狼の安息
レーヴァ。神聖アリア王国の西部、隣国フィレン王国との国境近くの辺境の街。
葡萄とワインが名産の長閑な田舎街。その街が近隣にも名が知れ渡るのはレーヴァの守護神にして地のミドルドラグーン、竜騎『レヴィア』の存在である。
他の竜騎同様、その騎手である竜騎士はその地の領主も兼ねる。
竜騎士にして領主、シグルド・ルシア・レーヴァの治める街。
平和で穏やかなこの街に、レーヴァのみならず天使様に護られた国としてあり得ない事件が起きた。唐突に出現したデビルである。
シグルドに仕える騎士ウォルフガングがこれを撃退。
それは後々のレーヴァに、アリア全体に降りかかることになる大災厄の小さな兆しだったのかも知れない。
ウォルフガングが、赤子のフレイア姫と共にデビルに襲われた事件。
あれから2日が経った。
今回の事件は一部の関係者以外、表向きはデビルに襲われたことは伏せられている。アリアにデビルが姿を現すなど、国家の根底を覆すほどの非常識さであり領民を不安と恐怖に陥れかねない。一般人には被害もなく、今の段階では知らせるなどもってのほかだ。
ウォルフガングの負傷に関しては表向きには訓練中の事故、と言う事になっている。
特に目立つ傷跡を残すことになったウォルフガングの頬には、大袈裟なほど布を当てられている。
とっくに出血は収まっているので出仕に問題はないのだが、シグルドからは当面の静養を命じられてしまった。
頬以外にも背中も数カ所を切り裂かれており、どちらも傷は浅い。日々の鍛錬で生傷の絶えないウォルフガングにとっては、かすり傷同然と言っていい。フレイア姫の身代わりに受けた頬の傷は出血は多く場所的に見た目も派手になったが、傷自体は大袈裟なものでは無いと感じていた。
戦いで昏倒したのは無意識にデビルに放った闘気の影響である。
闘気とは、竜騎士や聖騎士には使えない「騎士」のみに発動する精神力に依存する技で、デビルに対して有効な攻撃方法を持たない騎士にとっての唯一無二の技になる。しかし、闘気の発動は偶発的な事が多く、意図的に使えないのが難点とされていた。
成功するしないに関わらず、代償としてその場で気を失うほどの消耗を強いられるので場面によっては無防備になってしまう諸刃の剣。それでも、ウォルフガングはフレイア姫を守りたい一心で放った斬撃に闘気が乗り、奇跡的にデビルを霧散させる事に成功した。
意識が回復した翌日にはすぐに職務に戻ろうとしたが、油断はならん、不浄なデビルから受けた傷は後に響くかも知れないとシグルドに言われ休息を命じられていた。心配した神聖魔術師の妻はたびたび傷に手を当てて何か祈りの言葉を唱えていた。
いくら治療魔法を得意とする神聖魔術師とは言え、実戦はもちろんの事、戦闘での負傷者を直接治療することすら初体験であり、緊張している様子を見せていた。
セレーネは治癒魔法の施術をこまめに行っている。
「いけません。ほら、熱を持ってますから」
身体を起こそうと試みたが、セレーネにそっと戻されてしまう。
確かに傷は熱く疼くが、痛みはそれほどに感じなかった。これくらいなら、シグルドとの訓練で木剣で打ち据えられた時の方がよほど堪える。
「心配をかけてすまなかった。だが、大したことでは…」
ウォルフガングが言い終わらぬうちに妻は指で唇を押さえてみせた。断固として夫の訴えを聞き入れるつもりはないらしい。
目覚めた時、最初に視界に飛び込んできたセレーネの血の気が引いた青ざめた顔を思い出される。態度と言葉こそいつものように丁寧で穏やかな振る舞いであるが、心なしか瞳の奥が笑ってない‥‥不穏な気配を感じた。
「ウォルフ様、シグルド様はなんとおっしゃられましたか?」
「休養せよと‥‥す、すまない‥‥」
騎士は、即答で降参した。やはり目が笑ってない。圧すら感じる。
魔術師の能力か何かなんだろうか。
屈するしか方法はないと妻帯者の本能が警告している。
「私は‥‥姫様に取り返しがつかない失態を犯してしまったよ」
困ったウォルフガングはあからさまに話題を変えた。
しかし、セレーネは微笑むだけで追求しなかった。見逃された。
「でも、フレイア様を無傷で守られたじゃないですか」
デビルの事件はフレイアに傷ひとつ無かったことは不幸中の幸いだった。しかし、それも元はと言えば、迂闊に姫を館の外に連れ出してしまった己の不明である。デビルのことは想定外とは言え、自分が姫を巻き込んでしまった。
フレイアは大切な主君の娘で、騎士にとっては仕えるべきルシア家の姫君。思い出すだけでも肝を冷やすとはこの事だ。まだ2歳ならば、あの恐ろしい経験は残らずに済むのだろうか。
「私が見てる限りは、姫様はあなたの事が大好きみたいですよ」
責任感と罪悪感に苛まれる夫に、慰めの言葉は効果がなかった。予想すら出来ない事だったとはいえ、それを仕方のない事だと割り切れないのがウォルフガングだ。
「そうだろうか‥‥今回の事で怖い思いをさせてしまったかもしれない」
主家の姫君を命の危険に晒したことや、妻に心配をかけてしまったことを改めて認識して、傷の疼き以上に心が痛む気がしてそのままベッドに身を沈めてしまった。
まるで叱られた犬のように。みるみる落胆する夫の姿にセレーネは思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、手慣れた様子で薬草の調合の準備をしている。
ウォルフガングの様子は、不思議と焦る気持ちを幾分か落ち着かせる効果があった。
普段は人前で武人然とした姿を見せるウォルフガングだが、妻の前では少年のように頼りなさげな様子すら見せている。領民に慕われる騎士とは別の顔。それがセレーネを奮起させていた。
誰かに求められる、必要とされる嬉しさにじんわりと湧き上がる高揚感を感じる。
「今日はカリスト村に呼ばれているので、あなたがお休みになられたら出かけてきますね。子供の咳が止まらないらしいの、いくつかお薬を調合しなければいけないし、もしかすると咳だけではないかも知れないし」
「‥‥そうか、カリストは近いが‥‥気をつけてな」
ウォルフガングが労いの言葉をかける。
何気ない日常。結婚生活を始めて一年ほど。セレーネにとって穏やかで幸せな毎日を営む日々だった。デビルの事件は驚いたけれども、それでも今のこの日常は幸せと表現するには言い尽くせない経験になっていた。
「あなたこそ、お休みになってくださいね」
セレーネは笑顔で応えて見せた。
「ああ‥‥うん」
すっかり気落ちしてるウォルフガングはベッドの中から唸っている。
生来の病弱な身体で、人並みに婚姻を結ぶ事は困難だと言われてきた。
まずそこまで長くは生きられないと、生まれた時から言われ続けていた。
こうして結婚生活を送ること自体がお伽話のような夢物語であり、奇跡と言える。婚姻の報告をしたときの両親が泣き崩れる姿は長年の労苦を思わせた。
ウォルフガングとの出会いは、セレーネにとって目が覚めるほどの新鮮さだった。
美しく整えられた淡い栗色の髪、儚い印象が強い透き通るような白い肌。
本来、彼女の器量なら。
辺境の田舎であっても結婚相手には困らなかったはずだ。前領主の家令まで勤め上げた父親を持つ、淑やかなセレーネを好ましく思う男は近隣にいくらでも居ただろう。
しかし、彼女は生まれつき致命的なまでに病弱な体質だった。何人もの妻をもてるような余程の富豪や貴族ならまだしも、一般的な平民にはそのような女を妻に迎え入れる余裕はない。
滅多に外出もできない自宅に引きこもりがちなセレーネには、年頃の女性に相応しい出会いは訪れる機会すらなかった。それを理解している両親も、彼女を守るように手厚く接していたのでセレーネ自身はその事を孤独に感じた事はなかった。
そんな彼女だから。
それまで騎士はおろか、武器を握るような相手とはほとんど言葉を交わす機会すら無かった。
戦いに無縁の平穏で安全で何も起きない生活。
騎士と関わるなど想像ですら考えた事もない。全くの別世界の人間だった。
エルバの天使祭への巡礼は長年の夢だったが、病弱な身体での巡礼の旅に両親は難色を示していた。
しかし、一転して巡礼にはレーヴァの領主様に付き添いを頼んだから必ず寄っていくようにと言われて許可が出た。
領主様からも是非にと言われる御仁を付けてくれるからと、その方が一緒ならば巡礼の旅も安心だからと言い含められていた。
そんな立派な方が何故わざわざ天使祭の付き添いに?
そもそも付き添いが必要なほど、今は体調が悪くないし、『9大王国中最も天使様の加護を受けし国』と謳われるこのアリア聖王国は治安も問題はない。
ある程度の年齢なら子供だけでも旅ができるような牧歌的な国だ。
‥‥と不思議だったけども、そんなセレーネに父は事情を説明した。
「お前は本当に聡いな。実はシグルド様からお前に似合いだからどうかと薦められておる方がいてな、23歳の騎士だ。シグルド様に領主が成られた頃から長くお仕えしている身許も確かな信頼できる御仁だよ。その方には黙っているそうだ。お前が気にいるかどうかもわからないから、と」
「‥‥騎士の‥‥方なのですか」
「そうだよ、もしその気になれば頼って欲しいとシグルド様から申し込まれておる。会うだけ会ってごらん。ダメなようなら、巡礼が終わればそのまま別れたら良いのだから。もしも気に入れば‥‥シグルド様にそう伝えるんだよ」
そうしなければ天使祭への巡礼を許してもらえないのだから、付き添いを受けるしか他に選択肢はない。だが、セレーネにとって騎士や兵士と言う類の武器を持つ人種は縁がなく、少し怖いイメージがあったので、紹介そのものはあまり乗り気ではなかった。
しかし、年頃の娘に対する父親の気持ちを慮ると、無碍にもできない申し出だった。厳格なまでに過保護で、娘のことには誰よりも心配性の父がこんなに乗り気になっている様子も初めてのこと。
セレーネとしては珍しく、一体どんな相手なのかと好奇心も湧いていた。
「紹介しよう。ウォルフガング・ルーベンドルフだ。騎士として必要な事全ては心得ている。エルバまでは送らせる事にしたので安心して旅をお続けになるといい」
シグルドの執務室で紹介された瞬間から不思議な魅力があった。
ウォルフガングはアリアでは珍しいタイプで、漆黒の髪と赤褐色の浅黒い肌、狼のように鋭い眼光は一見して騎士というよりは遠い砂漠の異国の物語に出てくる無頼漢の傭兵のような野性味さえある。
まさに「黒狼」と言う二つ名が似合う精悍な風貌であった。
「セレーネ・レグランスと申します。このたびは私の為にご迷惑をおかけしますが、どうかよろしくお願いします」
「‥‥いえ」
しかし、見た目の印象に反して礼儀正しく粗暴なこともなく、まったく騎士らしいごく普通の‥‥照れ屋の青年だった。
何よりその純朴そうな目に惹かれた。一見怖いように見えた鋭い目つきも最初だけで、よく見れば穏やかで柔らかい光を秘めている。
逞しく頑固そうな強面だが、目だけを見れば‥‥とても戦いの中に身を置く人には思えない。
それが後に夫となるウォルフガングの第一印象だった。寡黙で不器用な彼は女性の扱いに長けた人では無かったが、旅の中で接していくうちに穏やかで誠実な人柄に惹かれていた。
エルバで人混みの中で倒れそうになった時に、咄嗟に抱きすくめられた瞬間に、彼に旅の間ずっと注意深く見守られていた事に気がついた。
そこからの告白を受けた流れはシグルドですら予想外の出来事で、当のセレーネも記憶が曖昧になっている。まさか天使祭の巡礼が結婚生活の始まりになるとは。
これも天使様の導きだったのだろうかと思い返すと、日々の感謝の祈りを捧げずにはいられない。
セレーネの煎じ薬は薬草の知識が豊富な母譲り。レーヴァに移り住んでからも体調が良い日には野山で薬効のある植物を集めては備蓄していた。
時には怪我や病に悩むレーヴァの人々にも処方していたので、セレーネはちょっとした医者の代わりになっていた。
「セレーネ‥‥」
不意に名前を呼ばれてドキッとする。未だに胸の高鳴りすら感じていた。
ウォルフガングとはそろそろ新婚と呼べる間柄ではないと言うのに。
「今お持ちします、これを飲まれたら出来るだけお休みになられてください」
程よく煮出した薬湯を木のカップに移して運ぶと、夫はベッドの中で上半身を起こしていた。真っ直ぐに見つめる澄んだ眼差しは出会った頃と何も変わらない。
「解熱のお薬です。少々苦いですけど、全部飲み干してくださいませ」
「ああ、世話を‥‥かける」
ウォルフガングは申し訳なさそうに目を伏せた。
朴訥な夫はあまり感情や気持ちを言葉にするのが得意ではなかった。何より口数が少なく、心の内を言葉にして紡ぎ出すことに苦労する人だった。
しかし、今ではすべてを語らなくても手にとるように夫の心持ちがわかる。
だからこそ、一年前のあの時。
夫からの辿々しい告白がどれほどの困難さを伴ったのか、今更ながら実感する。それを戸惑いながらも自然と受け入れてしまったセレーネ自身も、実のところすっかりのぼせてしまっていたのかも知れない。
むしろ、あの時よりも今の方が‥‥と、恥ずかしさにうつむき加減になる。
「本当に、苦いよ」
ウォルフガングは子供のように渋い顔をしていた。飲み干したカップを受け取ろうとセレーネが手を伸ばした瞬間、夫がその手をそっと握りしめてきた。
たったそれだけで。
セレーネは自分の顔が完全に赤くなってる事を自覚した。
「心配かけて悪かった」
妻の手を握り、ウォルフガングは素直に謝った。
フレイア姫を守る為に負ってしまった些細な怪我ではあったが、妻の悲しげな顔を見ているうちに自分の身体が自分一人のものでは無い事を実感していた。
縁者の居ないこの地で彼女を守り、支えていくのは自分しかいないのだから。
「ウォルフ様‥‥」
ふと妻の顔を見ると火照ったように紅潮している。
握ってみた手も心なしか熱く感じる。看病と心労に疲れさせてしまったのだろうか、もしかすると熱でもあるのかもしれない。
「顔が赤い、大丈夫か?」
「いえ、大丈夫です!」
彼女の額に手を伸ばしかけた瞬間、セレーネは受け取ったカップを持って慌てて炊事場に消えてしまった。
しまった、何か機嫌を損ねるまずいことでもしたのかもしれない。
結局、謝罪は受けてもらえたのか、許してもらえたのだろうか。
いや、これほど迷惑かけているのだ、そう簡単には許されまい。その証拠に逃げ出してしまった。しかし、これ以上どうすれば良いのかまるでわからない。
回復したら‥‥お館様か奥方様に相談しよう。
「私は、何をやってるんだ‥‥」
己の情けなさに深いため息が漏れる。
セレーネはとても察しが良く、言葉で伝える前にこちらの意をよく汲んでくれる。しかし、こちらから彼女の気持ちを捉えるのは、まるで蝶を追いかけるように不確かで難しかった。いや、他人の気持ちを読み取ることそのものが、元からあまり得意では無いのは自分でもよくわかっている。
その中でも彼女の気持ちを理解するのは特に難解だった。
彼女に比べれば、物言わぬ愛馬の気持ちの方が余程わかりやすい。
しかし、そんな彼女と一緒に過ごしているだけで、心が穏やかに優しくなるのを感じる。日々、剣の道に身を置いて己を律して厳しく鍛えていく中で、味わった事のない安らぎを彼女と出会ってから知ってしまった。
あのエルバの天使祭の旅で過ごした数日間で人生が変わったのだ。
騎士の誓いを立てたあの日から、我が剣と命はシグルド様に捧げている。
だが、心はすっかりセレーネに、彼女に奪われてしまったのだ。
彼女を知らなかった頃には‥‥もう、戻れない。
そして結婚した今では到底、彼女無しの生活など考えられない。
しかし、セレーネはそれで果たして幸せなんだろうか。
ただの一介の騎士の自分との生活に。自分の欲ばかりを押し付けているに過ぎないし、自分の身勝手に付き合わせてしまってるのかも知れない。
時々、ふとそう思う。
妻のことは愛しているが理解が及ばない。彼女に直接訊ねてみようと考えたこともあったが、何度試そうとしても言葉がうまく出てこないまま今に至っている。
それが男としてどうしようもなく、自分がもどかしくなり情けない。
「せめて、彼女の負担にならないように‥‥しないと」
考えてもわからないことを悶々と考えているうちに、一抹の不安感を抱えながらウォルフガングの意識は朦朧とし始めていく。
薬湯の効能なのか、身体の奥から暖かくなり始めるのを感じながら、ウォルフガングは再びベッドに横たわると眠りに落ちていった。
気がつくと、深淵のような真っ暗闇にいた。
その中に浮かぶように、あの目が見えた。
デビルだ。生きているうちにこの目で目撃するなど想像もした事すらなかった。
この世界の不浄な存在。生身の人間には傷一つすら与えられない。
人を堕落させる、決してわかり合うことも許し合うことも出来ない、竜や神とも相容れない明確な人類の敵。
そんな恐怖の存在と、まさか自分が戦う事になるとは。
深淵から覗き込むような眼差しだった。
今度はとても戦えない‥‥と感じた。
身体の一部と言っても良い自分の剣もない。
この身に代えてでも守るべきフレイア姫も今は胸に抱いてない。
騎士と言う鎧を剥ぎ取られて、丸裸にされたような気持ちで我が身を顧みれば。
残るのは、ただ恐怖心のみ。
恐れるあまり、冷たい手で心臓を直接掴まれたかのようにすくんでいた。
いや、違う。
目の前にいる人類の敵、絶対悪であるデビル。それを前にして恐怖に硬直して何も出来なくなり、ただ怯えているだけの惨めな存在。そうになり果て何もできない己が、なにより恐ろしい。
騎士として日々の鍛錬が、研鑽が何一つ役に立たない。それを見せつけられていた。
そしてデビルの目が、嘲笑うようにニタリと笑った。
「‥‥!」
いつの間にかデビルの手の中にセレーネがいた。
細く白い首筋にあの鋭い爪をチラつかせている。
「ぐわああああああ!」
その瞬間、ウォルフガングは恐怖も躊躇いも一切が消え去り、何も考えずに本能のまま獣のように咆哮をあげて素手でデビルに飛びかかっていた。
「セレーネ!」
寄り添うようにセレーネは隣でうとうとと寝ていたが、ウォルフガングのうわごとに目を覚ました。夫がうなされてると感じて様子を見ながら添い寝をしているうちにいつの間にか眠ってしまったようだ。
普段から眠りの浅いセレーネは、わずかな物音でも覚醒してしまう。
「‥‥ウォルフ様?」
夫は目を開けている。しかし、様子がおかしい。
「い‥‥いや、不吉な夢を見たんだ‥‥何でもない」
受け答えは普通に話すが、呼吸が荒く額に脂汗を滲ませて、緊張で全身の筋肉が硬直している。
目の焦点が合っていない。
そして、レーヴァの黒狼は微かに震えていた。
いや、怯えている。
セレーネはその様子を見て自分でもわからないまま、本能的に夫の頭を抱えるように胸に抱き寄せた。
このようなウォルフガングを見るのは初めてである。
「デビルに、お前を奪われる‥‥夢だったんだ‥‥とても恐ろしかった」
虚ろな表情のまま、ひどく脅えたように肩を震わせるウォルフガング。
まだ寝ぼけているのか、夢と現実の狭間に彷徨っているのか、普段の姿からは想像もつかない憔悴した姿だった。
「セレーネ、どこにも行かないでくれ‥‥」
突然、ウォルフガングは華奢な妻にすがりつくように懇願した。
悪夢を恐れる幼な子か、まるで神に赦しを請う罪人のように。
「お願いだ‥‥置いて行かないでくれ‥‥」
掠れた声で嗚咽を漏らした。すがりつく手は小刻みな震えが止まらない。
夫の心はまだ悪夢の中にいるのかも知れない。
頬の傷は癒えても、デビルの与えた見えない傷に苦しめられていた。
デビルと直接対峙するなど、神聖魔術師のセレーネにはいかほどの恐怖なのか想像すらつかない。
「夢‥‥ただの夢です、ウォルフ様」
酷く怯えて、混乱して恐れ慄く夫を抱え、その身体を優しく撫でるセレーネ。
「‥‥‥‥」
ようやく緊張感がほぐれてきた頃、いつのまにか寝息が聞こえてきた。
それでもセレーネはずっと愛おしそうに、その騎士の厚く大きな背中をさすり続けていた。
もう、震えは消えている。
「私は‥‥どこにも行きません、どこにも‥‥」
ウォルフガングの浅い寝息を聞きながらセレーネは静かに呟く。
しかし、その瞳は哀切の揺らぎを秘めていた。
「おはようございます、よく眠れましたか?」
気がつけば、あれから1週間も寝込んでしまっていた。傷の手当てはまだしばらく必要だが、起き上がって動くことにはもう差し障りはない。
「これしきの傷で、皆に迷惑を‥‥」
頬の傷跡は治癒魔法でも綺麗には塞がらず、デビルの爪痕を深く残したままになった。一生消えないような目立つ傷になったが、騎士にとっては戦歴のようなもので残ったところで特に困るわけでもない。
出血も腫れも落ち着いたので、医者からもひとまず安心と言うお墨付きをもらえた。
「今日は顔色が良くなってますよ、ウォルフ様」
「‥‥そなたには、世話をかけた」
出仕も鍛錬も怠ってしまった事、病弱な妻に看護させ続けてしまった事、どうにも申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。挽回せねばなるまい。
お館様にも、フレイア様にも‥‥セレーネにも。
「すまなかった‥‥いや、ありがとう‥‥」
ウォルフガングはもごもごと口籠もりながら、礼を述べた。
ベッドの上には洗濯を済ませた木綿の服がそばに置いてあった。
セレーネがにこやかに朝の支度をしている。質素ながらも温かい食卓が並ぶ。
焼きたてのパン、干した葡萄や杏、温めた肉と野菜のスープ、お湯で薄めて割ったワイン。
「さぁ、着替えたら暖かいうちに召し上がってください」
2人で食卓に着いて、天使様への日々の感謝の祈りを捧げると食事を始める。
鼻腔をくすぐる良い香りに、ウォルフガングの食欲が刺激されていた。パンやスープをかきこむように黙々と食べ始める。まるで飢えた狼のようだ。
「昨夜は悪い夢は見なかったようね」
「あ‥‥ああ‥‥」
ここ何日か夜中に寝ぼけては妻に迷惑をかけていたようだ。怪我の後遺症でしょうと言われたが、まったく記憶にない。何か嫌な夢を見ていた気はするが‥‥。
「その様子ならもうお薬は必要なさそうね」
いつもの微笑みを見せるセレーネは明らかに疲れを見せていた。看病続きな上に、何度断ろうと治癒魔法での治療を続けようとするのも原因かもしれない。
身体の弱い彼女に、本当に苦労をかけてしまった。
「‥‥そう言えば、カリスト村の子供は良くなったのか?」
何となく気になっていた事を尋ねてみた。
「ええ、元々呼吸が生まれつき弱いようでした。薬草の入ったお湯の蒸気を吸わせるようにして頂いたら、随分と咳は軽くなったようです」
薬草はこの辺りでも手に入れやすいものだから普段から集めて置くように説明してきました、と話すセレーネは堂々としている。
きっと近隣では皆に頼られているのだろう。
「そうか、よかった。それにしても大したものだな‥‥私ではそういった事に対処ができない。いつも怪我で世話になるのは魔法治療や医師だから、尊敬するよ」
「いいえ、私なんて真似事のようなものですから」
セレーネは朗らかに応える。少し照れてる素振りが可愛い。
スープをぐいっと飲み干して、今日から出仕しようと思う、と告げる。
セレーネは微笑みで返した。久しぶりに味わう妻との朝食のような気がした。
いつもの丘を上がる道、朝靄と朝露に光る道草。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みながら、病み上がりの足取りで領主館を目指した。
慣れ親しんだはずの腰の剣すら重さを感じる。短い期間に随分と身体が鈍ったのかもしれない。今更ながら、想像以上に消耗したと感じた。
また初心に返り鍛錬に励まねば、とウォルフガングは気を引き締める。
「ウォルフ!」
朝の鍛錬と朝食を終えたシグルドがめざとく見つけて声をかけてきた。
「おはようございます、お館様」
満面の笑顔を向けながら応えるシグルド。
「もういいのか? 無理はならんぞ」
「はい、これ以上寝ていては鈍ってしまいます」
シグルドが満足気にうなづく。
「皆も喜ぶ。お前が居ないと館の者たちが心なしか落ち着かないと言うか、気を遣わせると言うか‥‥引き締まらぬ。細かいことは領主である私が直接指示するより、ウォルフが伝えてくれた方が何かと都合が良いようだ」
これで領主などと言うのはなかなか不自由でな、と頭を掻いてみせる。
「それは‥‥お館様が、迫力があり過ぎて‥‥御立派が過ぎるのです」
珍しい物言いに面を食らったように驚くシグルド。
確かに年々歳を経るごとに身幅も増えて体格がどっしりしていくシグルドは、食欲旺盛な上に日々の鍛練もあって逞しい領主らしく威風堂々としてきている。
それは、長年の使用人でも萎縮させてしまうほどに。
主君にウォルフガングが笑ってみせた。
「はっ、皮肉か! ええい言うたな、こいつ、この無礼者め!」
熊のように野太い腕をウォルフガングの首に回してその頭を乱暴にくしゃくしゃかき回す。男たちの遠慮のない太い笑い声が領主館に響く。
そしてレーヴァの1日が始まった。
【END】
※ウォルフ24歳 セレーネ17歳 フレイア1歳 シグルド29歳