第三話 影に問う声
2025.05.18改稿
第一章 仮面の影
第三話 影に問う声
風が止んでいた。
竹林は葉擦れひとつなく、ただ静まり返っていた。まるで、何かが来るのを息をひそめて待っているかのように。
庭の燈籠が揺れる。薄曇りの空。湿った空気。ひとつひとつが、暁狐の胸を、じわりと締めつける。
縁側に、彼は膝を抱えて座っていた。
その膝には、面──白狐の面が乗っている。母が遺した唯一の形見。裏には自らの指で記した名、「暁狐」の字。
けれど、今日の暁狐は、その名が自分のものではないかのような、どこかよそよそしい感覚にとらわれていた。
数日前、清雅が屋敷を出た。
江戸の上屋敷に急な呼び出しがあったのだという。
「暁狐、上屋敷に戻らねばならぬ。なるべく早く来るつもりではあるが、正直、いつになるかはわからん」
そう言いながら清雅は、珍しく露骨に舌打ちをした。
「くだらぬ用で呼び戻すなと何度言ったことか……。ああ、食のことは懇意の百姓に頼んである。お主、あれこれ贅沢は言うなよ。我が作るよりは百倍うまい」
苦笑交じりにそう言い残すと、清雅は身支度を整え、武家の装束で門をくぐった。
背中が遠ざかる。
その背を見送ったとき、暁狐はようやく、自分が今、完全な一人であることを知った。
京の頃は、いつも母か女房が傍にいた。視界になくとも、誰かの気配があった。
けれど、今この屋敷には誰もいない。清雅の気配すら、もう消えている。
そして、ふと感じたのだ。
庭の奥。竹の陰に、ひとつの『視線』があることを。
(……誰かが、見ている)
自分を刺すように、冷たく、深く。
胸がざわつき、呼吸が浅くなる。膝の上の面を、両手でぎゅっと抱きしめた。
そのときだった。
──お前は、誰だ?
声。いや、声のような気配。
耳ではなく、心の底に届く問いかけ。
暁狐は周囲を見た。
誰もいない。竹は揺れず、風もない。
だが──白狐の面が、わずかに光っている。
「……誰?」
囁くように問う。
──お前の影だ。母を失った夜の記憶。斬った男の呻き。あの日の問いと、まだ答えぬ名。
言葉にならぬ『声』が、面の奥から滲み出す。
暁狐は気づくと、あの場所にいた。
清雅の屋敷でも、京の記憶でもない。
闇。
ただ、闇。
そして、そこに立っていたのは──面をつけた、自分だった。
形は同じ。だが、どこか異なる。面の奥からのぞく目は、冷たく、澄んでいた。
──お前は、生かされているのを知っているか?
「……はい」
小さくうなずく。
母が自らを庇い、清雅が命を繋ぎ、名をくれた。
今ここにいるのは、そのすべての『結果』だ。
──では、なぜ名を得ようとした?
「……名がなければ、私は、消えてしまうから」
仮面を被る意味も、その名を持つ意味も、まだ理解しきれてはいない。けれど、名を持たねば、自分が誰だったのかすら分からなくなる。
──それは『恐れ』だ。では、『生きる』とは、ただ名を持つことか?
問いが重くのしかかる。
答えは、まだ出ない。
暁狐は目を伏せる。
けれど、胸に宿った微かな『意志』が、言葉を紡がせる。
「それでも……私は、生きたい」
その瞬間。
面をつけた『もうひとりの暁狐』が、ふと微笑んだように見えた。
──では、歩め。その名で。影を喰らい、光を恐れずに。
視界がふっと薄れていく。
風が吹き、葉が揺れた。
目を開けると──暁狐は、元の縁側に座っていた。
夜が明けようとしていた。
空が白んでいる。
面は、静かに膝の上に戻っていた。
──夢が、終わった。
暁狐は思わず、息を吐く。
竹の葉が揺れていた。風が戻っていた。
暁狐は、縁側に座したまま、面を抱きしめていた。
夜が明け、朝の光が竹林の合間から静かに差し込む。
(……戻って、きた)
夢とも、幻ともつかぬ場所に、確かに『問い』があった。
名とは何か。面とは何か。
なぜ生きるのか──
その答えはまだ、出てはいない。けれど、向き合うべき『問い』が、仮面の奥に宿り始めていた。
庭に、一つの影が現れる。
武家装束に身を包んだ男が、門をくぐる。
左手には刀袋、右には包み。
白鐘清雅が、戻ってきた。
「……帰ったぞ」
その穏やかな声に、暁狐は思わず立ち上がった。
走り出しそうになった足が、直前で止まる。
胸の中に、まだ消えていない問いがあった。
「清雅殿……」
「なんだ」
「……なぜ、母上は死なねばならなかったのですか」
その問いは、夢の中でも答えのなかったもの。
けれど、今は、自分の口で訊かねばならないと思った。
清雅は、ただ静かに頷いた。
「……私にも、正確な答えは出せぬ」
「……なぜ?」
「それは、お前がこれから生きて、知るべき問いだからだ。生きねば答えは得られぬ。死んだ者は、問いの続きを語れぬ」
暁狐は黙って頷いた。
問いは、答えを求めるものではない。問い続けるためのもの──
清雅は屋敷に入り、羽織と袴を脱ぎ、衣紋掛けにかけると、麦湯をひと口飲んでから言った。
「……何かあったか?」
「……いえ、何も」
「ならばよい。だが、問いに囚われすぎるな。答えが出ぬ問いは、己を蝕む」
清雅は持っていた包みを開いた。中には、一冊の綴りがあった。
紙ではない、革表紙のような素材に包まれたそれは、年月を経た深い色をしていた。
「これはな、私の師が残したものだ。戦の地で、面をつけ、剣を握り、問い続けた者が書いた記録だ」
「……記録……」
「仮面も、剣も、名さえも……すべては『己を知る』ための道具にすぎぬ。そこに、価値も意味も、あとからついてくる」
清雅の目は、まるで遠い日を見ていた。
暁狐はその言葉を胸の内で繰り返し、面を見下ろす。
夜──
暁狐は再び、白狐の面の裏に指を伸ばした。
仮名ではない。形でもない。想いを刻むように、なぞる。
──暁狐。
喰らい尽くす問い。影に対する名。
母の遺した祈り。清雅の導き。己の命への覚悟。
── 名を持つとは、期待を背負うことだ。名を持てば、否応なく『誰か』になってしまう。
暁狐は、面を静かに顔へ当てた。
紐を結び、仮面をつける。
その奥で、ゆっくりと呼吸を整える。
庭を越え、竹林の外れまで歩く。
まだ心許ない足取り。けれど、それでも進む。
(……怖くないわけじゃ、ない。けれど……)
「私は、暁狐」
その名を口にしたとき、竹が鳴った。
面の内側に、確かな『響き』があった。
影の道を歩む者。
名を問い、面を受け入れ、己の『問い』と共に生きる少年──
暁狐、六歳夏。