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狼からの手紙

挿絵(By みてみん)

 自分の名前がうまく書けない。

 読み書きが得意ではないウォルフガングは苦労していた。

 読むことはほぼ問題が無いが、筆記は未だに苦手意識がつきまとう。

 借りてきた練習用の石板に書く線は、コツコツと音を立てながらゆっくりと辿々しく形を紡ごうとしている。自分で思ったようには形にならず、それでも注意深く読み解けば書かれている線がおそらく文字であろうと判別できる程度だった。

 今までの人生においても、ウォルフガングは決して器用な男ではなかった。

 そして得意でない事に対して、さほど気にかけるほど神経質でもなかった。

「‥‥ダメだ」

 深いため息が漏れた。

 剣術の訓練ばかりしている田舎暮らしの辺境の騎士にとって、筆記が苦手だと言うのは瑣末な問題。

 普段ならさほど気にならないのだが‥‥それが婚姻の署名となれば話は別である。

 1ヶ月後の結婚式までに妻となる女性の名と連名でレーヴァ神殿に提出せねばならない。それがどうしても気になって仕方がない。

 騎士道と剣の修行以外に脇目も振らず生きてきた寡黙な青年は、よもや己が誰かと婚姻を結ぶなどとは思いもしなかった。まるで降って湧いたような彼女との出会い。

 だが、伴侶と見初めて結婚を申し込んだのは紛れもなく、ウォルフガング自身だった。

 だからこそ。

 何とかもう少しだけでも見栄え良く、上手く書けるようになりたかった。

 新妻の前で格好を付けたかった、と言うのが男の幼稚な本音である。


 「レーヴァの黒狼」こと、23歳の青年騎士ウォルフガング・ルーベンドルフが読み書きを本格的に習ったのは、騎士見習いとしてレーヴァ領主にして竜騎士シグルドの元にやってきてからだった。

 辺境地方の農民出の母親は読み書きがほとんど出来なかったし、流浪の傭兵上がりだった父親は必要最低限には読めたが書くのは苦手だった。それほど勉学に意欲的でもなかったウォルフガングが、読み書きを苦手としたのも無理もなかった。平民の子としてはありがちな話である。

 特にアリア王国では“未来の女王”として天使様に選ばれるかもしれない将来を嘱望される女子と違い、男子は教育面においては特に軽視されがちである。それでも、女児の誕生を望むアリアの家庭にあって、かつて流れ者の戦士だったウォルフガングの父親は、アリア生まれではない事もあり息子の誕生をとても喜んだ。

 黒髪に赤銅色の浅黒い肌とアリア王国においては異国風の風貌と頑健な体質は父親譲り、深緑色の瞳と穏やかな性格は母親譲りの、病気らしい病気をしない元気な少年に育った。父親のような果敢な戦士に憧れる、身体を動かすのが好きな少年ではあったが、机に向かう作業はまるで才能に欠けていた。

 そんなウォルフガングの読み書きの教師にもなってくれたのが、剣の師でもあるシグルドである。剣の修行以外でもウォルフガングは粘り強い真面目な弟子であったが、学問に関してはさほど優秀とは言えなかった。

 まともに読み書きを習得するのには時間がかかった。

 騎士に叙勲された13歳になる頃には、文字や文章もおおよそ読むことに関しては問題なく習得できたが、書くことに関しては上達が遅く、かろうじて他人が読めるだろうと言える程度で、お世辞にも達筆とは言いがたい代物であった。

 興味が強かった歴史関係の本以外は目的が無ければ手に取ることもない。

 シグルドは騎士に必要な教養に関しては、本人が特に望まなければ最低限が出来ていればそれ以上は求めない方針だった。

 だから、ウォルフガングの読書も悪筆も特に何も言わなかった。

 性分に合わないことを無理やりやらせても上手くいかないものだから、と。

 何よりシグルド自身が剣術の鍛錬以外に興味が薄かった。


 セレーネ・レグランスは、父親が先代レーヴァ領主に家令として仕えていただけあって、田舎暮らしでありながら教育はしっかり受けていた。天使への信仰の篤い敬虔なアリア国では巫女たる女王が国を治める伝統もあり、女児を授かった親は未来の女王候補の望みを託して教育を施す者も多い。

 しかし、生まれつき身体が弱く長くは生きられないと言われ続けていたセレーネは信仰の世界で神聖魔術師の道を歩んでいたものの、細く儚い生命の糸を繋ぎとめるので精一杯で、家から出ることも叶わずほとんど外の世界を知らずに生きてきた。

 年頃の娘だと言うのに、将来を誓い合うような男性と巡り会う機会も、そう言った話題に触れる事がなかったのも、生来の病弱さからだった。

 子供を産むことが難しいような健康面に問題を抱えている女性は、どんな身分に生まれようと、婚姻が難しい。

 それは女性優位の文化があるアリアにおいてすら常識である。

 まして成人することすら危ぶまれていた病弱なセレーネに、その機会が訪れると想像すらしていなかった。

 そんな彼女にとって、信仰以外の数少ない楽しみは読書だった。

 本の中の物語なら、空想の世界ならば、セレーネは限りなく自由になれた。健康状態も、身分も、何一つ自身を煩わせることもない。

 しかし、現実ではそのようには生きられない。

 セレーネにできる唯一の方法、それはありのまま自分を受け入れることだった。

 それは、何もできない自分を認める現実。

 平和の中で祈りと優しい両親と共に、穏やかに過ごす日々。それが彼女の当たり前の日常だった。

 しかし、そんな彼女を見染めたのは、無骨で無粋な剣に生きる騎士。まるで違う世界に生きている男が、あっと言う間に彼女の心を奪い去ってしまう。

 その日から、セレーネの静かで平穏で、平坦な人生は一変してしまった。


 ウォルフガングとセレーネ、2人が出会った夏のエルバの天使祭への巡礼の旅。

 神聖魔術師ならば、一生に一度は行ってみたいと願う天使祭。

 憧れの巡礼だったが、今まで病に伏せがちなセレーネにとって家から出かけることもままならないのに、巡礼の旅に出るなど夢のまた夢‥‥。

 だが、今年の天使祭に限っては、その日が近づくにつれ奇跡的に体調がすこぶる良い日が続いていた。‥‥が、当然ながら相談した両親からは猛反対を受けた。

 しかし、ある日を境に父親の態度が変わった。

 旅の付き添いを受け入れる条件付きで、許してくれたのだ。

 いつまでたっても浮いた話が出てこない不甲斐ないウォルフガングに痺れを切らした領主シグルドが白羽の矢を立てたのが、先代領主に仕えていた男の娘セレーネだった。シグルドの画策により、セレーネもかねがね憧れていた天使祭への巡礼を餌にされ、護衛の任をつけられたウォルフガングと出会うことになった。

 つまり、これは見合い話の顔合わせ。

 事前に聞かされていた人物像から、『レーヴァの黒狼』などと厳つい異名を持つウォルフガングはどれほど恐ろしい無頼漢かと思っていたが‥‥会ってみれば、少々ぶっきらぼうだけど一本気で照れ屋なだけの青年だった。

 セレーネは父親から言い含められていたが、ウォルフガングはまったく知らずに引き合わされている。あくまでもセレーネに選択権があり、セレーネが気に入ればシグルドが更に話を進めよう‥‥と言う手筈であったのに。


 あれほど奥手であったウォルフガングが、数日間の巡礼の旅で初対面であった彼女の心を自分で射止めて、一方的に婚約まで取り付ける押しの強さを見せたのだから、あれでなかなか朴念仁だと侮れないものだ‥‥とは、シグルドの弁である。

 いや、女心など何一つわからない男だからこそ、成し得たのかも知れない。

 理屈ではなく、狼が本能でつがいを見つけ出したように。

 互いを良く知る機会も持つ間も無く、一足飛びにウォルフガングは結婚を申し込んだ。一目惚れだったようだが、本人も自覚できていない。

 庶民出のウォルフガングは、伴侶が病弱である事など歯牙にもかけない男だった。騎士とは言え、継ぐべき家名があるわけでも跡継ぎが必要と言うわけでもない。仕える主君を持つとは言え、身分に縛られない自由な黒狼。

 セレーネと出逢わなければ、狼は一生縛られなかったのかも知れない。


あれから2ヶ月が経過していた。

 来月にはレーヴァ神殿でささやかながらも結婚式を執り行うことになっている。

 主君シグルドの計らいだ。

 ウォルフガングの結婚はあっという間に街の住人の知るところになっている。

 それほど人の移動がない辺境の田舎街にとっては滅多にない祝い事だ。

 街を護る顔馴染みの騎士に嫁いでくる花嫁が、シグルドの父に仕えてレーヴァを離れたかつての執事の娘とあれば、故郷に里帰りに戻ってきた娘を迎えるような歓迎ムードになっている。レーヴァはその噂でもちきりである。


 ウォルフガングは、レーヴァ神殿から借りた子供向けの書き取り練習用の石板に蝋石で、日々名前を書く練習をしていた。

 己の長い名前が今さらながら恨めしい‥‥。

 そう危機感を抱くほどセレーネの文字は美しかった。

 いたって無粋なウォルフガングには、文字の良し悪しなど判るべくもないが、それでも思わず見惚れてしまえるほど、女らしくたおやかで繊細な書体。

 可憐な彼女自身を表しているような文字である。

 妻になるセレーネに恥をかかせるわけにもいかない。

 彼女はウォルフガングの為にお手本になる字を羊皮紙に書いておいてくれた。

 しかし、慎重に書こうとすればするほど、緊張で手が震えてウォルフガングの文字は荒々しく太くなる。決して読めない字ではないが、人間の書いた文字と言うよりは狼が地面を掘ってできた爪跡のようである。

 雑で無骨さしか伝わってこない酷い文字だ。

 そうして、セレーネのお手本を見るたびに己の書く文字に失望する。

 しかし、騎士は諦めなかった。まだ婚姻には1ヶ月ある。

 意地と諦めの悪さを発揮して特訓を始めた。

「大丈夫ですよ、司祭様くらいしか署名を確認されませんし、代筆でも構わないのです。ウォルフ様は書けるのですから、そこまで気になさらなくても‥‥」

 セレーネを実家に送り届けた際に、彼女は微笑んでそう言ってくれたが、そうはいかないとウォルフガングは足掻いていた。

 当然、代筆などもってのほかである。

 頑固者の騎士は奇妙なこだわりを持ち始めた。


 そんな日々の中、シグルドが提案してきた。

「ウォルフ、ただ名前を書くばかりの反復練習ではつまらないだろう。せっかくだからセレーネ殿に手紙を書いてはどうだ。愛の言葉を伝えるのは昔から手紙が1番だと決まっている。私だってクレアにどれほど愛の言葉を送り続けたことか」

「あ、あ、愛‥‥」

 ウォルフガングは耳まで真っ赤に染めた。

 シグルドは顎髭を扱きながら、楽しそうににやけている。

「お前なぁ‥‥よくそれでセレーネ殿を口説くことができたな‥‥」

 呆れたようにシグルドは騎士の背中を大きな手でどんと叩く。

 どっしりとした巨漢のシグルドの、並の者なら息が詰まるような熊の一撃だ。

 もちろんシグルドは軽く叩いたつもりだし、鍛え込んでいるウォルフガングはそれで揺らぐ体幹ではない。

 しかし、今のウォルフガングは動揺していたので咳込んだ。

「は‥‥はい」

「いいか、手紙の形式を教えてやるから言われたように書いてみろ。文面は自分で考えろよ、まずは今の季節を表す挨拶文からだ‥‥なんでも良いわけではない、女の喜びそうな物を想像してみろ」

「‥‥‥‥」

 一通り指示された形式に則り、想像できる限界を超えて、苦悶の末に捻り出して書いた手紙は、シグルドを大いに喜ばせた。

「お前と言うやつは‥‥本当に困ったやつだ!」


 数日後、セレーネの元に手紙が届いた。

 どうやって書けばこうなるのか、狼の引っ掻き傷のような野太く荒々しい文字。

 見間違えようのない、婚約者であるウォルフガングだ。

 剣の鍛練で鍛え抜いた騎士の、力のこもった筆圧が伝わってくる。

 きっと‥‥この手紙を書くために使ったペンは、二度と使い物にならなくなったのだろう、と推察された。まさかペンに同情を寄せる日が来ようとは。

 準備の為に実家に戻る際に、婚姻の日までしばらくあるからそれまでに一通でも良いので手紙が欲しいとウォルフガングにねだった時、騎士はバツの悪そうな困り果てた顔をして、筆記が苦手なことを打ち明けた上で手紙を書いた経験が無いから‥‥と四苦八苦しながら断っていたのに。

 突然の便りにどのような急ぎの連絡でもあるのかと少し身構えて手紙を開いた。

『セレーネ・レグランス殿 鮭が美味しい季節になりましたが、いかがお過ごしですか?』

 えっ‥‥‥‥鮭?

『私は元気に過ごしてます。昨日、領主館の牝馬が元気な仔馬を産みました。黒い牡馬です。いずれは美しい青毛になるでしょう。シグルド様が仔馬を私にくださるそうで、世話を任されました。馬の名前をセレーネ殿に決めていただきたいと思ってます』

 う、馬? 馬の‥‥名付け?

『あなたと離れて大変寂しく思います。1日も早くセレーネ殿に逢いたい。ウォルフガング・ルーベンドルフ』

 なんだか‥‥奇妙な文面だった。

 手紙には拍子抜けするほど内容は‥‥特に無かった。

 それに鮭だの、馬だの、結婚間近の婚約者に贈る手紙の内容とは思えない。

 渋っていた手紙を、自分からわざわざ書いて寄越した割にこんな事を伝えたかったのだろうか。

「これは‥‥きっと、そう、シグルド様の指示なんだわ」

 悪戯好きの兄のように接するシグルドにからかわれながら、慣れない手紙に唸りながら悪戦苦闘するウォルフガングの姿を想像してみた。

 奇妙な内容ではあるが、手紙など書いたことがないと言っていた素朴なウォルフガングらしさが滲み出ているのは微笑ましさもある。

『1日も早くセレーネ殿に逢いたい』

 何より最後の一文は、セレーネの心を和ませるのに十分であった。

 平民出身の騎士の中には読み書きが十分で無いものは珍しく無い。ウォルフガングもその1人だ。きっと精一杯の手紙だったのだろう。

 狼からの不器用な手紙を愛おしそうに胸に抱いて、セレーネは手紙の返信の内容を考え始めていた。馬の名前を考えるなんて、なんだかわくわくする。

 ウォルフガングと出逢ってから退屈する事がない気がした。

 彼女の予感はおおよそ、その通りになった。


 ついに、その日がやってきて。

 レーヴァ神殿に署名を提出し、後日結婚式を済ませた。

 2人は晴れて夫婦となれた。レーヴァ神殿でのささやかな式の後、街のみんなに簡単な花嫁のお披露目をして、たくさんの祝福の言葉をもらった。

 花嫁の愛らしさを讃える言葉が、ウォルフガングをくすぐったい気持ちにさせる。自分が誉められるより何倍も嬉しい。

 彼女に相応しい騎士に、男にならねばと決意を新たにした。


 結局、騎士の努力も虚しく‥‥婚姻の署名までにウォルフガングは自らの悪筆をついに改善する事が叶わなかった。剣の鍛練のようにはいかないものである。

「私はウォルフ様の文字が‥‥好きですよ」

 セレーネがくすくす笑うと、ウォルフガングはへの字に口元を歪める。

「わ‥‥笑わない欲しい‥‥」

 ぷいっと視線を逸らした騎士は‥‥ほんの少しだけ、拗ねてしまった。

 どうやら傷つけてしまったようだ。

「セレーネ殿のように上手くは書けないことは‥‥わかっていたんだ‥‥」

 しばらく逢わなかったせいで照れくさいのか、妻となったセレーネに敬称を付けて呼ぶウォルフガング。

 それがセレーネにはなんだかむず痒くて居心地が悪い。

「これからも、字の練習は続ける‥‥」

 今思い出しても署名の字の無様さに恥いるばかりだ、と夫は呻く。

 あれだけ練習したのに、ほとんど変わらなかった‥‥と言うよりも、署名は練習の文字より悲惨になってしまった。

 緊張でペンを持つ手は、生まれたての仔馬が立ち上がろうとする足のようにぷるぷると震えるばかりで、文字の酷さに拍車をかけるだけに終わった。

「まぁ、ウォルフ様ったら。からかっているんじゃありませんよ。私、子供の頃から伏せっている事が多くて、お友達も‥‥手紙をいただくことも差し上げる方も居ないのです。本当に、ウォルフ様からお手紙が届いた時、嬉しかったのです」

「そ、そうなのか」

 照れ臭そうにチラチラと見てくるウォルフガングに、セレーネは微笑んだ。

 夫の心の動きが手にとるようにわかる。

「今度、お手紙に書いてあった仔馬に会わせてくださいな」

 馬の話になった途端、無愛想な男の気難しい顔がパッと明るくなる。

 やはり手紙の話題は相当つらかったようだ。

「ああ、優しくて、大人しい子だ‥‥セレーネ殿も気にいると思う」

「それから、もう私のことはセレーネとお呼びくださいね」

 気になっていたので伝えると、驚いたようにセレーネの顔を見返してきた。

 あっという間に紅潮させながら、ウォルフガングは妻の名を喘ぐように呟いた。

「恥ずかしいんだ‥‥うう、くぅ‥‥わかった‥‥‥‥セ‥‥セ‥‥セレーネ‥‥」

 ウォルフガングは己が羞恥心に果敢に立ち向かっている。

 慣れない感情に真っ赤になりながら、うつむき加減で懸命に訴えた。

「わ、私の事も‥‥ただのウォルフと呼んで、欲しい‥‥」

「それはダメです。私は旦那様にはそう呼ぶのが憧れだったんですもの。まさか本当に結婚ができるなんて思いもよりませんでしたけど‥‥」

 セレーネに笑顔のまま即答で却下されてしまう。検討の余地もないらしい。

「じゃあ、ウォルフ様はやめて旦那様と呼ぶ方がいいですか?」

 さらに落ち着かない呼び方を代案に提示してくる。

「いや‥‥それは‥‥ううむ、だったら、そのままでいい‥‥」

 騎士は無惨にも敗れ去る、これ以上、妻に楯突くのは心臓がもたない。

 結局、妻の要望だけ叶えられ、夫の言い分は通らなかった。

「これからも、末長くよろしくお願い申し上げます。ウォルフ様」

 セレーネが微笑んでみせる。

 それだけで、『レーヴァの黒狼』は何も言えなくなってしまう。

 彼女のその言葉、仕草、微笑み、ウォルフガングは妻が愛おしくて仕方ない。

 初めて引き合わされた、領主館の執務室で初対面のセレーネを一目見た瞬間から。

「あ‥‥ああ‥‥私も、頼む」

 すでにウォルフガングは妻の尻に敷かれ始めている。ついに狼はつがいになり、セレーネと言う名の首輪をしっかりとつけられた。

 何より、そう望んだのは狼自身なのだから。


 署名の出来事が余程悔しかったのか。戒めとしたのか。

 書き取り練習は終生の修行の一環だとして、剣の鍛練同様に晩年まで続けることになる。しかし、その悪筆ぶりは多少の改善は見られたようだが、費やした年数を考えると大して変わらないままだった。

 けれども、机に向かって悪戦苦闘している夫の姿はセレーネにとって好ましく微笑ましい思い出になり、ウォルフガングが個人宛のプライベートな手紙を書いたのは、セレーネに宛てた手紙が最初で最後になった。

 過去の手紙をウォルフガングに見つかると捨てられてしまうと思ったセレーネは、自分の大切にしていた本に挟んで書架の奥に隠していた為に、普段から本を手に取らないウォルフガングにはついに最後まで見つかることはなかった。


【END】


日常系。レーヴァのあるアリア王国は巫女が女王で結婚とかで、若いうちから引退して巫女の素質のある女性を国内から選ばれる方式。血筋は無関係。なので、アリアでは一般的には親は男子より女子が望まれる。 

※ウォルフ23歳 セレーネ16歳 シグルド28歳

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