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狼と姫君

挿絵(By みてみん)

 レーヴァの騎士ウォルフガングは妻の墓前に花を捧げていた。

 花は毎回のようにここに来る途中に立ち寄る店で、花売りに勧められるがままに選んでいるに過ぎない。この無粋な男には花の名前も種類も、良し悪しなど何一つわからない。

 ましてや、妻の好きな花の種類もわからない。彼女のことを未だ理解できていないのだと花を手向けるたびに思い知る。

 花を買う行為は、その確認作業に等しいのかも知れない。

 こんなことを延々と繰り返している姿を見たら、彼女はなんと言うのだろう。

 微笑みかけてくれるのだろうか、やはり呆れるのだろうか。

 もう、そんな事すらもわからなくなっている。

 彼女と実際に一緒に過ごした時間よりも、こうした年月の方がすっかり長くなってしまった‥‥と、抜けるように晴れ渡った空を仰いだ。

 陽射しは傾いて柔らかくなり、小鳥のさえずりが聴こえている。忙しく過ごす日々の中、レーヴァ神殿のこの場所だけはいつも静かな時間が流れている。

 ウォルフガングは36歳になっていた。妻セレーネを亡くして10年が経つ。

 彼女との夫婦生活はわずか3年ほどであったが、まるで昨日のことのようにいつまでも鮮明に心に焼き付いている。同時に、彼女を亡くした時に味わった喪失感と、病弱だった体を気遣ってやれなかった悔悟(かいご)の気持ちは強く心に染みついていた。

 それは時間がいくら経とうと癒されることも色褪(いろあ)せることも決して無い。

 むしろ時が経てば経つほど、後悔は積み石のように重くのしかかってくる。

「時が経つのは‥‥あっという間なのだな」

 高名な主君の側で長く仕え、レーヴァの領民たちにもよく覚えられ、相応の信頼もある騎士ウォルフガングに後添(のちぞ)えの話が無かったわけではない。

 だが、再婚話に首を縦に振ることは一度もなかった。

「私は亡くした妻に、添い遂げる誓いを立てましたから‥‥」

 最後には必ずこう言って申し出を辞していた。幾年月が経とうと、ウォルフガングは彼女との婚姻の誓いを頑なに堅持(けんじ)している。寡黙な男が詫びる言葉を繰り返すのを聞くと、皆がその心の深い痛みに触れた気がした。

 いつしか、この不器用な男に縁談を持ちかける者はレーヴァにはいなくなった。

「‥‥セレーネ、明日はフレイア様の誕生日だそうだ。お前が元気だった頃はまだほんの幼子だったフレイア様が、もう14歳に‥‥」

 墓の前にひざまづき、(いと)おしそうに白い墓石に触れる。

「私が‥‥このレーヴァに騎士見習いに来た頃、お館様は14歳で領主に就かれたばかりだった。私自身、まだ子供だった‥‥」

 思い出される眩しい記憶。

 出会った頃の主君シグルドの年齢に、その姫君であるフレイアが同じ年を重ねたことへの感慨深さと、妻と別れた歳月の長さを噛みしめる。

 愛する者を亡くした喪失感と共に過ごした10年と言う時間は、自分を追い込む鍛練を続けるウォルフガングを剣士として心身共に更に質実剛健(しつじつごうけん)にしていった。

 また騎士としての生き方に、より固執するようになった。

 その分、求道者の例に漏れず気難しい頑固者になったとも言える。

 そうやって自らを孤独に追い込む生き方しかウォルフガングには出来なかった。

 愚かしいまで一徹(いってつ)に逞しくなっても、奥底にある失いきれない愛情深さが男を苦しめ続けている。彼女への想いが黒狼の眼を一層、影の深いものにしていた。

 無口で無愛想な男は、より寡黙な戦士になっていた。

 それでも、生きねばならぬ。我が身を捨てても、誓いを立てた仕えるべき主君、騎士が守るべき民がいる限り。


「ウォルフ!」

 可愛らしい少女の声が飛び込んできた。

 いつもの聞き覚えがある声。

「フレイア様‥‥このようなところに」

 振り返りもせずに騎士は愛想なく応えた。

 しかし、その仏頂面が心なしか柔らかいものになる。

 人前では主従の態度を崩さない厳格なウォルフガングも、ルシア家以外の人目がない時は主家の姫に時折だが親しい態度も見せた。

 明るく快活な少女は戸惑いもなく、無邪気な仕草でウォルフガングの頑健な広い背中に勢いよく抱きついてきた。

 ウォルフガングは、年頃の少女から見れば父親と同じような中年男だが、フレイアがずっと幼い頃からのお気に入りの話し相手だった。

 無口なウォルフガングは、決して楽しい話し相手とは言えなかった。

 自分から積極的に関わってくる事は少ないが、子供扱いせず、いつも穏やかに話を聞いて接してくれる上に、困ったときは必ず味方になってくれた。

 おてんばなフレイアが父親に叱られた時はいつも(かば)ってくれた。

 普段は主家に対して絶対的な忠誠心でルシア家に仕え続ける寡黙な騎士が、フレイアの事になると父親に対立してでも擁護する立場に回り、時には一緒に叱られてくれた。両親がそろって公務で留守にする日の夜は、寂しくないようにと眠りにつくまでベッドの横でずっと座っていてくれる。

 主家に仕える家臣として控える姿勢を決して崩すことはない。

 それでも、フレイアはこの無骨だが篤実な武人を家族同様の親しみを感じていたし、普段から身の回りの世話をしてくれる乳母よりも懐いていた。

 皆が病弱な妹姫を気にかける中、ウォルフガングだけは長姉フレイアをいつも優先していたし、何かと心配をしているようだった。

 記憶にある限りフレイアはこの騎士が一番のお気に入りだった。しかし、いつからそのように感じていたのか、フレイア自身もわからなかった。


 ウォルフガングも主家の姫を、時には自分の娘のように大切に思っていた。

 もしも、妻がいた頃にすぐに子供を授かっていたなら。丁度、フレイア姫と似たような年頃になっていたことだろう。

 今振り返れば、病弱で結婚後にあっという間にこの世を去った妻にはそんな機会はなかったはずだ。それは都合のいい、ただの夢想だと理解していてもフレイア姫を見ているとそう思わずにはいられない。

 セレーネが領主館に訪れていた時に、姉妹のように仲良くしていたシグルドの奥方であるクレアから生まれて間もない姫を抱かせてもらっていた時に、一瞬だけ見せた彼女が秘めていた母親の顔。

「フレイア様‥‥帰りましょう」

 いつかは嫁に行くのだ、娘の父親など何も報われないぞ、とシグルドが酒の席で酔いに任せて嘆いていた日の夜を、懐かしく思い出していた。

 昔のことをこんなに想起させられるのは、この場所のせいだろうか。

「姫様、もうすぐ夕刻にちかい頃合いでしょう、館に戻らねば‥‥」

 おてんばな姫君は不服そうに頬を膨らませた。他の大人の前では立場を(わきま)えた態度を身につけ始めたが、ウォルフガングの前では幼な子のような態度になる。

「お父様ったら、昨日も馬で遠乗りしたことを叱るの」

 フレイアがこんな墓地に来たのは、勿論偶然ではなくウォルフガングを追いかけてきたからだ。父親への不満を聞いて欲しかったのだ。

 領主の長姉と言う立場上、多少の(はばか)れることもこの騎士には遠慮なく言える。

「それは‥‥お館様がフレイア様のことを、とても大事になされているからです」

 遠乗りした挙げ句に道に迷い、ちょっとした行方不明騒ぎになったのだから、シグルドの説教も当然なのだが‥‥ウォルフガングは黙っていた。

 姫の捜索に駆り出されて走り回ったのは、当然だがウォルフガング自身も含まれている。その後、娘を叱責するシグルドを(なだ)める方が大変だった。

「私はいつまでも心配されるような子供じゃないのよ。14歳になるんだから!」

 年頃の娘は父親を避けたがると言うが、フレイアも例外ではないことを改めて認識する。姫君ではあっても、中身は普通の少女なのだ。

 父の叱責など、思春期のフレイア姫には何の功も成さなかったようだ。

 シグルドが嘆いてた顔が思い浮かんでウォルフガングは苦笑する。

「そう‥‥ですね。お館様はその年でご領主となられたのですから。それを妻に話していたのです。さぁ、一緒に帰りましょう」

 普段は見せない(うれ)いを帯びた表情で亡き妻の墓を一瞥すると、フレイアの肩を抱いて帰宅を促した。

「姫様に何かあれば、私はお館様に顔向けできません。それに‥‥お館様だけではなく、このウォルフにとっても‥‥フレイア様は、とても大切なお方なのです」

 口ごもり、言葉を選びながら辿々(たどたど)しく話すウォルフガングの言葉を、フレイアは心地よく聞いていた。流暢(りゅうちょう)では無いが、その言葉から確かな愛情を感じられる。

 普段から寡黙で、あまり会話の機会もないウォルフガングに話しかけられてるのがフレイアは嬉しかった。

「どうか、私と共に‥‥館に戻ってはいただけませんか、フレイア様」

 節くれだった固くて厚い大きな手の感触が優しくそっと押す。

 この不器用な騎士から特別な気遣いを受けている、という実感を得られただけでフレイアは何に怒っていたのか忘れてしまえるほど、すっかり気持ちが鎮まっていた。本当は叱られた話など口実に過ぎない。

「そうね、ウォルフが困るのは私も困るから。一緒なら、帰ってあげる」

 フレイアは、照れ隠しに口を尖らせてみせた。

 恐れ入ります、と騎士は穏やかに答えた。

 少女がこんな場所まで追いかけてきた、もう一つの理由。

 それが、この墓に花を捧げに出かけるときの彼の表情だった。

 一人にしておくと、そのままどこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな陰を背負っていた。いつも近くにいて安心感をくれるウォルフガングだが、この時ばかりはなんだか悲しげで遠くに感じる。フレイアの中で理由のわからない不安を感じていたが、それを聞くことができなかった。触れてはいけない気がした。

 その気持ちを払拭(ふっしょく)するように、以前から気になっていたことを訊ねてみる。

「ウォルフの‥‥左の頬の傷って昔からあるけど、どうして付いたの?」

 鋭利な刃物か何かで切り裂かれたような大きく目立つ古い傷痕があるのを、幼い頃から何となく気にしていた。

 今までも聞いてみたことがあるが、いつもはぐらかされていた気がする。

「これは、私の未熟さが招いた傷です」

 穏やかな表情の中にも、わずかに自嘲(じちょう)が含まれている。

 黒狼の中で、唯一のアリア人を思わせる深い濃緑色の瞳に優しく鈍い光を見せられると、快活なフレイアでも何も言えなくなってしまう。

 結局、また誤魔化されてしまった。


 その翌日の昼過ぎに、ささやかながらフレイアの誕生日の祝い席が用意された。

 病弱で床に伏せがちの妹姫のフェリシアも笑顔を見せている。

 しかし、その席にウォルフガングの姿が見あたらなかった。

「お父様、ウォルフはどこへいったの?」

 顔を出すようにお願いして、それを約束してくれたのに。

「ああ‥‥昨夜のうちに、近くの村の者から家畜を襲われたという急な報告があってな。ウォルフに様子を急ぎ見てくるよう頼んだのだが‥‥なんだ、まだ戻っておらんのか?」

 レーヴァの領主で、フレイアの父であるシグルドは少し心配げに表情を曇らせた。父がこのような表情を見せるのは珍しい。

「あいつのことだ、滅多な事でもない限り‥‥大丈夫だと思うが」

 フレイアの心に不安の影がまとわりついて離れなかった。


「くっ‥‥」

 深く切り裂かれた左の利き腕の傷が、ウォルフガングの剣を鈍らせていた。

 家畜が襲われた村で一晩中見張りを続けた後、夜明けと共に周辺の見回りをしていたウォルフガングは、近くの森に血痕が続いているのを見つけた。おそらく、襲った家畜を引きずっていったものと思われる。

 何かの獣だろう。残っている足跡から察するに野犬の類か、あるいは‥‥狼か。

 そういった野生動物は確かに生息している。しかし、この近隣では今まで家畜を襲うという報告などは聞いたことがない。

 何か原因がわかるかもしれないという思いから、丹念に周辺を探索した後、一人で森の中へ足を踏み入れていた。

「‥‥はぁ‥‥はぁ‥‥」

 そして、襲撃を受けた。不意の一撃で、左腕を噛み裂かれてしまった。

 恐らく必殺の一撃に近かったに違いない。

 とっさに狙われた首をかばって思わず利き腕を出してしまったが、運が悪ければ頚動脈(けいどうみゃく)を切られて命を落としていただろう。

 滴る血の臭い。低い唸り声、輝く目。

 その姿は狼のようであったが‥‥恐ろしく大きい。

 狼というより、まるで牛や馬ほどもある化け物だった。

 正体は‥‥デビル。気配そのものがデビルである事を雄弁に語っている。

 つまり、普通の攻撃が効かない。聖騎士や竜騎士、神聖魔術師の特殊な力でも無い限り、傷1つ負わせる事も出来ない相手だ。

 周囲には普通の狼もかなり多数潜んでいるのがわかるが、それを忘れてしまいそうになるほど、目の前の魔獣の威圧感は凄まじかった。

 ウォルフガングの荒い呼吸音が森の深淵の闇に響き渡る。

(何故だ、何故デビルが‥‥)

 急ぎだったとは言え、革鎧の軽装で来た事が改めて悔やまれる。

 いや、重装備があったとしても、デビル相手に何の意味も成さないだろう。

 事態が予想を遥かに超えていた。

 とにかく、今は逃げるしかない。

 ウォルフガングの本能が警報を鳴らしている。激痛で震える腕で剣を握り直すと、獣から目を離さないまま、少しずつ下がり始めたが、動いた分だけ獣はじりじりと迫ってくる。一向に距離をあけられない。

「‥‥はぁ‥‥はぁ‥‥」

 獣の術中に嵌められてしまった、と感じていた。

 しかし、このまま道を引き返すのはまずい。

 村に逃げれば、この魔狼と群れを連れて帰ってしまう。

 騎士見習いの少年時代から顔見知りである村人たち一人一人の顔を思い浮かべて、ついにウォルフガングは足を止めてしまった。騎士としての責務がウォルフガングの中の恐怖心に打ち勝つ。

 彼らを巻き込むことなど、到底出来ない。

 もう逃げ場はない、騎士は覚悟を決めた。

「いいだろう、来い‥‥だが、レーヴァの騎士はそう簡単にはやられんぞ‥‥」

 そして、機を悟った獣は攻撃の咆吼を上げる。

 唸り声をあげて、手下の狼たちが一斉に飛びかかってきた。


「なんだと‥‥」

 シグルドが厳しい表情で振り返る。

 昨夜の村人から、ウォルフガングが森の探索に出たまま戻らないと再び報告があった。とても嫌な予感に苛立ちすら湧き上がる。

 まずい。すっくと立ち上がるシグルド。

「危険な森ではないのです‥‥旦那様。けど、村のもんは家畜が襲われたのが怖いというて、誰も探しに行けないのです」 

「‥‥私が行く、支度しよう」

 シグルドは着替えもそこそこに、レーヴァが誇る守護竜騎(ドラグーン)『レヴィア』の元に向かった。自然と足が速くなる。

 天使様の加護と信仰が厚いアリア王国で、まさかとは思うが‥‥脳裏をかすめるのは、あの日の記憶。突然現れた不浄なデビルに襲われた事件を。


 一方、フレイアは‥‥すでに馬で村に向かっていた。

 胸騒ぎが収まらず、じっとしていられなかった。

 誕生日の祝いの席で着ていたドレスを脱ぐ手間を惜しんで、そのまま愛馬を駆っていた。

 村はそれほどレーヴァの街から遠い場所ではない。

 詳しい居場所の検討はまるで付かなかった。

 しかし、フレイアは迷うことなく勘を頼りに走らせていた。

 とにかく、近くまでいけば何かわかるに違いない、と。

 村への近道にと街道から外れ、森の側を通った時。

 その恐ろしい唸り声が聞こえた。

 グォォォォォ‥‥。

 一瞬、背筋が凍るほどの不気味な声に戸惑う。

 だが、恐れを振り払い、フレイアは声のする方向へ馬を進めていく。

 そこには少女の、柔らかな表情は消えていた。

 厳しくも決意を秘めた眼差し。

 彼女はやはり父と同じ、戦士の血を受け継いでいた。


 軽装の革鎧は狼たちの牙を弾くには十分の強度があった。

 だが、すべてを防ぐにはあまりに敵の数が多く、鎧も体の全てを覆っているわけではない。激闘の痕跡が狼の死体の数となって現れている。斬り捨てた狼と、牙に裂かれたウォルフガング自身の血飛沫によって、あたりを赤く染め上げていた。

 ギャフッ!

 騎士が剣を振るうたびに血煙が舞い、獣の(しかばね)が増えていく。

 この攻防がどれくらい続いたか、汗を滲ませて尚もウォルフガングの剣技は鈍らない。持久戦に合わせて少ない力で効率よく敵を始末している。

 長年の鍛練は騎士を裏切らない。

 狼の群れより離れた位置でデビルは睨みを効かせている。

 しかし、終わりの見えない戦いに、ウォルフガングの疲労も頂点に達していた。

 ガンっ!

 振り抜いた剣が岩に当たり弾き返された。衝撃で体勢が崩れる。

 隙を縫って狼が飛びかかる。

 再び剣を持つ傷ついた腕に牙が突き立てられた。

 狼は噛みついた顎を左右に激しく振り回す。肉が裂け血が噴き出した。

「ぐ‥‥っ!」

 鈍い音を立てて、剣が地面に落ちた。

 執拗に攻撃を受け続けた利き腕は痛みの感覚すら無くなっている。

 それを合図にウォルフガングの四肢を狼たちが食らいつき、抑え込む。

 引きずり回されて地に倒れる。

 獣とは思えない統率された動きに為す術がない。

 今までその様子を眺めていた、あの巨大な魔狼が近づいてきた。

 ‥‥笑っている。

 ウォルフガングは直感的にそう感じた。

 獲物を見下し、(なぶ)り殺そうと睥睨(へいげい)する支配者の目。

「させるか‥‥!」

 死力を尽くして狼を振り払おうとしたとき、魔狼の前足が騎士の胴を踏みつけてきた。さらに巨大な雄牛くらいはあろうかという体重をかけて、足をめり込ませてくる。

 ボキッと鈍い音と振動が身を貫く。

「ぐふっ‥‥!」

 息が詰まる衝撃に、ウォルフガングは低く呻く。

 めりめりと生々しい音を立てて胸の骨が軋むのを感じる。

 目の前に巨大な顔が近づき、牙が見えた‥‥。

 重く咳き込み、ウォルフガングは血を吐く。


「ウォルフ!」

 フレイアが馬で駆けつけたとき、ウォルフガングは今にも化け物のような狼に噛み砕かれようとしていた。

 必死の行動で考えなどない。大胆にも馬ごと突進した。さしもの魔獣も疾走する馬に全力でぶつかられては、転がされずにはいられなかった。

 その衝撃でフレイアも鞍から振り落とされる。

「フ、フレイア様‥!?」

 突然の出来事に驚いたのはウォルフガングも同じだった。

 自分に向かって飛ばされてきた少女を、とっさに手を伸ばして受け止めた。

 手足に噛みついていた狼たちは、すでに離れて様子を伺ってる。

「ウォルフの馬鹿! 探したんだから!」

 しっかり抱き留めてくれたウォルフガングにしがみついた。

 その腕が血潮に濡れていることに気が付く。

 傷の大きい左腕は力なく垂れ下がっている。

 いや、腕だけではなかった。

 鎧も衣服も噛み裂かれ、あちらこちらから出血している。普段の見慣れた姿が血に塗れる様子は、フレイアにとって衝撃だった。

「いや‥‥ウォルフ、こんな‥‥」

 ウォルフガングの状態に絶句するフレイア。

 彼女にとって、揺るぎない強さと安心感の象徴のような守護騎士が、今は見るも無惨な姿を野晒しにされている。そして、家族同然の騎士をこのような状態に貶めたのは‥‥。

「姫様が‥‥何故‥‥いや、今は早くお逃げください」

 ひゅうひゅうと咳き込みながらウォルフガングは少女の体を助け起こす。

 呼吸の合間に血を吐いている。

 自分の身は思うように動けず、騎士は半ば覚悟も決めかけていた。

 だが、フレイアが現れたことで諦めるわけにもいかなくなった。

「化け物‥‥絶対に許さない! よくも、よくも‥‥!」

 フレイアは目の前の恐怖より、激しい闘争心に心を支配されていた。

 髪が逆立ち燃え上がる炎のように揺らめく。

 フレイアの全身から淡い輝きが湧き上がり始めている。

「い、いけません!」

 そばに落ちていたウォルフガングの剣を拾うと無謀にも魔狼に向けて構え、凛とした眼差しで睨み返す。

 その背中で、ウォルフガングを庇いながら。

「姫様‥‥逃げてください!」

 ‥‥また、笑っている。

 魔獣の目は、小賢しい獲物を嘲笑(あざわら)っていた。

 そして、巨大な牙を向けてきた。

「うわあああああ!」

「‥‥!」

 フレイアの叫びと共に目に見えない衝撃波が少女の体から、魔獣に向けて放たれた。デビルは雄叫びをあげて、巨大な体が怯んだ。

 それは『闘気』、オーラとも言われる力。

 通常の物理攻撃が効かないデビル相手では、神聖魔法や竜騎ドラグーン以外で唯一対抗できる力と言われている。

 しかし、訓練した騎士でも滅多に使えるものではないし、使ったとしても凄まじい体力の消耗を強いられる。

 常識的に考えても、こんな少女が使えるものではない力。

「フレイア様!」

 少女の体が崩れ落ちていく。

 特殊な力の発動に耐えかねたのか、そのまま失神してしまったようだ。

 這いずるようにしてフレイアの元に身を寄せると、ウォルフガングは少女の体を抱きかかえた。

「なんと‥‥フレイア‥‥様‥‥」

 こんな少女の細い体で‥‥全身で庇ってくれたフレイア。

 グォォォ!

 怒気の渦巻く魔狼の唸り声が、ウォルフガングを現実に引き戻した。

 闘気は獣の体の一部を焼いて怯ませた程度で終わり、逆にそれが魔獣の怒りに火を付けた。余裕の態度は消え、みなぎる殺気を撒き散らせている。

「姫様は‥‥やらせん‥‥!」

 今の自分ではまともに戦えぬと悟ったウォルフガングは少女の体を抱き寄せると、うずくまるような姿勢で地面に寝かせて、自分の体を覆い被せて伏せた。

 もう、こうするしか無い。

 フレイアがここまで来たということは領主館まで何らかの連絡が届いたのだろう。だとすればシグルドが動く可能性も捨てきれない。万が一の救援の可能性に賭けて、時間稼ぎが出来れば‥‥フレイアだけでも助けられるかもしれない。

 どちらにしても、自分はこの窮地(きゅうち)を切り抜けられる身ではなかったのだ。

 せめてフレイアを、主家の姫君を無事に返さねばならない。

 お館様さえ来てくれれば‥‥。

 あの日と、同じだ。こんな時になって、まだ赤子だったフレイアを魔物から守った時の記憶が甦る。

 いや、今回守られたのは‥‥むしろ自分の方だった。

 ガァァァ!

 魔狼の牙がウォルフガングの背中に突き立てられた。

 普通の狼にはあり得ない角度で蛇のように(あぎと)が裂けて大きく開き、牙を剥き出しにしている。巨大な牙が深く食い込み押し込まれていく。

 騎士の鍛えた筋肉をも難なく切り裂く。

「‥‥っ!」

 しかし、ウォルフガングは身じろぎもしない。

 ならばと、顎の力を強める魔狼。

 骨が軋み、肉が裂け、生ぬるい血で濡れる感触が肌を伝う。

 それでも、盾になってる騎士の体は微動だにしない。

 さらに牙を振るいウォルフガングの背中をえぐりとらんばかりに噛み散らす。

 先に負傷したウォルフガングの左腕にはデビルに従う狼たちが執拗に攻撃を仕掛けて来る。もう左腕は何の感覚もない。せめてもの抵抗にまだ動かせる右腕で、腕を狙う狼を殴りつける。興奮した狼たちは波のように次々と襲いかかってくる。

 外套は裂け、鎧は引きちぎられ、厚い筋肉に牙が何度も食い込む。

 歯を食いしばり、騎士は苦痛に耐えている。

 更に魔狼はその巨体で体重をかけて潰さんばかりに何度も背中から踏み抜く。

 フレイアに衝撃がかからないように腕と足で踏ん張り耐える。

 鈍く骨が折れる激痛に声も出ない。

 ゴフッ‥‥ゲブッ‥‥

 折れた肋骨が刺さり、たまらず咳き込んで吐血をする。

 しかし、激しい痛みがウォルフガングの意識を支えていた。

 その眼はまだ死んではいない。

 獣の牙が届かないように、その身を使いフレイアを庇う事だけに集中している。

 魔狼は盾となる身体を食い千切ろうと、獰猛な牙を容赦なく打ち振るう。

 ドスッ‥‥ドスッ‥‥

 巨大な牙が背中に打ち込まれるたびに、意志とは関係なく反射的に全身がビクンビクンと跳ね上がる。

「がああっ‥‥ぐおぅ‥‥!」

 その背骨を軋ませる衝撃と激痛に、ウォルフガングからついに声が漏れる。

 だが、騎士の厚い肉体は破壊することが出来ない。

 しぶとい獲物に怒りに燃える魔狼はその背中から牙を抜くと、獲物の喉笛を噛み砕く為に狙いをつけて回り込んでいく。

 ウォルフガングはその気配にも、身動き一つできなかった。

 もはや、抵抗する力は残されていない。

 それでも、何としてもこの少女だけは守りきらねばならない。

 自分が斃れたら、次に狙われるのはフレイアだ。

「フ‥‥レイア様‥‥!」

 それは駄目だ、かつて姫をデビルから守ったあの日から、何があっても護り続けると誓ったのだ。しかし、気力に身体がついてこない。

 すでに指一本すらも自由に動かせない。

 その中にあっても、レーヴァの黒狼の眼は闘志に燃えていた。

「来い‥‥私は、まだ生きて‥‥いるぞ」

 ゲブッ‥‥ゴフッ‥‥

 一撃でも長く耐え切れば、あるいは。

 少しでも動きを牽制しようと顔を上げて魔狼を睨みつけようとした。

 まさに、その時。

「そこまでだ!」

 竜の咆吼の様な、重圧の響きと共に魔獣の背後から現れたのは‥‥。

 それは、地のミドルドラグーン、レーヴァの守護竜騎『レヴィア』。

 見上げてそびえ立つ、巨大な竜を(かたど)った雄々しい鎧武者のその姿。

「お、お館様‥‥」

 ああ、助かった。ついにフレイア様を守り抜けたのだ。

 役目は‥‥果たせた。

 竜を模した騎士鎧のような地のミドルドラグーンの巨躯が、まるでその重量感を感じさせない、演武のように流れる動きで大剣を構える。

「破岩斬!」

 竜騎士シグルドから練り出された闘気が、竜騎によって更に増幅され、巨大な剣と共に弧を描いて放たれる。

 勝負はその一瞬で終わった。

 『レヴィア』の巨体では大きさが比較にもならない。

 魔狼は声をあげる暇もないまま、呆気なく首を刎ねられた。

 ドラグーンの剣が触れるまでもなく、剣圧だけで切り裂いている。

 無駄のない洗練された剣技の中にも、抑えきれない怒りの爆発が込められていた。やがて、魔物はあたかも最初から存在しなかったかのように、そのまま塵となって消えていく。ドラグーンはその存在意味を示すように絶対悪(デビル)を滅した。

 レヴィアが纏う炎のように燃え上がる闘気を怖れたのか、たくさんいた狼たちは四散して姿を消してしまっていた。

 あるいは、魔獣が滅んだことで、支配の呪縛から解放されたのか。

「なんてことだ‥‥」

 仕留めた魔物を気にとめる様子もなく、レヴィアの操縦席から転げ落ちるかのようにシグルドが駆け下りてきた。 

「フレイア!‥‥ウォルフ!」

 ようやく、ウォルフガングは伏していた体をフレイアから引き離すと、まだ生きている右腕で少女の体を抱きかかえてシグルドに差し出した。

「お館様‥‥フレイア様は、私のために‥‥」

 青ざめた顔でシグルドは娘の体を受け取る。確かに意識は無いが、無傷のようだった。むしろ、かすり傷一つ付いてないように見える。

 娘の無事に安堵するも、フレイアの体を濡らしている大量の血はウォルフガングのものだということを悟る。

「も‥‥申し訳‥‥ありません‥‥お館‥さま‥‥」

 フレイアを父親の手に戻した瞬間、気力で持ちこたえていたウォルフガングの体は崩れ落ちた。

 シグルドは娘を慎重に地面に寝かせるとウォルフガングを抱き起こした。

「くそ‥‥なんという有り様だ‥‥おい、ウォルフ‥‥? ウォルフ!」

 その傷付いた姿に、かつての記憶が重なる。

 我が身を斬り裂かれるような思いに、シグルドは顔を歪めた。

「おまえは‥‥またも娘のために、こんなことを‥‥しっかりしろ!」

 思わず強く体を掴んだ手に、ぬるりと生暖かい血肉の感触が伝わる。

 一目でわかるほど、背中と腕の傷が重篤である。

「嗚呼‥‥馬鹿野郎! ちくしょう‥‥ちくしょう‥‥!」

 思わずシグルドから悲痛な怒号が出た。

 娘の盾となりかばい続けた背中はズタズタに傷つけられ、左腕は無惨に裂かれた肉の間から白い骨が突き出して見えている。特に腕は騎士として再び剣を握る事ができるかどうかわからないほど酷い。

 だが、そんな事はいい。命さえ無事ならば。生きてさえいてくれれば。

「頼む、ウォルフ‥‥しっかり気を持て! 私の言うことが聞こえるか!」

 主君の声に反応して、瀕死の男は虚ろな目を開いた。

「待ってろ、今すぐ運んで手当してやる。心配するな、傷は浅い」

 自らの上衣を脱いで引き裂き、手早く止血処置をしながらシグルドは励ます。

「があ‥‥ぐぶっ‥‥」

 ごぼごぼと血の泡を噴きながら大量に吐血し、むせかえる。

 そのまま混濁した意識は暗闇に落ちていった。


 ウォルフガングが気が付くと、そこは闇の中。

 深手を負ったままの状態で倒れている自分に気が付いた。

 しかし、自分の姿以外は何もみえない。

 何故ここにいるのか、何故こんなに傷を負っているのか、意識が朦朧としてよくわからない。見る限り、我ながら酷い有り様だ。しかし、見た目ほど痛みはなく感覚も鈍い。

 汚泥の中で足掻くようで、思うように体を動かすことは出来ない。 

 やがて、闇の奥で小さい光が差しているのが見えてきた。

 あれが、出口だろうか。

 光が時折遮られるようにゆらゆらと揺れ動く。

 誰かが歩いてくる姿のようだが、逆光でよく見えない。

 ぼんやり眺めていたが、やがてその姿に気が付いた。

「セレーネ‥‥」

 妻の姿だった。

 亡くしてから、どんなに望んでも夢にすら見ることも出来なかった彼女の姿がそこにあった。ウォルフガングは血に染まった震える手を伸ばそうとする。

 彼女に少しでも近寄りたかった。もっと近くでその顔が見たい。

 それなのに、顔だけが霞んでよく見えない。

「セレーネ、私だ‥‥」

 這いずっていこうとするが、実際はのたうつばかりで動けない。

 もう一度、懸命に手を伸ばそうとする。

 セレーネはあと少し、というところで立ち止まってしまった。

 思わず、彼女はその手を伸ばそうとするが、慌てて引っ込めた。

 ただ、彼女は哀しそうに首を横に振っていた。

 傷を負って血の海に悶え苦しむ夫の姿を眺めながら悲痛な表情を浮かべている。

「おまえ、泣いてるのか‥‥どうしたんだ‥‥何があった」

 手を伸ばすと、彼女は一歩ずつ下がっていく。

 何か言おうとする口元が見える。

「私だ‥‥ウォルフだ‥‥待ってくれ‥‥」

 どうにかして聞き取りたかったが、何も聞こえなかった。

 ゆっくり滑るように、どんどんその姿は遠ざかっていく。

「お願いだ‥‥私を置いて、行かないでくれ‥‥セレー‥‥ネ」

 遠ざかるセレーネの姿と共に、再び意識も闇に落ちていくのを感じる。

 セレーネが微笑みながら涙を流しているのが最後に見えた。

『あなたは‥‥べき役目が‥‥まだ‥‥でしょう?』

 何か言葉が聞こえた気がしたが、ウォルフガングにはもう届かない。

 そして、何も分からなくなってしまった。


「気が付いたのか‥‥?」

「いえ、うわごとです、旦那様。その‥‥奥方様のお名前を何度も」

「‥‥そうか」

 そんな会話が耳に届いて、混濁している意識のままウォルフガングの目が開いた。ぼんやりしていると、心配そうに覗き込むシグルドの顔があった。

 以前にも、こんな景色をみたような気がする‥‥と、他人事のようにウォルフガングは考えていた。

「ウォルフ!」

 力強く響く主人の声に、散漫だった意識が徐々に覚醒してきた。

 そうだ、窮地にシグルドが駆けつけて‥‥デビルを一撃で葬り去ったのだ。

 滅多に見ることのない『レヴィア』の勇姿。

「お館様‥‥お見事‥‥でした」

 口の中が乾き切って掠れた声しか出なかった。

「ああ、天使様に感謝せねば‥‥やっと目覚めたか、この大馬鹿者め」

 シグルドの厚い手がウォルフガングの頭をくしゃっと優しく撫で回した。

 あれから、3日ちかく昏睡状態だったらしい。

「こうやってお前が誰かの為に傷つく姿を見せられたのは、これで何度目だろうな‥‥なぁウォルフ、なぜお前はいつもこうなるんだ‥‥ウォルフ‥‥」

 感情を隠そうともしないシグルド。その表情は苦悶に歪んでいる。

 主君の見せる安堵と哀しみの表情を、ウォルフガングはぼんやりと眺めていた。

 レーヴァの神聖魔術師と医者に徹夜で治療にあたらせたと言われた。

 魔物の事件は王都へ報告の使者を出すほどの騒ぎになったが、その後は何も起きず、村には再び平穏が戻ったようだ。

 気がかりだったフレイアはすぐに意識を取り戻して、今は領主館に戻り元気でいるとシグルドは説明してくれた。

 どうやら自分は現場近くの村に運び込まれたらしい。

 ふいに‥‥フレイアが窮地に駆けつけてくれた時に、彼女の着ていたドレスを思い出した。おそらく誕生日の晴れ着だったに違いない。

「姫様の大事なドレスを、血で汚してしまいました‥‥」

 寝ぼけたような物言いに、シグルドは半ば呆れ顔になっている。

「何を言ってるのだ。娘がお前の姿を見てどれだけ心配をしていたか」

 急ぎの用は無いからと公務そっちのけでウォルフガングの側に付いていたシグルドは、自分のことをすっかり棚に上げていた。

「ウォルフガング様‥‥ありがとうございます」

 見覚えがある村人がシグルドのそばにいた。

 たしか、大工の親爺だ。昔、セレーネとの新居を建てるときに、建築を頼んだのを覚えている。

 ‥‥そうか、この村の者だったのか。

「村のために、こんな‥‥」

 親爺が渇いた唇に冷たい井戸水を少しずつ飲ませてくれた。

 喉が潤うと深呼吸をして、ひと息ついた。

「いや‥‥誰も、傷つかなくて良かった」

 騎士のその言葉に、シグルドは深い溜め息をつきながら呆れた様子で頭を振る。

 ウォルフガングの腕の傷は何とか癒える見込みが出来たものの、神経を深く傷つけた為か強く掴む力までは完全には戻らないだろうと神聖魔術師に言われていた。

 ほぼ千切れかけていた左腕はもちろん、胸骨や肋骨の粉砕骨折、背骨から脊髄へ圧迫骨折のダメージは経過観察と継続的な治療が必要だと指示された。

 何かの力が治癒魔法に抵抗して完全には治せないのだ、とも。

 剣を振るうことはおろか、物を掴む事すらこれから不自由するだろう。

 大変な回復訓練も必要だろうし、仮にそう出来たとしても剣を扱う能力は大きく落ちるかもしれない。

 剣の道一筋に生きる騎士にとってそれが何を意味するか、日々の鍛練をウォルフガングと共に歩んできたシグルド自身が一番よくわかっている。

 だが、その騎士道精神は、どのような歴戦の強者にも劣らぬであろうと、領主として主人としてシグルドはこの無骨者を誇らしく大いに誉めてやりたかった。

 しかし、ウォルフガングは違った。

「お館様‥‥その、私の腕が‥‥もし剣が握れなくなったその時は‥‥騎士位を返上して‥‥おいとまを‥‥どうかお許しください」

 狼から傷を受けて拝領の、忠義の証でもある剣を耐えきれず落としてしまった時からウォルフガングは覚悟はしていた。敬愛するシグルドの騎士である以上、その役目を果たせなくなることを何よりも恐れていた。

 ウォルフガングはそう言う男であった、とシグルドは改めて思い出した。

「大馬鹿者! それを決めるのは私だ。お前を騎士に育てた主君である私の責務に置いて、私が決める。勝手は許さん。まかりならぬ。この度のことは村の様子を見てこい、そして何かあれば対処しろと命じたのはこの私だ!」

 シグルドは叱責する。

 拳を握り、微かに震わせて悔しさを滲ませる。その胸にはレーヴァの領主になってから共に歩んで来たウォルフガングとの日々が去来していた。

「たとえ腕を切り落とされようが、ウォルフガング、そなたは私の騎士だ‥‥お前の剣も命も私のものだ。故に我がレーヴァの民と、ルシア家のものだ!」

 シグルドは仁王立ちになり、剣を革帯から外して鞘ごと床に立てると、正面からウォルフガングを見据えて宣言した。

「これよりこの者をルシア家の筆頭騎士として命ずる。これに異議を唱える者があれば決闘をもって申し出よ、いつでもレーヴァの竜騎士シグルド・ルシア・レーヴァが我が名と正義をかけて受けて立とうではないか。よいか、そう言うことだ、ウォルフガング・ルーベンドルフ!」

 騎士の決闘は、名誉をかけた己の正義の証明である。決闘の結果、勝った者の主張が正しいとされ、負けた者は騎士道においてそれを潔く認めなければならない。

 天下無双の竜騎士シグルドが、決闘を賭けて宣言するその言葉の重さ。

「お館様‥‥」

 シグルドと目を合わせることができなかった。

 主君の熱い想いが込められた言葉に、ただただうなだれた。

「まったく! お前というヤツは‥‥いつまでも手を焼かせる」

 馬鹿者っと言いながら、もう一度その頭をくしゃっと撫でた。

 申し訳ありません、とウォルフガングは小さく詫びる。

 シグルドは安堵と照れ隠しに、主君として掛けるべきねぎらいの言葉を言いそびれてしまった。


 意識が回復した後も、酷い深手の為にすぐには動かせないだろうというシグルドの判断で運び込まれた大工の家でしばらく世話になっていた。

「往診でしばらく街を離れていたんだ。帰りに領主館に寄ってみたんだけどね、シグルド様に聞いてびっくりしたよ。原因は教えてもらえなかったが、これはどう見ても獣のつけた咬み傷だろう? でも、何に噛まれたらこうなるんだ?」

 セレーネを診てくれた医師まで様子を見に来てくれた。

 どうやら、シグルドはデビルについて伏せているようだ。表向きは獣害事件と言う事になっている。デビルの遺骸は残らないのだからその方が良いだろう。

「レーヴァに戻ったら診察させてくれ。ともかく生きていてくれて良かった」

 傷の具合を一通り確認して医師は帰って行った。

「森に散乱してた狼の死体を村のみんなで随分片付けましたぜ。死肉を目当てにまた獣が寄って来てしまうし、狼の毛皮は使えるから」

 世話になっている大工の親爺は呆れたようにレーヴァの守護騎士を見た。

「それにしたって、あんな数を1人で倒したのかい? 騎士様がどんなに強くても、そりゃ無茶だよ‥‥毛皮はたくさん取れたから、皮がなめせたら冬用のマントをお礼に作って差し上げますよ。村のみんなで決めたんだ」

 親爺だけではなく、昔馴染みの村人たちが変わるがわるウォルフガングの手当てから身の回りの世話を焼いてくれた。両親や祖父母に連れられてついて来た村の子供たちまでもが手作りのまじないの護符や、普段おやつにしている森で集めた木や草の実を持ってお礼の言葉を述べていく。

 もしかすると、犠牲にせずに済んだのかもしれない彼らの素朴な姿。それがウォルフガングの心を和ませ、身体の苦痛を慰めてくれた。

 騎士として彼らを守る盾となれたのなら、なんの後悔があろうものか。

 腕や背中の深い傷の快癒には時間がかかりそうなものの、村人たちのおかげでみるみる体力を回復させることができた。

 先にレーヴァに戻ったシグルドは、家の者に朗報を伝えていた。


 ‥‥そして、ひと月後。

「ほら、騎士様。もう着きましたよ」

 村の若者が荷馬車でウォルフガングを領主館まで運んでくれた。

 シグルドの妻クレアが最初に出迎えて、いたわりと優しい言葉をかけてくれた。その後ろから飛び出してきたのは‥‥。

「ウォルフ!」

 フレイアの跳ねるような元気な声。いつもなら体当たりの勢いで飛びついてくる少女も、この時ばかりはウォルフガングの体を気遣っていた。

「姫様‥‥命を救っていただき、ありがとうございました」

 未だに体を充分に起こせないので、寝たままの非礼を詫びつつ礼を言う。

 以前より低くしゃがれた声になっている。

 魔獣の巨体に何度も圧迫された衝撃で喉を潰してしまっていた。

「ううん、いいの。それに助けてくれたのは、ウォルフも同じだもの」

 ウォルフガングの頬に手を伸ばし、古い傷痕を撫でるように触れた。


 今回の騒動の後、両親から聞かされた過去の出来事。

 フレイアがまだ赤子の頃にデビルに襲われた事件。すでに物心付く前から、この不器用な騎士に守られていたことを初めて知らされた。

「その頬に残った古傷はお前の身代わりになったその時の名残だ。あいつがお前に甘いのも、お前を危険に晒したことを未だに悔やんでいるのだ」

 ぼやいた父の目は微かに寂寞(せきばく)の翳りを見せていた。仕事でも私生活でも、父を支えているのはいつもウォルフガングなのに、気を揉んでいるのは父の方だった。

 少女には父親とウォルフガングの関係が不思議に思えた。

「何でも1人で背負い込んでしまうのは、あの子の‥‥ウォルフの悪い癖ね」

 母クレアが寂しそうに微笑んだ。母もいつもウォルフガングを心配していた。

 まるで歳の離れた弟か、息子のように。

「ウォルフは、今回もそなたを守る盾となっだのだ。お前が無茶な事をすれば、その責を負うものが出る。人に仕えられる立場を弁えよ」

 フレイアは父シグルドにそう戒めを受けた。


「ごめんなさい、私を守るためにウォルフがこんな目に‥‥」

「いえ、姫様のせいではありません。私が迂闊(うかつ)でした。そもそも、森に1人で行くべきではなかったのです。結果、姫様の身をまたもや‥‥危険に巻き込んでしまいました。この頬の傷痕も過去にフレイア様に対して同じ過ちを犯した、その罪の刻印なのです」

 騎士は告白した。赤ん坊だった頃、フレイアがデビルに襲われたあの時。

 デビルの出現は想定外にしても、ウォルフガングがフレイアをあやす為に館の外に連れ出したのは不用心だったと言える。

 身を挺して姫を守ったとしてシグルドに済まされた出来事であるが、ウォルフガング自身はそれが自分の過失であるのを忘れた事がない。

「誠に、申し開きの言葉もありません‥‥一度ならず二度までも。姫様、お許しください」

 騎士はただフレイアに許しを乞う。

「ウォルフの馬鹿‥‥本当に心配したのよ。約束してたのに来なかったんだもの。あなたが約束を守らないなんて‥‥とんでもないことになってるんじゃないかって。そしたら、こんなに酷い事になってしまって‥‥心配したんだから」

 ウォルフガングの脳裏に、亡き妻の顔が浮かぶ。

 セレーネにはいつも心配ばかりかけていた。今のこの体たらくを見たら、妻は何と言うのだろうか。

 怒るのだろうか、呆れるのだろうか‥‥それとも、悲しむのだろうか。

 ふと、昏睡の中で見たセレーネの幻影を思い出す。

 (なげ)いていた妻の顔と、今のフレイアの泣きそうな顔が重なる。

 心配をかけてはセレーネに謝っていた時の気持ちが蘇り、フレイアにも申し訳ない気持ちが湧き上がる。

「それに‥‥お誕生日のお祝いに、間に合わず‥‥申し訳ありません」

 お約束をしていたのに、とウォルフガングは少し目を伏せた。

「それは許さない。後で、たっぷり(つぐな)ってもらうから覚悟してよね」

「‥‥はい」

 騎士の太い首に手を回して抱きしめるとフレイアは耳元で『ありがとう』‥‥と小さく囁いた。その短い言葉が、ウォルフガングの胸の奥底を揺さぶる。

「フレイア様‥‥」

 亡き妻が遺した手紙に書かれていた、ありきたりであるが故に心の奥底に刻まれて忘れられない、たった一つの言葉。


「遅い! 遅いぞ、ウォルフ!」

 豪快な声と共にシグルドが満面の笑みでのっそりと現れる。

 ウォルフガングの帰りを誰よりも待ちかねていた様子で出迎えてくれた。

 そして、その声を合図であるかのように領主館にいる門番も使用人たちも気づいてくれたのか、それぞれ仕事の手を止めて、次々と集まって来ては気遣いの言葉と笑顔で暖かく迎え入れてくれた。

 シグルドもクレアも、フレイアも笑っていた。そして皆が笑っている。

 レーヴァの領主館に、再び平和な日常が戻った。



【END】


ゲーム本編ではウォルフガングは剣士としては連戦連敗と言うか「戦いになると勝てない人」的な印象が強い一方で、フレイア姫からの飛び抜けて信頼の厚い存在として扱われてた。筆頭騎士なのに弱いと理由とそれでも重用される功績みたいなのをエピソードを目標に書いてみた。今回の事件から10年かけて回復して、なんとか常人並みになった、くらいの重症を負わせてみた。やっぱりお館様が大好きウォルフとか。戦闘アクションとか。本編でもう少し見たかったな。それらの補完を詰め込んだ感。

※ウォルフ36歳 フレイア14歳 シグルド41歳


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