熊殺し
果たして、結婚してからもう何度目だろうか。
しかし、珍しくセレーネは憤慨していた。
我慢強い彼女にしては、と表現するのが正しいのかも知れない。
また、夫のウォルフガングが怪我をして帰ってきた。
「‥‥ウォルフ様?」
不意の帰宅に、外で洗濯をしていた妻のセレーネは慌てて駆け寄る。
明らかにいつもと様子が違っていた。
馬の鞍にかろうじて掴まり崩れ落ちるように下馬すると、よたよたと歩いて帰って来る。馬を繋ぐ気力すら無い様子だ。大人しい鹿毛の愛馬は所在なさげに放置されたまま、どこにも行かず心配そうに主人を目で追っている。その美しい馬体がところどころ主人の血痕で汚れている。
「セレーネ、大したことじゃないんだ‥‥ただ、少し休ませて‥‥くれ」
扉の側に剣を下ろすとベッドに向かおうとする。
「待ってください!」
セレーネは夫の手を掴み引き止めると、有無を言わせず食卓の椅子に座らせた。
目を逸らそうとするウォルフガングの頤を、たおやかな細い指で強い顎髭ごとしっかり掴むと、ぐいっと顔をこちらに向けさせる。
仁王立ちの妻の前で、されるがままの夫の目は‥‥やや、泳いでいた。
「うむむ‥‥」
生死を問われるような深刻な怪我では無い。
が、見た目だけはなかなかの酷い有り様だった。頭から流していたであろう血は、黒髪にべったり絡んで乾きかけて傷は砂埃にまみれている。
全身に打撲を負ったのか体中アザだらけになっていた。
左腕は特に酷く、内出血でドス黒く染まって腫れている。
痛々しい傷跡に思わずセレーネは顔を歪めた。
「あなた、今度は何を‥‥されたんですか‥‥」
セレーネは不安と憂い‥‥呆れと苛立ちを織り交ぜた表情で夫を睨みつける。
服をまくり上げると背中も酷く鬱血して腫らしている。
「ぐうう‥‥」
傷に響くのか、ウォルフガングが低く深く呻いた。
逆に胸や腹はほぼ無傷に近い。裂傷は頭だけで他は打撲痕。
セレーネは傷の様子からそれとなく怪我を負った状況を察した。
左の利き腕を出すのは、剣を持たない時に何かから咄嗟にかばう時などに出る夫の癖だとセレーネは知っている。つまり戦って受けたものではないと。
伏せてやり過ごしたか、身体を丸くして腹側をかばって‥‥大きいものではなくたくさんの固いものから。
「事件? それとも事故?」
何をやらかしてきたのか夫を問い詰める。悪意を向けられたものか、偶然の不運なのか、同じ怪我でも随分と意味が変わる。
夫がデビルに襲われた頃に比べて、この程度の傷では動揺もしなくなっていた。
怪我を分析する余裕が持てるほどに成長している。
慣れとは恐ろしい‥‥と、内心でセレーネは苦笑せざる得ない。
「ちょっとした、事故で‥‥少し休めば、平気だから」
事故‥‥と、夫の言葉を小さく復唱するセレーネの表情が少し和らいだ。
デビルや暴漢に襲われたと言う物騒な荒事では無いだけでも安堵してしまう。
この平和なアリアで。そんな前提でトラブルを予測する事がおかしいのはわかっているけど、目の前にいるこの男の場合は‥‥十分にあり得るのだ。
こうして妻の前にいるウォルフガングはぶっきらぼうで無愛想な強面の武人ではあるが、内面はとても穏やかで好んで戦いや争乱の中にいるタイプではない。
例え襲われて怪我を負わされたとしても簡単には剣を抜かない夫。鍛えれば鍛えるほどに、人に刃を向けることに抵抗感があるんだと困ったように苦笑する夫。
そんな温厚な人が‥‥なぜいつも生傷が絶えないのだろう。夫婦になってまだそれほど経ってないのに、夫の身体には少なくない傷跡が確実に増えている。
「1人で大丈夫だ、構わないでいい。血を洗い流して休憩したら‥‥すぐ仕事に戻る。しかし、さすがに、頭は堪えるな‥‥」
夫はぎこちない表情を歪めて誤魔化そうとしているが、血まみれの男に言われても笑えない。
ダメージが足に来ている。軽い脳震盪を起こしているようだ。
頭の裂傷も打撲によるものなのかも知れない。
本当は安静にして欲しいが‥‥聞いてはくれないだろう。
ああ、天使様‥‥。
言いたいことは山ほど思い浮かんだが、一旦飲み込んだ。
事故だとしたら自分から飛び込んだ可能性が高い。
セレーネはこめかみを押さえて、気を鎮める。落ち着こう。怪我そのもので動揺する事は確かになくなったが、夫を心配する気持ちが薄れるわけではない。
「手当てしますから、待っててください。ベッドでお休みになるなら、その後で」
結婚する前はこんなにも怪我の手当てをする機会なんて起きなかった。
いくら薬草の知識があり、医者の真似事ができると言っても、辺境の村で育ったセレーネの生活圏で何か起きる事自体が少ない。
治癒魔法も術の修得の為に詠唱する以外にほとんど使うことも無かった。
仮に何かあっても火傷、かすり傷、小さい怪我ばかり。デビルに襲われるとか刃物で刺されるとか、荷車の下敷きになるなんてとんでもない話だ。
デビルなんて、神話やおとぎ話に出てくる魔物くらいの存在だったのに。
そもそもアリア国内でデビルに遭遇した経験があるなんて、ウォルフガング以外には居ないだろう。それが、何故よりによって夫なんだろうか。吟遊詩人に謳われるような勇者でも讃えられる英雄でもなく、天使や竜などから加護も受けないありふれた一介の騎士なのに。
どうやればそんなに事件事故に見舞われるのだろうか。
もはや呪いか何かにしか思えない遭遇率だった。
ひとつだけ理由を挙げるとすると、ウォルフガングは領民を護ろうとする意識が飛び抜けて高いという事だろうか。騎士見習いだった少年時代に、初めてシグルドから騎士の本質を説かれたことに起因するらしい。
『騎士は守るべき者の為に強くなる。私はこのレーヴァと、民と、そして世界を愛しいと思う。その心が力になる』
敬愛するシグルドの、その言葉に感銘を受けたウォルフガングは仏頂面の影響で表面上は見せないものの、レーヴァの領民をとても慈しんでいた。
夫は迷いがなく、真っ直ぐに忠節を貫いて生きる騎士だった。
故に、トラブルを一身に引き受けてしまうのかも知れない。
乾燥させた薬草やら清潔な包帯布やら、乳鉢など調剤道具を手際よく揃えてテーブルに並べてゆく。埃まみれの頭の傷を手当てする為に、湯を沸かして準備する。
「ウォルフ様は‥‥向こうみずが過ぎますよ」
怪我の程度は軽いので、安堵の余裕があるだけ今は心配より怒りの方が強い。
気を揉ませた分その反動が強くなるのは、十分に引き絞って放つ矢の如し。
砂まみれの頭の傷周りを湯で濡らした布で丁寧にぬぐう。固まって髪にまとわりつく血がほぐれて取れる。出血は完全に止まっていた。
「すまない‥‥手間を、かけさせる」
ウォルフガングは妻の言葉から不安と不満の感情を読み取ったようだ。
次に汚れている衣服を脱がせると夫の身体を拭いていく。
日々の鍛練の成果である逞しくしなやかな筋肉は、無数の傷跡が刻まれている。
比較的新しい傷は全てセレーネ自身が手当てしてきた見覚えがある傷だ。
「ううむ‥‥」
狼は唸る。怪我より妻の冷ややかな視線の方が遥かに痛い。
剣技では滅多に遅れを取らない騎士が、セレーネの一言で容易に心臓を射抜かれたようなダメージを与えられてしまう。手も足も出ない。
これなら、まだお館様と戦う方が勝機がありそうだ‥‥と、騎士はうなだれる。
「どうして‥‥いつもこうなるんですか‥‥」
小言を繰り返しつつ、セレーネは手際良く処置をこなしていく。
セレーネに叱られるのは正直、つらい。
だが、同時に伝わってくる彼女の優しさや安らぎ。
何より愛おしく、護ってやりたい。それは、大切な‥‥。
「少し触りますから、我慢してください」
打撲痕などの見た目は酷いが傷は浅い。それでも完治には半月はかかりそうだ。
「後で痛み止めの薬湯を用意しましょう」
「私は、このまま巡回に戻る」
ベッドでの休息も薬湯も要らないから、と言う。
仕事に逸る夫を宥めながら、事故に至る事情を訊ねた。
同時にセレーネの中で、自然と今後に必要な薬草の量と採取の予定を考え始めている。
「お休み出来なくても、せめてお薬は飲んでください」
「‥‥ああ、わかった」
ウォルフガングはやや渋る様子も見せながらもセレーネの助言を受け入れた。
意地っ張りの夫が素直に聞き入れると言うことは、やはり相当に痛むのかもしれない。
薬草を調合した傷薬で炎症を抑え、鎮痛効果のある湿布薬を作り、包帯を巻き付けて手当てを済ませた。包帯で膨れた身体を隠せるような、大きめのゆったりした服を取り出して着替えさせた。
腫れている左腕には厚手に布を巻いた上で皮の小手を付ける。
これなら上から外套を着てしまえば目立たないだろう。頭の包帯はどうしようもないが、それ以外のところはなんとか目立たせないようにはできた。
ウォルフガングは怪我の痕跡を人目を避けて隠したがる。
目立たせないようにするのは、夫の気持ちを考えたセレーネの配慮だ。
恥じるような理由でなくても、傷を負った結果そのものを恥とするウォルフガングは必要最低限にしか話したがらない。それでも、説明が無いままではセレーネに余計な心配をかけるのならと、夫は処置を受けながら事故の状況を訥々と説明し始める。
神聖アリア王国、西の辺境都市レーヴァの領主シグルドに仕える騎士ウォルフガングは、いつもの午後の見廻り、その巡回中に事故に巻き込まれた。
いや、自ら飛び込んだと言うべきか。
建築途中の倉庫の近くで遊んでいた子供が、積み上げてあるレンガを崩しているのを見かけた。いち早く危険を察知して、咄嗟に助けようと子供を確保した。
その瞬間、思いの外大量に崩れてしまい、子供と一緒に生き埋めになったのだ。
すぐに騒ぎを聞きつけた街の人々が助け出してくれたので大事には至らなかったし、不幸中の幸いにも、子供は擦り傷で済んだのだ‥‥と言う。
駆けつけた母親に無事に子供を返すことができたと、語った瞬間の夫は剣を振るう戦士とは思えないほどの優しい眼差しで心底嬉しそうにしていた。
時折見せるその目に、いつもセレーネは心を動かされる。
子供を庇いレンガの雨をその身を盾に受けたウォルフガングは打撲を負ったが、もし子供に当たっていたらその程度では済まなかったのかもしれない。
だから、事情はわかる。
そうせざるを得ない夫の事情はわかるし、セレーネも子供が怪我をせずに助かって良かったと心から思う。本当はいたわりの言葉をかけてあげたいのだけど。
それでも、当たり前のように怪我をしては帰ってくるウォルフガングの姿にはため息しか出ない。言いようのない苛立ちや腹立たしさも、少しはある。
いや、かなりある。その身を案じるこちらの気持ちも理解して欲しい。
「あなたが無事で帰ってくる姿を見るまで、毎日不安で‥‥なのに、今日はこんなに身体中に怪我をして‥‥本当にあなたと言う人は‥‥」
これでも、夫の怪我にしては軽い方だから頭が痛い。やっと包帯を外して毎日の手当てが済んだと思ったら、次の負傷がやってくるような始末だ。
セレーネの心配事は尽きない。
「それほど痛みは無い‥‥だから、心配いらない」
妻の顔色を伺うように申し訳なさげに言う。
「もう! そう言う事じゃありません!」
まるで自分だけが振り回されてる気がする。
領主の奥方クレアにも話した事があるが、どうやら騎士と言う生き物は、妻という立場から見ればそう言うものらしい。つまり、諦めが肝心、と。
しかし、同じ騎士でも領主であるシグルドよりも、現場に急行するのが早い身軽なウォルフガングだけがその業を一身に背負うのはクレアからも同情された。
セレーネの苦衷を理解してくれるのはクレアしかいない。
「それに、あなたと居たら傷の手当てが嫌でも上達します」
ぴしゃりと鞭打つような返答に、夫の逞しい肩がかすかにビクッと震えた。
セレーネはまだ言い足りない様子で夫に絡みつくような視線を送る。
「は、はは‥‥手厳しい、な」
「だったら、もう少し懲りてください!」
うう‥‥とても、誤魔化しきれない。
お館様のように妻をなだめるなど、到底無理だ‥‥と、騎士はうなだれた。
「私は‥‥その‥‥そなたに甘え過ぎている、と思う」
ウォルフガングは妻の愛情を疑う男ではないが、何があっても彼女に見捨てられないと思い込めるほど傲慢にもなりきれない。何よりも婚姻は自分が望んで、その願いを彼女に叶えてもらっている立場なのだ。
「そなたに心配をかけないように‥‥もっと、もっと強くなるから‥‥」
剣や戦いに強くなるより、出来れば平穏に生きる方向で努力して欲しいと願うセレーネはため息が出る。いつもセレーネに向けられる夫の優しい眼差しは、今はすっかり沈んで悲痛さすら伝わってくる。
それを見せられるセレーネの方がいたたまれない。
今日は叱りすぎた、かも‥‥?
これ以上、尻尾を巻いて完全な服従姿勢の狼に追い討ちで叱りつけるのは、セレーネの方が罪悪感で耐えられない。まるで無抵抗に尾を振る飼い犬を、一方的に踏みつけていじめているようで良心が痛む。
これでは‥‥まるで自傷行為に等しい。いくら心配して夫を叱っても、結局最後に傷つくのは自分ではないか。セレーネには夫がずるいとすら思える。
「そう思うなら早く怪我を治して元気になってくださいね‥‥あなた」
だから、妻は穏やかに微笑んでみせた。
「わ、わかった‥‥ありがとう」
レーヴァの黒狼は安堵しながらも、身をすくめてしゅんとしていた。
セレーネは内心吹き出しそうになっていたが‥‥態度には見せない。
手当てを済ませたウォルフガングは、鎮痛の薬効があるお茶を飲まされていた。
少し眠気が強くなるが、痛みに対しての感覚は鈍くなる。
本当は明日まで休んで欲しいとセレーネは思ったが、まだ日暮れまで時間があるから巡回任務を続けると言い張る夫を止められなかった。
叱られた直後で、今は家に留まるのが居心地が悪いのかもしれない。
一刻を争う訳でもないのなら‥‥と夫をなだめ、せめてもう少し脳震盪の症状が治まるまではと休憩も兼ねて休ませていた、その時。
突然、扉を激しく叩く音が鳴り響く。夫婦に緊張が走る。
ガタンッと扉が開かれると、血相を変えた街の住人が慌てて駆け込んできた。
「だ、旦那、大変だ! 街に‥‥熊、熊が出た!」
ウォルフガングの目の色が一瞬で変わる。首筋の毛が逆立っていた。
目つきの鋭い精悍な騎士の面構えになっていく。
この後どうなるか、セレーネは夫の行動が予想ができている。
それを止められないだろう、と言う事も。
「頼む、シグルド様に知らせてくれ。熊の目撃場所は何処か?」
ウォルフガングは躊躇なく指示を出す。どれほどの大きさの熊なのかわからないが、もし仕留めるとなると1人では手に余るだろう。
「領主様には他のやつが知らせに行った、熊は東門の近くで見たそうだ」
剣を掴み飛び出しかけて、腫れた左腕に鋭い痛みが走る。
「うぐ‥‥」
痛む腕に巻かれた包帯を見て、手当てをしてくれた妻の顔が脳裏をよぎる。
ウォルフガングは一度立ち止まると振り返ってセレーネを見た。
「騒ぎが収まるまで、決して家を出るな‥‥戸締りをしてくれ」
反論を許さない威圧的な声色と態度で、騎士は厳しい視線を妻に送る。
野生動物が理由もなく人里に現れる事などほとんど無い。ましてや街中になど。
人と遭遇する危険を冒してまで現れる時、それは遭遇した場合には避けずに襲いかかる理由があり、襲われる確率が高い状態とも言える。非常に危険だ。
「ウォルフ様!」
騎士は手で制すると、妻に背中を向ける。有無を言わせない態度を見せる。
身勝手なのは承知の上。
今は‥‥これ以上、彼女の目を見ることが出来なかった。
身の内に潜む恐れを抱いてしまうことを騎士は嫌った。
ウォルフガングにも人並みの恐怖心はある。セレーネの事を考えると、危険に身を晒す事に戸惑ってしまいそうな気がする。護らねばならない妻のことを考えてしまうと、後顧の憂いで身動きが取れなくなる。
しかし、それでは市井の人々を守る騎士としては失格だ。瞬時の判断に戸惑いを持つことは、危険な賭けに出る時ほど悪い結果につながりやすい。
すまない‥‥と、心の中で詫びる。今は言葉に出せない。
ウォルフガングは、愛する妻より騎士としての使命と責務に殉ずる男だった。
セレーネはそんな事をする女ではないが、もし彼女がすがりついてやめてくれと懇願してもウォルフガングは彼女を置いて行ってしまうだろう。
ウォルフガングの中で、セレーネがどれほど愛している女であっても。
彼女の夫である前に、レーヴァの黒狼はシグルドの騎士であり、民の守護者だった。
「‥‥留守を‥‥頼む」
静かに、そう言い残して騎士は振り返らずに駆け出す。
何かを言いかけて言葉を飲み込むと、セレーネは黙ってその背中を見送った。
夫を引き止めることが出来ない細い指が、ぐっと固く握られて爪が食い込む。
家の扉から出ていく夫の背中を見るたびに、セレーネは覚悟をしなければならなかった。この人は‥‥戦争や争いの無い平和な世の中であっても、無事に帰ってくると限らない世界に生きる人なのだ、と。
彼女もまた、騎士の妻として身の内に潜む不安と戦っていた。
街の中はすでに静まりかえっている。噂はすでに広がっているようだ。
避難をさせる手間が省けて助かると、ウォルフガングは安堵する。
馬で駆けつけたが、東門の付近にはそれらしき姿は確認できない。
そのまま探索を続けるが、なかなか見つからない。
門を出て外を見てみるかと考え始めた、その時だった。
ガシャン!
焼き物か何かが割れる派手な音がした。
音のした方を振り向いた瞬間、素焼きの割れた甕の奥から。
巨大な影がぬうっと現れた。荒い鼻息と、むせかえるような濃密な獣臭。
「でかい‥‥」
見たこともない大きさの熊だった。
背中に何本もの矢が刺さっている手負いの大熊だ。
普通の矢だけではない。かなり大きい弩弓の矢も深く突き刺さっている。
並みの熊ならすでに動けなくなっている筈だ。
馬なら2、3頭分はあろうかと思えるような巨大さだった。
レーヴァの北には隣国フィレンとの国境に大森林が広がっている。
特別危険な一帯ではない豊かな森だが、熊や狼も棲む森だ。しかし、その獣が人里まで姿をみせるなど、今までレーヴァで暮らしてきて聞いたことが無い。
猟師が狩ってきた熊や、戦闘訓練を兼ねた森での狩りに参加した時などに、遠くから木々の隙間から黒い影を見かける機会はあったが‥‥生きている熊をこれほど間近に見たのは初めてだ。
手綱を握る腕から、胴を締める脚から、ウォルフガングの恐怖心が伝わったのか。
吠え猛る巨熊の凄まじい圧力に呑まれたのか、馬が恐怖に硬直して動けない。
まっすぐ走ってくる猛獣を躱わす暇もなく、馬の首に噛み付かれた。
馬の鋭い悲鳴。
気後れから我に返り、しまった!と思った時には手遅れだった。
ウォルフガングは馬から飛び降り、剣を抜き放つと同時に斬撃を放った。
グオオオオ!
渾身の一撃も、刃は固い毛皮を滑り強靭な皮膚を薄く切っただけで終わった。
攻撃が上手くいかなかったのは利き腕の負傷のせいばかりではない。
おそらく主君シグルドなら、最初の一撃でその首を斬り飛ばしている事だろう。
己の剣技の未熟さを悟り、悔しさに歯を食いしばるウォルフガング。
首を折られた馬はすでに絶命している。殺した馬を投げ捨てると、巨熊は騎士を睨みつけて丸太のような前足で爪の一撃を振り下ろした。
あまりに早い動きに回避が間に合わず、右腿を掠める。
「ぐっ‥‥!」
爪が2本、深く肉をえぐっていった。鋭利な刃物のように。
ウォルフガングが怯んだのを見ると、熊は反転して駆け出した。素早い。
だが、人を襲う手負いの猛獣を見逃すわけにいかない。
傷も構わず、騎士は熊を追いかけた。
(何が‥‥何が、目的だ‥‥)
熊の影が消えた方向は領主館のある丘の方角。当然、その近くに自宅もある。
不安がよぎり、心臓を鷲掴みにされたかのような動悸と焦りの中、レーヴァの街の石畳を駆ける。まさかと思うが、胸騒ぎがする。
「セレーネ‥‥」
とてもじゃないが熊の疾走には追いつけない。脚の負傷も堪える。
愛馬を失ったのが悔やまれた。
外から悲鳴が聞こえた。
セレーネが木窓を開けると、逃げ遅れたのか、幼い子供を抱えた母親が腰を抜かしているのが見えた。どこからか獣の唸り声が聞こえる。
夫から言われた言葉が脳裏をよぎるが、セレーネは迷わず扉を開けた。
「こちらへ!」
子供を受け取り抱き上げると、母親の手を引いた。
「わ、私はもうダメです、その子だけでも‥‥」
「諦めないで!」
危険も顧みず駆けつけたセレーネは、母親を引き起こそうとするがもたついてなかなか立ち上がれない。
母親の足が恐怖に震えている。子供が泣き出した。
非力なセレーネの細腕ではこれ以上、どうにも動かせない。
グルルル‥‥
セレーネが思わず声がする方を見ると、視線の先に‥‥巨大な熊がいた。
熊の背中は山ほどの矢が刺さっている。
足元は血の跡が付いている。それは熊の血か、犠牲者の血か。
犠牲者‥‥と思った瞬間に、少し前に熊を追って行った見送ったばかりの夫の背中がよぎったが、無理矢理考えを振り払う。
目の前にいる脅威に、余計なことを考える余裕はない。
「お願い、子供だけでも‥‥!」
悲痛な叫びにセレーネは立ち直った。
巨熊の、その眼は狂気の光に満ちて怒りに支配されているのがわかる。
子供の泣き声、獣の荒ぶる吐息、母親の悲鳴。
窮地に陥りながらも、不思議とセレーネは冷静でいられた。
立てない母親が恐怖に押されながら這いつくばって扉を目指す。
しかし、熊の視線はセレーネと子供を捉えて離れない。
「この子は渡さない!」
少しずつ後退しながら熊との距離を取ろうと試みる。
子供だけでも逃したい。セレーネが、扉へ向かって走り出した瞬間。
熊は信じられないほどの跳躍力でセレーネに襲いかかった。
「ダメ!」
子供を抱きしめると、胸に抱え込んでかばう。
そこに突然何かが覆い被さった。
ドスッ!
鈍い音を立てて衝撃に震える。しかし、覚悟をしていた痛みは来ない。
「今だ、逃げろ!」
セレーネを庇っていたのは、遅れて追いついたウォルフガングだった。
覆いかぶさるように背中で彼女の盾になり、熊の爪の一撃を左肩で受けている。
噴き出した血がセレーネに滴り落ちて顔に降り注ぐ。
ウォルフガングは慌てて家を飛び出て行ったので、防具はセレーネにつけてもらった小手以外は付けていなかった。
まともに喰らう衝撃にウォルフガングは苦痛に呻いた。
ガリガリと砕ける鈍い音を立てながら、鋭い爪が騎士の肩を切り裂く。
「早く‥‥!」
セレーネは何がどうなってるのかわからないまま、言われたとおりに屋内に飛び込むと抱きかかえていた子供を床に下ろした。そしてすぐさま引き返すと、扉の側まで這っていた母親を起こして家の中に連れて行った。
「ドアを閉めろ!」
ウォルフガングが叫ぶ。
振り向くと夫は熊にのしかかられている。 必死の抵抗をしているがあまりに大きさが違う。押し潰されるか、食い殺されるのは時間の問題だ。
「ウォルフ様!」
その悲鳴に熊はセレーネに視線を合わせた。
「やめろ! こっちを見ろ!」
ウォルフガングは絶叫と共に剣を突き立てている。
熊は騎士を引きずったままセレーネに向かって歩き出す。
「お前の相手は私だ!」
ウォルフガングの必死の抵抗などものともしない。
それは野獣の純粋な殺意。獣の視線に、セレーネは身動きが取れなくなった。
「うおおお!」
ウォルフガングが振るった剣の切先が熊の鼻面を引っ掛けた。
ギャウッ!
悲鳴をあげた熊。
振り向きざまに、すがりつくウォルフガングに爪を振り下ろす。
「ぐぼっ‥‥!」
騎士の身体は胴を薙ぎ払われて簡単に吹き飛んだ。
肋骨が幾つか折れて、脇腹を深く裂かれた。息が詰まる激痛に目を剥くも、すぐに起き上がると再び熊に突進する。剣を拾う暇も無い。
素手で熊に立ち向かうなど、ウォルフガングの眼も半ば狂気を帯びている。
呼吸のたびに鼻や口から血を噴き始めた。脇腹からも鮮血をどくどくと湧かせながら、セレーネと熊の間に身体を滑り込ませる。
「セレーネ!」
ウォルフガングの背中に熊の視線を遮られ、セレーネは恐怖から持ち直した。
しかし、足がすくんでセレーネは動けない。
妻は動けないと悟ったウォルフガングは、熊の振り上げた前足の爪の動きを見て、セレーネに抱き付いて地面に低く伏せた。
「逃げ‥‥ろ」
セレーネをかばってさらに熊の一撃を受けたウォルフガングの背中は、鋭利な刃物を突き立てて切り裂いたようにざっくりと割れていた。
強い衝撃を受けて脇腹の傷からは内臓が一部飛び出しかけている。
あまりの激痛に気を失いそうになるのを堪えて、それでもウォルフガングは妻をその背中で庇う。セレーネは夫の血に赤く染まる。
「私は、もう‥‥だめだ‥‥逃げてくれ!」
ウォルフガングは叫ぶ。我が身はとっくに諦めていた。
だが、セレーネの事は死んでも諦められない。
獣のように唸り声をあげながら、口から鮮血を溢れさせている。
それでも最後の死力をつくして立ち上がると、熊に向かい組みついた。
「行け‥‥はやく」
セレーネに家の中に逃げる機会を作らねば、その一心であった。
熊は執拗にまとわりつく騎士を引き剥がそうと肩に噛みついている。苦痛に唸り声を上げるウォルフガングは、それでも熊に組みついた手を離さない。
男の意気地が、徐々に荒ぶる熊を圧倒し始めている。
自分が倒れれば、次は確実にセレーネが襲われるだろう。
燃えるような闘争心を剥き出しにして一歩も引き下がらない。妻を守らんとするウォルフガングは肉を食いちぎられても切り裂かれても、荒れ狂う猛獣にしがみついていた。
めりめりと音を立てて一方的に破壊される夫を、至近距離から見せ付けられるセレーネ。獣は夫を食い殺そうとしていた。
「あ‥‥あ‥‥」
すでにセレーネは冷静でいられなくなっていた。
何かが身の内で弾けたような気がした。そこで彼女自身の意識は手放された。
しかし、その状態のまま神聖魔法を使い始める。
明らかに神聖魔法が暴走している。全身が光を帯びて瞳が尋常ではない輝きを放つ。
ウォルフガングの受けた傷に治癒効果が働き、驚くような早さでみるみると塞がっていく。まるで時間が巻き戻されるように、先程までの熊から受けた傷の何もかもが回復する。治癒魔法を何度も受けた経験のあるウォルフガングですら、ここまで凄まじい効果は初めてであった。
セレーネの長い髪が風を受けているように波打ちなびいている。
一転、熊は怯えて呆然と硬直していた。
「‥‥‥‥」
何かを唱えている。
こんな強力な効果の魔法を連続で使っては術者の体力が保つはずがない。
「駄目だ! セレーネ‥‥よ、よせ!」
ウォルフガングの言葉は届かない。妻を、止められなかった。
『‥‥破壊‥‥』
詠唱の後、最後にそう唱えた瞬間何かが弾けた。
パンッ!
神聖魔法の攻撃呪文が成就し、渇いた破裂音が響いて巨大な熊は突然内側から一気に膨張して破裂。一瞬で絶命した。恐ろしいまでの破壊効果。
熊は胴も手足も砕け散り、目玉と脳漿が飛び出し破裂した巨熊の生首がウォルフガングの前に転がった。
飛び散る血煙の中、同時に糸が切れた操り人形のように崩れ落ちるセレーネ。
あまりの光景に、瞠目していたウォルフガングは慌てて彼女を抱きとめる。
「おい、セレーネ‥‥セレーネ!」
遠くから蹄の音と足音と武器と鎧の擦れる音が聞こえる。
「ウォルフ!」
シグルドと兵士たちが駆けつけてくれたが、凄惨な現場の様子に言葉を失う。
ウォルフガングの腕の中でセレーネはぐったりしたまま動かない。
抱き上げると、そのまま家の中に連れて行く。
2人とも全身に返り血を浴びていた。
シグルドが何か指示をすると、兵士たちの数人が街に駆けて行き、屋内の様子を確認した兵士は避難していた母子を保護して、ひとまず領主館に連れて行った。
「大丈夫か‥‥ウォルフ」
「は、はい‥‥私は、何も。しかし‥‥私の判断ミスで馬を‥‥馬をやられました。申し訳ありません」
熊から受けた傷はいくつかの痕跡は残したものの、セレーネの魔法の効果でほぼ治っていた。あれだけの重傷を一瞬で。
「医者を呼ばせている。セレーネを着替えさせてやれ‥‥馬のことは、構わぬ」
そういうとシグルドはとって返すように馬にまたがり駆け出した。
ウォルフガングは妻をベッドに運んで夜着に着替えさせようと思ったが、妻の衣類がどこにあるのかもわからない。
とりあえず、寝かせて身体を拭く為に湯を沸かすことにした。
淡々と作業をこなしているが、ウォルフガングの頭の中は真っ白になっていた。
ほぼ放心状態である。セレーネに何かあれば‥‥と言う恐怖は計り知れない。
妻の着替えが分からず、仕方なく自分の服を引っ張り出してきた。身体を拭いてやる布も準備できた頃には湯も沸いてきたので、血で汚れたセレーネの身体を拭い始めた。汚した衣服も着替えさせたところで、ウォルフガングが汚れた布類を洗濯桶に突っ込んでまとめて外に運び出そうとして、ドアが開いた。
シグルドだった。奥方のクレアと館の女中を同伴させて戻ってきた。
「まぁ‥‥セレーネ!」
クレアはベッドに寝かされているセレーネの様子に声を上げて駆け寄る。
姉妹のように仲が良い2人の関係はウォルフガングもよく知っていた。
少し遅れてセレーネの主治医をやっている街の医師も到着する。
彼女らに任せることにして、ウォルフガングとシグルドは邪魔にならないように外に出た。
「そうか、セレーネ殿は魔法を‥‥」
シグルドは渋い表情を隠さず、推察する。
「おそらく熊を殺したのは‥‥デストロイ、神聖魔術師の攻撃用呪文だな。かなり危険だ、熟達者でも扱いが容易ではない魔法だぞ」
シグルドは顎を撫でながら唸る。
どうやら兵士たちの報告も含めると、熊は猟師たちが森で仕留め損ねた標的だったようだ。あまりに危険だと判断されて、応援を呼んで追い詰めようとしたが街に逃げ込んでしまったという。森で1人が犠牲になってしまったらしい。
「魔法が暴走したと言う話は気がかりだが、2人とも大きな怪我が無くて何よりだ。セレーネが回復するまでお前が付いていてやれ‥‥」
「あ、ありがとうございます」
ウォルフガングはその場でへたり込む。立てなくなるほど消耗していた。
暴走した魔法効果で熊から受けた傷は塞がったが、治癒魔法は丸一日以上経過しないと完全に定着しない。一時的とは言え、重傷を負っていたウォルフガングは本来なら絶対安静にしていなければならない。
下手をすれば魔法で治した傷が再び元の状態に戻ってしまう。
まして術者のコントロールを失った魔法は治癒魔法と言えど危険である。
互いを想い合う心が効果を上げる魔法だからこそ、ウォルフガングは助かったのかもしれない。セレーネの魔法が無ければ、あるいはその効果が正常に働かなければ命を落としかねない傷を負っていた。
「お前、本当に怪我はないのか?」
血の気を失ってるウォルフガングを心配げにシグルドが声をかける。
「‥‥はい」
「虚勢を張るな、へなちょこめ‥‥」
シグルドは苦笑しながら騎士に肩を貸すと、家の中に戻った。
セレーネは女たちの手ですっかり綺麗にされていたし、ベッドも整えられている。
シグルドはウォルフガングを彼女の隣に横たえた。
やや朦朧としているようだ。
「すまんが、先生。ウォルフもついでに診てやってくれんか。魔法で傷は塞がっているようだが‥‥」
「‥‥ああ、そう言えば、ウォルフガング殿は以前の怪我の定期診察に来てませんからね。丁度いいので一緒に診ておきましょう」
「なんだと、この馬鹿。あれほど言っておいたのに‥‥」
シグルドは大きなため息を漏らした。
「まぁまぁシグルド様、奥様からお話は聞いてますし、普段の様子は奥様が観察されて手当てもされているようですから」
医師が笑いながら領主をなだめた。
「熊から受けた傷は、多少ありましたが‥‥妻の、治癒‥‥魔法で‥‥」
そこまで言うとウォルフガングは力尽きたように意識を失ってしまった。
熊の爪で引き裂かれたと思われる衣服の破れた箇所が血に汚れている。
どうやら、血痕は熊の血ばかりではないようだ。
なまじ傷が塞がっているせいで分かりづらかったが、そう思ってよく見れば魔法で傷を塞いだ痕跡も残っており、少なくとも背中、肩、腹、脚‥‥恐らくは致命傷を超えていたのかも知れない。
シグルドは、セレーネが正気を失い、魔法を暴発させてしまった理由がようやく理解できた。シグルドは苦々しい表情を浮かべて、己が騎士を見やる。
「まったく、困ったヤツめ‥‥」
ウォルフガングが気がついた時には、日が暮れて外は暗くなっていた。
「うう‥‥」
部屋の中では蝋燭も灯っている。
自分のすぐ隣にはセレーネが寝かされていた。
シグルドも医師も居なくなっていたが、ベッドの側にシグルドの奥方クレアが座っている。領主館の女中が1人残って洗濯物を片付けてくれていた。
「奥方様‥‥」
ウォルフガングはぼんやりとしたまま上半身を起こす。
酷く身体が重く感じる。
「あら、ウォルフ。起きても平気?」
何がどうなったのか記憶が曖昧になっていたが、徐々に思い出せた。
手負いの熊が‥‥セレーネを襲って‥‥。
「まだ動かない方がいいわ、安静にさせなさいとおっしゃってましたから」
「は、はい‥‥セレーネは‥‥」
「目立つ怪我もないし、とりあえずは大丈夫‥‥と。でも、消耗が激しいからそっとしてあげて。随分と負担がかかる魔法の使い方をしてしまったのね」
ああ、そうだ。自分を助けようとしてセレーネは‥‥。
ウォルフガングは隣で寝ている妻に腕を伸ばし、その手を握る。
小さく細い妻の手は、握るだけで簡単に覆ってしまえるほど可憐だった。
野に咲く小さな花のように、うっかり握り潰してしまわないかと恐れるほどに。
「私が‥‥最初の遭遇で熊を倒せていれば‥‥」
「‥‥あなたの悪い癖ですよ、ウォルフ。人間が1人で手に負える相手では無かったのです。相手は熊よ。2人とも無事に済んだことを天使様に感謝しないと」
「しかし‥‥お館様なら、一刀で斬り伏せていたはずです」
悔しそうに無力さを語るウォルフガングに、クレアは幼い弟を諭すかのように穏やかに微笑みかける。
「いいえ、ウォルフ。あの人は人間ではありません、多少の種類が違うだけで‥‥あれも、熊の一種です。私たちのような普通の人間と比べるものではありませんよ」
真顔で語るクレアに思わず、ぶっと吹き出したウォルフガング。
面食らう騎士に、澄ました顔で領主の奥方は肩をすくめる。
当面の身の回りの世話は、領主館の使用人を寄越すから心配しなくて良いとクレアに言われ、ウォルフガングは礼を述べる。
家庭的な身の回りのことは何もできない哀れな男はすべて妻に依存している。
情け無いが、セレーネの面倒もろくに見てやることができない。
「セレーネも心配だけど、あなたも酷い顔色よ。治癒魔法を受けたと言っても酷い怪我をしてたのでしょう、無理をすると傷が開いてしまうわ」
「‥‥はい」
ウォルフガングは従順に答えた。
セレーネが熊の爪に切り裂かれそうになっていた光景を思い出して、今更ながら背筋が凍りつく思いに騎士は身を震わせて恐怖を感じた。
もしも、後一歩でも、いや一秒でも遅れていたら‥‥。
翌朝、ウォルフガングが物音で目が覚めると、隣にいるはずの妻がいない。
驚いて飛び起きると、妻は夫の服を着たまま食事の支度をしていた。
「おはようございます、ウォルフ様。お身体の具合はどうですか?」
セレーネは何事もなかったように振る舞っている。
「お食事の準備が出来てなくてごめんなさい、今支度をしてたところなの」
しかし、明らかに生気のない顔色をしていた。
白く、儚く、とても生きてるように見えない。今にも消えてしまいそうに思えて‥‥。
「あなたの服は、私には大き過ぎますね。でも、ゆっくりしてて楽だわ‥‥部屋着にするなら大きめの服もいいかもって」
「セレーネ‥‥! お、お前‥‥」
ウォルフガングはふらつきながらも近づくと、セレーネの炊事の手を掴んで強引に止めた。悲痛な顔をしている。
「ウォルフ様‥‥?」
セレーネの青白い顔がこの世のものではない天使様のように、現実味のない儚い印象を与える。明るく振る舞っているが、確実に彼女は消耗している。
「食事の事なんかいいんだ‥‥今は、休んで居てくれ‥‥」
「でも‥‥」
何か言いかけたセレーネをウォルフガングは強引に抱き寄せた。
「‥‥頼む」
耳元で懇願するウォルフガング。
魔法の使い過ぎによる病弱なセレーネの消耗を恐れていた。
「ウォルフ様‥‥」
「私の為に、また負担を与えてしまった‥‥お前に何かあれば、私は‥‥」
今にも泣き出しそうなウォルフガングの震える声に、セレーネは慰めの言葉をかけたい気持ちを堪えて夫の抱擁から身体を引き離すと笑ってみせる。
「だったら、私の心配も少しはわかってくださいましたか?」
「‥‥‥‥」
しかし、無言のままウォルフガングはまた強引に引き寄せると抱きしめてくる。
少しでも、離れたくないといった様子だ。
セレーネは慈愛に満ちた目で、無言で嘆く夫の広い背中に手を伸ばすと、幼子をあやすようにぽんぽんと優しく叩いて慰めた。
「本当に、困った狼さんね‥‥」
その時、無遠慮にガタンと扉が開いた。
「おっと、お前ら‥‥こんな朝から結構な事だが、具合はどうだ?」
シグルドだった。にやにや笑っている。
「お館様!?」
ウォルフガングは真っ赤になって慌ててセレーネから身を離した。
「お前‥‥今さら新婚でもあるまいに‥‥」
ウォルフガングの反応にシグルドは頭を振って呆れる。
手には編み籠を下げている。いかにも誰かに持たされたといった風に。
「料理人とクレアに頼まれものだ。後で食べておけ。まったく仮にも領主の私を、小間使いの代わりにしおって‥‥どちらにしても様子を見にいくのだろうから頼まれろと言われてな。どうして館の女どもは皆ウォルフ、ウォルフと‥‥」
テーブルに置かれた編み籠から香ばしいパンの香りが漂う。
言葉では愚痴愚痴と言う割に、その表情は嬉しそうだ。
「私の味方は、もうフレイアしかおらんのか」
ウォルフガングは彼女をベッドに促し、主君に椅子を勧める。
巨漢のシグルドが座っても軋まない頑丈な椅子である。
家によく訪ねてくるシグルドの為に、セレーネが用意した特注品だ。
「いや、セレーネ殿は休んでいてくれ。何もしなくていい。倒れたそなたに相手をさせたなどとクレアに知れたら、私の首が刎ねられる。お前もだぞ、ウォルフ」
セレーネがお茶を淹れようとした気配を察してシグルドが止めた。
領主の奥方クレアと、セレーネは姉妹のように仲が良い。レーヴァ領主館に君臨する影の支配者である女主人が後ろ盾とあれば、男どもには逆らえない。
その代わりにウォルフガングにワインを入れてくれと頼んでいる。ウォルフガングは主君の渇きを癒す為に、そそくさと木桶を取りに炊事場に向かった。
椅子にどっかり座ると領主は一息ついた。
「セレーネ殿、身体の具合はどうだね?」
「はい、シグルド様。大丈夫です」
シグルドはにっこり笑って鷹揚にうなづく。
血の気の薄い顔色を気にしているが、あえてシグルドは言及はしなかった。
「そうか、それなら良いが。そなたの魔法が暴走したのも、すべてはそこなる馬鹿者のせいだ。どうせ無茶をしたのだろう」
「昨日のことは‥‥途中までしか覚えて無いのです‥‥ウォルフ様には、私の魔法が暴発したとだけ聞かされてます」
ウォルフガングが地下室の樽から汲み出したワインを小ぶりの木桶になみなみと入れて、杓と木杯と一緒に運んでくる。
レーヴァに住む者は庶民であろうと、ワインのための地下倉庫を持っている。
当然のようにウォルフガングの家にも大樽がいくつも保管されている。
褒賞がワイン樽で支払われることも良くある、産地ならではの風習だ。
「シグルド様、どうぞ‥‥」
ウォルフガングがテーブルに並べていると、セレーネがチーズを切り分けて運んできた。
「ああ、ありがとう。気を使わせてしまったな。一口喉を潤せれば良かったのだ。それはそうと、ウォルフ‥‥」
そう言いつつ、シグルドはワインをあおりながらチーズをパクパク食べている。
口いっぱいに頬張って、これは美味い美味いと素直に喜んでる。
とても高名な竜騎士とは思えない雑な食べっぷりだが、いっそ清々しい。
奥方のクレアが領主館に料理人がいるにも関わらず、領主の朝食だけは自ら支度をするのは、シグルドが出されたものをなんでも喜んで食べてくれるからだと言っていたのをセレーネは思い出していた。実際、見ていて気持ちがいい。
同じように素直な性質でも、口の重い寡黙な朴念仁と違い、積極的に喜びを伝えてくる能弁なシグルドの美点でもあった。
「あの熊は母熊でな、追っていた猪と間違えた猟師が、子熊を射殺してしまったらしい。すぐに猟師たちは逃げ出してきたようだが‥‥荒れ狂う熊を放って置けないと仲間を集めて決着をつけようとしてこの始末だ」
シグルドとしては領民から犠牲者を出しているので頭の痛い話だ。
「子供を諦め切れなかった‥‥のですね」
セレーネが哀しそうに呟いた。人間の街に侵入すれば、どれだけ危険かは野生動物にもわかる。それでも熊は我が子の死を受け入れがたかったのだろう。
しかし、人を殺した熊は始末しなければ更なる惨事を産む。
セレーネは母熊に憐憫の情を抱いたが、同時にウォルフガングを酷く傷つけられた光景を目の当たりにしたので複雑な気持ちもあった。
運が悪ければ、あの時にすでに夫は‥‥セレーネは嫌な想像を頭から散らす。
そんな事、想像であっても考えたくない。
「ともかく。セレーネ殿、逃げ遅れた領民を助けてくれてありがとう。領主として礼を言う。母親が何度も重ねてそなたに礼を述べていたと聞いた」
「いえ‥‥」
「よし‥‥セレーネ殿の勇気を讃えて褒美をやろう、何か欲しいものはあるか?」
「シグルド様、私はそんな事‥‥」
突然の申し出にセレーネは戸惑っていると、シグルドがにやりと笑う。
「ときにセレーネ、この男は夫として、そなたを満足させているかね?」
領主はウォルフガングを指さす。
「もちろんです、シグルド様‥‥私には十分過ぎる人です」
セレーネは問いかけに反射的に即答した。
この場の発言権がないウォルフガングは居心地が悪そうにしている。
思いがけない妻の言葉に仏頂面を耳まで紅潮させていた。
口許をへの字に曲げ、寡黙な狼はむっつりとして静かに聞いている。
「ただ、ウォルフ様への‥‥心配のタネはつきません」
恥ずかしさに紅潮していたウォルフガングの顔が、一瞬で切迫した表情に切り替わる。これは‥‥また叱られる流れだ。赤くなったり青くなったり忙しい。
当然、その様子をくっくっと笑いを漏らしてシグルドは眺めている。
「ふむ、さもありなん。では‥‥我が騎士ウォルフガングに命ずる。今日より5日間、セレーネ殿に仕えて奉仕しろ。これは主命である」
「お、お館様!?」
ようやく、からかわれていると気付いたウォルフガングは狼狽した。
「なんならセレーネ殿、この無愛想なへなちょこ野郎が物足りないようなら、他の者に替えても良いんだぞ? もっと愛想の良い、見目麗しい者でも寄越そうか?」
「まぁ、シグルド様ったら!」
2人の弾けるように陽気な笑い声が響き渡った。
「‥‥むう」
主君と妻の間に挟まれて弄ばれる黒狼はただ小さく喉でぐぅと唸るのみ。結局、ウォルフガングは自身の療養とセレーネの看病の為の休みを与えられた。
その日の夜の領主館は、一悶着あったようだ。
気配を察した使用人たちは慣れた様子で待避を済ませている。
「それで‥‥?」
領主の妻クレアの尋問は氷柱のように冷たくシグルドの胸に深く突き刺さる。
「いや、お前、なんで‥‥私は言われた通りに食事を運んだじゃないか」
少々深酒して帰宅したシグルドが次に目を覚ますと、領主館の寝室のベッドに拘束されて大の字に縛りあげられていた。うろたえるシグルド。
帰宅した‥‥あたりまでは覚えているが、それが何故この状況になるのか。
「どうして怪我人の様子を見に行った人が、こんなにお酒臭くなって帰ってくるのですか‥‥と、私は訊ねているのですよ?」
領主の威厳も何もない。
熊のような巨漢シグルドも、今は捕食者に狩られるだけの哀れな獲物である。
「あの子たち‥‥ウォルフもセレーネも十分に休ませてあげましょう、とお話をしたのを覚えておられないのですか‥‥‥‥あなた?」
その口調はあくまでも穏やかで、しかし逃げを許さない。
もっとも、縛り上げられたシグルドは逃げおおせる状況ではないのだが。
「あ、いや、そうだ、そなたの言う通りだ。謝る、謝るから縄を外してくれ!」
「ねぇ、私もセレーネに神聖魔法を教わろうかしら、レーヴァの大熊退治の為に」
にっこり微笑むクレアに、領主は心底震え上がった。
「や、やめ‥‥うああああ!」
領主の私室から野太い悲鳴やら呻き声が上がり続け、翌朝げっそりしたやつれた様子で日課の鍛練に現れたシグルドは、いつに無いへっぴり腰だったと言う領主館の使用人の証言が、酒場「葡萄の実り亭」でも語り草になっていた。
西の辺境都市レーヴァには“熊殺し”の異名を持つ淑女が2人もいる。
そんな噂が行商人によって、遠く王都エリシオンにまで流れたという。
【END】
ウォルフが怪我が多いのは家庭を持ってから張り切り過ぎてる部分かな。結婚して(あるいは類似した責任感)危機に対する察知能力が上がるとか。
※ウォルフ25歳 セレーネ18歳 シグルド30歳。