優しき日
「よいな、私に治癒魔法を使ってはならぬ‥‥絶対に、だ」
妻が倒れたと言う報告を受けてすぐさま自宅に駆けつけた。
レーヴァの騎士ウォルフガングは、自分がこれほど動揺している事に驚いた。
自分でも徐々に青ざめていくのが感覚としてわかる。
ここに辿り着くまで、どの道をどう走って来たかすらわからなくなっていた。
めまいと動悸と息切れで朦朧とする意識の中で、自宅の扉を荒々しく乱暴に開ける。セレーネはベッドの中に埋もれるように収まっていた。
「セレーネ‥‥おまえ‥‥おまえ‥‥」
血の気が失せて、人形のように真っ白になっているその顔を見て、ウォルフガングはデビルの爪に心臓を鷲掴みにされたような胸の痛みに思わず呻めく。
その絶望感に瞬時に蝕まれて、一歩ずつ動かす足が胸まで浸かった汚泥の中を歩くようでひどく重い。すぐそこにあるベッドが遥かに遠く感じる。
「‥‥セレーネ!」
ベッドの側までたどり着いた瞬間、膝から崩れ落ちた。
這いずるように、妻の枕元にたどり着くと、まるで生気を感じられない白い手を震えながら握った。本当に微弱ではあるが、脈を感じた。
手は冷たく感じるが、それでもまだ生者の温もりを残している。
「‥‥ああ」
生きてる‥‥まだ、生きてくれている‥‥。
呼吸を忘れていたかのように、ウォルフガングは大きく息を吸い込んだ。
領主館から連絡を受けて駆けつけてくれた医師や、領主館の使用人がセレーネの様子を見てくれていた。
倒れているところを偶然にも通りかかった使用人が見つけて、領主館の皆が対処して知らせてくれた。
普段は冷静沈着な騎士が、激しく狼狽する姿に様子に医師も使用人もやや驚いている。
「ウォルフガング様‥‥命に別条はありません。少なくとも今は。しかし、奥様は非常に弱られています。このような状態を繰り返すと‥‥」
医師は穏やかに、そして言いにくそうに伝えた。事実上の最後通告だ。
「ああ、わかっている‥‥私の責任だ‥‥彼女をここまで追い詰めてしまった‥‥すべては私の‥‥」
騎士は苦しげな表情で吐露する。
そして思わず、握っていた妻の手を離してしまう。
自分が‥‥妻の命を吸い取っているのではないかと言う幻想にすら囚われる。
「未熟さゆえに負った、私の傷を‥‥セレーネに‥‥背負わせて‥‥」
騎士は恐れ慄く。
デビルに襲われた事件で、心配したセレーネに何度も治癒魔法を使わせてしまった。もちろんウォルフガングは忠告したが、彼女は夫を心配するあまりにその言葉を聞き入れる事がなく看病を続けていた。
だが、セレーネを責められない。彼女をそこまで駆り立てたのは、元はと言えばウォルフガングの負った怪我のせいである。
「すまない‥‥」
頬に刻まれたデビルの爪跡が、己が罪の重さに呼応するかのように疼いたような気がした。
目が覚めたセレーネが、開口一番ウォルフガングから告げられたのは治癒魔法の使用を禁じられる言葉であった。
「そんな‥‥ウォルフ様‥‥」
セレーネは戸惑いを隠せない。
そんな彼女にウォルフガングは沈んだ面持ちで話し出す。
医師から伝えられた現状を伝える。それを招いたのは自分であるという事。
「そなたの身体にこのような負担を強いるくらいなら‥‥私は、治療など望まない。知らなかったとは言え、迂闊であった。浅慮な私を許して欲しい‥‥」
治癒魔法は対象者と術者が互いを思いやる気持ちが効果に影響するほど、信頼関係が重要になる。対象者から拒絶されてしまっては魔法をかけることすら危険を伴う。下手をすれば治療どころか怪我を負わせかねない。
「もう2度とそなたに同じ轍は踏ませぬ」
その上、経験も浅く、若いセレーネは魔法効果を安定させられない。
ウォルフガングにそう宣言をされては否応なく従わざる得ない。
「‥‥はい」
セレーネは唇を噛んだ。この病弱な身体のせいで、術の軽微な負担にすら耐えられなかったのだから仕方がない。
しかし、騎士であるウォルフガングは、いつまた怪我を負いかねないと言うのに、危険から守るすべを本人から禁じられてしまった。この身を心配しての事だと理解はしていても、夫から拒絶されたようで‥‥酷く悲しくなった。
「気持ちはありがたい。だが、私はそなたを失うわけにはいかない。まして己が身を守るために騎士が妻を犠牲にしたとはあってはならぬ事‥‥」
「ですが、ウォルフ様‥‥」
妻の抗議にウォルフガングは哀しそうに首を振った。
「もう一度言う‥‥私に治癒魔法を使ってはならん、決してならんぞ‥‥」
妻に厳命した。2度とこのような事態を引き起こさない為に。
ウォルフガングは、あまり人の外見は気にしない質だった。
何しろ己自身が強面で人を怖がらせてしまうのだから、他人の外見など個人を識別する記号でしかないと感じていた。そもそも人の美醜にあまり興味が無い。
確かにセレーネは美しい女だと思うが‥‥ウォルフガングにとって惹かれるのは表面的な造形ではなかった。彼女の芯の強さを表す凛とした態度すべてだ。
立ち振る舞いからくる彼女の魅力、男なら凛々しく‥‥と言うべきか。
それがウォルフガングにはきらきらと輝いてさえ見える。
一見、病弱さからくる儚い印象が強い彼女だが、本質はそこではない。
苦しく重い病を抱えて何度も危機を乗り越えてきたと言う経験が、この人をここまで強くしたのだろうか。
いや、強く無ければここまで生きてこれなかったのだろう。
何かを乗り越えていくほど人は強くなれる。
特にその眼差し。ウォルフガングがその象徴に感じるのはセレーネの眼だった。
綺麗な青と緑の間の様な瞳。彼女の生き方そのものといった清廉さを感じる。
初めて会った時は、理由もわからず息を呑んだ。
彼女をよく知れば知るほど、納得できる。
しかし、無骨者の騎士には、その気持ちをうまく伝える言葉を持ちあわせていなかった。
巡礼の旅の中、彼女の事を忘れようと考えることもよぎったが、出来ないと悟った。
それは、主君シグルドへの忠節を忘れることができないのと同じなのだろう、と。
「私の事はウォルフと呼んでください。その、な‥‥長い名前だから‥‥」
会ったばかりの彼女に、愛称で呼ぶように願い出たウォルフガング。
ほんの一瞬、驚いたような表情を見せたセレーネは、すぐに微笑んで応えてくれた。
「はい‥‥ウォルフ様」
そういった些細な事がウォルフガングにとって何もかも可愛くて愛おしい。
初めて出会ったエルバの天使祭の巡礼の旅。その数日間を共に過ごした中で、細かい所作から彼女の内面の魅力に心を奪われた。
それがレーヴァの黒狼を強く惹きつけて止まない。
騎士道一筋だった朴念仁が、誰かにすがるような懸想をするなど想像すらしていなかった。その事に誰より動揺していたのはウォルフガング自身だ。
巡礼の旅路で、エルバに到着する頃にはすっかり魅了されて目が離せなくなっていた。
逞しく鍛え上げた騎士が彼女の前ではだらしなく懐いてしまい、無力になってしまう。滅多に物事に動じない無愛想で頑固な男の心が、セレーネの一言、微笑みひとつで脆くも崩れ去り翻弄されてしまう。
それが恐ろしく心地良く、抗えない衝動だった。
自分でも理屈ではおかしいと感じているが、細かいことなどどうだっていい。
ただ、狼は突き動かされるように本能のままに従う。
ウォルフガングにとって命を懸けている騎士道とは、主君シグルドそのものだった。シグルドは絶対的な存在であり、騎士として生きる信念そのものだ。
だから、ウォルフガングは騎士道から離れるとセレーネには従順だった。
ベッドの中、隣で静かに眠る妻の姿を眺める。
結婚前、セレーネの両親に婚約の報告をした際、両親から話があると言われて彼女の健康面を告げられたことをウォルフガングは思い返す。
ある程度はシグルドからも聞いていたし、セレーネ本人からも告げられていた。
「ウォルフガング様‥‥」
セレーネの両親は、大切な娘を攫いに来た男を値踏みする事すらしなかった。
今まで生きてこられただけでも奇跡に近い事、彼女の命の糸は‥‥それほど長くはもたないであろうと。それでも娘を受け入れて貰いたいのだ、と語る。
「人並みの幸せを叶えてやりたいと願う、身勝手な親で申し訳ない‥‥どうか、どうか。私たちの娘を最後の時までお任せ致します」
父親から涙ながらに訴えられた。
「私こそ‥‥お父上、お母上の想いに応えられるよう彼女を幸せにしたいと‥‥思う。不肖ながらこのウォルフガング、誠心誠意尽くしたいと考えております」
当然、覚悟をしてはいたが、彼女をここまで守り育ててきた両親から伝えられる言葉の重さにウォルフガングは言葉を詰まらせながら誓った。
「いえ、騎士様‥‥もうそれは叶えられてます。私どもはあんなに頬を染めてはにかむ娘の姿など他に見たことがありませんから」
母親が涙をぬぐう。
「母上、どうかウォルフと呼んでください。私こそ‥‥一介の騎士の身でありながら、大切なお嬢様を迎えるなどと言う不遜をお許しください。戦いしか知らぬ無骨者ですが、これからは実の息子と思って頼ってください」
騎士はひざまづくと、儀礼通りにその手を取り彼女の手の甲に口づけを落とす。
「娘は騎士の妻になると覚悟を決めたのです。私達も覚悟しております。どうかシグルド様にも宜しくお伝えください。私の忠誠心は今もルシア家にあります」
ウォルフガングは妻を迎える事の重さを、改めて深く噛み締めた。
「承知しました、父上‥‥」
眉間に皺を寄せて騎士の強面に拍車をかけているが、セレーネの両親はこの不器用な武人を暖かく迎えてくれた。
いかにもアリア人と言う印象の強い平凡で、善良で信心深い穏やかな人たち。
彼らから娘を託された日の光景を重ねて、ウォルフガングの眼が柔らかい光を帯びて緩んだ。
「‥‥セレーネ」
妻の寝顔に思わず手を伸ばしかけて、ウォルフガングは止めた。
不用意に触れて起こしてしまうかもしれない。
儚い彼女に気安く触れるには、己の手は硬く厚く‥‥無骨過ぎた。
触れるだけで傷つけてしまいそうで、今は恐ろしい。
空を掴んだその手を引っ込めて、ウォルフガングは身を縮める。
「それでも、そなたは‥‥私が護り抜く‥‥」
彼女を迎えること、それは彼女を愛した人たちの想いも引き継いで背負うこと。
騎士道以外に何も持たなかった男は、騎士道以外にも生きる場所を見つけることが出来たのだ。彼女の背負った宿命の重さと共に。
「だったら、お茶にしませんか?」
セレーネは結婚してから初めて黒砂糖のケーキを焼いた。
意識が戻った後も寝込む日は続いたが、それもいつものことだと考えていたので深刻には捉えてはいない。それよりも今は何かをしていたかったのだ。
身体を動かしていれば、胸の内にある微かな不安が誤魔化せるように思える。
酒造が盛んなおかげでレーヴァでは糖類が豊富に手に入るので、甘い菓子類も辺境にしては流通している。材料も比較的に安く手に入りやすい。
生地には贅沢なほど大粒で芳醇な、質の良い干し葡萄が練り込まれている。
姉妹のように懇意にしてくれている領主の奥方、クレアから干し葡萄を大量にもらったためだった。もちろん地元レーヴァ産の葡萄。
干し葡萄は王都でも人気で、国外への出荷もされるほどの名産品でもある。
そのお礼にと干し葡萄入りの黒糖ケーキを作って、クレアに食べてもらおうと考えていたのだが‥‥久しぶりに作ったせいもあって、少々甘く作り過ぎた。
慣れたレシピでも、慣れていない道具での調理では味見の重要性を改めて感じる。
とりあえずクレアへ渡すケーキは作り直すことにしたが、失敗した甘すぎるケーキは‥‥自分で処理をすることにした。
渋めのお茶に合わせればバランスが良くなるかも、知れない。
昼下がり、遅めの朝食からも時間が経ち、空腹を感じてきた頃に突然ウォルフガングが玄関を開けた。珍しい時間の帰宅だ。
「ああ、驚かせたか‥‥すまない。近くを通ったから‥‥少し休憩しようかと」
ふうとひと息ついたウォルフガングの息が軽く上がっている。
額にもうっすら汗が滲んで、疲労感が伺える。
心配そうな妻の視線に気がついて、騎士は首を振る。
「東門あたりで、荷物を積んだ商人の荷馬車の車輪が外れたと‥‥難儀をしていると聞いて‥‥領主館の荷車を借りてそちらに積み荷を移し替えたんだ。なかなか重い積み荷が多くてな‥‥少し、疲れた」
まだまだ鍛え足りない証拠だよ‥‥と、妻から汗拭きに渡された布で額をぬぐいながらウォルフガングはバツが悪そうに苦笑する。
そして、炊事場に移動すると水甕から、馬のようにがぶがぶと柄杓で水を飲み始める。余程、喉が渇いていたのだろう。息継ぎをするように大きく呼吸すると、ひと息ついた。
壊れた荷車の修繕を鍛冶屋に任せて、近くを通ったから寄ったのだと言い訳をした。だが、本当はセレーネの様子を気にかけていた為だ。
「その、今朝も具合が悪そうだったが‥‥起きていて、いいのか?」
「ええ‥‥今は少し気分が良いの」
笑顔を見せるセレーネに安堵する。
「そうか‥‥」
緊張感が緩むウォルフガングに、妻はお茶に誘った。
「たくさん干し葡萄をいただいたお礼にクレア様にケーキを焼こうと思ったら‥‥失敗しちゃって‥‥今作り直してるの。失敗作を食べようかと思ってたところなんですが、ウォルフ様も手伝っていただけませんか?」
その言葉にウォルフガングはぴくりと反応した。道理で部屋中に甘ったるい香りが漂っているわけだ、と納得した様子だ。
「ああ、かまわない‥‥ケーキか‥‥うむむ、ケーキ‥‥」
意外にもウォルフガングは厳つい見た目に反して甘いものが好物だった。
セレーネは身近に甘いものを好んで食べる成人男性が居なかったので、初めて知った時は驚いてみせた。あれは‥‥葡萄の砂糖漬けだったか。
ちょっとしたお茶うけにつまむ程度のものなのに、夫は料理を取り分ける大きい匙でモリモリ食べていた事があった。‥‥正直、少し呆れて引いてしまった。
驚きのあまり本人に聞けなかったが、黒狼はかなりの甘党なのかもしれない。
「もう一つ‥‥召し上がります?」
ウォルフガングは出されたケーキをあっという間に平らげた。
今は騎士とは思えぬ行儀の悪さで、匙を舐めながら物欲しそうに妻の皿の上のケーキをじっと見ている。
物欲しげな大きな犬に見つめられているかのような気分だ。落ち着かない。
「‥‥うん」
子供のような反応をしている。視線は甘すぎるケーキに釘付けだ。
口に合わないといけないと心配して、遠慮気味に小さく切り分けたケーキが物足りないようだ。渋めのお茶は少し舐めただけでほとんど手をつけていない。
そう言えば‥‥苦い薬湯を極端に嫌がっていたことを思い出した。
極甘党の黒狼は渋みや苦味は苦手のようだ‥‥。
「ウォルフ様、たまにはお茶の時間にも帰って来てくださいね」
今度は皿いっぱいに盛り付けて夫の前に置くと、目を輝かせて見ている。
もし、夫に尻尾があれば千切れんばかりにぶんぶん振っていそうだ。
「ふふ‥‥どうぞ」
セレーネの合図を待ってからウォルフガングは再びケーキにかぶりついた。
「じゃあ、行ってくる。ケーキ、美味かった‥‥全然失敗なんかじゃない」
ウォルフガングは満足気な様子だ。
「失敗じゃ、ないぞ」
念を押すように言うと、仕事に戻って行った。
結局、黒糖のケーキは夫がほとんど食べ尽くしてしまった。
渋いお茶で舌を紛らわせて、ようやく一切れを食べることができたくらいにセレーネには甘すぎたのに。ウォルフガングは丁度いいと言って喜んでいた。
ケーキに夢中になる夫の顔を思い出して、つい笑ってしまう。身体を酷使することも多いウォルフガングには甘すぎるくらいでも丁度良いのかもしれない。
後でレシピのメモに書き留めておこうと思った。
治癒魔法を禁じられた時はウォルフガングから拒絶されたようで、揺るがないと信じていた心の絆に軋みが生まれたような気がして。
動揺したセレーネは少し落ち込んでいた。もちろん、それが自分の身を案じて思いやる行為だと理屈ではわかっていても。
気持ちの上で、突き放されたようで‥‥寂しさを感じていた。
否応にも自分の無力さと向き合わなければならない部分だけに。
だが、無邪気にケーキをパクついている夫の姿を眺めているうちに心の中のモヤモヤしたものはどうでも良くなり、いつの間にかすっかり消えてしまっていた。
あの不安感や焦燥感はいったいなんだったのかと自分でも呆れてしまう。
「そろそろ、かな?」
作り直しのケーキが焼き上がる頃だと、セレーネは立ち上がる。
クレアはウォルフガングの重度の甘党っぷりを知っているのだろうか。
しばらくクレアとのお茶の話題に事欠かない気がして、つい笑みが溢れた。
そう、たまには‥‥甘いおやつも必要なのだろう。
夫の身体にも、セレーネの心にも。
【END】
この先は激しめの展開になるので、雰囲気を変えて穏やかな日常系。ウォルフガングの中で優先順位は男なので仕事(騎士道(=シグルド)が1番。後半は「田舎のお茶の時間に対する情熱と執着は異常(笑)」と言う経験から。
※ウォルフ25歳 セレーネ18歳