傷痕
ヒタキの鳴き声が聴こえる。
レーヴァで迎えた何度目の夏になるのだろうか。領主館の丘にまで届く、葡萄畑からの鬱蒼とした青い香りに、ルシア家の筆頭騎士ウォルフガングは目を細めた。
見慣れた季節、見慣れた景色。丘に吹く風の波が草木を撫でて緩やかに走る。
馬上で心地よい風に吹かれながら、景色を一望していた。
ウォルフガングにとって、生まれ故郷よりもずっと長く暮らしているレーヴァ。
9歳の時に領主シグルドに弟子入りしてから40歳になった今まで、ほとんどレーヴァから離れる事もなかった。黒髪に黒髭、赤銅色の浅黒い肌はアリアでは珍しい風貌だが、もはや珍しいと思う人間はレーヴァには居ない。「レーヴァのウォルフ」と言えば、以前は剣技を磨く為に巡業に来る剣闘技大会などで「黒狼」などと呼ばれて名を売っていた時期もあった。しかし、4年前に大怪我をしてからはそういった場所に一切姿を見せなくなり、最近は黒狼の二つ名も忘れ去られていた。
だが、地元民には「レーヴァのウォルフ」は健在である。
そもそも剣を抜く機会など、長閑なレーヴァに滅多にあるわけではない。
“獣害”事件の大怪我をしてしばらくの間こそ姿が見られなかったものの、その後は街や周辺の村々への日々の巡回する様子は何も変わらない。
元より平穏なレーヴァ、長年見慣れた騎士の姿がやってくるだけで皆は安心して暮らせる。歳を経たからこそ纏う貫禄で、レーヴァを守護する堂々たる騎士の姿に不安を覚える者は居なかった。
「ウォルフ様!」
領主館の門番兵が小走りにやって来た。今年結婚したばかりの青年だ。
門番兵になりたての頃に剣術指南役を引き受けてコツコツ指導していたが、今ではなかなかの腕前である。もうそれなりの長い付き合いになると言うのに、いつまで経っても羨望の目でウォルフガングを見ている。幼い頃にレーヴァの黒狼の剣闘技での活躍を見て、ずっと憧れていたと言われた事があった。
「シグルド様がお呼びになってます」
軽く息を切らして伝えて来た。馬上を見上げる瞳が眩しく見える。
誰かに憧れる気持ちはウォルフガング自身にも覚えがある。
それが剣の師でもある、主君シグルドだ。
その背中を少年時代から追っているが、未だ遥か遠く追いつけない。
「そうか、手間を取らせた。ありがとう、先に戻っていてくれ」
静かに応えると、兵士は緊張気味に敬礼をして戻って行った。
ウォルフガングはゆっくりと馬首を返して丘を登る道に向かう。
馬での移動は何の問題も無くなった。しかし、未だに利き腕は剣が握れないままで、剣の鍛練はもう一方の腕の力で振るう事しかできない。
毎日の鍛練のほとんどは回復訓練に当てられている。
おかげで物を掴めるまでは出来るようになったが、全く力が入らない。
剣はおろか、ナイフすら掴んでも取り落としてしまう始末だ。
背中の傷も運動機能に後遺症を残す程度には深く、戦う事も激しく動き回る事も、4年前の事件以降ままならない身体になっていた。
しかし、そういった素振りは周囲に一切見せなかった。知っているのは一部の知人、ルシア家の人々と館の使用人だけ。馬での移動が増えたのも、マントで半身を隠すようになったのも、そういった事情があった。
「‥‥お前がいるから巡回が続けられるんだ」
愛馬の黒い首に手を伸ばして軽く撫でると、馬は耳だけをこちらに向けた。
左腕の大怪我は一時期切断も危ぶまれたが、何とかそれは避けられた。
治癒魔法による継続的な治療を続けている。
だが、大きな進展は見られない。治療に当たる神聖魔術師も通常の怪我とは違うと言っていた。魔法効果に抵抗を感じるのだと言う。
それでも腕がただ肩からぶら下がっているだけの肉塊のようなモノから、肘を曲げて指先を動かせるようになるまでに進歩している。痛覚も触感も戻りつつある。
掴む力は未だ半分も戻せないが、腕に負荷をかけて筋肉を戻す事は可能だった。
そこまで回復できるだけでも奇跡だと医師には言われた。
「こちらへ」
館の馬丁の少年が誘導してくれる。
1人でも馬の乗り降りはかろうじて出来るが、馬丁の補助があると安全に下馬出来るようになった。補助がない時はバランスを崩して落馬しては、身体の不自由さから受け身が取れないウォルフガングは小さい怪我を繰り返していた。
何度か頭を打って失神した事もあった為、シグルドからは補助を受けるよう指示されている。馬丁から最近は乗り降りがしやすいように、馬に伏せさせる訓練もしているのだと聞かされた。
「助かる、ありがとう」
少年と愛馬に礼を言うと、ウォルフガングはシグルドの執務室に向かった。
「見回りか、ご苦労だった」
レーヴァの領主シグルドが手持ちの拡大レンズで古い書物を読んでいた。
「おい、ウォルフ。これは何と書いてあるんだ‥‥」
細かい文字が読みにくいと文句を言いつつ格闘している。
少しばかりの歳の差と、外回りの仕事が多いウォルフガングは主人よりはまだ視力の衰えは遅く、書物の文字も問題なく見えていた。
「ええと‥‥ここは“神魔戦争における伝承の‥‥封印されしドラグーンが”と」
何かと執務が多いシグルドはすっかり老眼の初期症状になっていた。目の疲れを度々ぼやいていたが、最近は文字を読むのも苦労している。
古い文献は貴重な羊皮紙を効率よく使う為に、細かい文字でびっしり詰めて書かれている事が多い。視力に問題がないとしても読みづらい。
「ああ、もう嫌になるな‥‥」
シグルドは机に突っ伏してしまった。
かつてレーヴァに来たばかりの頃、シグルドに文字の読み書きも叩き込まれていた少年時代をウォルフガングは思い出す。
その当時、机に突っ伏していたのは自分の方であったが。
「まだこれからだと言ったのはお館様ではないですか。しかし、あまり執務ばかりもお疲れになるでしょう。久しぶりに打ち込み訓練をしませんか、気晴らしに」
こういった事をウォルフガングから誘うのは珍しい。
「ウォルフ‥‥お前‥‥」
主君を中庭の訓練場に誘う。
ウォルフガングは上半身を裸になって木剣を持ち出した。長年鍛え続けてきた肉体は並の戦士を圧倒する迫力があった。
しかし、過去の怪我も含めて無数の傷痕が刻まれた身体に、4年前の大怪我が加わり騎士の肉体はすでに限界のようにすら見える。
騎士道に身を置く者の、戦士の宿命と言うべき、その生き様を表す姿。
当のウォルフガングはこの傷痕を、愚かさと弱さの象徴だとして恥だとしている。狼のように賢く強い戦士は傷など負わないからだ。
才能のない凡人だと自覚するからこそ、鍛練を怠れない。
「お館様、よろしくお願いします」
ウォルフガングが木剣を胸の前で構えて一礼をする。
模擬戦とは言え、決闘のスタイルである。
その意味を理解して、シグルドの目の色が変わる。
「そういう事か‥‥いいだろう」
上着を脱ぎ捨てると木剣を握り、シグルドはその挑戦を受けて立った。
「参りました‥‥お館様」
散々打ち据えられ、何度も転がされて、ようやく地に膝をつけてウォルフガングが降参の声をあげた。
全身から汗を滴らせ息も荒くなっている。
「ならぬ! 立て! まだ私は一度も取られておらん!」
「‥‥はい」
シグルドは許さない。さらに模擬戦は続けられる。
よろよろとウォルフガングが立ち上がる。思うように動かせる身体の箇所などもうほとんど無い。騎士は気力だけで対峙する。
いつの間にか遠巻きに若い騎士や見習いたちが、シグルドの筆頭騎士に対する一方的なしごきを眺めていた。
皆、冷や水を浴びせられたような青ざめた顔をしている。
彼らのほとんどは直接シグルドから指導を受けた事がない。
若い騎士たちの剣術指南役のウォルフガングが手も足も出ない様子や、彼らの想像を超えるシグルドの苛烈で荒々しくも洗練された戦いぶりに戦慄が走る。
ここまで激しい打ち込みはどれくらいぶりだろうかと、当のウォルフガングは懐かしさすら感じていた。若い頃は毎日のようによく絞られたものだ、と。
「剣を握ったからには、討たれる覚悟をしろと見習いの頃から教えたはずだ。戦いとは破壊だ、剣を握った瞬間から相手を叩き潰す非情さを持ち合わせろ!」
シグルドの情け容赦ない太刀筋と立ち回りに、思わず笑みすら浮かんでくる。
若い頃よりもさらに無駄が削ぎ落とされ、その一打が重い。いくら鍛えても遥か高みにいる、それがウォルフガングにとってのシグルドと言う存在であった。
ウォルフガングはなす術ないまま幾度となく打ち据えられても、握りしめた木剣を落とすことはなかった。しかし、シグルドに一打も届くことはないまま、ついに地に倒れ伏し自力で起き上がれなくなる。
シグルドはさらにその身体を蹴り上げる。
「ぐふっ‥‥」
なす術なくウォルフガングは転がされた。
すでに訓練ではない、一種の制裁だ。
「埒もない、立て!」
ウォルフガングは立ち上がる事ができない。
しかし、それでも木剣を手放さない。
「いいか。お前は当家の筆頭騎士だ。どんな身体になろうと‥‥だ!」
模擬戦とは言え、決闘の挑戦を受けたからにはシグルドは正義をかけて闘い、己の正しさを勝利によって証明しなければならない。
ウォルフガングは大怪我で傷ついて以来、遅々として回復が進まない身体に対して身分が見合わないということを申し出ていた。
騎士として、身体を使うほとんどの役目が果たせない。
同時に、若くて強く素質も才能もある立派な騎士たちが、領主館から幾人も育って来ている。皆シグルドの名声で集まった才能ある騎士ばかりだ。
ほとんどの者はウォルフガングが教育も稽古もつけているが、戦えない不自由な騎士の指導では戦闘の模擬訓練は満足には出来ない。
しかし、断固としてシグルドはこの傷だらけで不具の男をルシア家の筆頭騎士として扱い、他の若い騎士たちと身分を明確に分けていた。
それが実直なウォルフガングには納得ができない。年功序列ではなく、能力の高い若い者たちに譲り、自身は末席にするべきだと主張していた。
「勝負は決した。正義は誰にあるかここに証明された」
騎士の決闘は正しさを証明する為に行われる。勝った者の主張が正義である。
言葉でわからぬ者は、騎士道に則った方法でわからせるしかないし、ウォルフガングもそれを望んでいる。決闘の結果は騎士にとって絶対的である。
そして、館の敷地内とは言え、領主仕えの若い騎士や使用人たちの衆目に晒されながら、筆頭騎士ウォルフガングは完膚なきまで叩きのめされた。
もし、怪我を抱えてなくても、到底シグルドには勝てないことをわかっていた。それほどに、竜騎士シグルドは天下無双の比類なき戦士だった。
これはウォルフガングが自分自身を納得させる為に、必要な通過儀礼だった。
「‥‥しかし、よくそこまで出来るようになった」
シグルドは木剣の構えを解き、倒れているウォルフガングに一礼する。
あれだけ動いたと言うのに、軽く汗ばむ程度で呼吸の乱れすら見せない。
「ご指導‥‥ありがとう‥‥ございました‥‥」
ウォルフガングは息も絶え絶えになっている。
木剣とは言え、打たれれば骨身に響く。まして、稀代の竜騎士シグルドの強い腕から繰り出される打撃は手加減しても並大抵では無い。
一方、ウォルフガングは利き腕は使えないが、もう片方の腕を使い器用に木剣を操り打ち込んでくるようになっていた。熟練の相手には通用しないだろうが、並の騎士よりは余程上手く剣を扱えている。しかし‥‥。
「やはりその腕は全体の動きに大きな隙を生み出している。無駄な動きが無駄な力と無駄な消耗になる。私はそれを解決する方法を考えている」
「‥‥はい」
立ち上がる力も出せなくなったウォルフガングを、シグルドの丸太のような腕が軽々と担ぎ上げて運ぶと中庭の休憩用の長椅子に寝かせた。ウォルフガングも鍛え抜いた大の男、それなりの重量はあるがものともしないシグルドの膂力である。
「剣を握る事が期待できないなら、最初からそうしなくていい腕の使い方を考えるのも悪くない」
シグルドから特殊な小手型の腕の装具の試作を頼んである、調整が必要だから試作の小手を受け取るついでに合わせてこいと言われた。
依頼先はレーヴァの街に店を構えているドワーフの鍛冶屋だ。
「上手く使いこなせれば、戦い方にもう少し幅が持てるかもしれん。その腕も弱点ではなく持ち味として活かすのだ」
鍛練を始めていた2人の姿に、使用人が汗拭き布や身体を洗う為の井戸水を汲んで置いてくれていた。
「‥‥いつまで経っても、手間のかかる男だ‥‥お前は‥‥」
シグルドが倒れたままの騎士の痣だらけの身体を洗い流し、砂と汗を拭き取った。丁寧にいたわるようにその身体を拭うと、上着まで着せた上で再び長椅子に寝かせた。馬鹿者め、頑固者め、と呟くその目は悲哀と慈愛に揺れている。
「ウォルフ、お前は戦士として剣の天才ではないが、そんなお前が私に付いてこれた1番大事な才能がある。それは自己研鑽を積み重ね続ける才だ」
シグルドは訓練場の2人の決闘を見ていた若い騎士たちの姿を見やりながら、自らの粗い顎髭を撫でてため息をつく。
「それが、私よりも指導者に向いている理由だ。若いひよっこ連中は“天下無双の英雄”には到底付いて来れないだろう、だが基本に忠実なお前にはついて行ける。そのお前が私に付いて来れば、結果としては同じ事だ。いいか、それでいいんだ」
天賦の才能とは他人に教えられるものではない、と言うのはシグルドが1番よくわかっていた。剣の才能と、受け渡す才能、受け継ぐ才能は同じではない。
ウォルフガングは世に謳われる英雄の孤独をそこに見ていた。
「お館様‥‥嫌な役目を‥‥無理を申し出てしまいました」
シグルドに派手に打ち倒されて体力を使い果たし疲労困憊のウォルフガングだが、身体に深く残るダメージは1つも受けていないのはわかっていた。
「生意気を言うな、私を誰だと思っている。動けるようになったら、後で執務室に来てくれ。頼みがある。その為に呼び出したのだぞ」
シグルドは馬鹿者とぼやいて、ウォルフガングの髪をくしゃっとかき回した。
「ウォルフ、使いに行って欲しい。エルバだ」
ひと休みを終えて執務室に戻ったウォルフガングにシグルドは言った。
「‥‥エルバ、ですか」
エルバなど、17年ぶりだ。あの天使祭‥‥以来である。
忘れようがない。初めて亡妻との出会いになったエルバの天使祭への巡礼。
「うむ、懐かしいな‥‥あの日のことは、私もよく覚えている」
シグルドも遠い目をする。
若いウォルフガングに神聖魔術師の付き添いを命じた、あの日。
「あの頃は私もお前も‥‥若かったなぁ。セレーネを紹介した時のお前の顔と来たら、それはもう愉快であった」
初対面のセレーネとはろくに口も聞けず、しどろもどろになったウォルフガングの姿を思い浮かべる。その光景は昨日の事のように脳裏に焼き付いていた。
「‥‥お、お館様」
思い出すと赤面してしまうあの時の緊張感に、思わず目を伏せるウォルフガング。その様子に、お前はいつまで経っても変わらないな、とシグルドは笑った。
そして、一通の封書を差し出した。
エルバ神殿の司祭宛に手紙を頼みたい、と言う事らしい。
普段は手紙の配達程度で騎士を使いに出すことなどない。
つまりはただの手紙ではないと言うことになる。
「誰か人を付けるか? 必要なら供に若いのを何人か連れてゆけ」
今のウォルフガングに1人で遠出をさせるのはやや心配だった。日常生活はいいが、何かと支障の多い身体であることには変わりない。
「いえ、数日で片付くことなれば」
きな臭い動きが各地で起きている話はちらほら情報として入ってくる。
アリアに直接関わりない事も、シグルドは積極的に情報収集をしている。
特に、デビルに関することに。
一般にはあまり知られていないが、すでにレーヴァにも出現している。
現れたデビルとウォルフガングは対峙する羽目になったが、その度に傷つき倒れていた。殺されずに済ませられてきたのは幸運だろう。
「他の者に頼めないのは、デビルに絡むことだからだ。司祭殿にお前の身体を見せてやってくれ。デビルに生傷を受けて生き延びた者など、アリアにそうそうおらんからな。お前自身が生き証人になる。その身体では、できれば行かせたくないが、他に代わりがおらん」
「いえ、問題ありません。承知しました」
ふらつきを残しながら去ろうとするウォルフガングの背中に主君が声をかけた。
「くれぐれも無茶はするなよ‥‥例の小手は今すぐ受け取ってこい」
心配げにシグルドが念を押す。
「出発は明日にしろ。今日はもう仕事はいい、人手はあるのだ。それより身体を休めておけ。木剣とは言え随分と堪えただろう?」
「は、恐れ入ります」
「ウォルフの旦那、久しぶりだ!」
相変わらずの鍛冶屋の陽気なダミ声が聞こえてきた。
「剣闘に出ないようになったせいで鎧も傷まないからな‥‥お前の世話になる機会が減ってしまった。騎士としては鍛冶屋を遠ざけるなど恥じるべきだが‥‥」
「何言ってんだ、だから領主様はウチに頼んで来たんだろ? 気に入ってもらえると良いが、まだ試作だ。さあ、合わせよう。その腕の傷は痛むのかい? その辺も詳しく聞きたい、改良もできるから」
鍛冶屋は奥からごそごそと特注の小手を出してきた。基本は革の小手のようだが、黒鉄の覆いが付いている。
ウォルフガングは普段は服の袖やマントで隠している、生々しい傷痕が深く刻まれた左腕を見せた。獣の牙で何度も肉をえぐり取られた様子がわかる痛々しい痕だった。ドワーフはすぐには言葉が出ないほどに驚いている。
「こりゃ‥‥想像してたより酷い傷だな。こんな腕じゃ剣闘技に出られないのも無理はねぇな。ここまでやられてよく千切れなかったな‥‥いや、なるほど」
おそるおそる手を伸ばして、鍛冶屋の太い指が傷に優しく触れた。
「治療は続けているが‥‥獣に受けた怪我のせいか、予後が悪いんだ」
よもやデビルが相手とは言えず、ウォルフガングは誤魔化した。
「怪我の様子は伝え聞いてはいたんだが‥‥小手の可動をどうしようか悩んでたんだよ。けど、こういう状態ならがっちり固めて正解だったかもしれん」
腕の様子を見ながら黒鉄の小手をどんどん装着していく。
痛くないか?と何度も確認する。
小手は防具と言うより、ほぼ骨折の添え木のようになっている。
「肘から手の甲まで固定してある、手首は動かせない。融通は効かないが、旦那のその腕ならこの方が安定すると思うぜ。この黒鉄は見た目以上に厚いからその分重いぞ。まぁ、旦那は平気だろうと思ったから頑丈さを重視してな‥‥」
ドワーフは事細かに説明をしながらウォルフガングの動かせない左腕に革ベルトを巻き付けていく。腕から手の甲までが倍になるほどの厚さの小手だ。
確かに重さはあるが、全く問題ない。
小手で固めることで不安定な腕を装具のように安定化することが便利にも思える。とりあえずは、という状態に調整がついた頃には日が暮れていた。
「明日からしばらく使いの用に出る事になる。早速役に立つ」
「おうよ、帰ったら聞かせてくれ」
ドワーフは鍛冶場に戻って行った。
翌日、朝も早いうちから出立の準備をした。外はまだ暗い。厨房の料理人は日持ちのする携帯食とワインをたっぷりと持たせて馬に積んでくれた。
あの門番兵も見送りに来てくれる。
「ウォルフ様、お気をつけて」
青年はウォルフガングを心配して、1人で行くことに反対していた。
旅の同伴まで申し出ていたが、ウォルフガングが固辞した。
「ああ‥‥私の代わりに、お館様を‥‥後を頼む」
愛馬を進めて朝靄の中、エルバに向けて出立した。
道中は天候にも恵まれて、穏やかな行程だった。セレーネと旅をした日を眩しく思い出す。あの時と街道の光景は全く変わらない。
鍛冶屋は重いと言っていた試作の小手も、半日以上装着しているが全く疲れない。大きめの小手だが、マントの中に隠していれば特に目立つ事もない。
道中はなるべく宿は取らず野宿で済ませていた。シグルドから十分な旅費は預かっているが、使わずに済むのならそれに越したことはない。
とは言え、野宿をするのが多少つらい身体ではある。が、それも鍛練だと考えて街道の夜を過ごした。固い地面の感触が、シグルドに打ちのめされた痕に響く。
しかし、今のウォルフガングにはそれすら心地良い。
数日間の旅程は何事もなくあっという間に過ぎた。
そして、エルバの街に到着した。
神殿は中心地にあるのを覚えている。前回来た時は天使祭で街中は賑やかに市が立っていたが、今日はそこまでではない。
それでも、辺境レーヴァに比べれば華やかな都会に見えた。
「司祭殿への手紙を預かってきた。レーヴァの領主シグルド・ルシア・レーヴァの使者で、騎士ウォルフガング・ルーベンドルフだ。どうか御目通り願いたい」
司祭はすんなりと面会に応じてくれた。
老域ではあったが、耄碌した様子もない矍鑠とした人だった。
「なるほど、デビルか。確かに色々と噂には聞いておる‥‥それで、手紙に書いてあるが、そなたはデビルと戦ったそうだな」
「はい、シグルド様からその傷を見せるようにと言われて参りました」
ウォルフガングはマントと剣を降ろし黒鉄の小手を外して、上着を脱ぐと身体に刻まれた醜い傷痕を見せた。あの日、フレイア姫を守り抜いた騎士の広い背中には、デビルの巨大な牙を何度も打ち込まれ、深く引き裂かれた痕跡を残している。
司祭は目を見張った。
「なんと、これは‥‥待ちなさい、そのまま‥‥」
司祭はゆっくり近づくと、何やら唱えながら傷跡に手を当てて治癒魔法らしき施術を始めた。見た目こそ似たようなものだが、レーヴァの神聖魔術師とはまるで違う効果を感じた。身体が、熱い。燃えるように。
「なるほど、難しい傷だ。神聖魔法に対する抵抗効果があって治癒を妨げている。書物に書かれていることは本当だったのだな」
その日は神殿に泊まることになり、何人かの神聖魔術師が手当てに来てくれた。デビルの傷を扱うのは貴重な経験になるからと治癒魔法を施してくれる。
翌日、司祭に呼ばれると古い書物を手渡された。
「それを言付けたい。シグルド殿の求めているものがあるかもしれない。手紙も付けてある。ウォルフガング殿、レーヴァに戻っても時間はかかるが治療は続けなさい。難しい傷だが、傷は傷だ。少しは治癒効果が高くなるよう施術したつもりじゃ、天使様の御加護と、時間をかけてでも戻ろうとする己が身体を信じるのです」
「はい、司祭様」
ウォルフガングはひざまづいて深い礼をした。
「事情はあるでしょうが、貴方はもう少しご自分を許してあげなさい。でなければ、レーヴァのご領主様も気の毒だ。ここへ寄越してきた理由もわかるね?」
「‥‥おっしゃられる通り、シグルド様には苦労ばかりかけています。心からのご忠告‥‥痛み入ります」
役に立つからと渡された、懐かしい香りのする色々な薬草の軟膏や煎じ薬を山のように持たされて、ウォルフガングはレーヴァに戻る事になった。
野宿で浮かせた旅費の一部を神殿に寄付した後、愛馬に荷物を積み上げて帰りの準備をしていた。そうしていると、街の広場から何やら騒ぎが聞こえてきた。
雰囲気からするとあまり穏便な事ではないようだ。
「なんだテメェは。関係ないだろう!」
いかにもゴロツキといった風体の男が、ウォルフガングに食ってかかる。
「関係はない。だからと言って黙って見過ごせるような状況でもない」
街の喧嘩だった。理由はわからないが、2人がかりで1人を打ち倒している。
間に割って入ったウォルフガングが右手を伸ばして制している。
神聖なエルバ神殿の近い場所でこんな野蛮な行為が許されるとは。
「もう良いだろう、わけは知らぬがこれ以上は衛兵を呼ばれてしまうぞ」
「余所者が、俺を誰だと思ってるんだ」
倒れてる男を引き起こして、立ち去るように促すと男は走って行く。
「どけ!」
相手が殴りかかって来る。それを躱して足元を引っ掛けて転ばせた。
「よせ、こんな白昼の往来で」
騎士に向かって来るなど尋常ではない。つまりはただの一般人ではない、と。
もう1人がナイフを閃かせた。
力を効率よく伝える腕の動きを見せて斬りつけてきた。
ウォルフガングはマントを左腕で振り跳ね上げ、黒鉄の小手で力を逃さず受け止めた。鈍く乾いた音を立てて、刃が折れる。
転んでいた男がウォルフガングの膝を蹴り上げようとしている。予想した動きだが、不自由さの残る身体では回避行動が取れないと判断して、腰を下げて踏ん張り小手で蹴りを真っ向から受ける姿勢で耐えた。
鈍い音と衝撃。いい蹴りだな、と騎士は呑気に思っていた。
小手を通して痛みになるほどのダメージは伝わらない。
さすがはドワーフの技術。
多少の振動はあるものの、その程度で揺らぐ体幹ではない。逆に黒鉄の小手をまともに蹴った暴漢の方が、向こう脛を押さえて悲鳴をあげて転がった。
神殿から魔術師たちが騒ぎの様子を見にやって来る。
「くそ、面倒だ、引き揚げるぞ」
分が悪いと踏んだのか、暴漢たちは退散した。
「‥‥まさか、街中で役に立つことになるとは」
黒鉄の小手は傷1つ付いてない。盾がわりになるほどの小手ならば、剣が握れない腕でも隙を作らない動きに役に立つと感じた。
心配して様子を見に来てくれた神聖魔術師の中に、昨夜治療に当たってくれた顔もあった。
「ウォルフガング様、お怪我は?」
「何も。皆様に来ていただけたおかげでそうならずに助かりました」
「ああいった手合いなど街に居なかったのですが‥‥近頃は人心が荒むような揉め事が増えて来るようになったのです」
「そうでしたか‥‥ありがとうございました」
デビルの影響は少しずつ、この神聖アリア王国に暗い影を落としつつあるのだろうか。レーヴァを守る騎士の立場として他人事では無いと感じていた。
この時期にシグルドが司祭に使いを出したのも偶然ではないのだろう。
神聖魔術師に礼を述べ、ウォルフガングは帰路についた。
やはり、門番兵に同行させなくて良かったと、騎士は改めて胸を撫で下ろした。
レーヴァに到着して、最初に向かったのはドワーフの鍛冶屋だった。
黒鉄の小手を返却すると、あれこれ使い勝手を聞かれた。エルバでの小競り合いの話をすると大喜びで聞き入っていた。
「中々大きくて大変だったろう。次はもっと小さく軽くできる案があるんだ。そうか、そうか、こいつが旦那を守ってくれたんだな!」
鍛冶屋は誇らしげに唸る。新作が出来たら持っていくからまた試してくれ、と言い残して工房の奥に消えていった。もう次の改良作業で頭が一杯のようだ。
騎士は愛馬にまたがると領主館に続く道に馬首を向けた。
迎えてくれた門番兵にエルバで買った髪飾りを手渡した。店の売り子の娘から勧められたものだ。エルバで流行りのデザインらしい。
「細君に。お前からの贈り物にするんだぞ」
馬丁には馬の彫り物が入った小刀を渡す。少年は無邪気に喜んでくれた。
レーヴァではあまり見ない甘い柑橘類がぎっしり詰まった大きな麻袋を厨房の料理人たちに運んで、使用人の皆で分けて食べてくれと渡した。
旅費の一部を領主館の皆への土産物に回したので、思いの外荷物が増えてしまったがようやく片付いた。ウォルフガングは細かい荷物を自室に置いてくると、そのまま執務室に向かった。
「それで、エルバはどうであった?」
ウォルフガングは見聞きした事をすべて大まかに伝えると、司祭に託されてきた本を渡す。シグルドは黙ってうなづく。
「司祭様に‥‥お館様に心配をかけるなと言われました」
それを聞いてシグルドはニヤリと笑い、椅子に深くもたれながら顎髭を撫でる。
「さすがは司祭様だ、私の苦労を理解なさる。そうだろう、そうだろう」
さもありなん、と満足げにうなづくシグルドに更に続ける。
「それと新しい小手は大変役に立ちます、正面から受けたナイフの刃を折ってしまうほどに。先に鍛冶屋に返してきました」
「待て、お前‥‥ナイフとはなんだ? まさかエルバでも争いに首を突っ込んだのか‥‥」
シグルドが苦虫を噛んだような表情で睨みつけてくる。
「いえ、争いの仲裁程度です」
騎士は仏頂面で受け流すように答えた。
「仲裁程度で刺されかける馬鹿はお前くらいだ!」
シグルドは両手で顔を覆って、いつもの深いため息をつく。
「どうして‥‥お前ときたら、いつもいつも‥‥」
机に突っ伏して嘆く主君の目の前に、エルバ産の麦芽蒸留酒の詰まった小さい木樽を土産に置いて行った。
「ウォルフ、帰ってたのね」
改めて厩舎に戻り、愛馬に旅の労をねぎらう為の手入れをしていると、いつの間にかフレイアがいた。18才になったフレイアは騎士修行を始めたばかりだった。
年齢で言うと遅い部類だが、珍しいことでも無い。
いずれは父の跡を継ぐ為に竜騎士の道に進むという。
「は‥‥ただいま戻りました」
自分を守って倒れたウォルフガングが、不自由な身体と癒えきれない深い疼痛に堪える姿を見てきたフレイアは、子供から大人に成長するにつれて複雑な思いを抱くようになっていた。
しかし、それを騎士は良しとしないのを、騎士道を学ぶにつれてわかるようになっていた。安易な気遣いがウォルフガングの誇りを傷つけると理解できるからこそ、何も言えなくなってしまった。
「姫様、これを‥‥フェリシア様にも」
懐から取り出したのは、紐が付いた2つの小さな鈴だった。エルバ神殿の紋章が刻印されている。フレイアが受け取ると小さな音でコロコロと鳴っている。
「では、失礼致します」
立ち去ろうとするウォルフガングを、引き止めるように背後から抱きしめた。
昔から変わらない大きな背中。
「フレイア様‥‥?」
幼さが残っていた頃はよく戯れて抱きつかれたものだったが、大人に近づくにつれて最近はそういう無邪気な触れ合いもなくなっていたので、少し驚く。
「私、しばらくしたら王都に‥‥エリシオンに行く事になったの。竜騎士になる修行の為。ここに居ては修行にならないとお父様に言われて。でも、私はお父様の跡を継ぎたい。何年かかるかわからないけど‥‥」
ウォルフガングは微動だにせず聞いている。
「竜騎士になりたい。竜騎士になれば、もしもまたデビルが現れても確実に倒せる力を持てるから。そうすれば‥‥みんなも、もうウォルフが傷つかずに済むから」
「‥‥フレイア様‥‥そのような‥‥」
騎士はその場でひざまづくと主家の姫君に深く頭を下げた。
「私如き一介の騎士に、もったいないお言葉です。しかしご心配なく、私は何も問題ございません。フレイア様の御意のままに」
幼い頃から守り続けてくれた揺るがない騎士の大きな身体が、フレイアには一瞬だけ小さく見えた気がした。フレイアや村人を守るために、デビルに激しく傷つけられた身体は未だにウォルフガングを苦しめている。黒狼と呼ばれるほどに漆黒だった黒髪にも髭にも、白髪が目立つようになっている事にも気づいていた。
苦痛に耐える日々が、男を年齢よりも老け込ませているのかもしれない。
フレイアは家族の1人である騎士をこれ以上、戦いで擦り減らしたくなかった。
せめて、自分が竜騎士となりレーヴァを継いだ暁には、父と共に戦いの一線から離れて安らかな生活を送って欲しいと願っていた。
それをこの頑固一徹の武人が素直に受け入れてくれるとは思えないが、今の自分にできる限りのことをしたかった。
「竜騎士の資格を得られたらまたレーヴァに帰って来るわ、必ず。お父様に負けない竜騎士に。そしていつか『レヴィア』を継いでみせる。いずれはレーヴァもフェリシアも私が守らなくてはならないもの‥‥」
悲壮さすら伝わってくるフレイアの決意に、成長した彼女への感慨深さを味わいながらウォルフガングはゆっくり立ち上がると、口許に微笑みを見せながら言う。
「そうなると、姫様のご結婚相手は余程の方でないと務まりませんね」
珍しくフレイアをからかうウォルフガング。
「まぁ! ウォルフまでお父様と同じことを言うのね!」
姫は頬を膨らませて見せた。こんな表情も久しぶりかもしれない。
ウォルフガングは主家の姫君の頭を、傷だらけの無骨な手でくしゃっと撫でた。
「やめてよ、もう! 何度言えばわかるのよ!」
子供じゃないんだから!と、その手を払い除けようとするが、太く逞しい男の腕は揺るぎもしない。未だに生々しい傷痕の残るその腕に、フレイアは今まで護られていたのだと自覚する。
どれほど傷ついていようとも歳を重ねてきたとしても、フレイアより遥かに頑健で力強い騎士の腕。
「すぐに竜騎士になって、ウォルフにだってあっと言わせて見せるわ!」
ウォルフガングにとって、フレイアは今でも赤ん坊の感覚のままだった。
最初にデビルに襲われたあの日以来、我が身に代えてでも護り通そうと決めた小さな小さな可愛らしいフレイア姫。レーヴァの領主館に咲いた希望の花。
しかし、そのフレイアは竜騎士を目指す為にレーヴァを巣立って歩き出そうとしている。すぐ側で姫たちの成長する姿を見守ってきているはずなのに。
確かめたくてもう一度、フレイアの髪をかき回した。
「ウォルフの馬鹿!」
彼女がレーヴァを旅立てば、このように話せるのも‥‥もうこれが最後になるのかも知れない。次に戻って来た時には、彼女は立派な大人で、淑女で、騎士である。
本当に『レヴィア』を継いだ暁にはルシア家の当主となるであろう。
「いつの間にこれほど立派になられたのかと。見間違えました」
堅物の騎士が滅多に見せない主従を越えた触れ合いに、フレイアは幼い頃からの思い出を想起していた。わがままにも甘えにも全てを受け入れて許してくれた。
厳しい教えは言葉ではなく、自身のその生き様によって示してくれた。
領主の娘として、幼い頃から大人に仕えられる姫君の立場で、孤独や疎外感を感じることが少なかったのも、この騎士のおかげかも知れない。
ウォルフガングとの思い出は、どれも胸の奥が暖かくなる記憶に溢れていた。
「姫様‥‥姫様‥‥竜騎士になろうと言うお方が‥‥ふふ‥‥」
ウォルフガングの固い手を掴んで、引き剥がそうと戯れつく様子はまだ子供の姿を見せている。生まれて間もない頃の、本当に赤子だった姿が昨日の事のようだ。
「んもう! ウォルフの馬鹿‥‥」
しゃがれた低い声で静かに笑うウォルフガングに文句を言いながら、フレイアは厩舎から出ていく素振りを見せて、騎士に背を向けたまま立ち止まった。
うつむいて心の動きを悟られまいとするかのように。
それでも、少し思い詰めている様子は伝わる。騎士もそれとなく察した。
「ねぇ‥‥もしも、私がレーヴァの領主になれたら‥‥ウォルフはそれでもルシア家の、私の騎士で居てくれる?」
それは、誓約を求める言葉であった。姫君は、黒狼に甘えて見せた。
膝の上で抱っこをせがんでいた幼い頃の仕草、面影を残したまま。
突然の要求に、咄嗟に言葉が出ないウォルフガングだったが、慎重に言葉を選びながら胸の内を明かした。
「私の剣のあるじは終生シグルド様です‥‥この身も命も捧げております、剣の誓いにかけて。しかし、いつかフレイア様が領主を継がれることになり、シグルド様がお許しになり、尚も姫様が望まれるのであれば‥‥その時は」
辿々しく話すウォルフガング。
どこまでも従順な黒狼はいつものように、昔のままに静かにそれを受け入れた。
レーヴァの黒狼にとって、剣の誓いはシグルド以外にありえない。シグルド以外にもう誰にも剣を捧げる事は無いだろう。二君に仕える事はできない。
だが、シグルドが隠居してもルシア家に奉仕することに異存などない。
何よりウォルフガングにとって、レーヴァこそが故郷でルシア家が家族である。
「‥‥ウォルフ‥‥」
ウォルフガングにとって、自分は主家の姫でしかないとフレイア自身がよくわかっている。どんなに背伸びをしても父のようにウォルフガングの主君にはなり代わる事はできない。
父の娘だから黒狼は仕えてくれる。
ウォルフガングの揺るがない忠誠心は真っ直ぐにシグルドに向けられている。
父は18歳でウォルフガングから剣の誓いを受けたと聞いている。奇しくも今の自分の同じ歳に。改めてウォルフガングのシグルドを慕う気持ちを思い知ると同時に、初めてフレイアは父が羨ましいと思った。
それでも、 構わない。家族を護りたいと思う気持ちに変わりは無い。
「お願い‥‥ウォルフ、私が居ない間に、もう無茶なことはしないで‥‥」
彼女に比べて、遥かに経験を積んだ頼り甲斐がある熟練の騎士の事が、いつの日からかフレイアには危なっかしくて放っては置けない存在になっていた。
いつもシグルドが家臣であるはずのウォルフガングに対して事あるごとに気を揉んでいた心情が、今になってようやくわかるようになっていた。
幼い頃は2人の関係がとても不思議だったのに。
「‥‥はい、心得ておきます‥‥姫様も、どうかご健勝で」
背を向けたまま、振り返らず歩き出したフレイアを見送る。
その小さな細い背中を、取り残されたように見つめているウォルフガング。
小さな姫君だったフレイアは、騎士のその手から離れて巣立っていく。
しかし、ふと足を止めたフレイアが振り返って見せた。
立ち止まった振動で、彼女の手の中の鈴がコロっと小さく鳴る。
「‥‥ウォルフ!」
フレイアは、おてんば娘の快活な、いつもの笑顔を見せてくれた。
つられてウォルフガングも思わず顔をほころばせる。騎士の顔を目に焼き付けるように、ほんの少しだけ見つめ返すとフレイアは再び歩き出した。
結局、彼女とは王都への出立まで、互いにほぼ話す機会もないまま別離を迎える事になった。だから、ウォルフガングにとって、これが本当の意味での姫君との別れとなった。
ウォルフガングがふと見上げると、窓の外に夏鳥の姿が見えた。
そして一瞬で羽ばたいて消える。迷いなく飛び立っていく姿がみえなくなっても、その向こうに広がる空をただ眺めていた。
今年の夏もヒタキのように駆け足で過ぎて行くような気がした。
王都エリシオンに旅立ったフレイアが、竜騎士となり再びレーヴァに戻る事になったのは、数年後に降りかかった大災厄と呼ばれたデビルの襲撃であった。
【END】
■オチとか考えず、40代になったウォルフとそれぞれ歳を重ねて、その周囲を書いてみたいと。「狼と姫君」(36歳)で一旦ボロボロになってゲーム本編(46歳)には何とか普通の人並みに動けるまでに回復した感じをイメージしているので、40歳時点ではウォルフはまだリハビリ中。ボロボロにした理由は「狼と姫君」で書いた通り、ゲーム本編で戦いでやたら勝てなかった理由付け欲しさに。あと、ゲーム本編でフレイアとのお別れシーンが見たかったなぁ。前半しか会えなかったので。
デビルの傷は神聖魔法を弾く効果(抵抗判定)が有ります。
※ウォルフ40歳 シグルド45歳 フレイア18歳