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邂逅

挿絵(By みてみん)

 その人物は、シグルドが領主に就任するにあたって尽力してくれた男だった。

 シグルドの父、前領主の執事でシグルドの身の回りをよく見てくれた。

 父が逝去した際に引退を決めて、シグルドが領主になる直前にレーヴァから旅立って行った。引き留めためようとしたが、店を持つのが昔からの夢だと言われた。長年よく尽くしてくれた男の望みとあればと、シグルドはそれを快く許した。

 今はレーヴァから離れた村落に妻と幼い一人娘を連れて移り住み仕立て屋を営んでる。

 そうして、レーヴァ領主の地位と引き換えに父の代に仕えていた使用人が次々とシグルドの周りから去っていく中、若い頃に戦士であったと言う男が訪ねてきて息子の剣の師になって欲しいと申し込んできた。

 騎士見習いとして奉公(ほうこう)に出したいと。

 興味本位で受け入れたが、しばらくして本当に9歳だと言う子供が1人で訪ねてきた。

 シグルドにとって初めての自分で得た弟子で、家臣で、新しい家族だった。

 あれから数年、領主館にやって来た騎士見習いの少年は騎士になり、領主館を去り仕立て屋になった男とはたまに寄越してくる手紙のやり取りで近況を知る程度だった。


「そうですか、先方がそう言う事情なら、話を進めてもらっても私は構いません。では、陛下にもよろしくお伝えください」

 シグルドの言葉に聖王都エリシオンからやって来た使者がうやうやしく礼をすると、宮廷風の洗練された動きで執務室を後にした。

「‥‥はぁ、私にはエリシオン勤めは出来んだろうな」

 シグルドはため息をついて肩をすくめた。レーヴァの若き領主は毎日の鍛練で引き締まった身体に、すらりと伸びた高い上背が特徴の好青年に成長していた。

 領主になった頃に比べれば大人びてきている。

「シグルド様、何の使者様だったのですか?」

 領主に付き従うのは騎士になって間もない14歳のウォルフガング。

 アリアには珍しい黒髪と赤褐色の浅黒い肌が特徴的な素朴な少年だった。

「婚姻だよ、嫁取り。次期女王陛下と目されてる方の‥‥遠縁の娘だそうだ。家柄も血筋も申し分ないが、生来身体が弱いらしくてな。たらい回しにされていたのが、ついに辺境のウチにもお鉢が回ってきた、というところだ」

 若き領主シグルドは19歳になったばかり。近在で最も高名な竜騎士が若く未婚ともなれば、当然あれこれと政略が絡む結婚相手の話は次々に舞い込んでくる。

「子が産めないかもしれない女は上流社会に置いては敬遠されるものだ。政治利用も出来ないのなら‥‥娘の親も必死なんだろう。だから、私がもらう事にした。政治で面倒が無い女の方がいい」

 政略が絡むとあちらを立ててればこちらが立たず、うんざりしきっていたところに来た縁談である。逃す手はない。

「私は子供を作る事には執着はしないつもりだ。跡継ぎだって用意周到に作らず運任せにしようと思ってる。我がルシア家が途絶えたら別の竜騎士が派遣されるなり何なりするだろう。血筋なんぞ執着するもんじゃない」

 領主は血筋や家柄では無い。竜騎ドラグーンに認められた者が、その地を治める領主となる。それがこの世の絶対的不文律。竜に認められた者がデビルと戦い、対抗出来る力を持つ。デビルから民を護れるのは天使に仕える神聖魔法操る聖騎士か、デビルを狩る強大な力を持つ竜騎を操る竜騎士のみ。竜騎ドラグーンは大昔に死した竜がデビルと戦う術のない人々に残した巨大な鎧兵だった。竜の残した骨を基礎にして錬金術と鍛治師によって作られた技術の結晶である。

 竜の魂が心核に宿り、竜が認めた者が騎乗すれば巨大な力を持つ鎧武者となる。

 失われた古代の技術で生み出されたドラグーンは、今や新しく作り出すことが出来ない。竜の存在そのものがお伽話(とぎはなし)や神話の存在なのだ。

 しかし、竜騎の核さえ無事ならば整備や修理は可能である。

 領主にとって大切なのは守護竜騎ドラグーンに宿る竜の魂との強い結び付き。

 故に、人々は竜騎士を領主として絶対守護者として疑いもなく敬う。

 竜の定めた騎士道に殉じるのはこの世の全ての騎士の責務でもある。

「結局『レヴィア』が認めればレーヴァを治めるのは誰でも良いんだから」

 領主なんてそんなもんサ、と嘯いてみせる。

 とは言え、ルシア家は代々血を繋いできたレーヴァ領主の名門貴族である。

「奥方様は‥‥どんな方なんでしょうか」

 シグルドはニヤニヤしながら短く蓄え始めた顎髭(あごひげ)を撫でる。

「知らん。だから、どんな女が来るのか楽しみだ、ははは。私はどんな牝馬でも乗りこなして見せるとも。ウォルフ、お前も騎士になったんだ。いずれは身を固められるように嫁を探さねばならんな!」

「わ、私は‥‥」

 シグルドは返答に困っているウォルフガングの短い髪をくしゃっとかき混ぜた。

 真面目な少年をからかうのはシグルドのささやかな娯楽であった。


 シグルドが婚姻の話を進めていた令嬢はクレアと言う。

 エリシオンの貴族の末娘だった。しかし、使者が来てから一向に話が進まないまま1年が過ぎた。それほど気にかけていた訳ではないが、何も進まないとなると引っかかる。

「私は嫁を貰いにエリシオンに行ってくる、留守の間はお前が領主代理だ。心配するな、館の事は何もしなくても良い。いつも通りにやっててくれ」

 急に思い立ったかのように、そう言い残してシグルドは単身王都に向かってしまった。ウォルフガングに出来ることは何もないが、これまで以上にレーヴァや周辺の村の見回りを励むようにした。日常の領地運営は館の使用人らで回している。

 元々領主に代わって、直接住人たちに話を聞いて顔を覚えられるのも、外回りの武官としてのウォルフガングの大事な仕事である。

 若くて懸命なウォルフガングはどこへ行っても評判は良かった。

 当人は必死で役目を果たそうとしているだけだったが、目立つ容姿なだけに領民からの覚えもいい。平穏で長閑(のどか)なレーヴァで、領主がしばらく雲隠れしたところで急に立ち行かなくなるようなことは何も無かった。

 そうしているうちに、数週間が経過してシグルドが1人でひょっこり帰ってきた。


「おかえりなさいませ、シグルド様!」

 主人を待ちかねた少年は飛びつくように喜び勇んで出迎えた。

 戻ってくるなり、若き領主はウォルフガングを見てこう言った。

「クレアは‥‥イイ女だったぞ‥‥」

 ニヤニヤして、様子がおかしい。なんだか‥‥惚けてる。

「会われたのですか?」

 シグルドにとっても華やかな大都会でもある王都エリシオン。以前から機会があれば行ってみたかったが、領主になってからまるでそんな時間が無かった。

 だから、嫁取りを口実半分で行ってみたのだと告白した。

 その上でしばらく呑気に“遊び”回ってから、最後に件の令嬢を訪ねて行ったが‥‥一目惚れしてしまったのだと言う。

 ウォルフガングにはさっぱりわからない。

 しかし、前もって聞いていた通り娘は生まれつき身体が弱く、今まで破談を重ねる原因になったように伏せっている事が増えてしまい、婚約の話にすら進めることも出来ず時間だけが過ぎてしまったらしい。先方の家からは随分と謝罪を受けたそうだが、シグルドはどうでもいいようだった。

 元々どんな娘でも構わなかったと豪語していたが、一目で気に入ったようで数日間は令嬢の家に通い詰め、そのまま親の承諾も取り付けて婚約までしてきた言う。

 しかし、体調が落ち着くまでしばらく待ってほしいと言うのが条件だった。

 それから婚約者の話を延々と聞かされる事になるウォルフガングだが、14歳の少年には色気より食い気、花より団子。女より剣の修行。主君が揚々と語る聖王都や都の女たちの華やかさ、婚約者と交わした甘い言葉や惚気話(のろけばなし)は何一つ理解にも及ばず、ただうなづいているだけであった。


 結局、妻としてクレアを娶る事になったのは更に6年後、シグルドが25歳になるまでかかった。そうそう立場上王都まで訪ねては行けないが、代わりに手紙を送っては気持ちを確かめ合っていた。大柄で雑なように見えてシグルドは存外め筆まめな男である。

 クレアを娶るのはシグルドたっての願いという事で根気よく待つ事になった。

 結婚が正式に決まると、独身男にまつわる面倒事も減る。

 レーヴァに来たばかりのクレアは線の細い(はかな)げな印象の女性だった。

 主君シグルドの奥方様なのだから、よくよく尽くさねばとウォルフガングは何かと気をかけて仕えた。クレアもそんな健気(けなげ)なウォルフガングを大層可愛がった。


 そして、レーヴァ領主シグルドにクレアが嫁いで数年が経過した。

 すぐに授かった娘は健康そのものですくすくと育っている。

 男ばかりの無粋なむさ苦しい領主館は、クレアと彼女の為に仕える侍女や女中も増えた事ですっかり華やかさが増した。しかもフレイア姫が生まれてからは、さらに雰囲気も明るくなりシグルドも娘の父らしく態度が丸くなっていた。

 子供など期待しないと豪語していた男は、娘が生まれたその日から子煩悩(こぼんのう)な父親に早変わり。当然のようにシグルドは嫁の尻に敷かれ、今まで通りに鍛えてはいるが筋肉の上に脂肪の厚みが付いてどっしりと貫禄がついた。


「騎士の妻になってみて、どうだ?」

 夫婦の寝室でシグルドが訊ねた。結婚してからも質素な服装なのは変わりないが、クレアを娶ってからは独身男の雑さがなりを潜めて、小綺麗な格好になりつつある。

 都会に生まれ育って来たクレア自身は、実家から持たされた嫁入り道具に豪華な衣装もあったのだが、シグルドに何を言われるまでもなく自分から質素なレーヴァの暮らしに馴染んでいた。

 確かに豪華さはないが、クレアにとってレーヴァでの暮らしの素朴な気楽さが新鮮で、何より代え難い魅力があった。一見、粗暴で野卑(やひ)な男に見えかねない夫シグルドも、こう見えて細やかな気遣いをする紳士だった。そのおおらかさに救われることが多々ある。

 王都にいた頃と違い、身の回りを整えるのも可能な限り自身で行っているし、毎朝のシグルドの食事はクレア自身が台所に立ち用意している。領主館の使用人に頼み込んで、手伝ってもらいながらいろんな家事を覚えていた。

 シグルドは口出しせず妻のしたいようにさせてくれるので、窮屈な都会よりも羽根を伸ばすように日々を過ごしている。

「騎士の、妻‥‥ですか?」

 言葉に出してみると不思議なもので、レーヴァを守る騎士を支えてる立場だと言うことを改めて実感する。確かに、毎朝の鍛錬をほぼ共にする家臣のウォルフガングも主人の食事に相伴するのが日課に近かったので、毎朝食卓を囲む男たちのの牛飲馬食(ぎゅういんばしょく)の食事はクレアが把握していた。

 独身のウォルフガングなどは食事を放っておけば食糧庫のパンと干し肉ばかりを食べて済ませてしまうから、積極的に食事を共にするように求めていた。

 シグルドも含め、男たちは腹を満たせれば何でもいいと言った風だ。

 初めの頃は使用人たちとも食事を共にしていたが、フレイア姫が生まれたのを機にけじめをつける為に館の者と食事や部屋は分けておくべきだと彼らから申し出があった為に、食卓はルシア家の「家族」だけになってしまった。

 主従の立場に固執(こしつ)するウォルフガングも同じように生活を分け隔てるように申し出ていたが、それはシグルドとクレアの両方からの反対に遭い食事と部屋の扱いはルシア家の人間と同等に扱うようにさせた。

 しかも使用人たちもシグルドの意見を支持した為に、多勢に無勢でウォルフガングは渋々に受け入れている。

 竜騎士や聖騎士と違い、特別な力を持たない騎士と言う立場だが、竜の定めた厳しい騎士道を歩む者はそれだけで守護者として人々の尊敬を集めるものなのだ。

 一般人とは一線を画しており、分けて考えられる。

「騎士は本当に‥‥厄介な生き物だわ。こんなに平和なアリアなのに、いつも戦いに備えてるのでしょう?」

「そりゃ、常に竜騎から覚悟が求められるからな」

 何でもない事のように飄々と答えるシグルド。

 クレアの努力も報われてか、シグルドも運動量以上の食事に贅肉が増えて、クレア自身もほんの少しずつだが食事量が増えて寝込んで憔悴(しょうすい)することが減って来ている。ウォルフガングはシグルドほどの横幅はなかったが、成長期から大人になるにつれ筋肉質になってきているので、伸びた身長に見合うように厚みが増したように見えた。

 クレア自身は蝶よ花よの令嬢生活だった頃に比べればレーヴァでの生活はなにかと忙しいが、誰かに求められることは苦痛ではなかった。いや、故郷では感じられなかったような充実感や、騎士たちを支えていく自覚もあって日々の生活に誇らしさすらある。

 肉体的にも精神的にも満たされて築かれた彼女は、やや遅咲きながらもゆっくりと開花する大輪の花のように健康的な美しさを匂わせる女性になっていた。

 大きな熊のような迫力と威厳を兼ね備えた竜騎士にして領主シグルドも、クレアの前では飼い慣らされたわんぱくな子熊のようなものだ。騎士の妻、と言うよりは子熊の飼い主と言われた方がしっくりくる。

 その想いに自分でくすりと小さく笑いながら、クレアは夫を見つめ返す。

「そうね‥‥騎士の妻でいることも覚悟を問われ続けているのかもしれないわ。いつも心配よ。あなたが戻ってきて腰から剣を下ろすまでは」

 シグルドは心外だと言う顔をして戯けたように口を尖らせて見せる。

「ふん、馬鹿を言うな。私は心配されるほど弱い男ではない」

 クレアは微笑んで夫に寄りかかる。もちろん、その程度ではシグルドの巨体は微動だにしない。

「いえ、そうはおっしゃってますけど。あなたは優しい方だから‥‥だから心配なの。王都にはあなたのような心根の方はいません。どこからも断られていた私を1人の女として唯一、望まれて迎えてくれたのですから。この気持ち、お分かりになれないでしょうね」

「クレア‥‥お前」

 シグルドは驚いたように妻の顔を見つめ返した。

「あなたは‥‥レーヴァの騎士は、優しすぎるわ」

 そう言われて、真っ先に朴念仁(ぼくねんじん)の仏頂面が思い浮かぶ。

 照れ隠しに、シグルドの知る中で最も優しい男の名を挙げた。

「なぁクレア、ウォルフのことをどう思う?」

 問われて妻は慈愛に満ちた笑みに変わる。彼女にとってウォルフガングは騎士や家臣と言うより、クレア様、クレア様と後追いのように付いてくる少し歳が離れた弟のような存在だった。

 慕ってくれてる気持ちが正直に伝わってくる。シグルドが何かと理由をつけてはウォルフガングにちょっかいを出したがる気持ちもわからなくもない。

「あの子も‥‥とても優しい子ですよ、騎士にしては。上辺だけならいくらでも居ますが、エリシオンの騎士にもあのように真っ直ぐな子は居ません。あなたが育てた騎士とは思えないほど素直で、そしてあなたの心を受け継いでいる騎士らしく」

 それはどう言う意味だ、と返しながらもシグルドはクレアを抱き寄せて頬に優しいキスをした。来たばかりの頃は痩せっぽちだったクレアもこの数年でずいぶんと肉付きが良くなり、女性らしい健康的な身体のラインを持てるようになっている。

 生まれついての線の細さ儚さは抜けきれないが、それでも随分と良くなった。

 レーヴァの田舎暮らしが身体に合っていたのかもしれない。

 心配された出産も産後の肥立ちも良く、シグルドを安心させた。

「私はあいつにもそろそろ嫁を取らせたいんだが‥‥」

 妻の柔らかい肢体(したい)を抱きしめ実感するシグルドは満足げに微笑んだ。

 今のクレアなら、求婚したがる男たちが山ほどいるのかも知れない。当然、いくら寛容なシグルドでも、惚れた女を奪われることを許すほど独占欲は弱くない。力づくで奪い返すだろう。

 その男の執着心が、誰からも求められずに過ごしてきたクレアの心を穏やかに満足させていた。

「そんな‥‥きっとウォルフにだって想いを寄せるような娘がいるでしょうに」

 夫の抱擁を受け流すように、クレアはウォルフガングを同情するように答えてみせた。

「ウォルフが? はっ、あいつの朴念仁ぶりの酷さがわかっとらんのだ」

 実際、いつまで経ってもウォルフガングに浮いた話が湧いて来ない。

 レーヴァのような辺境の田舎街となると、噂なんてあっという間に広がるものだ。ましてや好いた惚れたなどと言う浮いた色恋沙汰は良いカモにされる。

 其れなのに、ウォルフガングには何も無い。ただの一度も、だ。

 剣の道では「レーヴァの黒狼」などと異名が付くような名の通った騎士が。

 騎士に叙勲されて10年目、23歳にもなろうと言う大の男が。

 主人として見ていても相当な奥手なのはわかるが、それにしても酷いもんだ。

 いくら田舎のレーヴァでも年頃の娘は粒揃いでいくらでもいるはず。

 ‥‥逆に女たちからのアピールすらもないのか、我が騎士には。

「居るものか。あいつが女に器量がある男なら、苦労はせぬ」

 確かに、ウォルフガングの顔立ちはそれほど悪くない‥‥はずなのだが。

 風貌そのものが異国風で親しみが感じられない事や、致命的なまでの朴訥とした無愛想さ、滲み出る頑固さ加減は年々強くなるばかりで、見方によって男でも近寄りがたい強面かもしれない。

 騎士として人々の信頼を得られてるかどうかと言う意味では全く問題がないが、異性として女を惹きつける魅力があるかと言うと非常に難しい。

 本人任せにしておけば、独り身のまま歳を食ってしまいそうだし、本人も危機感どころか気にしない可能性が高い。騎士道と添い遂げそうな朴念仁だ。

 由々しき事態。主君としては、いや兄貴分としては放ってはおけまい。

「あなたのお知り合いに、良い年頃の娘さんはいないのですか?」

「‥‥うーん、そんな都合良く‥‥‥‥ん?」

 居た、信頼のおける男に娘がいた事を思い出した。

「いや、館勤めを辞めた者に娘がいたぞ、歳の頃なら‥‥16、7になるはず、名前は忘れた、まだ嫁いで無ければいいが」

 シグルドは旧知の仕立て屋に宛てて手紙を書くことにした。

 騎士の主君としてと言うより、弟をからかういたずら好きな兄のような夫の様子に、クレアは呆れたような表情を浮かべる。

「まあ、あなた‥‥ウォルフも大変ねぇ」

 溜め息をついていると、奥の部屋で赤ん坊の泣く声がした。


 やがてシグルドの手紙にその返事が来た。

 娘の名はセレーネ。神聖魔術師として今年のエルバでの天使祭への巡礼を強く望んでいるが、生来の病弱で長い一人旅が親としては心配なのだと言う。その付き添いを探していると書かれていた。

「見ろ、クレア。ついに、あの朴念仁に相手が見つかったぞ!」


 唐突に、馬鹿でかいくしゃみが出た。

「んぐ‥‥夏に風邪?‥‥まさかな」

 (うまや)でブラシがけをしていたウォルフガングが鼻をすする。

 うっとりと左右に寝かせていた愛馬の耳は不快そうに後ろに向いてしまい、手入れの行き届いた美しい鹿毛を神経質に震わせた。大きな音に驚いたと抗議するように鼻を鳴らして、蹄で地面を踏み叩く。

 主君から貸し与えられている、ほぼウォルフガング専用になってる牝馬だ。領主館の厩舎の馬の世話や管理はウォルフガングが使用人と共に任されている。

「すまん、わざとじゃないんだ」

 騎士は素直に馬に謝る。埃が立つようなブラシがけでは無かったのに。

 誰かが噂でもしてるのかもな、と愛馬に語りかけながら丹念にブラシがけを続けた。馬はまるでうなづくかのように顔を上下させて、唇で主人の袖口を軽く引っ張って甘えた声を出した。

 大きな頭を胸元に擦り付けたり、穏やかに鼻を鳴らした。

 その様子に仏頂面(ぶっちょうづら)口許(くちもと)にも思わず笑みが漏れる。

「わかった、わかった。仕事が終わったら、今日は日没まで少し遠乗りするか。存分に走らせてやるから、それで許しておくれ」

 愛馬の頭を両腕で抱えて撫でながらウォルフガングは約束をした。

 すると背後から館の使用人の声が聞こえる。

「ウォルフガング様、ここでしたか。シグルド様がお呼びですよ」

 ああ、やっぱり噂をしてたのはお館様だったのか、と肩をすくめた。


【END】

※ウォルフ14→23歳 シグルド19→28歳

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