第四話 仮面の向こう
2025.05.19改稿
第一章 仮面の影
第四話 面の向こう
朝の竹林には、夜の余韻がまだ残っていた。
露を含んだ葉が静かに揺れ、風がひとすじ、庭を撫でていく。鳥の囀りも遠く、今はただ、ひとときの静寂がそこにあった。
白狐の面を手に、暁狐は縁側に立っていた。
まだ面をつけるには至らず、掌で裏側をなぞるように撫でる。自らの指で記した「暁狐」の名──それはもはやただの仮初の字ではなく、自らが背負う問いと、これから生きる覚悟の証だった。
そして、もうひとつの証──
彼の傍らには、白布に包まれた小太刀がある。
名は晨星。清雅が手渡してくれた、小さな剣。細身で反りのあるその刀には、淡い波文に交じって、星のような刃紋がいくつも刻まれていた。
昨夜──
清雅は庭に面を向け、静かに口を開いた。
「この晨星は、我が太刀朧影と対になる刃だ。……鍛えたのは榊宗近。だが、今残るのはこの二振りだけだ」
「……では、この刀も……」
「そうだ。お前のものだ、暁狐」
その言葉に、暁狐は何も言えなかった。
手の中にある刀の重みが、まるで未来そのもののように感じられて、深く、礼を述べる。
けれど、清雅は、ただ目を細め、微かに唇の端を上げただけだった。
──名を得て、剣を持ち、今ここにいる。
それは、もはや夢ではなく、確かな『現実』だった。
その朝、清雅は庭に立った。
竹の葉がまだ濡れた庭に、静かな足取りで降り立つと、手にした木刀をひと振り、構える。
「今日から、剣を始める。……いいな?」
「はい」
暁狐はすでに用意されていた小さな木刀を握り、正面に立つ。
視線がぶつかる。だが、怖くはなかった。目の前のこの人は、問いをくれる人。まだ答えを持たぬ少年に、仮面の内側から「問い」を見せてくれる人だった。
「まずは、呼吸だ。木刀を構えて、呼吸を見失う者は、いずれ命も見失う」
清雅の言葉に、暁狐はゆっくりと吸い、鋭く吐く。
剣を振るう稽古ではなかった。
ただ、清雅の動きに合わせて呼吸を調え、足の運びを真似し、間合いの感覚を身体に染み込ませていく。
木刀の重みは、思ったよりも重く、腕にしだいに力が入らなくなっていく。
それでも、暁狐は歯を食いしばって構え続けた。
だが、ふと足元が揺らいだ。
踏み込みが浅くなった瞬間、体が傾ぎ──
そのとき、抱き止める手があった。
「……無理をして倒れることに意味はない」
低い声。けれど、温かく、暁狐を責めるものではなかった。
倒れる直前で抱きとめられ、顔を上げると、清雅の目が静かにこちらを見ていた。
「倒れるなとは言わん。だが、倒れても、また立て。……それが、剣を持つということだ」
「……はい」
声が震えたのは、疲労のせいではない。
その言葉に込められた意味が、心に染みたからだった。
清雅はそれ以上、何も言わなかった。
稽古は、そこで終わった。
──そして今。
麦湯が湯呑に注がれ、ふたりは縁側に腰を下ろしていた。蝉の声が近づきつつある昼の気配を告げ、竹の間から射す光が縁側をまだらに染めている。
暁狐は、手の中の面を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「……面をつけて、外に出たいと思っています」
清雅は、すぐには答えなかった。
麦湯を一口すすってから、言葉を置くように返す。
「面は、己を偽るものではない。……むしろ、心をさらけ出すものだ。歩めば、視られる。話せば、逸らされる。……それでも、進むか?」
「……はい」
仮面の奥に、まだ言葉にはならない意志がある。
それを確かめるように、清雅はふと立ち上がった。
縁側を一歩進み、暁狐の肩にそっと手を置く。
それは押すのでも、導くのでもない。ひとつの、「承認」だった。
「ならば、歩め。名も、面も、お主のものだ」
陽が傾き始める。
竹林の奥に、橙の色が満ちていく──
少年は面を手に、立ち上がった。
屋敷を出る時、暁狐は一度だけ振り返った。
けれど、そこには清雅の姿はなかった。きっと、わざと見送らなかったのだ。背を向けさせるために──
白狐の面をつけたまま、暁狐は小道を歩き出す。
視界は狭く、歪んでいた。けれど、その道が確かに『自分の足で歩いている』と知覚できる。
それが、不思議と嬉しく、誇らしかった。
竹林を抜ければ、町外れの畦道が広がる。
人影はまばらで、帰宅途中の農夫や水汲みの子らがぽつぽつと通るだけ。だが、その視線は強烈だった。
「……なんだありゃ」
「仮面? 化け物じゃ……」
「目を合わせるな」
声をひそめながらも、耳には届く。
暁狐はそれを、拒まなかった。受け入れるでもなく、ただ歩く。
人々の目は、境界をつくる。
仮面は、その境界を際立たせる。
そして──
「わんっ!」
吠え声が、突然、脇道から響いた。
一頭の大きな犬が、暁狐の前に飛び出してくる。栗色の毛並みに黒い口元、くるりと巻いた尾──逞しい体格で、暁狐の胸元ほどの高さがある。
唸りながら、牙を剥いてくる。
だが、暁狐は動じなかった。
しゃがみ、ゆっくりと面越しにその犬と視線を合わせる。
「私は、怪しい者ではない……狐の面をかぶっているけれど、怖がらせたくてしているわけではない」
声は低く、穏やかだった。
面の奥から発せられる言葉が、犬の警戒心を少しずつ和らげていく。
やがて、犬は唸りを止め、鼻先を差し出すように暁狐へ近づき──ぺろりと、その掌を舐めた。
「……ありがとう」
仮面の下で、暁狐は微かに笑った。
そのとき、近くの家から、小さな少女が現れた。
年の頃は暁狐とそう変わらぬ。紺の小袖に帯を締め、手には桶。顔には、あどけない好奇と少しの驚き。
「……鬼丸! あんた、また勝手に出て!」
少女は犬の名を呼びながら駆け寄り、暁狐に気づくとぴたりと足を止める。
白狐の面を見て、口を結んだ。けれど、すぐに頭を下げた。
「すみません……うちの犬、吠えちゃって……」
暁狐は首を横に振る。
「大丈夫です。私の方こそ、驚かせてしまって……」
少女はしばし黙り込み、それから小さく言った。
「お面でお顔みえないんだけど、優しそう」
不意に、仮面の下で胸が熱くなる。
初めてだ、この面を見て──怖がらない人がいたのは。
「ありがとう」
その言葉には、仮面の奥に秘めてきた数多の感情が滲んでいた。
少女は鬼丸を連れて去っていった。
暁狐は、しばらくその背を見つめ、それから再び歩き出す。
──面の向こうにも、人がいた。
それは、ただの仮面ではない。確かに『自分』がそこにいた証だ。
誰かの視線が背に触れるような気配があった。
振り返っても、誰の姿も見えない。けれど──
(誰かが、見ている)
怖くはなかった。不思議と、温かかった。
それは清雅かもしれない。
母かもしれない。
過去の自分かもしれない。
暁狐は仮面の内側で、そっとひとつ、深く息を吐いた。
誰かと向き合ったことで、ほんの少しだけ、『名』と『面』の意味が輪郭を得た気がした。
その意味を探す旅は、まだ始まったばかり。
だが、確かにここから何かが、始まっていた。
──名を持ち、面をつけて歩き始めた少年。
その背には、なお幼い影が揺れる。けれど、前に向かう足取りには、確かな意志が刻まれていた。
暁狐、六歳盛夏。