第五話 風のしるべ
2025.05.19改稿
第一章 仮面の影
第五話 風のしるべ
竹の葉が風に鳴っていた。
陽はまだ高くないのに、地表からは夏の名残の熱気が立ち上っていた。
だが、風は確かに変わり始めていた。ひんやりとした気配が、草や木々の間をすり抜けるように通ってゆく。
暁狐は、面をつけていた。
屋敷の敷居を越えるとき、清雅は何も言わなかった。ただいつもより丁寧に紐を結び、最後にその肩を、ぽんと一度叩いただけだった。それは、言葉ではない承認──『行け』と、静かに背を押す仕草。
仮面の視界は、狭く、歪んでいる。
だが、暁狐は恐れなかった。面の奥で、深く息を吐く。息を吐くたび、曖昧だった輪郭が、確かになっていくようだった。
竹林の小道を抜ける。
すでに何度か歩いた道。けれど今日は、違う。
町へ出る。
誰かの視線を受ける。
面をつけたまま、名を名乗らず、それでも歩いてゆく──そのことが、どれほどの孤独と勇気を要するのか。
けれど、進む。
風が背を押していた。草の香りが、夏と秋の狭間を告げていた。
小さな用水路が脇を流れていた。
透明な水が、仮面の奥にも涼やかな音を届ける。ふと、前を蜻蛉が横切る。すっと、翅音を残して高く舞い上がった。
面の中に息がこもる。
熱と、汗と、仄かな湿った匂い。けれどそれすらも、今は自分のものだった。
田畑を抜け、人の家が点々と現れ始める。
(……この辺りに、あの犬と少女がいたはず……)
自然と、足が止まる。
あの犬──鬼丸。その横に立っていた少女の姿。面越しに見た柔らかな表情と、臆せずに話しかけてくれた声。
なぜか、また会えたらと思っていた。
だが、見つからなかった。
しばし辺りを見渡し、それから、ゆっくりとまた歩き出す。
──何を、求めていたのだろうか。
仮面の奥で、唇が小さく結ばれた。
やがて、道が町の方へと続き始める。
家々が密になり、軒先から夕餉の香りが立ち上る。炊煙が薄く棚引き、道には人の気配が増してくる。
そのとき──
「わんっ!」
脇道から、甲高い吠え声が響いた。
反射的に足が止まり、仮面越しに視線を向ける。
そこにいたのは、大きな犬だった。
栗色の毛並みに、紅の布を首に巻いている。
そして、その傍らには──見覚えのある少女の姿。
「……鬼丸?」
面の奥で、名が漏れる。
犬が一歩近づき、くーんと喉を鳴らす。
少女が、こちらに気づいた。
ぱっと目を見開き、けれどすぐに笑みを浮かべた。
「……あ、あのときの方」
少女は、そっと頭を下げる。
その仕草に、暁狐の中の何かが、ふっと和らいだ。
「また会えるなんて、思いませんでした」
仮面越しに、その声は柔らかく響いた。
鬼丸が、暁狐の足元に寄ってくる。ぺろりと面の下の手を舐めた。
それは、再会の挨拶のようでもあり、「おかえり」とでも言っているようでもあった。
──面の向こうに、人がいた。
それは、仮面をつけてなお、繋がれる心だった。
暁狐は、面の奥でそっと微笑んだ。
鬼丸の舌が離れると、子猫の声が聞こえた。
草陰から、か細い『にゃあ……』という鳴き声。掠れていて、必死に何かを訴えているような、頼りない声だった。
「……?」
暁狐が音の方へ視線を向けると、少女──澪も同じように顔を上げていた。
二人が駆け寄ると、そこにいたのは小さな子猫だった。
痩せて骨ばり、毛並みは乱れていた。後ろ足には血が滲んでいて、歩くことすらできない様子だった。
「……この子……怪我してる」
澪が口元を押さえる。
暁狐は黙って膝をつき、そっと手を伸ばした。
子猫は一瞬だけ警戒して耳を伏せたが、すぐに小さく体を丸め、その手にすり寄ってきた。
「怖かったのだな……」
仮面の奥の声は、小さく、あたたかかった。
暁狐がそっと子猫を抱き上げると、鬼丸がくんくんと鼻を鳴らし、すぐにその子猫を舐めはじめた。
子猫はびくりとしたが、やがて落ち着いたように、鬼丸に体を預ける。
「……この子、連れて帰るのですか?」
澪がそっと問いかけた。
「清雅殿に頼めば、きっと構わぬと仰ると思います」
「……もし……もし、よろしければ、わたしに、その子を預けてくれませんか?」
その言葉に、暁狐は驚いたように少女を見た。
澪はまっすぐに暁狐を見返し、そして、言葉を選びながら続ける。
「鬼丸は……やさしい子なんです。前にも、小さな犬を育てたことがあって……。それに、うちには……母屋とは別に、物置があります。そこなら、ゆっくり休ませてやれると思います」
鬼丸は子猫のそばで伏せ、鼻を鳴らした。
暁狐の腕の中で、子猫が小さく鳴いた。その鳴き声が、心のどこかを、わずかに掠めた。
(……置いてゆくことは、本当に正しいのだろうか)
そう問いかけたのは、面の奥の、自分自身だった。
(……自分が抱えるより、この二人に託した方が、きっと、子猫は幸せなのだろう)
暁狐は、ゆっくりと子猫を少女に差し出した。
「……お願いします。大切に、してやってください」
澪は目を丸くし、すぐに深く頭を下げた。
「はい、必ず」
その答えに、暁狐は何も言わず、ただ頷いた。
面の奥の唇が、かすかに綻んでいた。
陽はさらに傾き、帰路を照らしていた。
屋敷に戻ると、縁側に清雅がいた。
何も言わず、ただ湯呑を持ち、座っている。
暁狐が静かに敷居を跨ぐと、清雅はようやく目を向けた。
「……風は、どうだった?」
その問いに、暁狐は少し考えてから、言った。
「……仮面の向こうには、人がいました」
清雅は返事の代わりに、そっと湯呑を縁側に置いた。
湯呑が縁側の板を打つ、かすかな音が、風に紛れて消えていった。
「悲しみも、恐れも、ありました。けれど……やさしさも、ありました」
清雅は、それには何も返さなかった。
けれど、わずかに目を細めたその顔に、確かな肯定があった。
──名を背負い、面を受け入れた少年が、初めて外の世界と繋がった一日。
それは、彼にしか感じ得ぬ、仮面越しの「風のしるべ」となる。
暁狐、六歳晩夏。




