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騎士の責務

挿絵(By みてみん)

 胸に鋭い痛みが走った。肉切りナイフが柄のところまで深く埋まっている。

 刺された勢いで床にどっかりと腰から倒れ、そのまま座り込んでしまった。

 壁際に背をもたれて、レーヴァの騎士ウォルフガングは息を大きく吐いた。

 抜かった、と最初に感じたのは羞恥心。

 偶然通りかかった酒場で、酔っ払いの乱闘騒ぎの仲裁に出た挙句の出来事であった。しかし、割って入らねばならない危険な状況だった。

「‥‥う‥‥むぅ」

 刃物が深く刺さった時の、肉をえぐられ裂かれる特有の苦痛と独特の不快感に、ウォルフガングは思わず低く唸る。身に染みる痛みだ。

 いつもの鍛錬であれば、余裕で避けられる素人の一撃だったはずなのに。

 自宅へ帰り途中の街の見回りで、気が緩んでいたのかも知れない。

 あるいは酒場の人混みで不意に刃物を避ければ、別の誰かに被害が及ぶと無意識に恐れたのかも知れない。だが、そんな事はどうでもいい。

 理由はどうあれ、この状況は武人としては失態である。

 刺した酔っ払いに目をやると、怯えた様子で目を見開いて立ち尽くして、震えていた。酔った勢いで暴れただけなんだろう、と察する。

 かえって、殺気のない素人相手の太刀筋の方が読みにくいかも知れない‥‥などと考えて、そういう相手を想定した鍛練も必要だとウォルフガングは今後の課題について悠長に頭を巡らせていた。

「静まれ、静まれ! 指示があるまで勝手に出てはならん!」

 騒ぎを聞きつけ、更に駆けつけた衛兵が数人やって来ると、問答無用で狼藉者(ろうぜきもの)を取り押さえている。暴漢は無抵抗だった。

「なんと、ウォルフガング様ではないですか‥‥」

 顔馴染みの兵士が驚いた様子で駆け寄った。請われて剣の稽古も幾度かつけた事がある、農民出身の真面目な青年だ。

 よりにもよって、恥ずかしいところを見られてしまった。

「いや‥‥問題は、ない」

 仏頂面の騎士はやや乱暴に刺さったナイフをずるりと引き抜いて、捨てた。

 同時に血が噴き出る。だが、異物から解放されて楽になった。

 出血を抑えるために、上着の上から片手で厚い胸筋ごと鷲掴みにすると、傷口ごとその手を外套で覆い被せて隠す。

 ゆっくりと立ち上がると手当てもしないまま立ち去ろうとした。

「いや、しかし、ウォルフ様‥‥それは」

「すまんが、後は頼む」

 兵士が引き止めようと動きかけたが、ウォルフガングは手で制すると喧騒(けんそう)のやまぬ酒場から1人で出ていった。


 23歳で結婚したウォルフガングは、妻セレーネとの幸せな結婚生活を1年ほど過ごしていた。しかし、突然現れたデビルに幼いフレイア姫と共に襲われた事件がきっかけで、その平穏な生活に僅かな翳りが差した。

 デビルに狙われたフレイア姫を庇ったウォルフガングの傷は治癒できたものの、その爪は消えない傷を頬に残した。

 それは騎士である夫とは違い、今までの人生で肉を切らせて骨を断つような激しい戦いや流血沙汰という過酷さとは無縁だったセレーネに、初めて緊迫と不安の爪痕を残した事件でもあった。


 ドアを開けて帰宅した夫の様子を見て、妻はすぐに異変に気がついた。

「しくじった‥‥」

 ウォルフガングは苦しげにそう言うと、深く大きく息を吐く。

 扉の前で不自然に立ち止まったウォルフガングが家の中に一歩踏み出した途端、ぼたぼたと粘度の高い血の塊が床を濡らした。

「あ、あなた‥‥!」

 目の前に広がる生々しい流血に、セレーネの表情が強張る。

「すぐにベッドで横になってください!」

 外套(がいとう)の中に隠していたが、夫は片手で自分の左胸を掴んでいる。その手は真っ赤に染まり、指の間から抑えきれない鮮血が垂れ流しになっていた。

「ああ‥‥わかった」

 ウォルフガングは掠れた、力のない低い声で応えた。

「早く、こちらへ‥‥」

 自宅に着いたことで踏ん張っていた気力が抜けたのか、そのまま頼りなげによろよろとベッドに向かい、腰を下ろすと助けを請う眼差しでセレーネを見た。

 歩いた後に血痕を残している。

「す、すまない、手伝ってくれ‥‥」

 夫のこんなに弱った姿を見た事はない。ぐったりとしている。

 外套と上着を脱がせて上半身を裸にすると、厚い胸板にざっくり割れた傷口が見えた。セレーネは慌てて手当ての為の湯を沸かし、清潔な布を集めてきた。

「街で‥‥喧嘩を止めようと‥‥つい、油断した」

 呼吸が荒いウォルフガングが話すたびに、余計に胸が動くせいか出血量が多くなっているように見えた。声と共にどくどくと脈打つように血が吹く。

「この不始末、お館様に‥‥面目次第も‥‥ぐふっ」

 痛みに咳き込むウォルフガング。その衝動で傷が更に開く。

「喋らないで!」

 セレーネは動揺していた。

 そして、強く言いつけられている夫の言葉を思い出していた。

『よいな、私に治癒魔法を使ってはならぬ‥‥絶対に、だ』

 以前、ウォルフガングがデビルに襲われた怪我の時。神聖魔術師として治癒魔法を続けて消耗した結果、セレーネは倒れてしまった。すぐに回復したが、以降ウォルフガングに対する治癒魔法の使用を、当人から禁じられた。

 あまりに代償が大きすぎるから、と。

「傷に障りますから、黙ってください‥‥今すぐ手当を」

 胸の傷は小さいが深い。止血が思うようにいかずセレーネは焦りを感じた。

 その肩に夫の大きな手がそっと置かれた。

「大丈夫だ‥‥痛みはないから」

 ウォルフガングは仏頂面(ぶっちょうづら)のまま小さな嘘をついた。

 だが、筋肉を一部切り裂いた以外に内部の損傷は無いだろうと判断していた。

 刺された時の感覚でわかる。


「ぐぅ‥‥」

 低く小さく呻くウォルフガング。止血する為に強く傷口を押さえなければならず、仕方ないとは言え苦痛を与えてしまう。

 (こら)え性のウォルフガングも、さすがに自宅で、セレーネの前では堪えきれなくなるのか、息を荒げて苦しい顔を見せていた。

 その分、ここまで帰ってくる道中は相当我慢をしていたのかもしれない。

 夫はあまり弱みを見せたがらない人だった。人を癒すことを使命とする神聖魔術師の立場から見ると、負傷者が苦痛を訴えずに我慢し過ぎるのはかえって困る。

「痛いなら声を出してください‥‥我慢なさらずに」

「い、いや‥‥なんでもない‥‥平気だ」

 即答で拒否されて、セレーネはめまいを覚えた。

 予想通りの反応。夫はまるで聞き入れてくれない。

 頑固者め!と熊のように唸るシグルドの声が聞こえた、ような気がした。

「傷口は小さいのに‥‥」

 止血の為に強く押さえた衝撃で更に血が噴き出る。

 セレーネの血色のない白い手が、夫の血に染まっている。

 むせかえるような生臭い血の匂い。まるで自分がウォルフガングの命を奪っているような錯覚と恐怖に駆られる。

「お願い、止まって‥‥」

 治癒魔法を拒むのは自分の体への負担を気にしての気遣いとはわかってはいても、傷ついて苦しんでいるウォルフガングを目の前にして何もできない歯痒(はがゆ)さに心が張り裂けそうだった。

「自分がもう少しだけでも、まともな体だったら‥‥もっと早くこの人の傷を癒すことが出来るのに‥‥天使様のお力で‥‥」

 お湯の中で布から溶け広がる血を見ながらセレーネは生まれつきの自分の弱い身体を恨めしく思った。布を絞り再び傷を押さえる。

「ぐあ‥‥!」

 夫が漏らす苦痛の声にびくりと反応する。胸を圧されると呼吸のタイミングで声が出てしまうのかも知れないが、それがセレーネの焦燥感をより一層強くした。

 人を救う為に、人を癒す為に選んだ神聖魔術師の道なのに、本当に救いたい、護りたいと願う人ほど救えない。

 天使様の加護に頼らず、自分1人の力だけで出来ることがなんと少ない事か。

 魔法は使わなくても、心の中で懸命に祈り続ける。

「天使様、どうか‥‥どうか、この人を‥‥」

 セレーネは布を取り替えると再び傷口を押さえ続けた。


 デビルの事件の時、施術者と対象の精神的な絆が強いほど効果が高くなる神聖魔法は、セレーネに通常より何倍もの強い力を与えてくれた。しかし、反動で肉体的な消耗も強く伴った。反動と言っても、健康ならばほぼ影響はない。

 だが、生まれつき身体が弱い彼女にはその相乗効果が重過ぎた。

 事件後、セレーネは息が度々切れて呼吸も浅くなり、一時的だが意識も失った。

 脈が弱くなりすぎていると診察した街の医師に指摘され、無理をさせないようにと強く警告を受けた。ウォルフガングはその時の事をとても後悔している。


 額に汗を滲ませながら、セレーネは湯に浸し、硬く絞った布を傷口に当てる。

 神聖魔術師なのに、目の前に愛する人が傷ついているのに、簡単な治癒魔法すら使えないなんて。夫の身体はこんなにも助けを求めているのに。

「私が‥‥私が、こんな弱い身体で無ければ、ウォルフ様に‥‥」

 セレーネは悔しさを滲ませる。

 もしも強引に使おうとすれば、夫は治癒魔法に対して拒絶して強く反発するだろう。魔法を、引いては術者そのものを拒み、受け入れてもらえなくなる。

 それは神聖魔法の(ことわり)と効果を大きく歪めてしまう。年齢的に神聖魔術師としての経験がまだ浅いセレーネの場合、魔法の効果を安定化させるのが難しい。

 不安定になっては治癒魔法であっても、相手を魔法によって逆に傷つけかねない。特に治癒魔法は、施術対象からの拒絶は絶対に避けなければならない。

 それは、皮肉にもウォルフガングの愛情深さが仇になっている。夫は自分のために犠牲を生むことに対して、テコでも動かないだろう。

 例え、ウォルフガング自身に死の危険が迫っていたとしても。

 彼の頑固さに手を焼いているのはシグルドを見ていてもわかる。

 しかし、そういった心配事も、自分にごく普通の健康な身体さえあれば‥‥すべて問題がなかったのに‥‥と、セレーネは唇を噛む。

 この身が恨めしく悔しくてたまらず、心の内から焦がれるようだった。

 こんな心持ちになったことは、セレーネには今まで経験が無い。

 平穏な暮らしから一転、戦いに身を置く者、誰かを護る事を使命にする者と添い遂げる事の大変さとその意味を、改めて思い知らされた。


 やがて、セレーネの献身的な手当てが功を奏したのか、天使への祈りが届いたのか。

 出血していた傷口から、ようやくその流れが止まった。

 セレーネは汗ばんで軽く肩で息をしている。

 ウォルフガングはぐったりしたまま、その様子をぼんやりと見ていた。

 また、セレーネに負担をかけてしまった‥‥と、沈んだ面持ちになっていた。

 誰よりも彼女を守ってやらねばいけないのに、結局は己自身が1番の重荷になっている。

 騎士は不甲斐なさと痛みにぶるりと身を震わせた。

「‥‥これで、なんとか出血は止まりました」

 血にまみれた指先で額の汗を拭いながらセレーネはやっと安堵の息をついた。

「このまま横になっていてください」

 穏やかで優しい態度は変わらないが、有無を言わせぬ強い眼差しでセレーネはウォルフガングを真っ直ぐに見つめて言った。

「すまぬ、私の事はいいから、そなたは休んでくれ。もう痛まない」

 夫は眉間にしわを寄せて不貞腐(ふてくさ)れたような様子でセレーネを見上げる。

 不機嫌を装っているのは痛みを誤魔化しているのだろう‥‥と、わかっていた。

 この期に及んで、自分に対してまで苦痛を隠して1人で耐え忍ぼうとするウォルフガングに、治癒魔法も禁じられて思うようにいかないとセレーネは行き場のない感情に掻き乱されていた。

「こんな深い傷で痛まないはずがありません!」

 止血ができた安堵もあって、夫の態度に思わず不満を漏らしてしまう。

 やり場のない悔しさに瞳が少し潤んでくる。

 本当はこんな事を言いたいわけではないのに。それなのに。

「いや‥‥もう、大丈夫だ」

 それでも頑迷(がんめい)なウォルフガングは苦痛を悟られるのを嫌って視線を合わせない。

 わざと素っ気ない態度で返す。こうなると狼は動かない。

「‥‥」

 セレーネはそれがわかっていても。心配だけどもこれ以上は何も言えず、注意深く様子を伺う。不安を振り払う為にも出来るだけ動いていたい。

 いつの間にかウォルフガングの顔が火照り始めている。

 包帯の上から傷の周辺と、額に手を当ててみると熱くなり始めていた。

「う、ううむ‥‥」

 セレーネが触れていると、苦痛に強張っている筋肉の緊張感が不思議と解けていく。触れられているところから固さが緩む。

 少しずつ、ウォルフガングの不機嫌そうな表情も少しだけ穏やかになっている。

「痛く、ありませんか?」

 傷を避けて身体をさすってみる。

「‥‥ああ」

 弱みを見せるのを避けたがる夫だが、触れられることまでは拒絶しないで身を任せている。苦痛を少しでも和らげることができるのであれば‥‥。

 まずは熱をなんとかしないと。

「熱が出始めています‥‥すぐに薬草を煎じますのでそのまま寝ていてください」

 汗を拭いながらセレーネは(きびす)を返し、薬草を備蓄している棚を漁り出した。


 休まずテキパキ動くその背中を、ぼんやりと見つめるウォルフガング。

 セレーネはいくつかの薬草を抱えて奥に消えて行った。

 台所では薬草を細かく刻む音が聞こえ、独特の匂いがベッドまで届いてきた。再び、口の中に"あの味"が広がる気がした。

「あれを‥‥また飲まねばならんのか」

 ウォルフガングは心底嫌そうな表情を浮かべていた。

 妻の作る解熱の煎じ薬は大変良く効くが‥‥味は苦くて至極(しごく)まずい。

 そんな事を思いながらベッドで横たわったまま待っていたが。

「うう‥‥む‥‥」

 怪我の消耗と疲労から、ウォルフガングはうつらうつらと居眠りを始めた。

 セレーネに触れられた箇所が未だ心地よく、緊張感から放たれるような感覚の中、失血による意識の混濁に近い状態で抗えない眠気に沈んでいった。


「ああ‥‥ウォルフ様、まだ寝てはいけません‥‥お薬を」

 激しく消耗している身体は一度寝てしまうと中々目覚めさせられない。

 身体に触れようとも名を呼んでも朦朧(もうろう)と反応はしても、覚醒しない。

 煎じ薬を強引に口元に寄せて飲ませようとしても、こぼして吐き出してしまう。

「‥‥」

 セレーネは寝具を重ねて大きな背もたれを作ると、ウォルフガングを背中から支えて上半身を少し起こす姿勢に変えた。

 意識を失くして重たくなった、筋肉質な男の肢体(したい)は女1人だけでは動かすのもひと苦労である。

「あなた、お願いだから飲んで‥‥」

 セレーネはひとくち煎じ薬を口に含むと、口移しで夫の口に含ませる。

「うう‥‥んぐ‥‥」

 吐き出さない用に口づけを離さず、舌でぐいと薬を押し込む。

 苦悶の表情を浮かべつつもウォルフガングは何とかそれを飲み込んでくれた。

「ふぅ‥‥」

 セレーネはひとまずほっとした様子で、残りの薬を少しずつ時間をかけて口移しで飲ませていった。


「あの馬鹿者‥‥!」

 シグルドは苛立たしい気持ちを隠さなかった。

 昨夜の狼藉者は領主館の地下牢に運ばれていた。翌朝になって報告を受けたシグルドは不満そうに執務室をぐるぐると歩き回った。大柄で筋肉質のどっしりした体格のシグルドがそうしているとまるで腹を減らした熊のようだ。

 気配を察した館の使用人らも必要以上に執務室には寄ってこない。

「おはようございます、遅れてしまいました」

 苛つきの元凶がついに姿を見せた。背筋を伸ばして直立している。

 この男のせいで日課の鍛錬すらもままならない。いつもより遅いウォルフガングに痺れを切らしていたシグルドは、まるで獲物に襲いかかる獣が如く飛びついた。

「ウォルフ!」

 シグルドは近づくと問答無用で上着を掴み、強引に胸元をはだけさせる。

 騎士はびくりとも動かない。胸板に厚く巻かれた包帯に血が(にじ)んで見えた。

 それを見咎めるシグルドは酷く渋い顔をする。

「報告は受けておる、だが、これはどういう不始末なのか」

「事故です、申し訳ありません。うまく避けられませんでした。軽い傷は負いましたが、仕事に問題はありません」

 まったく動じない様子で騎士は淡々と報告した。

 シグルドは低く唸ると、おもむろに窓際に歩きながら外の景色を見る。

 そして、深いため息をつく。

「‥‥他に怪我人は?」

 滅多に感情の起伏を人には見せないシグルドであるが、ウォルフガングの前だけは遠慮が無い態度を見せる。今はとても不機嫌そうだ。

「いえ、誰も。私の傷も偶発的なもので大したものではありません。どうか、かの者にはご寛大な処置をお願いします」

 ウォルフガングはその場で片膝をつき、頭を下げた。

「駄目だ! 領内すら許されんのに、街中での刃傷沙汰など言語道断!」

 熊の咆哮のような怒号に窓が振動でびりっと鳴った。

「偶然とは言え、騎士階級の人間を刺した事は領主として看過できん。騎士への態度はその主君への態度と同じ意味を持つのはわかっているだろう?」

 シグルドは珍しく荒れていた。

「承知しています。しかし、お館様、どうか‥‥彼は暴漢である以前にレーヴァの領民です。騎士が保護すべき者たちです」

 口が重く朴訥な男は言葉を詰まらせながら、辿々しい弁解を繰り返す。

 普段から無口なウォルフガングは流暢(りゅうちょう)には話せない。

「私がきっちり取り抑えるか避けてさえいれば、そもそもこのような事にならなかったのです。危害を加える意志があったわけではありません。お館様、これは‥‥事故です」

 今はひざまづく姿勢すら、傷を圧迫されてか辛そうに見える。

 それがシグルドを(いら)つかせる。

「もしも罰するならば、まずは‥‥不始末を犯した私から」

 それでも騎士は頑として頭を上げなかった。やがて、はだけた胸元から覗かせる包帯に、滲む血の色がじわりと新しい広がりを見せている。おそらく閉じた傷が、開いてしまっているのだろう。

「おまえは‥‥ええい、くそ、わかった。いいから立て」

 ついにシグルドは折れた。

 言われた通り立ち上がるウォルフガングは少し息が乱れている。

「不問には出来ぬが配慮はしよう‥‥だが、今日はもう帰るんだ」

 騎士の苦しげな息づかいを聞きながら、シグルドは悔しそうに唸っている。

「いいか、ウォルフ。これはすべてお前の失態である。しばらく謹慎処分だ、解けるまで出仕を禁じる。帰って休め。この始末ではセレーネ殿も気が気であるまい」

「わかりました‥‥誠に、申し訳ありません」

 ウォルフガングが表情を変える事なく静かに退出すると、シグルドからは特大のため息と愚痴が漏れた。頑固者め、と。


「ご無事に帰られて良かった‥‥」

 開口一番、セレーネはそう言った。妻は傷に触れないように、背中から軽く抱擁してくる。彼女にどれほど心配をかけてしまったのか。

「‥‥お館様に、謹慎を言い渡されて、休めと追い返されてしまった」

 そう言って肩を落とすウォルフガングはすっかり意気消沈している。

 こんなに早く戻って来たのだから、そう言う事だろうと予測はできた。

「シグルド様のご指示通りに休まれてはどうですか?」

 妻は促した。敬愛してやまないシグルドの事になると、夫は目に見えて一喜一憂するので、さぞがっかりした事だろうとセレーネは容易に想像できた。

 そのあまりの落ち込みようにセレーネは少し可哀想になってくる。

「シグルド様は心配されているのですよ」

 昨夜の発熱は今朝に持ち越すこともなく済んだようでセレーネは安堵していた。

 ウォルフガングは薬を飲まされていたことすら気づいていないが、朝になって口内に残った苦味に驚いて慌ててうがいをしていた。

「そ、それは‥‥そうなのかも知れないが‥‥」

 愚図る夫をベッドに連れて行き、着替えさせて休ませる事にした。

 足取りすら重くなっているように伺える。

 寝かせる前に包帯の交換もしなくてはいけない。

 胸元から見える包帯は新しい鮮血が滲んでいるのが見えていた。

「あなた、傷が‥‥」

 

 ズズ‥‥ン!

 突然聞こえた地響き。壊れて割れる破壊音、馬の激しいいななき声。

 外の喧騒にウォルフガングは素早く反応した。

「なんだ?」

 そのまま外に飛び出して行く。

 セレーネも心配して夫の後について行った。昨夜のような胸騒ぎがする。

 領主館へと続く丘の道で、満載の荷馬車が横転しているのが見えた。

 御者が下敷きになり、悲鳴をあげている。他に誰もいない。

「いかん!」

 ウォルフガングはすぐさま走り出した。跳ぶように坂道を駆け上がって行く。

 あの怪我でよくここまで動けるものかと思えるほどに迅速だった。

 機敏に反応する迷いのない行動に、後ろから追いかけていたセレーネは追いつけず、目を見張る。

 普段は動作もそれほど素早くもない夫が、この時ばかりは別人のように見えた。

 騎士はあっという間に荷車と御者の間に素早く体を滑り込ませると、在らん限りの力で背中で下から押し上げ始めた。救助者にも多少の危険は伴うが、御者を守り荷車から逃がすにはこれが最適だと判断した。しかし、荷物が多く積まれて、怪我で力を出しきれないウォルフガング1人ではなかなか持ち上がらない。

「大丈夫か!?」

 ウォルフガングは唸りながら全身を使い、渾身の力で荷車を押し上げようとした。すべてを持ち上げる必要はない。

 少しでも隙間を作れば、御者だけでも引き出せるはず。

 絶対に御者を押し潰させないと、歯を食いしばり耐え忍ぶ。

 セレーネは御者の手を引いて抜け出せないか試す。

「諦めてはならん。お前は、私が必ず助ける!」

 ウォルフガングは大きな声で御者を励ます。

 混乱していた御者はその声に我に返った。

 横転した馬は錯乱して暴れており、甲高い声で激しくいななく。

 そのせいで荷車が安定せずうまく持ち上がらなかった。

 が、一瞬の隙をついて御者が這い出た。

「よし! 行け!」

 ウォルフガングもそのチャンスを見逃さず、後ろから押し出して脱出を手助けしていた。その瞬間、暴れていた馬が大きく動いた。ガクンと大きく激しく揺れ、今度はウォルフガングが荷車の下敷きになって挟まった。

「あなた!」

 いつもなら、御者が逃げたタイミングで避けられたのかも知れなかった。だが、今のウォルフガングにはどうにも出来なかった。

 そして、そのままじりじりと押し潰されるように崩れていく。

 それでもウォルフガングは機会を狙って諦めず踏ん張る。

 力を出せない状態でも荷車を押し上げようとしている。その力を込めるたびに胸の包帯は血の滲みが広がりを増して染まっていく。

「ウォルフ様!」

「来るな!」

 近寄ろうとしたセレーネに、ウォルフガングは威圧と拒絶の声で牽制した。身体を張る現場に生きる男の放つ迫力に押され、反射的にセレーネは後退りする。

 騎士は逃げられる隙を探っているが、支えるだけで精一杯だった。

 騒ぎを聞きつけた領主館の方からも門番や使用人たちが救援にやってくる。

 助けが間に合えば‥‥。

 ブオオオオォッ!

 突然、暴れてもがいていた馬が、ついに首木をねじ切りどこかへと走り出す。

「ぐっ‥‥!」

 その衝撃で、荷車が崩れ落ちる寸前、ほんの一瞬だけ2人の目が合った。

 言葉を交わす事のない短い瞬間だったが、夫の目は力強く迷いのない責務を果たそうとする男の眼だった。

 ドスン、と轟音を共に姿が見えなくなる。

 ガラガラと酒樽や麻袋や木箱が雪崩れを起こして散乱した。

 ウォルフガングが下敷きになった場所から鮮血がさぁーと流れ出るのが見えた。

 セレーネが思わず悲鳴をあげた。助け出された御者は足を折ってしまったのか、(いびつ)に曲がった足を引きずり後ずさりをして動けないまま呆然としている。

 騒ぎを聞きつけ駆けつけた人々が荷車を引き起こした段階になって、ようやくウォルフガングの姿が確認できた。気を失ったのかぐったりしている。

 折れた荷車の木片などが身体の所々に突き刺さり、衣服は裂けて、荷物の落下に打ちつけられて、頭から血が勢いよく噴き出ていた。

 顔は真っ赤に染まっている。その黒髪に血がまとわりつき滴っていた。

 つい先程まで、セレーネを自分に近づけさせない為に威圧してた男はみるも無惨な姿をその前に晒している。すでにあの圧力は微塵もない。

 あっという間の出来事に感情がついていけない。

 セレーネは駆け出してピクリとも動かないウォルフガングにすがりついた。

「ああ、ウォルフ様!」

 駆けつけた領主館の使用人たちも唖然としている。

 ひとまず怪我人は領主館に運ぼうと提案して何人かで御者とウォルフガングを担いで行き、数人が近くの医者を呼びに走る。

 治癒魔法が使える人間は街を出払っている、と誰かが話しているのが聞こえた。

 今、レーヴァにはウォルフガングを治療できる神聖魔術師はいないと言う事だ。

 胸の奥をぎゅっと掴まれた気がして、セレーネは僅かに震えた。


「一体何がどうすれば、こうなってしまうのだ‥‥」

 いつにない館の大騒ぎに様子を見に来たシグルドは、ウォルフガングの姿を見て天を仰いで呻いた。ああ、天使様、なぜ怪我の大事をとって早々に帰らせた男が、一刻も経たぬうちに怪我を増やして館に戻って来ているのか。

 一緒に運ばれた御者が手当てを受けながら状況を説明してくれた。

 事故に駆けつけたウォルフガングは真っ先に助けに入ったようだが、それにしたって何故こうなるのか。御者はひたすら謝っている。

 ウォルフガングの身体は包帯と傷の当て布でほとんどを覆われていた。

「よくもまぁ、こんなに怪我をして無事でいられたもんですよ」

 呼ばれてやってきた医師は処置を済ませると半ば呆れたように言う。

 刺し傷は左胸から肋骨に沿って刃が逸れたように肩口に抜けている。大きい血管も外してるし、呼吸も問題はないと診断された。荷車の怪我も打撲と裂傷程度で、いくつかの大きい傷は縫合して押さえてあるからと、治療に当たった街の医師に言われた。怪我の程度は見た目ほど酷くないが、頭を強く打ってるので当分は安静にした方がいいだろうと指示をされた。

 不幸中の幸いですな、と言う医師の呆れ顔にシグルドはただ唸るしかなかった。


 夫の側を離れないセレーネの青ざめた姿を見つけて、シグルドはそっと寄り添った。

「心配いらん、こんなものは軽傷だ。それにこやつの頑丈さだけは折り紙付きだ。騎士はそんなにヤワではない」

 しかし、ウォルフガングは目覚めないまま、領主館で寝かせる事になった。

 シグルドはうらめしそうに自分に仕える騎士を見た。


 深夜、様子を見に来たシグルドはセレーネが付き添っている姿を見つけた。

 ウォルフガングも相当な頑固者だが、その妻となる者も相当かも知れない、と密かに感じた。

 シグルドにはそれが先代領主の執事であった彼女の父親を思い起こされて懐かしい。

「セレーネ殿、悪いな」

 シグルドはなだめるように彼女に話しかけた。

「騎士という生き方は‥‥こういうものだ。ウォルフにそういう道を示した私にも責任がある。もっとも、普通はここまで愚直にはならんのだが、この馬鹿と来たら‥‥加減を知らん。いや、決して無謀な男ではないのだが」

 付きっきりで夫の側にいるセレーネを見て、泊まって良いから休みなさいとシグルドは促した。ウォルフガングの隣にベッドも運ばせている。

「‥‥いえ」

 怪我人よりも憔悴しているセレーネの方をシグルドは案じていた。

 同じように病弱である妻のクレアよりも、身体の状態がすぐれないように以前から感じていたからだ。クレアからも心配する言葉を度々受けている。

 ウォルフガングが、妻に負担をかけたくないと口癖のように言うのも理解していたつもりだった。


「そうか。しかし、それでは騎士の妻は大変だぞ。特にこの男のな」

 セレーネは真っ直ぐウォルフガングを見つめたまま答える。

「‥‥あの日の、エルバの天使祭で‥‥」

 騎士は目を覚ます様子もなく、静かに瞼を閉じたままでいる。

 セレーネには初めて紹介された日と、天使祭のウォルフガングの顔。

 そして、昨夜の刺された姿と、荷車に下敷きになる一瞬の眼差しが、次々と一気に重なって見えた。

「この方に、ウォルフガング様に嫁ぐと決めた日から覚悟はしておりました」

 まだ、血の匂いと生々しい感触が取れない気がする指先を見つめながら、未だ動揺を隠しきれない自分を思い知った。

「でも、シグルド様‥‥いくら覚悟をしたつもりでも、夫のあんな姿を目にしたら‥‥やはり足がすくみ手も震えてしまいます‥‥とても恐ろしくて」

 押さえきれない身体の震えが、心の奥底にある恐怖が、うつむいてるセレーネの額にかかる髪に伝わり、蝋燭の光に照らされて微細(びさい)に震えている。

「セレーネ‥‥」

「近づけばどうなるかわかるような危険な状況にも、そこに助けが必要とする方がいれば、この人は一片の迷いもなく飛び込んで行ってしまいました。目の前にいても、私には声をかける事も止める事も出来ません。あの人は私が迷っているうちにどんどん先に‥‥私は本当に無力だと思いました」

 セレーネのその様子に、シグルドは深く心を締め付けられた。

「それでも、私はこの人と()()げたいのです、シグルド様」

 絞り出すように、改めて覚悟を口にする。


 (はかな)げで小柄な身体のどこから、このような強さが湧いてくるのだろうか、とシグルドは目を見張る。まるで、ふつふつと湧き上がる闘志のようにすら思えてくる。

「だから、笑っていられるようになりたい。ウォルフ様が目覚めた時に私が笑っていなければ、きっとこの人は慌てふためいて、困ってしまいますから」

 セレーネはなにかを振り切るように顔を上げシグルドに笑ってみせた。

「そうだ、そなたの言う通りだとも。最後には愛する者が笑っていてくれるから、騎士は誰よりも強くなれる。そして、帰ってくる力が湧いてくるのだ」

 シグルドは笑って見せながらも、しかし目は遠くを見ていた。

「少なくとも、今のウォルフはそなたがすべてだ。それは、領主である私ですら埋められない。ウォルフが無謀なのではない。私が領主などと言う不自由な立場に身に置いている分だけ、ウォルフが代わりに引き受けてしまう」

 領主など‥‥と、哀しそうに呟くシグルドの言葉に、人の上に立つ領主の苦衷のほどをセレーネは察した。

「私からの頼みだ。これからもウォルフをどうか支えてやってくれ」

 シグルドの固く厚い手がセレーネの肩に置かれた。

 夫と同じく、無骨な騎士の、戦う男の手。

「はい」

 セレーネは真っ直ぐに夫を見つめ小さいがはっきりとした声で答えた。

 シグルドは目を細める。自分がこの部屋に居た僅かな時間でこの若く美しい人は、騎士の妻として見違えるほど強くなっている。

「そなたのような奥方にここまで慕われて、誠にウォルフは果報者よな」

 もう、セレーネの髪の震えはどこかに消えていた。


 翌日の昼を過ぎた頃になって、ようやくウォルフガングは目を開けた。

「ここは‥‥」

 夫の漏らした言葉に、付きっきりのセレーネが無言で抱きついた。

 シグルドに決意した通りに笑顔を向けたかったが、意識を取り戻したウォルフガングの顔を見た瞬間、やはり堪えきれなかった。

「い、痛いよ‥‥おまえ」

 夫は子供のように悲鳴を漏らしたが、セレーネはお構いなしにしがみついた。

 その目には涙が溢れている。心配が深かった分、感情を抑えきれない。

 騎士の妻になる覚悟を改めて決めたとは言え、セレーネはまだ17歳だ。

「ウォルフ様‥‥ウォルフ様‥‥」

 どうやら、ここは領主館にある自室‥‥の天井。つまり事故はお館様に知られているのか、とウォルフガングは周りを見渡して呑気に考えていた。

 また失態をお館様に叱られるのだろうな、と思うと気が重い。

「私が悪かった。許してくれないか?」

「許しません!」

 即答されてしまった。安堵した分だけ、セレーネは感情的になっているようだ。

 普段は歳の差を感じられないほど、とても落ち着いている聡明な彼女だが、今日に限ってはまるで幼い少女のようになってしまった。

 もちろんそれが年相応の反応とも言える。

 彼女の涙に、ウォルフガングは己の気持ちも動転しているのを感じていた。

「セレーネ‥‥」

 手を伸ばして彼女の髪を撫でた。その腕にもいつの間にか厚く布が巻かれていた。事故のことは、荷車を支えきれなくなった辺りまでしか記憶にない。

 頭を強く打ったのか重い鈍痛を感じて顔を顰める。

 荷車の一つくらいで潰されるとは大袈裟な、鍛練不足だとお館様には笑われるだろう。大見得を切って謹慎処分を受けたのにこの始末。

「ウォルフ様‥‥こんなに傷ついて‥‥」

 妻は怪我の心配をしてくれているが、全身が痛むとしてもとりあえず生きている。だったらいずれは治る事だろう。手足も残っているし、目も耳も生きている。

 おそらくまだ剣も握れる。お館様に忠勤を尽くせる。それで、いい。

「私は、無事だから」

 デビルに襲われた時より、妻は動揺しているように見える。

 酒場の喧嘩も、荷馬車の横転も。他にどのようにするべきだったのか。最良の方法ではなかったのかも知れないが、他の誰も傷付ける事もなく対処できた。

「こんなに怪我を負って‥‥どこが無事なんですか!」

 怒られた。

 妻は涙目で睨みつけてくる。ウォルフガングの中で動揺が激しくなるのを感じていた。

 自分が怪我をしないのも大事だが、咄嗟(とっさ)の場面で選べる選択肢は多くはない。

 その中で、騎士として民の犠牲が少ないものを選んだだけなのだ。

「もっと‥‥私が、上手くやれれば。‥‥すまない」

 それでも、話下手なウォルフガングは謝ることしかできず、妻の震える細い肩を抱き寄せた。彼女は怒ってはいるようだが、夫の腕を拒まなかった。

 身体を動かすと酷く痛むが、これも自業自得だろう。

「私が傷を負った分、誰かが傷つかずに済んでるかも知れない。他の者では深刻な大怪我になりかねないことも、私なら耐えられる可能性が高い‥‥その為に日々鍛錬している。それが、騎士だ‥‥耐えてみせただろう?」

 セレーネを優しくそっと抱きしめて、諭すように囁いた。

 細かいことを伝えるのは難しい。だが、上手く言えなくても、騎士の本懐だけは伝えておきたかった。無茶な事をしたいわけではなく、そうするしか無い事をわかって欲しい。せめて、他の誰よりもセレーネだけには。

「わがままを言ってごめんなさい、ウォルフ様‥‥私、わかってます‥‥」

 素直に謝る妻の言葉をウォルフガングは制した。

「いや、私が悪かった。胸の怪我も、荷車も、私が上手く事態を収拾出来なかった結果なのだ‥‥お前に、迷惑ばかりかける‥‥すまない‥‥」

 誰よりも、この失態を彼女に詫びなければ。そう思った。

「いえ‥‥気にしないでください」

 セレーネはまだ声に涙の響きを残したまま答える。

「さぁ、顔を上げて‥‥私に、見せてくれないか」

 夫の身体に顔を埋めていたセレーネの、淡い色の瞳が真っ直ぐに向けられる。

 思わず、ウォルフガングは見惚れた。そうだ、この綺麗な青と緑の間の様な瞳に、初めて会ったあの日から魅了されたのだ‥‥と、思い出した。 


「‥‥おっと」

 様子を見に来ていたシグルドは、偶然にも聞こえた夫婦の会話に部屋の前で立ち止まり、すぐにはその場から動けなかった。

 偶然とは言え、こんなところに居合わせてしまったとは。すまんすまんと心の中で呟きながら、2人に気が付かれないようにこっそりと立ち去った。

「あの朴念仁もなかなかどうして、やるじゃないか」

 盗み聞きなど、あの2人を歳の離れた弟妹のように可愛がっている妻クレアに見つかるとこっぴどく怒られるかも知れないと思いつつも、顔が緩むのを止められない。つい先程までの心配もどこへやら、満足げに執務室に戻って行った。


「セレーネのおかげで、私は武人として民を守れる騎士で居続けられる。だから、そなたでなくては駄目なんだ」

 ゆっくり言葉を選びつつ、時折口ごもりながら辿々しく話す。普段は無口で胸の内を伝えるのが苦手なウォルフガングは出来るだけ率直な言葉にした。

「これからも私の側にいて欲しい‥‥男として、そなたの夫としても未だ不甲斐ない私だが、どうか見捨てないでくれ」

 それは謝罪ではなく懺悔(ざんげ)、だった。騎士は(ゆる)しを求めていた。

 天使に仕える神聖魔術師であるセレーネにはウォルフガングの姿はそう映った。

「私が見捨てるだなんて、そんなこと‥‥あり得ません」

 ウォルフガングにどれだけ必要とされているか、それを理解するには十分だった。無力さを味わう事はこれからもあるかも知れない。

 しかし、そんな自分を誰よりも必要としてくれている。

「あなたこそ、こんな私を見捨てないでくださいね。騎士の妻らしく、そうなれるように努力しますから」

 セレーネの瞳に涙はもう無かった。落ち着きを取り戻すと、事故の状況や御者(ぎょしゃ)の怪我の具合など、夫が気にかけるであろう情報をぽつぽつと伝え始めた。

「そなたには‥‥苦労を、かける」

 そっと手を伸ばして、妻の白い手を傷跡だらけの無骨な手で包み込むように握り、騎士は詫びた。そして、彼女はその手をしっかり握り返す。

「ええ、望むところです!」

 ようやく、セレーネは心からの笑顔を向けることが出来た。


 『9大王国中最も天使様の加護を受けし国』と呼ばれるほど平和なアリアで、ましてこんなに長閑な田舎領レーヴァで、こんなに生傷が絶えない馬鹿者はお前だけだ、と夕刻になってから改めてシグルドはくどくどと説教を垂れた。

 ウォルフガングは萎縮して、うなだれて返事をするばかりである。

 敬愛する主君の言葉は天使様のお告げであるかのように受け止めるウォルフガングにとって、心酔するシグルドからの叱責(しっせき)は堪えるようだった。

 とは言え、それほど深刻な怪我はしなかったし、ナイフの傷も結果的には急所は外していたのだから日頃の鍛錬の成果であろうと。

 荷馬車の御者を救ったことも、とりあえず良くやったと誉められた。

 ただし、不始末であるとして謹慎処分の期間はかなり延びてしまった。

 怪我の療養には十分な時間だと、セレーネは思った。

「‥‥と言うわけだ。この未熟な大馬鹿者め! 謹慎が解けるまで出仕してくるな。私はお前の顔など当分見たくもないからな!」

 主君は吐き捨てるように言うと、肩を怒らせて大股で執務室に戻って行った。

 セレーネにはそれが随分と芝居がかって見えたが、夫はそうではなかった。

「お‥‥お館様っ‥‥!」

 ウォルフガングがひどく落胆したのは言うまでもない。

 

 シグルドが去った後、ウォルフガングを刺した酔っ払いが地下牢から衛兵に付き添われて連れてこられ、本人たっての望みだと地に伏して謝罪をされた。

「済んだ話だ、もういい」

 ウォルフガングは一言で済ませて帰らせた。

 酔っ払いは衛兵たちにこっぴどく叱責を受けたようだが、どうやら罪には問われずに済んだらしい。子供が産まれて浮かれ過ぎた上での泥酔だと衛兵に言われた。

「では、後日にでも子供の祝いの品でも贈っておこう」

 ウォルフガングは仏頂面でそのように衛兵に話した。

 その次に、荷馬車の御者も骨折して固定された足を引きずりながらやって来て、事故から助けられた礼を述べた。

「構わぬ、それが私の仕事だ」

 やはり、簡素(かんそ)に返答するだけでウォルフガングは御者を帰した。

 が、少し間を置いて何かを思い出したように館の使用人を呼ぶ。

「あの足では不自由だろう、私の馬を帰りの足に貸してやってくれ。馬は放してやれば勝手に帰ってくるからこちらに返しに来なくていい、と伝えて欲しい」


 付き添っていたセレーネはその様子をずっと眺めていた。

 ウォルフガングは裏で細々と気にかけて思いやる割に、存外(ぞんがい)領民たちに素っ気ない態度で接しては受け流していた。元から愛想がいい人ではないけれど。

 どうしてかと直接夫に訊ねると、こんな状態では当分は剣が握れないし、日課の鍛錬が出来ないだろう、務めもロクに果たせないとボヤきながら、早く立ち上がる練習がしたいと言い出す。このままでは民に何か起きても対処ができない、と。

 どうやら夫の頭の中は今後の復帰に向けての剣術や鍛錬の事でいっぱいで、済んだ話は本当にどうでもいい様子だ。セレーネは時折シグルドが夫のことで頭を抱えている理由の一端を垣間見た気がした。


「もう一泊だけさせていただいたら、私は家に帰ります」

 ウォルフガングは妻の言葉にうなづいた。

「そうか、ならば私もそうしよう‥‥ここで寝てばかりでは皆に迷惑もかけるし、何より、身体もなまるから」

 やはり鍛練のことしか考えてないようだ。

 徹底して謹厳実直で武人然とした夫の様子にセレーネは呆れつつも、騎士として街の人々を見守っている視線や、彼なりに市井の人々を大切に思いやる気持ちを理解できたかも知れない、と感じていた。

「そうです、ウォルフ様。あなたが居ないレーヴァなんて」

 セレーネはシグルドの真似をして少しばかり大袈裟に言ってみせた。

「他の誰が酒場の喧嘩や馬車の事故から助けてくれるんですか、早く傷を癒やして戻って頂かないと街の皆様が困りますよ」

 しばらくきょとんとした表情でセレーネを見返していたが、やがて屈託ない笑顔で、そうだな‥‥と短く答える。滅多に見ることがないような、一瞬だけの照れたような素朴な表情に、セレーネの鼓動が僅かに早くなったような気がした。

 気恥ずかしさに視線を逸らすと、綺麗な夕焼け空が窓から見えた。

 日暮れ前の鳥の群れが、騒がしく北の森へと帰っていく姿が目に入る。

 吹き込む風は心地良く、セレーネの髪を撫でていく。

「明日も晴れそうね」

 セレーネは軽やかに微笑んでみせた。



【END】


ウォルフガングのキャラデータに「身体中傷だらけ」と言う設定表記があったのだけど。ゲーム本編ではまるきり活かしてなかった。でも、舞台になってるアリア国も辺境レーヴァも基本とても安全で平和な土地柄で、ウォルフガングもただの平凡な田舎騎士なのにむしろ傷を負う機会なんてあるの、なんで?と。キャラ作成時と舞台設定の確認がズレると齟齬が生まれるよくある話。仕方ないので小さい事にも首を突っ込みがちと言う話に落としてみた。

※ウォルフ24歳 セレーネ17歳 シグルド29歳

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