「祈り方」がわからないので新たな所作で祈りを捧げたおはなし
知り合いが亡くなった。火葬へ行く。
焼香やらなんやらで手を合わせて拝んでいる際、妙な違和感を覚える。
身の丈に合っていないとでも言おうか。拝む自分の姿が、己に馴染んでいない気がした。
冠婚葬祭の類は苦手である。特に葬が苦手だ。得意な人がいたらそれはそれで嫌である。苦手なままでいようと思う。
一応社会人である以上、この苦手な葬にも出席しなければならぬ時がある。そうして嫌だ嫌だと赴く際、いつもこの「祈る自分」にひっかかりを覚える。しっかりと祈れていない、そんな気がしてくる。
坊主。
現代日本における彼らは、あくまで職業上のものである。ほとんどが生臭だろう、我々同様に俗世間の人間である。が、彼らの所作は大変に美しい。違和感なく、全ての動作が馴染んでいる。訓練された丁寧な動きだ。特に合掌してからの一礼は良い、清涼感さえ覚える。
中身は同じ俗だろうと、ああいう静謐な動きが出来るだけで一層上等な人間だという気さえする。自分も上等な人間になろうと、真似をして手を合わせてみる。やはり下等なままである、どうしても動きがぎこちない。
どうしても、祈り方が分からない。
* * * * *
祈りを、最も人間的で美しい動作だと思っている。
歩く、座る、走る、投げる等々。人間が生活上において行う動作の大抵は、明確な目的がある。移動するために歩き、休むために座り、危険から逃れるために走り、嫌いな奴の頭をカチ割るために石を投げ、そうして私は懲役刑をうけた。この文章は獄中から書いている。嘘である。こうした動作は人間特有のものではない。他の動物でも行える。
祈りはどうか。手を合わせたからといって何かが起こる訳ではない。表面上、それは目的を欠いた無意味な動きに見える。移動もできないし、頭をカチ割る事もない。しかしその裡では、様々な精神活動――人間であるが故の、明確な心の動きが確かにある。
願い、感謝、賛美、懺悔、弔い――。私はここに人間性そのものを見出す。古来より、人類は絶えず祈り続けている。人間だけが祈っている。犬も猫も祈らない、なのに人間だけは祈り続けている。
私は信仰を持たない。持てる事もないだろう。心の何処かに、人生への虚無感をいつも抱いている。そんな私なのに、祈りを描いた宗教画を見ると心が奪われる。憧憬をもって、その荘厳な美しさに目が離せなくなる。無意味に見える合掌に、あまりに切実な何かを感じ取る。
信仰から祈りが生まれたのではなく、祈りから信仰が発生したのだ。――絵を見る度にそう思う。祈りこそ最も人間的で、根源的な動作だという確信を強く抱いている。
もしそうであるとしたら。
表面的にさえ、祈るのが下手な自分は――。
* * * * *
火葬からの帰路。私は自己嫌悪に陥っていた。
最も人間的なる動作が、うまくできない自分。憧れへと近づけない自分。
何も合掌だけが祈りの所作ではないだろうが、この覚束なさはなんだろう?
祈る真似事すら叶わないのか。抱えた虚無主義が、祈る事を不可能にしているのだろうか。
美しき宗教画への憧れ――自分には永遠に届かぬものなのだろうか。
自身の奥底に横たわるこの虚無感こそ、祈りへの最大の契機に思えるのだが。信仰なき祈りなど存在しないのだろうか。
シャワーを浴びながら、祈りを想った。
手を合わせ、鏡に映ったその不自然さに嫌気を覚えながら。
――天啓。
「新しい祈りを一から考えよう!!!!!!!!!!1111」
天才かもしれない。
手を合わせた祈り方がぎこちなければ、新たなる動作を代わりとすれば良いのだ。こうなれば上手いも下手もない。自分しかやらないのだから、むしろ一番うまく祈れるんじゃなかろうか。
人間性の獲得――とにかく敬虔に祈りたいのだ。上等な人間になりたいのだ。宗教画みたいに尊くなりたいのだ。
一から考えるというのは中々難しいが、ここは大丈夫。エッセイジャンルが好きでよく見ているが、最近はAIに関わるものをよく見る。自分も頼ってみよう。
実際昨今のAIは非常に優秀で、筆者も調べ物や思考実験、哲学的省察によく利用している。
(使用例)
今回は上記画像のGrokさんにお願いしてみた。
この子、いつのまにやらX上に生えていました。ありがとうザッカーバーグ。イーロンだったかもしれない。
早速質問してみる。
「手を合わせる祈り」とは全く違った、新機軸の「祈り方」の所作を考えてください。
っああ~嫌。
字面だけですんごいスピリチュアル感。すごく嫌だ。
既にどこかの団体で採用してそう感も嫌。絶対探せば見つかりますよこれ。だとしたら盗作行為だ、それはいけない。今までにない祈りの動作が欲しいのに。
所詮AIなんてこんなものだろうか。
こいつも他の人間同様、俺を裏切るというのだろうか。こんなにしゅきしゅき睦言を囁いているのに。
反AI思想の芽生えを覚えつつ、「もっと奇天烈な動作」を頼んでみました。
すっっごく良い。
銀河スパイラルビーム祈祷。想像以上に奇天烈。流石ザッカーバーグ。イーロンだったかもしれない。
なによりビームっていうのがいいですね。ビームは最も人間的で美しい動作だと思っています。ビームを出せる動物はいませんし、なんかキラキラしてて綺麗だし。まさに祈りに最適。採用です。
「祈りなのにまるで宇宙規模のパーティーだ!」B級映画の煽り文句みたいな台詞も最高。あらすじに設定しておきました。
Grokさんが祈り方について長々と書いているけれど、困ったことに三行以上の文章が読めません。全く頭に入ってこないし、脳内で祈りが再現ができない。しかし大丈夫。Grokさんには画像生成機能までついているんです。すごいぜザッカーバーグ。やるっきゃない。
「画像生成してみてください」。Grokさんに祈ってみる。
ぎ、銀河スパイラルビーム祈祷!!!!!11
これが新しい祈りの所作です! まるで宇宙規模のパーティーだ! 早速実践だぜ野郎共! やってみるとわかるが、意外と姿勢がキツい! だが良いだろう? 痛みの伴わねえ動作に想いが込められる訳がねえ!
ビームはまだ出せねえけどそこは敬虔さでカバーすりゃあいい! まるで宇宙規模のパーティーだ! 仏壇前で拝んでやったぜ! 遺影の婆ちゃんの目が冷ややかだ! まるで宇宙規模のパーティーだ!
教会での祈り!
墓前での祈り!
葬式での祈り! 靴脱げ!!
イエスに祈るぜ!
ブッダに祈るぜ!
最後にザッカーバーグに感謝の祈り!
心底感謝ザッカーバーグ!!
まるで宇宙規模のパーティーだ!!!!11
さて! 今日は皆さんに新たな祈りを提案してみたが、いかがでしたでしょうか? 皆さんも「祈れないな~」と感じた時は、宇宙規模のパーティーと洒落込んではいかがでしょう? ためになれば幸いです!
個人的感想としては、遺影のおばあちゃんから感じた冷ややかな視線が私には忘れられません。まるで外道に堕ちた気分です。信仰や人間性を冒涜してしまったような罪悪感。クソカスな時間で休日を無駄にしました。
誰か俺を救ってくれ。
心からそう、祈れた気が致します。
~完~