狼と月
年が明けて最初の満月、森の狼が空腹や繁殖期で吼えると言われる狼月。
豪雪地帯と言うほどではないが、この時期のレーヴァ地方は雪が降り積もることも多い。そうなるとレーヴァの騎士や兵士たちは民家の雪下ろしや街道の除雪作業に追われる。筆頭騎士ウォルフガングもここ数日は周辺の村々を、民家の屋根の雪下ろしに回っていた。
領主シグルドの指示である。手が空いていれば領主自らも手伝いに出ていた。
各村々でそういった互助作業はされていたが、領主館の若い騎士たちも体力作りの一環として駆り出される。
数年前のエルバでの神聖魔法の治療以降、劇的に回復力が上がりウォルフガングの不具に近いほど不自由にしていた左の利き腕は、いまや普通の日常生活に支障がなくなるほどに快癒していた。
雪下ろし程度の労務作業もある程度こなせるようになっている。
しかし、こんな時ですら騎士は左腕には特注の黒鉄の小手を付けていた。
もちろん胸鎧も装着して帯刀もしたままでいる。
金属部分を柔らかいなめし革で巻きつけるなど工夫はしているが、なかなか装着したままでの行動は大変である。
黒鉄の小手はエルバへの旅で試作品を試して以来、あれから何度も改良が重ねられ、ウォルフガング自身の傷の回復もあり軽量化と小型化がされており、言われなければ障害を補う為の装具であるとはわからないほどの見た目になっていた。
この小手をつけていれば多少の動きは制限されるものの、剣の鍛練も出来るし、打ち込み訓練で若い騎士たちの相手も付き合えるようになっていた。
雪下ろしも騎士の軍務として訓練の一環であるからこそ、ウォルフガングに限っては武装は解かずに作業に当たっていた。さらに外套の上から纏っている狼の毛皮で作られたマントのおかげで雪を浴びても一振りすれば綺麗に弾き落とされる。
狼の“獣害”事件の後、大量に取れた狼の毛皮の一部で、事件現場の近くの村人たちが村を守ってくれた騎士の為にあつらえて作ってくれたものだ。
冬場は防寒にとても役に立つし、鎧のように衝撃も吸収する。もう何年も愛用しているが、まるでくたびれることもなく頑丈だ。
若い見習いや修行中の騎士たちは2人1組で、武装は特にさせず作業に当たるように指示をしていたが、ウォルフガングだけは単身で回っていた。
どうしても、若い騎士たちがいると身体に不自由さの残る筆頭騎士を支えようとさせてしまう。彼らの気遣いはありがたいことではあるが、ウォルフガングはそれを望まなかった。より厳しく鍛練に励みたいからである。
特にウォルフガングにとって、筋肉を鍛えることは傷ついた身体の機能回復療法に1番効果があるので、この時期の雪下ろしも大事な鍛練の一つとなっていた。
身体を酷使しているとは言え、43歳のウォルフガングは未だ戦士として脂の乗り切った年代である。全盛期は過ぎたが、まだ基礎体力の衰えも少ない。
白い息を吐きながら、ようやく一軒の雪下ろしを終えた。
「いつもすまんね、騎士様や」
村人から温めたヤギのミルクを一杯貰ってひと息つきながら、取り留めない老人の世間話に愛想のない仏頂面で黙って耳を傾けていた。息子の嫁が見つからない、ヤギの乳の出が悪い、鶏小屋が狐にやられた、など。1つずつの訴えに真摯に短く受け応えをしながら、老人の気が済んだところで立ち上がる。
「何か困ったことがあれば、領主館を訪ねてくるといい。巡回の時にも声を掛けてくれれば対応しよう。雪はまた様子を見て‥‥いや、それほど待たずにまた積もりそうだがな。若い連中も巡回に寄越すと思う。その時はよろしく頼む」
重い雪曇りの空を仰いで、首に巻いた布で額の汗を拭った。
ミルクの礼を述べ、ウォルフガングは次の民家に移動する事にした。
使い込んだ麻袋の中に雪下ろしの道具をいれて紐で縛り上げると、まとめて背中のマントの上に担ぎ上げる。
武具と合わせるとそれなりの荷物であるが、その動きに重さを感じさせない。
雪道を力強く進む狼の毛皮を纏った騎士の後ろ姿を、村の老人は姿が追えなくなるまで見送っていた。
それから更に2件を回ったところで日が暮れかけたので、雪下ろしは終わった。
同じように若い騎士たちも疲れた顔で領主館の居間に戻って来た。彼らに暖炉の側で温めておいたワインを飲むようにウォルフガングが勧めると、若い騎士たちは飛びついて賑やかに皆でやり始める。
その様子を少し離れたところから見守るウォルフガングは穏やかに目を細める。
皆、明朗でよく働き、骨身を惜しまず民に尽くす。
「ウォルフ様、お疲れ様です」
蓑笠姿の若い騎士たちがまた戻って来た。街道から離れた地域を志願してくれた者だ。頬を紅く染めて息を弾ませている。さらに遅れてもう1人帰ってきた。
おそらくこれで全員だろう。
温めたワインを差し出して慰労する。
「ご苦労だった、今日はもういいから皆休め。細かい報告などは、明日でいい」
指導するウォルフガングにも敬い、真摯に仕えてくれる眩しい若者たちである。
この冬が明けたら数人がシグルドから騎士位を受けて、聖王都エリシオンに帰るらしい。代わりに見習い希望者が何人かやって来ると聞かされている。
シグルドに叙勲を受けた騎士は、どの騎士団にあっても領主仕えであっても、よく鍛えられていると評判が良かった。
名声が名声を呼び、途切れなく見習い志願者がやってくる。
ウォルフガングを騎士にして以来、新しい見習いを長く受け入れてなかったシグルドが、7年前にデビルに襲われてウォルフガングが倒れた事件以降、新しい騎士見習いを積極的に受け入れて育てるようになった。デビルの動向には敏感になっていたが、騎士の育成もその一つだと言える。ウォルフガングは若い騎士見習いたちの直接指導を担当することになり、忙しい毎日を送るようになっていた。
若い騎士たちに任せることは増えたが、近隣の巡回だけは出来るだけ自分でも回るようにしている。自分の目や肌で感じる事が大事だと感じるのだ。
「明日の労務は午前中は無しだ。休むなり、好きにしろ‥‥あまり深酒するなよ」
大怪我をした直後の不具となったウォルフガングでも、騎士として必要な礼儀作法や騎士道精神の教育、基礎的な武術訓練の指導は務められた。それらにシグルドは直接にはほとんど関わらない。異議を唱える者も現れなかった。
足を引きずるように居間から出て行くウォルフガングの背中を、青年たちは敬礼をして見送った。
「ふむ、ご苦労」
今日の報告を執務室のシグルドに事務的に済ませる。
「おい」
シグルドが呼び止める。主君の目は誤魔化せない。
むっすりした熊のような髭面をウォルフガングに向ける。
「‥‥はい」
「無理をするな、重心がズレておる。歩く音でわかるほどだぞ。お前に倒れられては私が困る。私にひよっこどもの世話をさせる気か?」
ぎょろりと睨む。
「大丈夫です、何も問題ありません」
この男が言う大丈夫と言う抗弁ほど当てにならないものはないと、シグルドは経験上何度も思い知らされている。忠実だが、まったく言う事を聞かない。
「馬鹿者、明日は労務はいい。魔法治療を受けてこい。命令だ」
一礼をすると筆頭騎士は退室した。
ウォルフガングは領主館の奥の居間の1つに向かった。この部屋はルシア家の家族だけが許される部屋の1つである。
長く仕えるウォルフガングは特別に許されていたが、立場を弁えて滅多に立ち入ることは無かった。しかし、今日は若者の多い使用人たちの居間は避けたかった。
「‥‥ううむ」
寒さの為か、酷く傷が疼いていた。苦しむ姿を彼らに見せることができない。
自室には暖炉は無いので、他に逃げ込める場所が無かった。
今は幸いにもこの部屋には他に誰も居ない。
年齢を重ねるごとに古傷の疼痛は重く、辛くなっていた。どうしても堪えきれずに痛みが表情にも出してしまう。それを見られることを筆頭騎士は嫌った。
弱くなっている暖炉の火に新しい薪を入れて、火のそばにワイン瓶を置いて温める。鎧や剣、外套や毛皮のマントを外して暖炉の側で掛けて乾かす。
そして、近くの大きな椅子にどっかりと腰を下ろした。
昼間の作業中は身体を動かしていることもあってあまり感じなかったが、やはり夜の冷え込みは古傷に堪える。
骨折、裂傷、事故の怪我、デビルから受けた深い傷。傷そのものは癒えても、一度神経に刻まれた痛みの痕跡は肉体に長く記憶される。
日が落ちて深々と冷え込んできたせいか、突き刺し肉をえぐるように痛む身体に、ただうずくまって脈打つ痛みが鎮まるまで耐えるしかなかった。
無意識に仏頂面がさらに不機嫌そうな表情になる。
「うぐ‥‥っ‥‥」
ワインが程よく温まるまで、ひとまずの我慢だと自分に言い聞かせていた。
ルシア家の次女、妹姫のフェリシアは生まれつき病弱であった。
母親クレアの体質を強く受け継いで、儚げな印象が強い。ほとんどの日々を屋内で過ごし、1日すべてを寝室で臥せっている事も多かった。
健康的でおてんばな姉のフレイアとは対照的である。
可憐で内気な性格のフェリシアは、フレイアほど積極的に接していなかったが、生まれる前からずっとルシア家に仕えているウォルフガングに家族同様に親しみを持っていた。
屋内で塞ぎがちな妹姫。それに対し、日中は特に外回りの職務が多いウォルフガングは顔を合わせる事が少ないのでフェリシアと滅多に話せない。
それでも領主館での寝泊まりが多い為、夜になるとフェリシアの部屋から時折漏れる竪琴の音色。それをウォルフガングは密かな楽しみにしていた。
上手な演奏ではないが、つたないながらも姫の奏でる素朴な調べが好きだった。
その音色が不思議とウォルフガングの孤独な心を癒やしてくれる。
黒狼と呼ばれる男が、自らを狼である事を見失えるような‥‥。
セレーネと過ごした時間を思い出して、あの頃のように穏やかで優しい気持ちに戻れる気がした。
それが妹姫との対話のように思えて、特に疎遠だとは感じる事がなかった。
だから、ウォルフガングはふれあいが少ないフェリシアの事を、距離を置きながらも大切に見守っていた。
「ウォルフ‥‥」
妹姫が居間の前を通りかかると、珍しくウォルフガングの姿を見た。
見た目では敬遠されやすい、訓練場では一際厳しい強面の筆頭騎士。一方でルシア家で見せる姿では物静かで穏やかな男だと言うことを、フェリシアは幼い頃から知っている。今夜は珍しくウォルフガングと話せそうに思えた。
窓辺から見える満月を眺めて、騎士は暖炉で温めたワインを飲んでいる。
「お話‥‥してもいい?」
内気な妹姫から声がかかり、少し驚いた様子だった。
「‥‥はい、何なりと」
騎士は低いしゃがれた声で穏やかに応える。
他愛もない質問をされて、それに淡々と答えていくウォルフガング。
昼間に民家の雪下ろしを数件回ったこと、厩舎の馬を運動させる為に外へ連れ出したこと、村人から聞いたことなど。
ウォルフガングは妹姫と言葉を交わしたのは随分と久しぶりだと感じていた。
「ふふ、雪の時は大変なのね‥‥でも、ウォルフ大丈夫? なんだか辛そうよ」
ウォルフガングは何でもないと言うが、すっかり疲れているように見えた。
表情だけではなく、雰囲気からも力が感じられず弱々しく見えた。
常に武人然としているウォルフガングのこんな姿は珍しいように感じた。
繊細なフェリシアはこういった微妙な変化に敏感だった。
「今夜は‥‥冷え込みますから‥‥少し、その‥‥」
見透かされて動揺を見せるウォルフガング。
誤魔化そうとしているのがわかったのでフェリシアは追求しなかった。
ウォルフガングは人に弱みをあまり見せたがらない。
それでも、まだ訊ねてみたい事があった。このように誤魔化されたとしても。
「あの、聞いて‥‥みたい事があるの‥‥」
引っ込み思案のフェリシアにしては、好奇心が勝り思い切った。
この強面の男に話しかけるだけでも、相当な勇気が必要だというのに。
「‥‥?」
「その、ウォルフは‥‥どうして今まで再婚しなかったの?」
フェリシアは気遅れしながら、ためらいつつも訊ねることが出来た。
17歳になる年頃の姫君にとって、気になる話題でもあった。
「‥‥再婚、ですか」
騎士は妹姫からの予想外の質問にきょとんとしていた。
フェリシアの顔が紅潮気味になっている。
「その、ウォルフはずっと‥‥独りでしょ?」
気まずい話題だと思いつつも、家族の中で自分だけが知らない気がする。
なんだか気になって仕方がない。
それがおじけづくフェリシアの気持ちを後押しした。
「この間も、あなたにエルバから縁談があったと聞いたの。その前はエリシオンよ。お父様はウォルフが望まないからって全部断ってしまうわ」
「‥‥はい、その通りです」
後添えを望まない事が知れ渡っているレーヴァには居なくなったが、離れた土地のからは縁談が未だ定期的にやってくる。
高名な領主の右腕となる男が、独り身とあればやはり思惑を抱えた者が現れる。
「だって、だって‥‥どなたもご立派な家柄や評判の良い御令嬢や御婦人ばかりじゃない。肖像画も見たのよ、綺麗な方ばかりなのに」
今やシグルドも本人に確認しないうちから片っ端から断る。
そういった事の後の父は、いつも難しい顔つきで不機嫌そうに見えた。
「私だけがウォルフが再婚しない理由をよく知らない。お父様も、お母様も‥‥お姉様だって理解してるみたいなのに。私だけ‥‥」
どうしてなのか、自分で考えようとしてもフェリシアには理解ができなかった。
悔しさすら滲ませている。
「ううむ‥‥フェリシア様‥‥」
圧倒されてウォルフガングは呻いてみせた。非常に困った様子で妹姫に押されている。しかし、一度堰を切ったフェリシアの攻勢は止まらない。
「どのお話も、良いご縁では無かったのですか?」
ウォルフガングには、女性との浮いた話は一度も聞いたことが無い。
最初は仏頂面の強面のせいだと思っていたが、縁談があるたびに断っているのはいつもウォルフガングの方だ。その理由は騎士にあるはず。
「いえ、姫様‥‥そ、それは‥‥」
面食らって困惑するウォルフガング。
「ウォルフは、いつだって1人だもの‥‥私にもわかります。独りでいることのつらさ、寂しさが。それなのに、自分から遠ざけるように独りのままで‥‥どうしてなのですか?」
「姫様‥‥」
ああ、やはりお優しい方なのだ‥‥と、フェリシアに向ける眼差しが和らぐ。
フェリシアの言葉に、ウォルフガングは妻セレーネを重ねていた。
普段から物静かなフェリシアにしては、珍しく積極的な態度に内心驚くウォルフガング。今更ながら妹姫の新しい一面を垣間見た気がする。
とは言え、冬場はろくに窓も開けられないし、降雪があると何もかも雪で閉ざされるので、普段から伏せがちな姫とは言え気分が鬱屈するのだろう‥‥とウォルフガングなりに察した。なにより、今は仲の良かった長姉フレイアが騎士修行に出ていてレーヴァに居ない。
寂しい‥‥のかも知れない。
女性の気持ちを慮るのを苦手な男が、多感な思春期の乙女への精一杯の思いやりを考えていた。しかし、何一つ思いつかない。
この無愛想で寡黙な男にも、かつては妻がいたと聞いたことがある。
それはフェリシアにとって生まれる前の見たことのない、遠い昔話。
確かに、ウォルフガングは見た目に反して穏やかで優しいところもあるけど、それはあくまでも主家であるルシア家の者にしか見せない一面だ。
稀に砕けた態度も見せるが、決して家臣としての一線は越えてこないし、態度も崩さない。少なくともフェリシアは見たことがない。
だから、ウォルフガングの穏やかさは忠誠心からくるものだと思っていた。
乱暴や理不尽な扱いこそしないものの、正直、他の人たちへのぶっきらぼうな態度は怖いとさえフェリシアは感じている。父とは違う迫力があった。
とても近寄りがたい、時には怖くて避けたい、他者に厳しいウォルフガングがルシア家以外の、主従関係の無い女性と親しくする姿なんて、フェリシアにはまるで想像もつかない。
相手の女性は一体どんな人だったのだろうか。
「そう、ですね‥‥何と言えば‥‥」
唐突な話に口元に寂しげな笑みを見せながら、ウォルフガングは酒杯を置いた。
暖炉の炎を見つめながら、筆頭騎士の男はゆっくりと口を開いた。
「このような話を、姫様にお話しするのは恥ずかしい限りですが‥‥後添えを迎えられないのは私自身の心の弱さです。相手の方に問題があるわけではないのです」
ウォルフガングは気持ちを隠さずに素直に話した。フェリシアの気持ちに誠実に応えるには、結局そうするしか他に無いと。そして自嘲気味に続ける。
「私は若い頃に妻を娶っておりましたが、病で亡くました。しかし、未だに彼女を諦められないのです」
妹姫の予想に反して、騎士は誤魔化さなかった。フェリシアは、こんなに自分自身のことを話しているウォルフガングを初めて見た気がする。
「どんな方‥‥だったのですか?」
フェリシアが‥‥亡妻と似た儚げな雰囲気を宿していたことも、月の光が黒狼の影を深くしていたせいもあるのかもしれない。
身体を温めて傷の痛みを紛らわせる為、いつもより多めに飲んだワインの酩酊がウォルフガングの感傷を後押ししていた。
「美しい方だった‥‥?」
近くにはいても滅多に話す事がない騎士と話せるのが新鮮で、知らない話を聞けるのが嬉しくて、姫はさらにせがんだ。
「クレア様やフェリシア様に似ています。身体が生まれつき弱い事も。もっとも妻は‥‥セレーネは元より長くは生きれないと言われておりました」
ウォルフガングの視線は窓の向こうの月を見上げたまま、その目は苦悩に満ちている。その姿はとても哀しそうだとフェリシアは感じていた。
「でも、彼女は‥‥芯が強くて‥‥とても美しい人、でした」
そう言葉にしたウォルフガングの眼が、一瞬だけ優しい光を見せた。
人を寄せ付けない孤高の武人が、そんなにも想いを一途に寄せ続けられるほど愛していた人なんだろうか。ぶっきらぼうで低く響く声色、鋭い眼光で威圧的なウォルフガングが、令嬢に愛を囁いてる姿などフェリシアには到底想像できない。
未知の光景を思い描き、何故か胸の鼓動が高まる。
「それなのに寂しい思いをさせてしまった。わかっていながら娶ったはずなのに。大変な苦労もかけました。言わば‥‥私が彼女を殺したようなものです」
時折言葉に詰まりながらも、辿々しく苦しそうに懺悔を語るウォルフガング。
「故に、私は後添えを貰うことが出来ないのです。きっと罪を、同じ過ちを‥‥繰り返すでしょうから」
やはり胸の内を人に伝えるのは、いつまで経っても苦手だった。
ふと、ウォルフガングの瞼に、セレーネの微笑みが浮かんだ。
フェリシアの静かなたたずまいが、その姿と重なって見えた。
「それに‥‥妻が死んだからと言って、彼女と私の誓約までもが‥‥失われる訳ではありませんから‥‥」
それは、ウォルフガングにとって三度目のセレーネへの求愛と誓いであった。
フェリシアの胸の奥で、切ない‥‥初めて体験するような疼きを感じた。
「ウォルフは‥‥今でもその方を‥‥」
その問いに騎士の頬が、微かに震える。
フェリシア、と穏やかながら会話を遮る声がした。
「そのくらいになさい、あまりウォルフに辛い思いをさせないで」
領主の奥方クレアが姿を見せる。自ら淹れたお茶で満たしたポットとカップを持ってきた。ウォルフガングに注いでテーブルに置く。
「いえ、妻の事は‥‥その、別に隠し事では‥‥ありませんから」
恐縮そうに騎士は慌ててよろけながら立ち上がると一礼をした。
「いいのよ、この部屋にいるのは家族だけです。気を遣わないでくつろいでいてちょうだい。あなたはもう十分に私たちのために働いたわ‥‥」
促されて再び椅子に腰を下ろす。その身体の動きをクレアは見逃さない。
ルシア家の者は皆、ウォルフガングの隠し事などすっかりお見通しだった。
「ああ、身体が痛むのね。もう、それなら早く言いなさい。あなたは‥‥若い子たちにもう少し頼るべきよ」
「いえ、それでも鍛えるのが回復の近道になるので‥‥筆頭騎士などと呼ばれる者が剣も満足に握れず、陣頭に立てないなど‥‥彼らに示しがつきません」
ウォルフガングは苦笑する。もちろん領主館の騎士たちに、ルシア家の筆頭騎士を軽んじる者など1人も居ない。
剣技の指導だけではなく短剣、戦斧、体術、馬術、鎧の着合わせ、領地見廻りから雑務の指導も含めて、細かい相談事も全てウォルフガングが受け持っている。
厳しくとも実直なウォルフガングは畏怖はされても、疎まれることなど微塵も無かった。
「あの人ったら、みんなウォルフに丸投げなんだから。困ったものね」
クレアは用意周到に、痛みに効果がある薬草を配合した湿布の粉末薬を薬箱から取り出すと、水で溶いて清潔な麻布に塗りつけて行く。
打ち身捻挫が絶えない男どもばかりの領主館の常備品。
それは、かつてセレーネから教わった湿布薬だ。クレアは大切に引き継いでいる。
「上着は脱いで、背中と左腕を出しなさい」
有無を言わさず脱がせると、ウォルフガングを苦しめる傷痕に布を貼りつけていく。ヒヤリとした感触の後、じんわりとした温かさが伝わる。
騎士は、むう‥‥と思わず声を漏らした。
「こんなに酷い傷痕なのだから‥‥無理もないのよ」
クレアは騎士の背中の深い傷痕を見るたびに切なくなる。普段は衣服に隠れるので腕の傷ほど目立たないが、何度見てもその無残な背中の様子に息を呑む。
初めて近くで見たフェリシアは驚いている。
ウォルフガングの傷痕は他の戦士たちと違い、身体の前面よりも背面に集中している。それも何度も重ねて受けているのが一目でわかる。
対面で敵と戦えば、大抵は正面に傷がつきやすいものだ。だから、前面から受けた傷は勇敢な戦士の証と讃えられる。しかし、背中の傷は“逃げ出した者が背後から受けた“臆病傷”だと嘲笑される象徴なのだと言う。
だが、クレアは知っている。いや、レーヴァの人間なら誰もが承知している。
それは、騎士がその身を盾に誰かを護り通して受けてきた証でもあった。
「ウォルフ‥‥今日からしばらくは毎晩、私のところに来なさい。こんな事しかできないけど‥‥こんなあなたを放っておいたら、セレーネに申し訳ないもの」
クレアが知る限り、ウォルフガングは争いを望まない温厚な男だった。そんな男が、これほど傷を重ねて背負ってきたからこそ、レーヴァに、ルシア家に平穏な日々があるのだとクレアは噛み締める。
「あなたは家族で、フレイアを救ってくれた命の恩人なのですよ」
かつて、まだ赤子だったフレイアをデビルから護り抜き、頬に傷を負い血まみれになって倒れていた若き日のウォルフガングに駆け寄った、あの日の記憶。
クレアにとっても鮮烈な経験の一つである。
「‥‥はい、クレア様‥‥」
筆頭騎士は大人しく頭を垂れる。
あれから十数年経っても、狼は今も変わらず家族を護り続けてくれていた。
そうして、倒れては立ち上がってきたのだ。何度でも。
手慣れた様子でクレアは包帯を厚く巻いていく。
ウォルフガングは、されるがままにただ身を任せていた。
一通り手当てを済ませると、クレアは上着を渡す。
ウォルフガングはそれを受け取ると慎重に着衣する。服の袖に腕を通すのにも苦労している。クレアは黙って、そっと手を貸す。
「ありがとうございます、クレア様‥‥」
若い頃に比べて、さらに逞しく厚みの増した身体だけど、その分だけ苦痛に耐え忍ぶ様子が多くなった姿でもあった。特に7年前の魔獣事件の、その後遺症はとても重く、未だに騎士を苦しめている。そのせいか、シグルドより5歳年下のはずのウォルフガングの方が遥かに老け込んで見える。
漆黒だった髪や髭にもすっかり白髪が増えた。
夜中になると、眠っているはずのウォルフガングの部屋から苦悶の呻き声が聞こえることにも気づいていた。レーヴァの黒狼と呼ばれた男は、歳を経るごとにその身を加齢以上に擦り減らしていた。それでも尚、倒れても倒れても立ちがろうと足掻く。
クレアには、それが哀しく見えた。
それだけにどうしても思わずにはいられない。
もしも、あの娘が健在であったら、と。
「そうね、フェリシアが生まれる前でしたね、あの子が逝ってしまったのは‥‥もう、そんなに経ってしまったの‥‥」
丁度、セレーネが死んだ年に生まれてきた主家の妹姫は、セレーネと別れた年数はそのままフェリシアの年齢となっていた。
「はい、17年になります」
セレーネが生きていたら‥‥。
頑固者で寡黙で人を寄せ付けない、この愛情深い黒狼は‥‥今でもあの頃のような、穏やかで優しい人生を歩んでいけたのだろうか。
クレアは、無骨者の騎士とは対照的な柔らかく華やかな彼女の姿を思い出す。
「今のフェリシアと同じくらいの歳なのね、あの子が亡くなったのは。私たちには、あまりにも早すぎたのよ」
クレアはフェリシアの髪を撫でる。
セレーネとお互いに髪を編んだり梳かしあったりした記憶が甦る。
互いに生まれついての病弱な体質のせいか、互いに無骨者の伴侶に手を焼いてるせいか、彼女とは馬が合いよく話し笑いあったものだった。それなのに。
「私たちにとってあなたやセレーネは家族なのよ、出逢った時から今までも。あなたは納得いかないかもしれないけど、あの子は幸せだったと思うの」
ウォルフガングは暖炉のそばで乾かしていた毛皮のマントを取ると、包帯を巻かれた身体をさらに隠すように上着の上に身に纏うと椅子に再び腰を下ろした。
その足元がおぼつかない様子を気にかけながら、クレアも座ってお茶を飲む。
室内はすっかり暖かくなっていたし、暖かい飲み物に寒気を感じるほどではなかったが‥‥ウォルフガングの身体はわずかに震えているように見えた。
「ですが、私は‥‥妻を家で待たせて‥‥寂しい思いを‥‥心配ばかりをかけました。弱い身体に‥‥看病させて、負担をかけて‥‥すべては私が‥‥」
上手く気持ちを話せないせいか、言葉に詰まり始めるウォルフガング。
能弁なシグルドとは違う。いつまで経ってもその朴訥さは変わらない。
そんな夫の事が可愛い‥‥と、話していたセレーネの笑顔が浮かぶ。
だから、クレアも懐かしい思い出に惹かれて、ついセレーネに同情する。
「それでも、きっとあの子はあなたの帰りを待って居たかったのよ‥‥今でも元気だったら、そうね、何かと怪我の多いあなたに気を揉み続けていたでしょうけど。それでも寂しくても心配しても、帰りを待って居たかったでしょうね」
「‥‥」
クレアの言葉を黙ったまま受け止めていたウォルフガングは、やがてうつむいて動けなくなった。そして、月からも顔を背けた。
「私は‥‥あの子の気持ちがよくわかるの。自分ではどうしようもなく身体が弱い苦しさ辛さ、危険と隣り合わせの騎士である夫を持つ身の不安も。だから‥‥」
ウォルフガングは顔を背けたまま肩をわずか震わせる。
その動きに揺られてマントの毛並みも波打つ。
「し、しかし‥‥私は‥‥結果的にセレーネを死に追いやった‥‥私の罪は‥‥」
絞り出すように応えようとするウォルフガング。声が震えている。激しく動揺するウォルフガングの姿を初めて見るフェリシアは、驚いたまま固まっていた。
「彼女を、殺したのは‥‥この私なの‥‥です‥‥」
懺悔の言葉に詰まる不器用な騎士に、悲痛な表情を浮かべるクレア。
「ああ、ごめんなさい、ウォルフ‥‥あなたを責めるつもりでは‥‥」
ただ、慰めてあげたかったのに。未だに癒えることのない、手の届かない悲しみの底にいる男には、彼女の慰めは功を成さなかった。
フェリシアは後添えを望まないと言うウォルフガングの頑固な態度の内側を、縁談を勝手に断り続けている父親の心情を、母親が世話を焼きたがる理由を、わずかに覗き見たような気がした。
堪えきれなくなったクレアは口元を押さえて、フェリシアの手を引き、逃げるように寝室に立ち去った。半ば強引に引きずられるようにして部屋を出されたフェリシアは、悲しそうな目でウォルフガングの姿を追っていた。
「‥‥ウォルフ」
騎士は顔を逸らして表情を隠す。それでも酷く嘆いている様子はわかった。
あの、仏頂面でぶっきらぼうな怖い騎士が。
こんなにもウォルフガングに想い慕われていた‥‥自分と同じ歳頃に彼と出逢い、同じように病弱で早世してしまったと言う、その人は‥‥。
ここまで愛されて、幸せだったのだろう‥‥と、フェリシアは夢想した。
でも、取り残されたウォルフは、ずっとこのまま‥‥1人なの?
自分の年齢と同じ歳月を、ウォルフガングはそうして過ごしてきたのだろうか。
愛する人を失った狼は、もう幸せになれないのだろうか。
ふと、フェリシアは昔読んだ書物の一文を思い出した。
『夫婦のオオカミはずっと連れ添い、つがいのどちらかが死んでしまうと、残されたオオカミは新しい相手を求めず死ぬまで孤独に過ごす事も多い』
まるでその名の通り、本当の狼のようにひたむきなウォルフガングの人生。
フェリシアは‥‥それがとても哀しく、身につまされる気がした。
ついさっきまで。
長年ずっと怖いと思っていた騎士が、ただ不器用で寂しい男に思えた。
彼女たちが立ち去っても、それでも騎士は顔を上げる事が出来ずにいた。
「お、奥方様‥‥姫様‥‥申し訳ありません‥‥」
黒狼は、もう月を見上げる事すらも出来なくなってしまった。
クレアの慰めの言葉は、かえってウォルフガングの心の深いところに潜む罪悪感をえぐり出してしまった。妻の死は、騎士にとって未だ遠い思い出ではない。
「‥‥セレーネ、本当に‥‥そう思うのか? 私はお前を寂しいまま逝かせてしまったのだぞ‥‥」
いや、赦されまい。例え月が許しても、狼はやはり自らを赦せない。
経過した歳月は深まるほどに、想いは身を焦がし焼き尽くす。
声も上げず、涙も流さず、黒狼は慟哭する。
月の光よりも、月が映す己の黒い影しか見ることが出来なくなっていた。
そうしなければ、夜の闇の中を歩いては征けない気がした。
「セレーネ‥‥私は‥‥」
毛皮にくるまって身体を縮めるように椅子の中で丸くなる。
酷く疲れを感じている。全身が重く、今にも意識を失いそうだ。
長年の鍛練により、それなりに身幅のある重い身体だが、館の主人に合わせて椅子は大きく頑丈だったので黒狼がゆっくり座るのに十分な大きさがある。
暖炉の炎は柔らかく身体を暖めてくれる、そうしているうちに酔いの酩酊と労務の疲れの中でウォルフガングは知らぬ間に眠りに落ちていった。
「こんなところで‥‥風邪でも引いたらどうするんだ、馬鹿者」
熊のような館の主人が居間の前を通りかかった時、毛皮のマントに覆われて椅子に座ったまま丸くなって寝ている黒狼を見つけた。
屋内でマントを着用していることに不審を抱いて近づくと、厚く巻かれた包帯が服の下に覗き見える。馴染みのある薬草の匂いにも気づく。
「手当てをしたのはクレアだな。これで隠しているつもりなんだろうが‥‥見え見えだぞ、ひよっこ共にすら見透かされるだろう。仕方のないヤツだ」
大きなため息を漏らし、熊は不機嫌そうに昏々と眠る狼を睨みつけた。
暖炉の薪はわずかに残り火を灯すだけになっている。
丸太のように太く強い腕で狼を難なく抱きかかえると、寝台に運んで行った。
「まったく‥‥いつまで経っても手のかかる男だ‥‥お前は‥‥」
唸るようにぶつぶつと愚痴をこぼし、狼を起こさないように気遣いながら、優しい目をした大熊はのっそりと暗闇に消えていった。
【END】
■フェリシアの事を全然書いてないと思っておまけ的な話。ゲーム内でもウォルフはシグルド一家に家族同様に扱われていたと強調されてたので、そんな感じに。レーヴァ壊滅&領主夫妻死亡のゲーム本編まであと3年、と言う舞台。
※ウォルフ43歳 シグルド48歳 フェリシア17歳