胸が切なく苦しくなるのを感じていた。

「あなた‥‥どうか私を、拒まないで‥‥」

 さらにセレーネは懇願してくる。

 病弱な身体を気遣う為に治癒魔法を受け入れなかったウォルフガングだったが、今の妻の願い事をどうして断ることができようか。

「ああ‥‥わかった」

 夫は了承した。それでも、戸惑いと心配する表情は隠せない。

「ウォルフ様‥‥抱きしめてください、エルバの天使祭の時のように」

 セレーネが両手を伸ばした。

 ウォルフガングはうなづいて、ベッドの妻に覆い被さるように身体を寄せる。

 セレーネに負担をかけないように肘で体重を支え、寝たままの背中に両手を回して優しく抱きしめた。セレーネはウォルフガングの背中に手を回して、どこにこんな力があるのかと驚くほど強くしがみついた。

 しかし、今は妻に掴まれる感触すらも心地良い。

「ウォルフ様‥‥ありがとう」

 午後にも鍛練をしてきたばかりのウォルフガングは、少し汗ばんでいたので彼女を抱きしめるのに戸惑いがあった。が、それも抱いた瞬間に忘れてしまった。

「‥‥セレーネ」

 2人が身体を重ね合わせると、優しい淡い光がほんの少しの間だけ夫を包み込んだ。ウォルフガングは疲れがじんわりと癒やされるのを感じた。

 術者の体力の影響もあり、ほんの弱い魔法だったが互いに思いやる心と絆が治癒魔法を何倍にも膨らませ、ほぼ最大にまで効果を高めている。


「ウォルフ様‥‥?」

 短い施術が終わっても、ウォルフガングは身体を離せなかった。

 ああ、妻はいつの間に‥‥こんなに痩せ細っていたのだろうか。

 酷く悲しい気持ちと孤独感に囚われる。

 少しずつ、セレーネは自分の元から消えていくのだと実感した。

「頼むから、私を1人にしないでくれ‥‥」

 絞り出すような声で、耳元で囁いた。

 突然のその言葉に、セレーネは二の句が継げない。

「そなたでなくては駄目なんだ‥‥お願いだ、これからも私のそばにいて欲しい」

 ウォルフガングはエルバの天使祭の時のように、妻に求婚と同じ言葉を伝えた。 

 しかし言葉は同じでも、あの時と意味がまるで変わってしまった。その引き留めの言葉に抗いきれない運命への、夫の哀しみが押し詰められている。

「ウォルフ様、私は‥‥自分がこんな身体に生まれてしまった事を、今日ほど悲しく恨めしく思った事はありません。他の人よりほんの少し短い人生なんだと、子供の頃から受け入れて、ずっと自然に諦めてました。これは天使様から与えられた試練‥‥仕方のない事なんだ、と」

 その言葉に夫の抱擁がほんの少しだけ強くなる。

「でも、あなたと出会ってしまった」

 セレーネは哀しげに、深いため息をひとつ漏らす。

「私は‥‥ウォルフ様に‥‥あなたに出会ってすっかり変わってしまったのです。このような身に生まれて、望んではならない事を‥‥もっと、これからもあなたと共に‥‥生きていたいなどと‥‥私は‥‥自分の宿命も、天使様すらも疑い、我が身を呪い、お恨みして‥‥」

 セレーネは涙声で言葉を詰まらせ、しがみついた。

 騎士の頬がびくっと反応する。

「セレーネ、いけない。それは‥‥デビルを、悪魔を呼び寄せてしまう‥‥頼むから、闇に‥‥堕ちないでくれ。私がそなたを斬らねばならぬ」

 そんな事をさせないでくれ、と小さく搾り出すような声で痩せた妻の背中をすがりつくように抱き寄せた。

 デビルと対極にいる騎士である夫に、なんとむごい事を言ってしまったのか。

 セレーネは後悔に声を震わせる。

「ええ、ええ、わかってます。ごめんなさい、あなた‥‥一瞬でもそんな風に考えてしまった‥‥心の弱い私を、どうか許してください‥‥」

「いや、何一つ、お前のせいではない‥‥その苦しみから、守ってやれない私にも責任はある‥‥何より、お前が苦しむ原因が私自身なのだから」

 ウォルフガングの力強い腕が、僅かに震えた。

「こんな、あなたを‥‥1人にして置いていくなんて‥‥私は‥‥」

 病弱なセレーネとは全く違い、何度傷ついても立ち上がる夫の逞しい身体からは、生きる命の熱さと力強い鼓動がひしひしと彼女に伝わってゆく。

 そうして、騎士はセレーネの呼吸が落ち着くまでじっとしている。

「セレーネ‥‥私と結婚して欲しい‥‥もう一度」

 天使祭の時と同じ言葉で、ウォルフガングは再び婚姻を申し込んだ。

 ただ、愛おしい妻を手離したくなかった。己の身勝手な願いだとしても。

「‥‥はい、何度でも」

 セレーネはウォルフガングからの精一杯の求愛を再び受け入れた。

「ならば、私の心を‥‥そなたに捧げよう」

 その身体を優しく抱きしめたまま、ウォルフガングは妻の唇にそっと誓いのキスをした。セレーネの頬に一筋、涙が光った。


 ウォルフガングが妻から受けた治癒魔法は、結局これが最後になった。

 秋も深まり、冬の到来を感じる頃、セレーネは静かにみまかった。

 結婚して3年、たった19歳だった。


「この度のことは大変残念です、奥様は生まれつき心臓が弱かったのです。よく青ざめていたり、普段から血色が良く無かったのも血の巡りが悪いからです」

 セレーネを診てくれていた医師に言われた。 

「こうなると、我々医者に出来ることはそれほど多くは無いのを改めて感じます。治癒魔法も元の身体の持って生まれた体質は治しようがありません。あなたのせいではありません。宿命だったのです」

 妻を亡くして1ヶ月が経過していた。数日も経ってないくらいの感覚でいたが。

「幼い頃はもっと大変だったのかも知れません。だから、あの年齢まで生き抜けたのは奇跡に近かったのです。慰めにもならんでしょうが‥‥倒れてから、ずっと私にあなたの事を話されてました。幸せそうでしたよ。話すのも苦しかったろうに」

 医師はセレーネが本格的に倒れてから死ぬまでの最期の半月間を、ほぼ毎日診察に来てくれていた。今日はわざわざウォルフガングを訪ねて領主館に来ていた。

「あなたとの結婚生活が、彼女の人生の最後の力を振り絞った輝きだったかもしれません。私には、そう思えます」

 ウォルフガングは他人事のように虚ろな表情でただ聞いていた。

 どう言えば良いのかもわからない。

 

「ついでだから診てあげよう、あの事故の怪我はその後どうですか?」

 常に持ち歩く診察カバンを開けながら医師は言う。

「いえ、特に‥‥問題はありません」

「そろそろ事故から一年以上経過してますよね、駄目ですよ、診せてください」

 ウォルフガングは言われるがままにされる。頭の裂傷、胸の刺し傷、熊の咬み傷や爪痕、腕や背中、足に負っていた傷跡を医師は丁寧に診察していく。

「きれいに癒着してます。さすがは騎士様、回復力は常人とは段違いですな」

「妻が‥‥ずっと手当てをしてくれていましたから」

「良い奥様でしたね。あなた方夫婦の仲睦まじい様子は私も良く知ってます。でも、こんなに怪我の絶えない方だから、心配されていたのでしょう。病床だと言うのに、あなたの怪我を気遣う話ばかりでね」

 騎士は胡乱(うろん)に聞いていた。他人事のようにすら感じる。

 上の空の様子の男を目にやりながら、診察カバンの中身を片付けていく。

「ウォルフガング様、これからは気が向いたらいつでも診療所に寄って下さい。奥様から宜しくと頼まれているんだ。診察以外でもね、ウチにも秘蔵のワイン樽があるんですよ」

 ワイン‥‥と、自宅の納屋の事を思い出す。

「家に‥‥彼女が蓄えていた乾燥させた薬草類がたくさんあるのです。私が持っていても仕方ない。今度持って伺います。先生にお役に立てていただけるなら‥‥妻も喜ぶと思います」

「ありがとう、いつでも良いから‥‥あ、そうそう、左腕は‥‥どうも気になる。奥様もそこを気にされてました。胸を刺された後は後遺症になることはありませんでしたか? 時々、温めたりした方がいいでしょうな」

 では、また‥‥と、医師は立ち上がるとウォルフガングの肩に手を置いてポンポンと軽く叩いてから退室して行った。


 セレーネの事を誰かと話したのは久しぶりのような気がする。

 シグルドから妻の遺書を受け取って以来かも知れない。セレーネが残していった遺書にはたった一言だけ『ありがとう』とだけ記されていた。

 ウォルフガングは極力セレーネの事を話すのを、殻を閉じるように避けていた。元々、無口で人と会話を楽しむ方では無かったので周囲もそれほど違和感が少なかったのかもしれない。しかし、今日は一際沈んだ様子のウォルフガングの姿に、領主館の使用人たちは避けて通るように働いている。

 ウォルフガングは他人に決して危害を加える男では無いが、傷だらけの強面と、鍛え上げた肉体が放つ迫力は人を寄せ付けるものではなかった。多少の内面を知る領主館の使用人たちですら、不機嫌そうなウォルフガングに近づくのは躊躇われる。そんなウォルフガングの意を介さず、恐れずに近づいて来れるのは結局のところ主君シグルドと、妻セレーネだけだった。

 ウォルフガングはその半身とも言える存在を失ったのだ。


「ウォルフ、来い」

 いつの間にか、部屋の外にシグルドが立っていた。

 ウォルフガングは呼ばれるままに主君について行く。

「‥‥大丈夫か?」

「はい、お館様」

 (うまや)に連れて行かれた。出かけるぞと馬に乗るように促される。

 世話に手が回らず領主館に預けっぱなしになっていた青毛の愛馬に馬具を着けて(またが)る。

「はは、お前に会えて馬が喜んでるな、終わったらブラシくらいかけてやれ」 

 シグルドが笑いながら、外に出ると(くつわ)を並べる。

「丘の向こうを見ろ。あちら側は‥‥ただ森があるだけだ。街道からも離れており誰も近づかないのは知っての通り」

 領主館ある北の丘から見渡せるレーヴァの一帯の景色を馬鞭(ばべん)で指し示しながら、シグルドは改めて状況を説明した。

「定期的な巡回を頼みたい。私はお前を襲ったデビルが何処から来て、何の目的があったのか有耶無耶(うやむや)のまま片付けるわけにいかん。あれから調査はしていた」

 もうすぐ本格的に冬がやってくる。雪に覆われることもある街道や森林地帯を下見するなら今を逃すと春まで待たなければならない。

「巡回路を一緒に確認しながら決めたい。今日は1日馬で付き合え、馬も喜ぶ」

 シグルドの言葉に賛同するかのように愛馬は短く鼻を鳴らした。

 2人は街道から離れた地域から進めることにした。

 リズミカルな速歩で行く馬の息が白く弾む。

 まだ肌寒いと言うほどではないが、馬の熱い吐息は(もや)になって吐き出される。


「お館様‥‥セレーネは‥‥幸せ、だったんでしょうか」

 人目がなくなってしばらく経った頃、ぽつりとウォルフガングが言った。

「ウォルフ‥‥」

「私には彼女がいなくなった実感がありません‥‥あの手紙も、あれから見ることができません。私はただ‥‥セレーネの死から、逃げているのかもしれません」

 乗り手の感情に構わず、馬は並足でゆっくりと歩みを進める。

 ウォルフガングの馬はシグルドの馬に並走していた。

「いいんだ、無理に考えなくてもいい。自然とそう感じることができるようになるまで。その時は必ずやってくると、信じよう」

「‥‥」

 丘を抜けて、遠くに北の森が見えて来る。一度、馬を止める。

「ウォルフ、私はな‥‥お前に出逢えて嬉しかったんだよ。はじめて館を訪ねてきた時の、まだ少年だったお前の顔を見た‥‥そう、あの時から。それは、今も変わらん。お前は図体こそデカくなったが、私にとってあの日の少年のままだよ」

 森の境目まで馬を進めていくとシグルドは地図に印をつけた。

「セレーネがお前をどう思っていたか、私には答えられん。だが、セレーネの心情はわかる、お前に出逢ってしまった者の1人としてな‥‥次は北東側を回ろう」

 その言葉は謎掛けのようで、ウォルフガングには理解が出来なかった。

 どう答えていいのか何も言えなくなり、そのまま黙り込んでしまう。

 シグルドは慈愛を含んだ苦笑と眼差しで黙って見やると、馬を再び進める。

 そのまま日が暮れる直前まで2人の調査は続いた。


 レーヴァに今冬1番の初雪。

 ふらりと、ウォルフガングはレーヴァ神殿のセレーネの墓にやって来た。

 その日がたまたま朝から詰め込むほどの業務も無かったせいである。冬場は雪が積もらない限りはやれる仕事も少なくなる。

「‥‥これは」

 誰かが妻の墓前に花束を捧げてくれていた。

 花の名前は知らないが、見覚えはある。領主館の敷地の一角で領主の奥方クレアが育てている白い花だった。他では見たことが無いので記憶していた。

 奥方様が来られていたのか、と思うと同時に妻の墓前に何も持たずに来てしまった自分を恥じた。

 もしセレーネが見ていたら、彼女は何というのだろうか。呆れるのだろうか。

 想像もつかない。

 妻は自分のことを何でも知っていたが、自分は妻のことを何も知らない。

 墓に捧げる花すら何を選べば良いのかも、彼女の好んだ花のひとつもわからない。当然、花だけではない。

 そういった事を、一緒に歳を重ねて知ってゆくものだと漠然と思っていた‥‥が、あまりにも2人の過ごした時間は短く早く過ぎ去ってしまった。

 レーヴァの丘に吹く穏やかな風のように。しかし、その風は、葡萄の実る頃の豊潤な香りのように濃密だったのかも知れない。

 記憶の中のセレーネは、ただいつも静かに微笑みかけてくれていた。

「私は、なにも護ることができないのかも知れん」

 ウォルフガングはセレーネを護れず死なせてしまった。いや、殺したのも同然だと感じていた。元から病弱であったとしても。自分の元に来て、たった3年で死なせてしまったのは言い逃れの出来ない事実なのだ、と。

 騎士は人々を守護する象徴である。

 しかし、当の騎士は本当に護りたいものこそが、護れなかった。むしろ犠牲にしてしまうのだと身に染みた。彼女の犠牲に対して、私はどう償えば良いのだろうか。

 果たして、この身命で償えるのだろうか。

 その宿命を、ウォルフガングはさらに時間をかけて思い知ることになる。


【END】

セレーネ死ぬ前後を構文習作。2番目の見せ場で、力を入れて書いたパート。ウォルフはいじめてもあまり面白くないので、いじくりまわすのはセレーネの方が面白いかも。でも、キャラが掴みきれず難しい。お墓に置いてた花はシクラメン。キャラクターの生死は元がTRPGリプレイなので決定事項です。


※ウォルフ26歳 セレーネ19歳


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