第二話 仮面の名
2025.05.18 改稿
第一章 仮面の影
第二話 仮面の少年
竹が揺れていた。
夜風が細く庭を通り抜け、軒の燈籠を揺らしていた。
江戸郊外、竹林の中にひっそりと建てられた屋敷──高家白鐘家の別邸。
暁狐は、目を覚ました。
胸が苦しい。息が浅く、背には鈍い痛み。
だが、それ以上に重くのしかかっていたのは、自分の内に巣食う『問い』だった。
──なぜ、自分だけが生き残ったのか。
母の手はあたたかかったが、血に濡れている。
剣を取った背が、仇の刃を受けて崩れ落ちる。
炎に消える母を声が涸れるまで呼んだ。
面を抱いたまま泣き叫んだ声が、今も喉に張りついていた。
「……目が覚めたか」
その声に、面をつけていない顔をそっと上げる。
座敷の奥、燈明のそばにひとりの男がいた。
白鐘清雅。高家筆頭の当主。この屋敷の主にして、自らを暁狐の庇護者と名乗った人物。
鉄紺の小袖、結われた髪、仄かな微笑。
その表情にはどこか遠いものを見ているような静けさがあった。
「ここは……?」
「我の隠れ家だ。人払いは済ませてある。お主と、我以外はおらぬ」
暁狐は小さくうなずく。
居心地が悪いわけではない。ただ、安堵すればするほど、母を思い出す。
目を閉じればすぐに紅蓮が迫る。
清雅は静かに椀を差し出した。薬草の匂いと、ほのかな甘さ。
「薬湯だ。背の傷が癒えるには、まだ幾日かかる」
「……母上の袖と、同じ香りがします」
言葉にした途端、涙が滲みそうになった。
唇を噛んで飲み干すと、清雅はただ一言、こう言った。
「……桂香の調合に倣ったものだ」
沈黙。
暁狐は面に目を落とす。畳に置かれた白狐の面。その裏に、己の指で書いた名。
──顎。
「暁狐と名乗っても、よろしいのでしょうか」
「名は、与えられるものではない。己で選ぶものだ。……その名が、お主を救うなら、構わぬ」
清雅の声音には、断じる強さもなければ、慰めの優しさもない。
ただ、そこには「肯定」があった。
暁狐は面を抱きしめる。
──私は、もう『誰か』であらねばならない。
誰でもない子ではなく、名を持ち、顔を隠し、心を守る者として──
その夜──暁狐は再び夢を見た。
血に濡れた畳。母の手が伸びてくる。
だが、どれだけ手を伸ばしても届かない。
仮面だけが残り、母の声は闇の中へ溶けていく。
「……母上、行かないで……」
目を開けたとき、頬は涙に濡れていた。
手には白狐の面が握られている。
夢か現か。面の木肌が、仄かに体温を持っている気がした。
庭から、太刀の音が聞こえた。
風を裂く音。踏み込む気配。
清雅が、夜を斬っていた。
(……あの人は、眠らぬのか)
眠れぬ者同士の、静かな問いが交わされた気がした。
暁狐は目を閉じず、布団を押して身を起こす。
傷がまだうずく。けれど、もう眠ってはいけない気がした。
翌朝──
竹林に朝日が差し込む。
暁狐は、面を手に持ち、縁側で清雅の稽古を見ていた。
太刀の動きは静かで鋭い。呼吸と足運びが、竹の間を揺らす。
「立てるか」
呼びかけに、暁狐は痛みを堪えて立ち上がる。
よろける足。けれど、その瞳は逸らさない。
「……まずは、何も持たずに呼吸を学べ」
剣ではないのかと、一瞬だけ戸惑う。
だが、清雅の眼差しがそれを諭す。
「『斬らぬ構え』を知らぬ者に、真の剣は振るえぬ」
暁狐は頷く。
言葉の意味はまだ分からなくとも、その『重み』だけは理解できた。
その日から、暁狐の朝は「息を整えること」から始まった。
剣を振るう前に、心と身体を整える。
竹林に響くのは、風の音と足音、そして二人の呼吸だけだった。
数日が過ぎ──
縁側で並んで湯を飲む。
清雅がぽつりと語る。
「面とは、心を隠すものではない。己を守る『盾』だ。……お主の中に、守るべきものがある限り、この面はお主を支えるだろう」
暁狐は、膝に置いた面を見つめた。
朱の文様に、かつての火の色が重なる。
「……私は、私を守るために、仮面をかぶります」
「うむ。それでよい」
夕暮れの竹林に、二人の影が落ちる。
仮初の『顔』が、静かに己の内側に宿り始める。
その夜──
暁狐は、白狐の面の裏に、指で再び書き記した。
──暁狐。
名を失い、名を得た少年の、心の拠り所。
その小さな指の跡は、面に刻まれた『新しい命』だった。
暁狐、六歳春。